哲学

『それをお金で買いますか』|私の〈心〉も見積もられてるの?

『それをお金で買いますか』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。以前、マンガ家の蛭子能収さんの『笑われる勇気』にて「人の心はお金じゃ買えないが、オレの心はお金で買えます!」と断言されており、逆にカッコイイとすっかり気に入ってしまいました。

しかしホントのトコロ、人の心はお金で買えるのか? あるいは「人の心をお金で買ってもいいのか」? 難問だと思いませんか? この問いは、「YES」と答える人と「NO」と答える人がパッカリ二つに分かれる問いだと思うのですが、いかがでしょう。

今回は、白熱授業でおなじみのサンデル先生の市場倫理のお話です。

「公平」「常識」「正しい」ってなんだろう?

本書『それをお金で買いますか』は、「白熱授業」でおなじみのマイケル・サンデル先生の「市場主義」について言及された書籍です。数多くの事例が次々と提示され、「これをお金で買うのはアリ?」と語りかけられます。

例えば「お金を払うと行列に並ばなくていい権利」が買えることが、日本でも大っぴらに周知されるようになりました。ユニバーサルスタジオジャパンでは、「ロイヤル・スタジオ・パス」というアトラクションの待ち時間が短縮されるチケットが販売されています。お金で行列に割り込むのはアリ? では別の例として、アメリカでは、お金を払うと医師の携帯電話の番号を教えてもらえるサービスが増えてるそうです。お金を払うと、医師と直通電話がつながり、通院の待ち時間も短縮できます。お金で順番に割り込むのはアリ?

育児放棄を減らすプロジェクトとして、薬物中毒者の女性が避妊手術や長期の避妊を行うと、現金を支払らう慈善団体があるそうです。薬物中毒者の子どもは生まれたときから薬物中毒で、その多くは虐待や育児放棄に遭います。だからあらかじめ、薬物中毒の女性を不妊にしておくことで、社会問題を解決しようとしています。このやり方はアリ? 中国の一人っ子政策では、都市部で二人目の子どもを産むと罰金になりました。それは「罰金を払えば二人目を産める」とも解釈できます。社会が、お金のあるなしで産める子どもの数を制限するのはあり? 別の例では、成績のよい子どもにお金をあげたり、資産家の子息はお金を払うと有名大学へ入学できるのはアリ? など、命の価値や、教育や環境のお金の話が取り上げられます。

ホントに「なんでも買える」のだろうか?

本書で度々「罰金」と「料金」の関係が登場します。ある託児所では子どもの迎えの時間に遅れて来る保護者がいることから、遅刻すると「罰金」を導入しました。それで遅刻は減ると考えたからでした。しかし実際には逆でした。罰金を導入後、遅刻をする親が増えたのです。それは、罰金導入前の保護者達は、迎えの時間が遅くなると保育士たちに対して「申し訳ない」と恐縮していたのですが、罰金導入後は「料金を払えば延滞できる」と考えるようになり、堂々と時間をオーバーするようになったのです。

「お金」を徴収することにより、「何か」が失われ、新たな「何か」が表れる良い例でしょう。

しかし、同じような例で、受け取り方の違う事例もあります。それはレンタルショップの延滞料金。かつて、映画のビデオテープをレンタルし、返却が遅れると客側が「申し訳ない」気持ちになっていたし、店側は「遅れやがって」という態度丸出しだったと本書では書かれています。日本の昔のレンタルビデオ屋も、なんとなく同じような雰囲気はあった気がします(みなさんはどうですか?)。しかし、考えるまでもなく我々は「客」であり、一日延滞するごとに料金もきっちり支払っているのですから、申し訳なく思う必要はありません。

託児所の例と、レンタルビデオ屋の例は、同じような話なのですが、なんとなく違う気がするのはなぜでしょう。

「タダ働き」させる方がヤル気が出るなら

『それをお金で買いますか』挿絵イラスト

本書の興味深い例は、ボランティアの話です。学生を3つのグループに分け、Aグループにはこの活動の素晴らしさだけを解きます。BとCには理念と、出来高制で報酬を支払いますが、BよりCの方が受け取れる割合を高く設定します。この3つのグループのうち、一番多くの成果を出したのは、Aでした。次いでCグループでしたが、Aの成果にははるか及びません。

わたしたちは、「お金を貰って働く」よりも「無償で働く」方が、よりヤル気が出てたくさん働いく場合があるようです。考えてみれば、「ボランティア」はなにか自分の良心を試されているような感覚も無きにしも非ずで、「手を抜くことは人間性に関わるような気持ち」があるような気がします。しかし「時給950円」と言われると、「950円分の仕事しかしなくていい」と感じます。そしてもっと多くの働きを求めらえると「じゃあ時給を増やせ」と思うだけで、期待に応えようとは思えません。

「タダほど高いものはない」と言いますが、実際に、報酬を与えるよりも、タダ働きさせる方が成果が上がるなら……。

この話は、自分が「働く側」なのか「働かせる側」なのかによって捉え方が180度変わります。

私たちは「やりがい搾取」を求めている?

本書の例では、核廃棄物の処分場になった町民に手当てを支給すると、それを拒否した住民が多数いました。それは、自分たちは社会のために意義のある働きをしているのに、お金を受け取ることで「賄賂で動いたことになってしまうから」と考える人が多かったようです。

ときにわたしたちは、お金を差し出されても、受け取るのを拒否することがあります。お金を受け取ることで、自分の矜持や信念が汚れてしまうと考える場合です。それは美しい話なのか、はたまた労働者のプライドすらも利用して、労働力を刈り取られているのか、どう考えればよいのでしょう。

立場によって志向が変わる

あさよる個人的には、本書を読んで「もらえるお金はもらっておこう」と思いました(苦笑)。それはつまり、自分の信念やプライド、美意識などとと、お金は別の話ではないかと思ったからです。詳しく言うと、市場では、消費者のそのような「プライド」さえも予め見積もられていて「足元を見られている」のだというのが、透けて見えた気がしたからです。

「みんなのため」に働くのは大切なことですが、それと「タダ働きをする」のは別の話です。消費を煽り、労働者を雇う側の人たちは、事前に彼らの「お金に換算できないこと」も織り込み済みなんだなあと知ったのでした。それなりの報酬を求めることは悪いことじゃないんだなあというのが、あさよるの本書『それをお金で買いますか』を読んだ感想でした。

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『漫画 君たちはどう生きるか』|私たちは誰に当てはまるのか

こんにちは。あさよるです。やっと話題すぎる『漫画 君たちはどう生きるか』を読みました。書店で平積みされ続けていますが、手にも取ってなかたので、実はこの本がマンガであることも今回読み始めるまで知りませんでした(;’∀’)(;’∀’)

とんでもないベストセラーになってるそうで、とりあえず読んでおくべきではないかと思います。「なんでこの本が売れているのか」を知るためにもね。

ちょっと前に「『蟹工船』が若い人に売れている」と話題になりましたが、そんな感じなんでしょうか。読んでみて余計に「なんでこの本が売れてるんだろう」と謎が深まりました。

大ベストセラー!読んどいてもいいんじゃない?

本書『漫画 君たちはどう生きるか』はずっと書店でも平積みされていますね。2018年上半期一番売れた本だそう。200万部突破ってすごいなぁ~。

宮崎駿監督によるスタジオジブリの次回作が「君たちはどう生きるか」というタイトルであることが発表されて話題になってるんだと思っていましたが、この編集会議の記事を読むと、それとは別のプロジェクトだったって話なんですね。

200万部って信じられないようなベストセラーになってるんですから、一度は読んでおいてもソンはないでしょう。マンガとしても、羽賀翔一さんの絵柄は好きだし、読みやすかったです。

だいたいこんな内容

主人公は中学生は〈コペル君〉。コペルニクスにちなんで、おじさんが彼をニックネームでそう呼びます。編集者だったおじさんは、勤め先が倒産したことをきっかけにコペル君の家の近くに引っ越してきました。数年前に亡くなったコペル君のお父さんが「立派な人間になってほしい」と願っていた意志を、おじさんが引き継いでくれています。

圧力、勇気、卑怯、貧しさ、生産

コペル君は学校やクラスメイトの友人たちを通して、様々な出来事に出会います。

豆腐屋の浦川君がいじめのターゲットにされたときは、コペル君も教室内にうごめく目に見えない圧力に呑まれ、それを跳ね返すことができませんでした。しかし、いじめっ子に立ち向かうガッチンと、自分をいじめた奴が殴られるのを「もう許してやってくれ」と言う浦川君の気丈な姿を見て、コペル君も自分が正しい行いをしようと心に決めました。

また、貧しさにも出会います。学校を休んでいる浦川君の様子を見に行くと、彼は家業の豆腐屋の手伝いと兄弟の子守に追われていました。浦川君はまだ中学生なのに働いて、物を作りそれを売り、生産をしています。コペル君は働く浦川君を見て、自分も誰かが作ったものを食べ、着て、人と人が網の目のように繋がることで生きているのだと気づきます。

更におじさんは、コペル君が貧しい人を見下さないことを褒めます。貧しくても正しく振舞う人もおれば、お金持ちでも尊敬できない人もいるのです。そして中学生のコペル君はまだ働いていませんが、それでもコペル君は何かを生み出しているんだと問いかけます。彼は何を生み出しているのでしょうか。

そしてある日、コペル君は大きな苦しみを経験します。友人であるガッチンが上級生から目をつけられ、「絶対にガッチン守る」と約束をしていました。しかし、本当に上級生に襲撃されたとき、コペル君は卑怯にも逃げ出してしまったのです。それを悔やみ、何日も寝込んで学校を休んでしまい、苦しみから「死んでしまったほうがマシだ」とさえ思いました。おじさんにすがりますが、おじさんからは「自分がしなければならないことにまっすぐ向かっていく」ように諭されます。そして「君は今正しい道へ進もうとしている」とも励まされました。

おじさんのノート

おじさんはコペル君との交流から、コペル君に伝えたいことをノートにしたためてくれていました。そして、コペル君が友人を裏切ったことで苦しんでいるとき、そのノートを手渡してくれたのです。

そのノートは、コペル君が大人として歩み始めた記録でもあります。自分が世界の中心だった子ども時代から、自分も社会の中のちっぽけな要素でしかないことに気づいた「コペルニクス的転回」をしたその日からの記録だからです。

おじさんはコペル君を見守りながら激励します。そして問うのです。「君たちはどう生きるか」と。

本書『漫画 君たちはどう生きるか』はマンガなのですが、おじさんのノートと、コペル君が書いた手紙だけ活字で構成されています。

時代背景を知った方がわかりやすいかも

原作の『君たちはどう生きるか』が発行されたのは1937年で、戦前に書かれた本です。コペル君のお父さんは銀行の重役で(物語の数年前に死去)、コペル君も勉強もできます。旧制中学は尋常小学校を卒業した男子が入学するところですから、コペル君へのメッセージは「旧制中学に通う男子」と限られた人へ向けられています。

本書の中でも、おじさんのノートには「小学校にしか行けなかった人」の話が登場します。コペル君のクラスメイトの浦川君の家は貧しいと言っても、息子を中学にやれるくらいの店を持っているのです。

中学へ行かなかった人は、当たり前ですがコペル君が学校で習ったことを知りません。全ての物質が分子でできていると知らなければ、コペル君のように世界がガラッと変わって見える体験をしないかもしれません。銀座のビルの上から街を見下ろして「人間はちっぽけだ」と気づいたのは、彼がビルのある街に住んでいたからかもしれません。

あくまでコペル君は限定された境遇にいます。だから、コペル君は社会的な責任を負っているのだろうし、お父さんもおじさんもコペル君に「立派な人間になってほしい」と願っています。

現在の日本では格差が広がっているといいます。それはつまり、コペル君になれる人となれない人が、生まれながらの境遇や生まれた時代によって分けられ始めているということです。本書がベストセラーになるのは結構だけれども、多くの人がコペル君にはなれない時代が来てしまうというのはなんとも。

浦川君のうちの若い衆

あさよるの感想としては「こんだけ売れてるなら一度は読んどけば?」というのは本当ですが、同時に「へー、これが売れてるの」って感じもある。共感要素もないし、なにをどう解釈すればいいのかもわからず、とてもムズムズする。

先に触れたように、あくまで特別な立場にある「コペル君たち」への「どう生きるか」という問いだろうから、少なくとも あさよるには当てはまりません。あさよるはエリートじゃないし、女だし。たぶん、売れに売れているマンガ版の読者の多くもそうでしょう。

だからなんか読んでいて居心地が悪いというか、自分をどこに当てはめていいのかわからないんですよね……しいて言えば、おじさんのノートに書かれていた、「浦川君のうちの店に勤める若い人」が、多くの人(とくに若い世代)にあてはまる立場じゃないかと思います。

 現に浦川君のうちに若い衆となって勤めている人々を考えてみたまえ。あの人々は、何年か後に、せめて浦川君のうちぐらいな店がもてたらと、それを希望に働いているのだ。
浦川君のうちでは、貧しと言っても、息子を中学校にあげている。しかし、若い衆たちは、小学校だけで学校をやめなければならなかった。
また、浦川君の一家は、まだしも、お豆腐を作る機械を据えつけ、原料の大豆を買いこみ、若い衆を雇い、一種の家内工場営んで暮らしを立てているけれど、若い衆たちは、自分の労力のほかに、なに一つ生計をたててゆくもとでをもっていない。一日中からだを働かせて、それで命をつないでいるのだ。
こういう人々が、万一、不治の病気にかかったり、再び働けないほどの大怪我をしたら、いったい、どうなることだろう。労力一つをたよりに生きている人たちにとっては、働けなくなるということは、餓死に迫られることではないか。

p.269-270

戦後、教育は行き届いて、義務教育のみならず、多くは高等学校を卒業します。高校卒業後さらに進学をする人も少なくありません。ただ、学校に通う期間は長くなったけれども、働き方としては、おじさんのいう「浦川君のうちの若い衆」に近い状況の人が多いんじゃないでしょうか。となると、おじさんの話のように、病気や怪我で勤め続けられなくなると「餓死」というのは困ります。

エリートでもない我々は「コペル君にはしっかりしてもらわないと」と思うしかないんでしょうか。

あと、これを引用しながら〈浦川君のうちの若い衆〉は「将来自分も工場を持てたら……」と多少の希望を持ってるんだなぁ~と。すごい時代にわたしたちは生きているのかもしれません。

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『「教養」とは何か』|世間の中でいかに生きるか

こんにちは。あさよるです。先日読んだ鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』が、読了後もずっとなんとなく気になり続けていました。『「空気」と「世間」』では、わたしたち日本人は「社会」と「世間」の二つの世界を持っていて、社会生活をしている最中に顔を出す世間が「空気」だとされていました。

この鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』では「世間」はやや否定的なニュアンスで語られているように感じました。だけどその直後に読んだ内田樹さんの『街場のメディ論』では、「世間」は肯定されていました。この二冊の、近いテーマを扱いつつ結論の違った本を続けて読んだことで、「世間」が気になるワードになってます。

そこで、先に挙げた『「空気」と「世間」』で引用されていた阿部謹也さんの『「教養」とは何か』を手に取ったのでした。

ちなみのちなみに、昨日は『世界の教養365』という、1日1ぺージ、一つのテーマについて紹介される本を紹介しました。

今回『「教養」とは何か』を読了してみると、『世界の教養365』は、教養というより「雑学集」かもななんて思ったり(;’∀’) もしかしたらヨーロッパ社会に生きている人にとっては「教養」になるのかもしれないけど、多くの日本人にとっては「教養」ではないかも……その理由は、社会のかたちが違うから。「社会のかたちが違うと教養のかたちが変わる」というのは、本書『「教養」とは何か』を読んだ発見でした。

世間の中の教養

先日ブログで紹介したした鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』の中で、本書『「教養」とは何か』が引用されており、気になって読み始めました。主題はそのまま「教養とは」。

「教養のある人」と聞くとどんな人物を思い浮かべますか? 本書では、教養を

「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうしている状態」(p.56)

を「教養」であるとしています。それを「いかに生きるか」と表現されています。多くの書物を読み知識が多い人のみを指すのではなく、ときには「人格者」であることも教養に含まれます。そして無自覚に「いかに生きるか」を体現している人々もたくさんいます。例えば農業従事している人は、「いかに生きるか」と自覚的に考えなくても、自分の仕事が多くの人達の暮らしを支えていることは知っていただろうと紹介されています。

「いかに生きるか」を考えるとき、「世間」を知る必要がある

「世間」とは

そして「自分が社会の中でどのような位置にあり」「いかに生きるか」を考えるとき、「世間」が登場します。世間は感情のある人間たちが集まって繋がっています。だから世間の中で誤解されたならば、それを解かなければならないし、もしもひどい仕打ちを受けたのなら、自らの手で復讐します。つまりかつて「社会」がなく「世間」だけがあるのです。そして現在、「社会」のある世界では、法によって合法的な処置されるようになりました。

日本では、明治になってから西洋の「社会」が建前として導入されました。しかし、そこに生きていた人々は、従来通りの「世間」を本音として持ち続けました。建前の「社会」では、弱いものを守り、正義の行いはいずれ実を結ぶことが教えられます(つまり法によって裁かれる)。だけど、本音ではそうではないことも知っています(世間では個人間の復讐になる)。わたしたちが「大人になる」とは、子ども時代に施された建前の教育から、言葉の裏を読む本音の世間を知ることです。

ヨーロッパの「社会」には根底にキリスト教の思想があるから成り立っているものであり、日本にはその前提がないため、ヨーロッパから持ってきた社会/建前と、昔ながらの日本人の思想を反映した世間/本音の二重構造ができてしまいました。これは日本が近代化してゆく中で、日本が身に着けた処世術だったのかもしれませんね。

世間の中でいかに生きるか=教養

教養とは、「社会の中でいかに生きるか」を考えることなのですが、日本では建前の「社会」と本音「世間」の二重構造になってしまっています。だから「社会の中でいかに生きるか」と語るとき、建前で語ってしまうと、そこに感情のある人間が抜け落ちてしまいます。

わたしたちが「教養」について考えるなら「世間の中でどう生きるか」を考えることで、感情のある人間と人間の関係性の中で「いかに生きるか」を考えれられます。

そのためにも「世間とは何か」を客観的に認識する必要性を指摘するのが本書『「教養」とは何か』なのです。

「世間」は悪いものなのかな?

『「教養」とは何か』を読むきっかけになった鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』では、「世間」については否定的で、日本も「社会」へと移行するよう促す内容でした。その本を読んでいる途中は、確かにあさよるも「世間」の息苦しい関係性も、鬱陶しい「空気」も嫌いですから、「そうだそうだ」と納得もしていました。

だけど、はて。やっぱり考えてしまいます。そんなに「世間」って悪いものなのかなぁと。もちろん、鬱陶しいし嫌!ってのも事実でしょう。だけど、「世間」のない世界で生きることってできるのでしょうか。

たまたま件の『「空気」と「世間」』は2018年9月4日の台風第21号の影響で停電した家の中で、暇つぶしに読み始めた本でした(後々のためのメモ/2018年、平成30年台風第21号は9月4日「非常に強い」勢力で日本に上陸し、近畿地方で大被害が出た。これまで経験したことのないとんでもない暴風)。つまり「大災害の最中に読んでいた」んですよね。

で、大災害にあったとき「世間」が社会の中にしっかりと根付いていることを実感しました。親類縁者隣近所も、普段は顔を合わせば軽く挨拶をするけれども、あまり深くかかわるのも煩わしい。だけど災害時は、お互いに声を掛け合い、誰彼構わず助けが必要なら手を貸し、掃除や後片付けも、自分も他人も関係なく参加します。そして、行政もそこに「世間がある」ことが前提で、支援を開始することにも気づきました。やっぱり日本社会は、建前ではヨーロッパの「社会」を持ってるけれども、その実、大衆の意識だけではなく、行政だって「世間」の一部なのです。

たぶん自分が「いかに生きるか」を考えるとき、建前の、知識やシステムだけを振りかざすのではなく、本音の、感情のある一人の人として、他の人々と「どう関わるのか」を考える方が、自分にとっても良い作用があるように思いました。また「教養」を身に着けるための「勉強」も、「なんのために勉強するのか」といえば「世間のために」なのかもしれません。

『漫画 君たちはどう生きるか』について

先日ブログでも紹介しました大大ベストセラー『漫画 君たちはどう生きるか』についての感想で「主人公は特別な立場の人だから、〈どう生きるか〉なんて特別なことを考えているのではないか」と書きました。

だけど今になって考えると、特別な立場にある人だけじゃなく、それ以外の人だって自覚的にも無自覚的にも「世間のために」生きている人はた(いる)でしょう。そう思うと、あさよるの抱いた感想は的外れだったのかもなぁなんて思いました。

そして今『漫画 君たちはどう生きるか』が売れに売れているというのは、多くの人が世間の中でどう生きるのかを模索しているということなのかもしれません。まぁ、さっきも言ったように、やっぱ災害があると、それを意識せざるをえないですね……。

そこで考えたこと

先に述べたように、本書『「教養」とは何か』では「世間」に対して否定的な態度なのかと思って読み始めたので、結論として教養を身に着けるためには世間を知ることが必要だと書かれており、意外でしたが、「教養」「世間」について、納得できるものでした。

あさよるは面倒くさがりなので、世間の面倒くさい手続きは性に合いません。科学的根拠のないオカルトな儀式や祭事も嫌いだし、まどろっこしいやりとりも嫌いです。

……だけど、だからといって「世間」を否定して生きられないことも、さすがに何十年も生きていると気づいています。しかも、嫌なことばかりなわけじゃなく、あさよるだって世間の中の一人であり、世間に助けられてもいます。そのくせにイヤイヤ言い続けるのも、それは違うだろうとも思います。

また、今はインターネットを通じて、遠くにいる人も「世間」の中の人のような気がします。それが普通になって長いけど、思えば変な感じかも。だって、「世間なんて窮屈で嫌だ」と言いながら、テクノロジーを使ってどんどん世間を自ら広げているからw

『「世間」と「空気」』のレビューでも書きましたが、このまま「ダブルスタンダード」でもいいのかもしれないなんて思い始めてもいます。だって、どっちを失ってしまうのも惜しいと思うから。ただ、無自覚にやるのではなく、「社会」と「世間」の二つの世界で生きていることを客観的に自覚して、よりよくなるように、使えたらいいのにな。

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『日本辺境論』|田舎者でゴメン(・ω<) テヘペロは強い

こんにちは。本は寝かしまくる あさよるです。大体、人からおすすめされると、3年スパンくらいで着手し始めます。一応、読むのは読む。いつになるのかわからないけどね…!という感じ。そして、積みまくったのが内田樹さんの『日本辺境論』です。二回の引っ越しも経た。やっと読みます。

これは、2009年の出版当時話題になっていて読もうと買っておいたものでした。その間、世間は大きく変わったような、だけど大枠ではあまり変わっていないような。2009年から2018年の9年間は、たくさんのことがありすぎて、よくわからない時代でしたね。そんな、ここ近年の出来事を思い出しつつ、『日本辺境論』を読むのでした。

世界の中心……じゃないからできること

内田樹先生の『日本辺境論』は出版当時、話題になっていた頃から積んでいました。2009年11月の本ですから、積んだね~!w

「日本辺境論」とは、日本人が持ち続けている辺境根性とでも言いましょうか、日本人の処世術を解説するものです。ちなみに「辺境」の反対は「中心」。日本にとっての中心は、長らく中華思想でした。

アメリカはその建国の歴史から、ルーツも様々な人々が集まっていますから「我々はこういう者だ」という名乗りが必要です。それを「アメリカというアイデア」だと紹介されていました。それに比べると、日本人は「日本とはこういう者だ」がありません。日本の歴史よりも前から日本列島には人々が住んでいて、大陸とは海で分断されているんですから、名乗りなんて必要なかったのです。

そして日本人は対中国との交渉によって〈自分たち〉であることを自覚するのです。明治の文明化では、相手はヨーロッパでした。日本は、自分たち以外の何かと対峙して初めて、〈自分たち〉を認識します。そもそも「日本」という名前も、「日の本」つまり「太陽の上る方」という意味であり、それは「中国から見て東側」という不思議な名前だと書かれていて、なるほど言われてみれば。

そして、日本はどうにも上手いこと大国と渡り合っているのです。「日の出国の天子より」なんて無礼な手紙を出したり、天皇から位を授けられた征夷大将軍が「国王」と名乗ってみたり、なかなか無礼です(部長が「社長です」と名乗って取引先に挨拶するなんてあり得ない)。で、それを「田舎者なんでわかんなくてゴメンナサイ」とテヘペロしながら、言いたいことを言って、大国と渡り合ってるんですよね。自分たちが辺境に生きていることを自覚し、それを逆手にとって外交をしているのです。これ、すごいじゃん!ってのが、『日本辺境論』を読んでの発見でした。

「この人スゴイ」はスゴイ

んで、内田樹先生も、日本の辺境っぷりは悪いものとはせず、「とことん辺境で行こう」と仰っています。

辺境人の良いところは、素直に「中国すごい」「ヨーロッパすごい」と思ってしまうところです。自分たちが辺境の田舎者だと思っているからこそ、だから「素直に学ぶことができた」というのです。この感覚わかりますよね。自分が「この人スゲー」と思っている人の言うことなら、理解できなかったとしても「たぶん何かすごい意図や意味があるんだろう」と取り入れることができます。反対に、一回でもナメてしまった相手の言うことはもうなんにも響きません。

相手を「すごい」と思える能力って、学びには重要な要素です。これはずっと持ち続けたい力ですね。

エイヤッと飛び込む

次いで「機」を見る能力が紹介されています。機とは、「清水の舞台から飛び降りる」ことです。日本は欧米から鎖国をやめて開国を求められ、明治維新が始まりましたから、「近代」という時代には後ノリをしました。つまり、なぜ始まったのか、なにをやっているのか、ルールもわからないゲームに途中参加させられたのです。その時、持ち前の学びの姿勢が発揮されるのですが、同時に「エイヤッ」と飛び込むタイミング、それが「機」です。ヒトは元々「機」を持っています。じゃなきゃ、動物として生き残れなかったはずです。そして、大国は自分たちの強さ故に、機を忘れてしまっている。日本人は辺境人だからこそ、「エイヤッ」と飛び込む機を持っています。

日本語

さらに、「日本辺境論」では、日本語の持っている特性にまで話題が及びます。日本人は元々文字を持っておらず、中国語を輸入しました。そして、わたしたちは未だに、中国から輸入した漢字も使ったまま、だけど日本語のまま文章を書いて理解するようになりました。折衷案的ですね。

相手の力を使う

たぶん、辺境的であるって「カウンターをとる」とも違うんでしょうね。対抗するのではなく、力をいなすというか、相手の力を使って、自分の持っている以上の力を発揮するというか。名人技です。

新書一冊じゃ全然足りないわ

『日本辺境論』は以上のような内容を扱っているのに、たった新書一冊なんです。だから、当然ながら全然足りてませんw どの章も駆け足だし、特に最後の日本語の特性なんて、こんなページ数で何も言えないだろうと(苦笑)。どの話も、風呂敷を広げたところで時間切れ~続きはこちら……みたいな感じですね。もちろん、それは読書や学習を促す意味では良いのかもしれませんが、読了感としては「え~!ここで終わるの~」とw

内田先生の本はその時々のタイムリーな話題を上手いことトッピングされていますから、今『日本辺境論』を読んで「2009年ってこういう気分だったんだな」と今さら振り返ったような気持ちです。

2009年前後と言えば、Twitterのアカウントを作って遊び始めた頃でした。今はもう消してしまったアカウントなのですが、当時高校生の年齢だった男の子が『日本辺境論』についてツイートしているのを見て、あさよるの読みたい本リストに入ったままでした。「当時高校生の年齢だった男の子」とは、高校へ行かず大検を目指してたとかだったんじゃないかなぁ。彼はその後、元気にしているんだろうか。

話の脱線ついでに、ちょうどこの頃、あさよるはまだ学生で、進路について聞かれたとき「何も考えてないけど、ブログを毎日書いてるから、それをなんとかしたい」と話したのを覚えていますw 約9年前からやってることも考えてることも大して変わっていないw そして、9年越しに、おすすめされた本を読んでいたりする。

その間、内田樹さんもWikipediaによると、単著で20冊以上、共著も合わせるととんでもなくたくさん本を出版なさっています。「『日本辺境論』だけじゃ全然足りないよ」というなら、他の本で補うと良いのでしょうか。

といった感じで、あさよるも自分のこの9年間を思い出し語るとき、「自分はこうだった」と言えず「あの人はああだった」「この人はこうだった」としか言えません。とても辺境的w ただ、だらこそ好奇心は忘れないまま、今も楽しくキョロキョロと何かを探しているんだと思います。

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内田樹さんの本

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『西洋哲学の10冊』を読んだよ

「なんでだろう?」「不思議だなぁ」と思うことは大概、既に昔の人も同じように悩み、考えぬいているものです。
先輩方の経験や考え、結論を教わる手段の一つが、本を読むことではないでしょうか。
この先輩たちは、いくら時代を遡っても先輩の先輩の先輩の……と果てしなく続きます。
『西洋哲学の10冊』では、10人の人生の先輩たちの考え抜いたテーマの、エッセンスが紹介されています。

分からないこと、知らないことに出くわしたとき、「ああ、自分はなんにも知らないんだなぁ」とほんの少しだけ落ち込み、しかしそれ以上に「なんだか面白そうな知らない世界を見つけたぞ!」とワクワクします。
ですが、知らない世界へ飛び込むには、右も左も分からりませんから、道案内が必要です。

道案内役になる書籍、というものにたまに出会います。
私にとっては、赤塚不二夫さんの本だったり、歴史小説だったり、旅日記やマンガだったりと、ジャンルは様々でした。
その時々、タイミングや必要に合わせて、道案内役は変わるでしょう。

最初は未知の世界だったジャンルも、次第に自分の力で見渡せるようになった時、道案内役は役目を終えます。
「ああ、今読むと、なんでこんな本を足がかりにしたんだろう」と不思議に思えることもあります。

本書も、西洋哲学という「未知の世界」へ飛び込む時の良いガイドになるでしょう。
そしていずれ、その分野について深く知識を身につけた時、読み返してみて自分の成長を感じてみるのも良いでしょう。

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