30 社会科学

『一億総ガキ社会』|諦めないで、お客様

きっかけ

諦められない大人たち

『一億総ガキ社会』は、モンスターペアレントやモンスターペイシェント(患者)、引きこもりや「草食系」なんかの話を、心理学的なアプローチを交えつつ、社会問題を語ります。これらの社会的な「現象」は、元をたどれば同じ心理状態から発していると言います。それは「挫折ができない」ことです。

我が子を特別扱いするよう学校や教諭に求める親は、自分の子どもが「特別ではないこと」を受け入れられません。それを受け入れることは「自分が特別ではないこと」を認めるのと同意だからです。我が子の問題をなにもかも学校のせいにする親も、「自分の子育てに問題があった」ことを受け入れられません。

「草食系」という言葉が使われ始めて久しいですが、恋に消極的だと、恋に破れるリスクを回避できます。

学業や仕事で問題にぶち当たったとき、その責任を他者や社会に求める人もいます。「新型うつ」の傾向として、本人が何かを「挫折した」ものの、それをなかなか認められず、現実と理想のギャップに苦しんでいる場合があるそうです。その挫折は、左遷されたり、仕事が上手くいかなかったり、自分の頑張りを周囲が思うように認めてくれなかったり、問題は様々です。

諦めて大人になってゆく

「大人になる」とは、挫折を知り、諦めることが増えてゆくことです。反対に、子どもは無限の可能性と、全能感を持っています。若者は夢を追いかけて、努力をするものだし、何も始める前から諦めてしまうのもおかしな話です。

だけど、全員の夢が100%叶うわけではなく、多くの人たちは一つ一つと壁にぶつかり、諦め、身の丈を知り、自分のできること、できないことを受け入れてゆく過程に大人になってゆくと言えるのではないでしょうか。

ということは、「諦められない」現代人は、ずっと子どものままということ。子どものように諦めないことを推奨されているのに、現実には諦めざる現状に直面し、そのギャップが社会現象として浮上しているというお話。

「諦めないで」の苦しみ

「諦められない」理由は、「自分らしく」生きることが推奨されている時代だからでもあるし、また消費社会はお客様に対して「諦めないで」と発し続けます。

「諦めないで、英会話を始めましょう」「諦めないで、美容にサプリを飲みましょう」。自己実現のために仕事終わりに買い物や外食にお金を使い、帰宅後も自分磨きに時間を費やし、「自分へのごほうび」や、「自分の楽しみ」が必要です。時間もお金もいくらあっても足りません。サービスを提供する側は、そうやって消費を促しています。

「選択」と「決定」し続けること

自分らしく自由に生きてゆくとは、自分で「選択」し続け、「決定」し続け、その結果の「責任」を負い続けることです。自由に生きる、自分らしく生きることは、自分の責任のもと選択・決定をし続けることが大きな負荷となる人もたくさんいます。

自由に生きられる世界は、素晴らしい世界です。今の日本社会は、ほぼ人類の夢を叶えた世界なのかもしれません。自由に自分の生き方を選ぶことができ、医療が行き届き長寿になって、死はなるべく遠ざけられ、すごい世界に生きています。

先日、ジブリ映画の『かぐや姫の物語』の小説版を読みまして、かぐや姫が月の世界で罪を犯し、地球に落とされる理由を知りました。(以下、軽くネタバレ?します) 月の世界は悲しみのない幸福な世界です。だけど、かぐや姫は地上の人々が活き活きと生きる姿を見て「何か」を思うのです。その「何か」が彼女の犯した罪です。月の世界は悲しみがない……つまり死もなく飢えもない幸福の世界です。それは同時に、生もなくお腹が空かず、喜びのない世界でもあります。その幸福な世界で生きるかぐや姫が、地上の喜びを持って生きる人々…つまり悲しみを持って生きる人々を見て「何か」を思ったのですね。

かぐや姫の物語 (角川文庫)

幸せになるとは、退屈に生きることなんでしょう。あさよるも、自分の大切な人は絶対に、一瞬でも長く平たんで穏やかな気持ちでいることを願っています。波風はなるべくなく、いつまでも平穏でいて欲しいんです。それは「ずっと退屈でいて欲しい」という願いなのかも。

だけど実際には、理想と現実の間にはギャップがあり、「諦める」という手は封じられている以上、他人のせいにするか、他の何かに依存して気を紛らすしかなくなってしまいます。

「運がいい」「運が悪い」

ふと、『一億総ガキ社会』を読んでいると、現在のわたしたちは「運がいい/悪い」ということを、どのように受け止めているんだろうと感じました。

確かに、自由に生きるとは自己責任を負って生きる生き方なんだけども、どんな結果が待っているかは運要素も大きく関わっています。

『一億総ガキ社会』では、司法試験を何度も受験している男性が、想いを寄せていた女性が他の医者と結婚してしまい、その現実を受け入れられず「彼女はもうすぐ離婚して自分のところにやってくる。それまでに司法試験に合格しないと」と考えている話が登場します。これは恋が破れた場合の話です。だけど、恋が実ることもありますよね。自由に自分らしく生きる世界では、実った恋も自己責任(自分の成果)ということになるんでしょうか。

こと恋路に関しては、縁のものだし、タイミングもあるし、パートナーとして一緒にいられる期間が長いのか短いのかもあるし、それらは複合的に要素が入り組んでいて、大雑把に言うと「運」だと思うんですw

良いことも悪いことも、意図せずともそうなることが多々あります。「運」としか言えない、神頼みするしかないこともたくさんあります。それらをどう処理してるんだろう。たぶん「諦める」ことを認めるとき、「運」を受け入れることなのかな、なんて思いました。

「有難い」の反対は「当たり前」という話がありますが、恋が実るかどうかが自己責任の世界では、「恋が実って当たり前」という解釈になるのかな。

ちなみに あさよるも、初めて「カオス」という存在に触れたとき、理解の範疇を超えていて、ものすごく動揺しました。実際にカオスの実験も目にしましたが、心のどこにそれを持っていけばよいのか分からず、長い間そのまま棚上げしていました。やっと最近になって、なんとなく「カオス」ってこういうことなのかと扱えるような心持になってきました。

カオスから見た時間の矢―時間を逆にたどる自然現象はなぜ見られないか (ブルーバックス)

こう解釈できる

『一億総ガキ社会』も、具体的な解決策が出ないまま終わってしまいます。それは著者自身も現代を生きる人であり、子どもっぽく諦められない性質だと吐露されています。しかし、「自分はこういう状態にある」と認識できるだけでも、少し状況は変わります。実際に精神科医の著者のもとに訪れる患者さんは、自分の状況を理解するだけで、少しずつ好転してゆくそうです。

何もわからない状態は不安で、不安がかき立てられると自分を守るため攻撃的にもなってしまいます。何も解決していなくても、「知る」という行為だけで、「わからないという不安」は減るでしょう。

「諦められない」「失敗できない」現状はさながら、赤ちゃんが転びそうになれば大人が助けてやって、一度も転んだことのないまま子どもが育ってゆくような感じ。実際には、見るのは辛いですが、赤ちゃんは何度も転んで転んで、転んで起き上がる練習をしないといけません。ただ転べばいいってもんじゃなく、本書では

一)他人のせいにばなりしない
二)敗因を分析する
三)自分で起き上がる

p.247

と三つの練習が紹介されています。

あさよるにとって、本書で知れた一番の収穫は「あなたらしく」「諦めないで」というメッセージは「儲かる」ということ。そんな言葉で語りかけてくる人がいたら、その真意を探ってみるのは有効かも(苦笑)。

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『ごみ収集という仕事』|衛生・治安・財産・情報を守る仕事

こんにちは。あさよるです。図書館で何気なく目に留まって読み始めた『ごみ収集という仕事』が、とても良い本でした。図書館はこういう出会いがあるから、書店、古書店とは違った魅力がありますね。

本書は、大学教授である藤井誠一郎さんが、約1年近く、実際に新宿区のごみ収集の仕事を経験し、その経験や職員への聞き取りなどをまとめたものです。ごみ収集って、ものすごーく身近で見慣れた風景でしたが、実際にどんな仕事をしているのか知らないことばかりでした。

また、10代の人でも読める内容で、自由研究のお手本にも良い本だと思います。

ごみ収集こそ行政サービスなのかも

『ごみ収集という仕事』は、大学教授である藤井誠一郎さんが、実際に新宿区のごみ収集の仕事を9か月間、働きながらごみ収集の仕事や、そこで働く人へインタビューしたレポートです。

本書を読んで一番に思うことは「ごみの分別は大事すぎる」ということと、ごみ収集の仕事に従事する人たちがマジ神対応すぎること。そして、あまりに臨機応変な対応ばかりを求められるようで、ごみ収集は民間への業務委託していると、そのうち破綻してしまうサービスだと感じました。

ごみの処分は、行政じゃないとできない仕事でしょう。個人で全てのごみを処理することは現実的ではないし、ごみはその町の衛生状態や治安にも関わることだからです。

業務委託じゃダメな理由

本書『ごみ収集という仕事』を読むと、ごみ収集の仕事は民間委託だとサービスの質がいつまで維持できるのかわからない、危ういものだと感じます。ですが昨今、民間委託されている場合も増えており、また忙しい時期だけ期間限定で人が増員されるそうですが、それが原因で現場が混乱し、公共の衛生がかなりギリギリで保たれていることがわかりました。

ごみには個人情報が詰まっている

まず、ごみには個人情報が詰まりまくっています。ごみ袋を手に持って、ごみ収集車に投げ入れる際、瞬時に中身を判断し、安全に収集をしなければなりません。ときにはその場でごみ袋を開け、中身を確認し、ごみ出しのルール違反しているならシールを貼ってその場に置いておきます。一人暮らしが多いマンション。ファミリーがたくさん住む住宅街。年末年始など季節の行事があると、出るごみも変わります。人々の暮らしが如実に現れるのです。

ごみを収集車に積み込んで、収集したごみは後で中身を開け、焼却できないものを抜き取り作業をします。

ごみってかなり繊細な情報を含んでいますから、民間委託ではなく、行政が人を雇って仕事をしてほしいなぁと思いました。

また、違法行為が想像されるようなごみというのもあるそうで(病院がないはずの場所で、医療器具が捨てられる等)、警察との連携についても触れられていました。

ごみを集めるだけが仕事じゃない

ごみ収集の仕事って、ごみ袋を町で集めて、焼却場へ運んで修了ではないんですね。ごみを持ち帰った後も、ごみ袋を開け、焼却できないごみを取り除く作業が続きます。

不燃ごみの場合も、中身を取り出しハンマーで叩いて体積を減らしてから次の工程へ移されるそうです。

だから、どこで集めたごみに、どんな中身が入っているかは、紐づけすることも可能でしょう。すごく情報の取り扱いが繊細な作業であろうと感じます。

とにかく危険

ごみ収集の仕事をするために、破傷風予防の注射を打っているそうです。

ごみ収集の際、スピーディーにごみ袋をつかんで収集車へ投げ入れるハードな業務なのですが、そのごみ袋から爪楊枝や竹串が飛び出していたり、時には注射器の針が出ていることもあるそうです。

また、ごみ収集車は、ごみをプレスして嵩を減らすのですが、そこへタイミングよくごみを投げ入れるのも大変な作業のようで、見ているとヒョイヒョイと軽々と作業されれているように思っていましたが、かなり危険と隣り合わせで、高い集中力と、チームプレーが必要とされる難しい仕事です。

住民のQOL、衛生、治安維持に大きく関わる

ごみの処分は、その一帯の衛生状態や治安にも関わる大事なことです。市民の生活の質を担保する大切な仕事と言えるでしょう。

「時間がなくてごみが集められなかった」なんてことは許されませんから、綿密な計画と、その計画通りに仕事が実行される必要があります。また、ごみ収集をしている間、他の交通の妨げにならないよう、急いで作業しなければならない道路や、破裂して中身が飛び散った場合、道路や、汚れてしまった建物や車など、その清掃も収集員の仕事の一部だそうです。

本来、ごみ出しのマナーが悪いのは、ごみを出した人なのに、しわよせがすべて収集員に寄ってくるのはいかがなものかと感じました。しかし、そんなこといちいち交渉している時間もないようで、その場その場で臨機応変に対応し、効率よくごみを集めることが優先されているようです。マジ神対応すぎて頭が下がります。

住民への配慮がすごい

平常時のごみだけでなくシーズンごとのごみや、イベントで出るごみもあります。

年末には「家をきれいにして正月を迎えて欲しい」と、ごみの量が増えてもそれに粛々と対応するそうです。また、正月明けにはどっと大量のごみが町に出され、それを収集するのもかなり大変。

また、地域のお祭りやイベントがあると、そこへ出るごみをわざわざ別口で取りに行きます。しかし、約束の時間にごみを取りに行っても、きちんとごみ出しが終了していないことが多く、再度出向くことも少なくないそうです。こんなのも、注意すればいいと思ってしまいますが、だからと言って、ごみを放置することもできませんから、相手に振り回される形で、対応するしかない悪循環も記録されていました。

ごみ出しのルールが守られていない場合、シールを貼って注意喚起をしたり、住民に直接ごみ出しの指導をすることもあるそうです。また、ごみ収集中に住民からごみ出しについて質問されることもあるそうで、瞬時に的確にこたえる必要もあります。

ごみが破裂したり、液体が飛び散ったりした場合は、身を挺してそれを阻止し、急いで汚れを清掃するそうです。この心配りがマジですごい。ごみ出しマナーを守らない人が悪いのに、神対応し続けるごみ収集員は大変な仕事です。

作業員のコミュニケーションと気配りで成り立っている

ごみ収集の経路はかなり綿密に計算され、無駄がないようコースが考えられ、人員が配置されているそうです。また、ごみ収集にも、作業員の同士の阿吽の呼吸で、スムーズに仕事ができています。だから、作業員同士のコミュニケーションがとても大事で、収集の計画についても、密に情報交換がなされてこそ成り立っているようです。

なので、業務委託をして、数年で作業員が入れ替わったり、繁忙期だけ人を増やしたところで、それが逆にトラブルの種になり、ごみ収集の妨げになります。

しかし、「ごみを放置する」という選択はないわけで、今のところはかなりギリギリのところで、衛生状態が維持されている印象でした。これは危うい。やっぱり、「ごみを放置する」という選択は絶対ナシなんだから、常に余裕を持った人員の配置をしておいて欲しいなぁと思いました。

研究者は研究室にひきこもってるワケじゃない

本書『ごみ収集という仕事』は、大学の先生が9か月間、実際にごみ収集やってみたという本です。特に文系の研究員の場合、意外にもフィールドワークをたくさんしていて……というか、フィールドワークが仕事な人もいますし、「研究室にこもっている研究員」とは違ったイメージを持たれるでしょう。

この『ごみ収集という仕事』は、10代の方でも読める内容だろうと思います。これから自分の進路や、どんな研究をしたいのか考えるとき、本書は参考になるでしょう。「なんだか面白そうだなぁ」と思う人もいると思います。

また、自由研究をするときのお手本にもなります。勉強は机に向かってすることだけじゃなく、外へ出て自分で何かを経験をすることで知ること・分かることもたくさんあります。自分のいつもやっていることや、好きなことをの中から、実際に経験したことを、レポートとしてまとめてみるのも良いでしょう。

ぜひ読んで欲しい!良書

『ごみ収集という仕事』は、図書館でたまたま目について読み始めただけでしたが、とても良い本でした。「ごみ収集」という身近な存在ですが、どんな業務なのか知らないことばかりでした。

「ごみの分別」がうるさく言われる理由もわかりました。みんながきちんと分別すれば、作業員の仕事も減りますが、みんながルールを守らないと、どんどん仕事が増えてしまいます。

「ごみは放置できない」からこそ、その場その場で臨機応変な対応が求められており、システマチックに遂行できる仕事でないことも知りました。道幅や交通量、住民の家族構成や季節、行事などなどなど、不確定要素しかなく、画一化できません。コンピューターが一番苦手な分野の仕事でしょうから、今後も人力で、人海戦術的にやり続けるしかない業務じゃないかと思います。

かなり危険な仕事で、きつく、ごみを扱う仕事で、かつ衛生状態や治安など、その地域の安全や財産にも関わる重大な仕事です。また繊細な個人情報も扱います。ごみ収集こそ、行政しかできない仕事だろうと思いました。これはすごい仕事だ。

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『日本辺境論』|田舎者でゴメン(・ω<) テヘペロは強い

こんにちは。本は寝かしまくる あさよるです。大体、人からおすすめされると、3年スパンくらいで着手し始めます。一応、読むのは読む。いつになるのかわからないけどね…!という感じ。そして、積みまくったのが内田樹さんの『日本辺境論』です。二回の引っ越しも経た。やっと読みます。

これは、2009年の出版当時話題になっていて読もうと買っておいたものでした。その間、世間は大きく変わったような、だけど大枠ではあまり変わっていないような。2009年から2018年の9年間は、たくさんのことがありすぎて、よくわからない時代でしたね。そんな、ここ近年の出来事を思い出しつつ、『日本辺境論』を読むのでした。

世界の中心……じゃないからできること

内田樹先生の『日本辺境論』は出版当時、話題になっていた頃から積んでいました。2009年11月の本ですから、積んだね~!w

「日本辺境論」とは、日本人が持ち続けている辺境根性とでも言いましょうか、日本人の処世術を解説するものです。ちなみに「辺境」の反対は「中心」。日本にとっての中心は、長らく中華思想でした。

アメリカはその建国の歴史から、ルーツも様々な人々が集まっていますから「我々はこういう者だ」という名乗りが必要です。それを「アメリカというアイデア」だと紹介されていました。それに比べると、日本人は「日本とはこういう者だ」がありません。日本の歴史よりも前から日本列島には人々が住んでいて、大陸とは海で分断されているんですから、名乗りなんて必要なかったのです。

そして日本人は対中国との交渉によって〈自分たち〉であることを自覚するのです。明治の文明化では、相手はヨーロッパでした。日本は、自分たち以外の何かと対峙して初めて、〈自分たち〉を認識します。そもそも「日本」という名前も、「日の本」つまり「太陽の上る方」という意味であり、それは「中国から見て東側」という不思議な名前だと書かれていて、なるほど言われてみれば。

そして、日本はどうにも上手いこと大国と渡り合っているのです。「日の出国の天子より」なんて無礼な手紙を出したり、天皇から位を授けられた征夷大将軍が「国王」と名乗ってみたり、なかなか無礼です(部長が「社長です」と名乗って取引先に挨拶するなんてあり得ない)。で、それを「田舎者なんでわかんなくてゴメンナサイ」とテヘペロしながら、言いたいことを言って、大国と渡り合ってるんですよね。自分たちが辺境に生きていることを自覚し、それを逆手にとって外交をしているのです。これ、すごいじゃん!ってのが、『日本辺境論』を読んでの発見でした。

「この人スゴイ」はスゴイ

んで、内田樹先生も、日本の辺境っぷりは悪いものとはせず、「とことん辺境で行こう」と仰っています。

辺境人の良いところは、素直に「中国すごい」「ヨーロッパすごい」と思ってしまうところです。自分たちが辺境の田舎者だと思っているからこそ、だから「素直に学ぶことができた」というのです。この感覚わかりますよね。自分が「この人スゲー」と思っている人の言うことなら、理解できなかったとしても「たぶん何かすごい意図や意味があるんだろう」と取り入れることができます。反対に、一回でもナメてしまった相手の言うことはもうなんにも響きません。

相手を「すごい」と思える能力って、学びには重要な要素です。これはずっと持ち続けたい力ですね。

エイヤッと飛び込む

次いで「機」を見る能力が紹介されています。機とは、「清水の舞台から飛び降りる」ことです。日本は欧米から鎖国をやめて開国を求められ、明治維新が始まりましたから、「近代」という時代には後ノリをしました。つまり、なぜ始まったのか、なにをやっているのか、ルールもわからないゲームに途中参加させられたのです。その時、持ち前の学びの姿勢が発揮されるのですが、同時に「エイヤッ」と飛び込むタイミング、それが「機」です。ヒトは元々「機」を持っています。じゃなきゃ、動物として生き残れなかったはずです。そして、大国は自分たちの強さ故に、機を忘れてしまっている。日本人は辺境人だからこそ、「エイヤッ」と飛び込む機を持っています。

日本語

さらに、「日本辺境論」では、日本語の持っている特性にまで話題が及びます。日本人は元々文字を持っておらず、中国語を輸入しました。そして、わたしたちは未だに、中国から輸入した漢字も使ったまま、だけど日本語のまま文章を書いて理解するようになりました。折衷案的ですね。

相手の力を使う

たぶん、辺境的であるって「カウンターをとる」とも違うんでしょうね。対抗するのではなく、力をいなすというか、相手の力を使って、自分の持っている以上の力を発揮するというか。名人技です。

新書一冊じゃ全然足りないわ

『日本辺境論』は以上のような内容を扱っているのに、たった新書一冊なんです。だから、当然ながら全然足りてませんw どの章も駆け足だし、特に最後の日本語の特性なんて、こんなページ数で何も言えないだろうと(苦笑)。どの話も、風呂敷を広げたところで時間切れ~続きはこちら……みたいな感じですね。もちろん、それは読書や学習を促す意味では良いのかもしれませんが、読了感としては「え~!ここで終わるの~」とw

内田先生の本はその時々のタイムリーな話題を上手いことトッピングされていますから、今『日本辺境論』を読んで「2009年ってこういう気分だったんだな」と今さら振り返ったような気持ちです。

2009年前後と言えば、Twitterのアカウントを作って遊び始めた頃でした。今はもう消してしまったアカウントなのですが、当時高校生の年齢だった男の子が『日本辺境論』についてツイートしているのを見て、あさよるの読みたい本リストに入ったままでした。「当時高校生の年齢だった男の子」とは、高校へ行かず大検を目指してたとかだったんじゃないかなぁ。彼はその後、元気にしているんだろうか。

話の脱線ついでに、ちょうどこの頃、あさよるはまだ学生で、進路について聞かれたとき「何も考えてないけど、ブログを毎日書いてるから、それをなんとかしたい」と話したのを覚えていますw 約9年前からやってることも考えてることも大して変わっていないw そして、9年越しに、おすすめされた本を読んでいたりする。

その間、内田樹さんもWikipediaによると、単著で20冊以上、共著も合わせるととんでもなくたくさん本を出版なさっています。「『日本辺境論』だけじゃ全然足りないよ」というなら、他の本で補うと良いのでしょうか。

といった感じで、あさよるも自分のこの9年間を思い出し語るとき、「自分はこうだった」と言えず「あの人はああだった」「この人はこうだった」としか言えません。とても辺境的w ただ、だらこそ好奇心は忘れないまま、今も楽しくキョロキョロと何かを探しているんだと思います。

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『シングル女子の今日からはじめる貯蓄術』|会社員でもフリーでも、介護、老後、お金の話

こんにちは。お金が貯まらない あさよるです。ああ~、先月と今月は出費が多すぎて疲れ果てた……w お金を使うついでに消耗品の買い替えをしたりと、いろいろと一掃しました。どうせいずれ買うものだし。

お金の話は重大な話なのに、おいそれと他人にもできないし、悩みどころですね。

今回読んだ『シングル女子の貯蓄術』は、独身女性に限定したお金の話です。お金の話って、その世帯によってケースバイケースなことが多すぎますから、書籍では一般的で無難なケースのお話しか語られていません。その点、本書は、「独身女性の」と限定されていることで、より必要な情報が厳選されていると思います。それでも大まかな話でしょうけどね。もっと詳しく知りたいなら、ファイナンシャルプランナーに直接相談するしかないのかなあ。

独身女性のお金の話

『シングル女子の貯蓄術』は、独身女性向けのお金の話を解説する内容です。お金について書かれた本はたくさんありますが、子育て中の家族を前提とした本が多い印象です。しかも、お金、家計って世帯の数だけ場合が違いますから、あくまで一般的な話をするしかありません。本書は独身女性とターゲットが絞られているので、それに当てはまる人には役立ちます。

独身のまま親の介護や自分の老後を迎えるには、具体的にお金がいくらくらい必要なの? 貯金はみんなどれくらいしてるの? と、知りたいけれども、他人に効きにくい話が網羅されています。また、会社員の場合と、自営業者の場合が併せて紹介されているので、これから働き方が変わるかもしれない人にも役立つでしょう~。

結婚すると、夫婦共働きなら二馬力でお金が稼げますが、独身のままだと一馬力で自立続けないといけませんから、お金事情が変わってきます。もしかしたら将来結婚するかもしれない可能性も踏まえつつ、計画を立てましょう。

マンガとイラストで楽しい

本書『シングル女子の貯蓄術』はページの半分くらいはマンガ形式です。お金の話ってややこしくて苦手だなぁと思う人にも読みやすい工夫がなされていていいなぁと思いました。お金って大事なものなのに、だからこそかもしれませんが、考えるとややこしくて嫌になっちゃうのはなぜだろう……。

入っておくといい保険や、困ったときの対処など、何かが起こるよりも先に知っておくべき事柄が紹介されているのも良い点だと思います。

お金の話を苦手意識で逃げまくるんじゃなくって、面白がって取りくめたらいいのになぁと思いつつ、面白がるほどの余裕がないので大変ですね(;’∀’)(;’∀’)

健康や生活習慣も大事…?

本書では、時間の使い方が上手い人はお金の使い方も上手いと紹介されていました。理由を聞くと納得できます。時間をダラダラと過ごしてしまうと、ついついネットでショッピングをしてしまったり、時間外で銀行のお金を引き出して手数料がかさんだり、出費が増えます。

深夜になると疲れと眠気から、冷静な判断ができなくなると、他の本でも読んだことがありました。深夜番組が実際よりも笑けてしまったり、夜中のテレビショッピングや、ネット通販でつい買うつもりのない物をポチっちゃうのも、同じような理由だそうです。

あさよるも、買い物するなら午前中に済ませてしまうように気をつけています。午前中はパパっと買い物を済ませて早く次のタスクに移りたいと思うのですが、午後……特に夕方にお店に行くと、つい余計なものを買っちゃうんですよね~。

時間にメリハリをつけて、ダラダラ過ごさないというのも、一つの倹約法だと知り、納得しました。

フリー、副業……

本書ではフリーランスで働く人や、プチ副業をしている人のお金の話も紹介されています。働き方って多様なんですね。生き方も多様になっているし、選択肢を多く持っておくのは心強いなぁと思いました。

あさよるもちまちまブログを書いていますし、趣味が何かプチ副業になればいいのになぁ(;’∀’) ブログもだけど、絵を描いたり手芸が好きなので、そっちの方でなにかできればいいなぁ~なんて夢が膨らみました(^^)v

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『街場のメディア論』|「贈りもの」を贈ろう

こんにちは。あさよるです。内田樹さんの本はまだ数冊しか読んだことがありませんが、どれも面白かったので今回『街場のメディア論』も読む前から楽しみでした。

この「街場の」というシリーズがあって、『街場のアメリカ論』『街場の中国論』『街場の教育論』に続いた4冊目だそうです。Wikipediaを見ると『街場の大学論』『街場のマンガ論』『街場の読書論』『街場の文体論』『街場の憂国論』『街場の共同体論』『街場の天皇論』とシリーズがあって、どれも読んでみたいです。

今回読んだ『街場のメディア論』では、メディアの不調は、そのメディアにどっぷり浸かっている我々の不調であると宣言されています。確かに、異論はありません。

メディアの不調

本書『街場のメディア論』は内田樹さんの「メディアと知」という大学の講義がもとになっています。大学生でもわかるような話で、かつ飽きさせない話題が続きます。

「自分がやりたいことをやる」というのは実は大きな力が生まれない。それよりも「誰かから求められること」の方が人間は大きな力を発揮できるのです。本書では、内田樹さんご自身が、娘さんが生まれて子育てが始まってから、大きな父性愛が溢れ出たと回想されています。そして、その自分の潜在的な力は、その立場になってみないとどうなるのかわかりません。

「望まれる」というのは、とても力強いことなんですね。

ここからメディアの話が始まります。主にテレビ、新聞、出版が扱われます。そしてこれらの業界は「オワコン」と言われて久しい業界でもあります(内田樹さんは「オワコン」なんて言葉使わないけどね)。

メディアはもともと公共ものです。ですが近年、お金が儲からない話ばかりが語られます。また、メディアは世論、正義の名のもとにクレイマーのお手本のような報道をくり返しています。メディア自身がメディア離れを加速させているように感じます。

世間とおまじない

昨日、ブログで鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』を紹介しました。

『「空気」と「世間」』では、伝統的な「世間」という価値観が古びつつも、今なお「空気」という言葉で顔を覗かせてていると説明されていました。「世間」には理屈がなく、迷信や呪術的がまかり通る世界です。理屈がないからこそ、人々はそれに抗えないのです。そして、著者の鴻上尚史さんは「世間」「空気」に対して否定的な語り口です。『「空気」と「世間」』では、誰も本音ではやりたくないお中元お歳暮も、お祝い金をもらったらその半分の額をお祝い返しする風習も否定されています。

一方で、本書『街場のメディア論』での内田樹さんの話は対照的です。そもそも「街場の」と名前のつくシリーズで、「街場」とはまさに「世間」のことでしょう。そして、内田樹さんは迷信や呪術(おまじない)的なことも肯定します。そして、お祝い返しのような、人から贈り物を受け取ったらお返しをする。それは贈り物をもらった嬉しさの表現でもあります。

くり返しますが、メディアは公共のものです。本書では、本来お金を目的にするものではないと語られています。じゃあ、どうやってメディアの人たちは食べてゆくのかというと、テレビやラジオ番組、新聞や出版物という「贈りもの」を提供するのが仕事で、受け取ったわたしたちは、「贈りもののお礼」をするのです。

商売人と客の関係ではないのです。

おまじないのある世界の方がいいかも

あさよる的には、鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』で語られるような、世間から脱して社会に目を向けることよりも、「街場の」おまじないが効力を持っている世界の方がいいかもしれないと思いました。もちろん、非科学的なことを推奨するのではありません。だけれども、人と人の間に、理屈にならない術的な要素が多少はあってもよい……というか、あった方がいいんじゃないかと思いました。

こんなこと、昔の自分なら絶対思わなかったはずです。誰も欲しくない・送りたくないお中元お歳暮や年賀状なんて大嫌いだったし、世間話の天気の話題すら時間の無駄だと思って忌み嫌っていましたから。だけど、今は、まつりごとや、しきたりも、それなりに役割はあるんだと思うようになりました。

ということで、時候の挨拶の練習をしている あさよるです(;’∀’)

メディアは「贈りもの」であり、受け取った人が、贈もののお礼をするという関係性も健全だと思いました。「商売人とお客様」という関係って、自分がお客だと得があると考える人もいるのかもしれませんが、むしろ全員の居心地を悪くしているだけだと思っています。

それよりも、毎日電車が運行していることとか、牛乳がスーパーに届いていることとか、今日もパソコンがインターネットに繋がっていることは「有難い」ことです。だって「乗せてやんない」「売ってやんない」「繋げてやんない」って言われて困るのは自分ですからね。

自分に必要なものがあるというのは、なかなかあり得ない状況、「有難い」のです。今朝は食べ物がなくて、お店にも食品が並んでなくて、「売ってもらいたいなぁ」とホントに思いましたw

そして、最初に紹介した「自分のためにやる(儲かるからやる)」よりも「望まれてやる」方が大きな力が発揮され、良い仕事になります。そしてそれは良い贈りものになりうる存在です。

ミドルメディアに参加する

あとがきには、

本書では特に既存のマスメディア(新聞、テレビ、出版)に対して、たいへんきびしい言葉を書き連ねました。これも蓋を開けてみたら、まるでお門違いであって、十年後もあいかわらずテレビではどの曲でも同じようなバラエティ番組を放送し、新聞は毒にも薬にもならない社説を掲げ、インスタント自己啓発本がベストセラーリストに並んでいる……というようなことになった場合には、ほんとうにお詫びの申し上げようもありません。p.210

とありました。本書が出版されたのは2010年ですから、それから8年経ったわけで、残念ながら内田樹さんのネガティブな予言通り、相変わらず新聞もテレビも出版も変わっていません。

内田樹さんはマスメディアではなく、ミドルメディアというブログの存在に光を当てています。ブログでは、出版社や放送局のスポンサーを気にせず書きたいことを、書きままの言葉で書いても構いません。トゲのあることを書いても、角を取られることもありません。

あさよるもブログを書いているので、ブログがそういう場になればいいなぁと思っています。今はTwitterやFacebookなどSNSに記事や写真、動画をアップロードする人が多いですが、これらのSNSはアーカイブが弱すぎるので、せっかくの活動が埋もれてしまいます。それよりも、ブログの記事として投稿して、自分のスペースをネット上に作った方が、きっとみんなにとってもいいことだと思っています。

微力ながらも小まめにブログを更新していて、人類にとって何かすごく少ない量でも、寄与できればいいなぁと考えています。これが「贈りもの」なんでしょう。喜んでくれる人がいるのかわからないけどね……(;’∀’)

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『「空気」と「世間」』|世間様が終わり、社会・個人へ

こんにちは。あさよるです。先日読んだ『「生きづらさ」について』にて「空気を読んで自殺する」(自殺志願者たちが「もうすぐ自殺する」と宣言すると、周囲の人が「もうすぐ死ぬんだ」から「まだ死なないんだ」という空気に変わってゆき、空気に後押しされて決行してしまう)という表現がショックすぎて「空気」っていったいなんぞやと思ったのでした。

ちなみに あさよるは空気が読めないタイプです……というか、空気はたぶん誰よりもバッリバリに読めている方だと思うっているんですが、それに従うという気がさらさらないというか……(;’∀’) なもんで、「空気を読む」という重大さがよくわかっていなかったので、本書『「空気」と「世間」』を読みより理解ができたと思います。

「空気」は「世間」の時代からあるもので、今後より「社会」と「個人」への時代へシフトしてゆく中で、存在が変わってゆくのかもしれないと思いました。

「空気」の正体を知る

本書『「空気」と「世間」』では、今やだれもが日常で使うところとなった「空気を読む」という表現の「空気」について扱います。みんな「空気読めよ」という言い回しは使うけれども、誰もその「空気とは何か」を教えてくれません。

たぶん、「空気を読め」という言い回しは、テレビの、特にバラエティー番組で、多くは芸人さんたちが使っている言葉を、視聴者である大衆も使い始めたのでしょう。当然ながら、テレビ番組には全体の進行を仕切るすごい司会者がいて(明石家さんまさんとか、タモリさんとか、ビートたけしさんとか)、司会者が話を進めながら、的確に出演者に発言を求め、それに受け答えして番組は進みます。

もちろんテレビ番組には作家もいるし、編集もされているし、日常の会話とは全く違う非日常であり、テレビタレントさんたちは非日常空間での「空気を読む」能力が求められています。だから、日常の中で「空気を読め」と言っても土台無理な話です。そもそも、さんまさんやタモリさんのような、唯一無二な司会者なんているわけもないですから、だからみんな空気を読んでいても、結局グダグダになってしまう。

で、グダグダの最たるものが、教室内で順番に回ってくるいじめでしょう。別に全員が示し合わせたわけじゃなく、なんとなく空気を読んでいじめのターゲットが移ろってゆきます。そこに司会者はいないので、次は自分かもしれないと、ただただ空気に怯えているだけです。

本書『「空気」と「世間」』では、まずはその「空気とは何か」を知りましょうと呼びかけます。人間は知らないもの・わからないものは幽霊のように恐ろしいものです。だから、まずは知る。そしてできれば、その空気に殺されないよう対策を打てると尚良いでしょう。

「世間様」から「空気」へ

本書『「空気」と「世間」』では、かつて「世間」と呼ばれていたものが戦後だんだんと崩壊し、今やなくなりつつありますが、その「世間」がひょこり顔を出したのが「空気」であると考えます。

日本語には元々「社会」「個人」という言葉はなく、明治時代に外国から輸入した概念です。だから日本人は建前上「社会」という概念を持っていることになっていますが、本音の部分では伝統的な「世間」に属して生きています。表立ってはわれわれは「社会」に生きる「個人」なのですが、意識的には自分は「世間」であり、同じ「世間」で生きている人が仲間です。

だから日本人は、同じ「世間」の人には親切でとても興味を示しますが、「社会」の人には無関心です。よく「電車内で体の不自由な人がいても誰も席を変わらない」という現象が語られますが、別に彼らが悪人ではなく、多くの人は「世間」では良い人なのでしょう。だけど、電車内という「社会」が見えていないのだと言います。

日本で生まれ育った人なら、この感覚、わかるんじゃないかと思います。

しかし「世間」はなくなりつつあります。戦前の富国強兵時代は、産めよ増やせよで兵を増やし、豊かになることが「日本という世間」に参加することでした。しかし敗戦後、兵の数を増やす必要もなくなり、少子化が始まります。だけど、伝統がすぐになくなるわけじゃなく、戦後しばらくは「世間」が会社の終身雇用・年功序列に姿を変えて残りました。同じ会社の仲間が「世間」だったのです。

そして、今やその終身雇用・年功序列もなくなりました。「世間」はなくなる寸前なのです。また、グローバルな時代が始まり、日本以外の価値観や働き方に触れることで、「世間」ではなく「社会」に目を向ける人が増えています。

「世間」に帰りたい人・社会を見る人

「世間」がなくなりそうになると、「世間」があった時代を復活させたいと考える人と、「社会」に目を向ける人が現れ始めます。

ネット右翼と呼ばれる人たちは、保守というよりは「世間原理主義者」と本書では名付けられていました。みなの心には「古き良き日本」という形のないものがあり、そのどこかわからないところへ帰りたいのです。アメリカでも「古き良きアメリカ」への回帰を求める人たちが一定数いて、政治にも影響を及ぼし始めています。

ただ、日本人とアメリカ人の違いは、日本人には神様がいないことです。キリスト教徒たちは一神教の神様と個人が直接つながり、どんなときでも神様と対話して自分の行動を個人が決めます。しかし日本人には対話するような神様がおらず「世間」という神様に従うのです。

なのに「世間」がなくなってしまった。つまり、日本人は神を失ってしまったのです。心もとないのも仕方ありません。アメリカでも教会に行かない若い世代が増えているそうです。アメリカも今後、日本と同じ道をたどるのかもしれません。

「世間」から脱したものの、また別のより強固な「世間」が待っているのです。

孤立は孤独だ

「古き良き日本」という「世間」に帰りたい世間原理主義たちの気持ちもわからなくはありません。自分を保証してくれるものがなく、不安定だからこそ、人々を一つにまとめる(縛り付ける)「世間」があってほしいと願うのです。

本書でも、著者の鴻上尚史さんがイギリス留学時代に言語がわからず孤立して、その期間が長くなると精神的にもまいってしまい、偽善で声をかけてくる白人ですら嬉しかったと語っていました。誰だって孤立をすると孤独になるんです。孤立した人は「世間」というしがらみのあった頃に戻りたいと考える人がいてもおかしくありません。

しかし著者は「世間」ではなく「社会」に目を向けることで、より多くの人とつながれると書いています。世界中探せば一人でも理解者が現れるであろうし、できれば理解者は二人いれば良いとしています。二人いれば、片方が多忙でつかまらなくてももう一人の仲間がいるから心が穏やかでいられます。

「空気」は「変わる〈かも〉しれない」

わたしたちは「世間」という言葉すらあまり使わなくなりました。今どき「世間体が悪い」なんて言う人も減っています。代わりに「空気」が支配し始めました。「世間」と「空気」は同じような意味で使われますが、「世間」は絶対不変なものな感じがします。「世間」の前では理屈も通用せず、理屈がないから抗えないのです。

しかし「空気」は、なんとなく「今はこんな空気だけれども、これから変わるかもしれない」という淡い期待をはらんでいます。ただし、あくまで空気は圧倒的な存在で、個人が太刀打ちできるものではないのは変わりません。だけど「もしかしたら……」という一縷の望みを感じさせる言葉を用いることで、「実はしがらみのない社会へ行きたい」と願っていることもわかります。

ダブルスタンダードでいいじゃないか

本書『「空気」と「世間」』では、現在「世間」と「社会」のどちらかを1か0で選ぼうとしているけれども、どちらでもないダブルスタンダードでもいいんじゃないかとも語られています。

「世間」があった時代には「個人」もなかったんだから、昔の人は平気だったんでしょうが、今の我々は「社会」を知り「個人」という自己を持ってしまっています。一度「社会」と「個人」を知ったうえで、かつてのような「世間」に変えることはできません。

しかし、孤立し、神を失った人にとって「世間」がそれなりの役割を果たすこともわかります。

だから「社会」と「世間」のダブルスタンダードでもいいじゃない。

もし世間で居場所がないならば

本書の最後には、この本が、いじめで居場所を失った中学生へ届くようにと書かれていました。著者はこれまでにも、いじめに遭ったならば逃げなさい、死んではいけないと呼びかけてきたそうです。しかし、家にいても「学校裏サイト」があり、そこには自分の悪口が書かれ、24時間どこに行っても逃げられないと感じる子どもたちがいます。

だけどそれでも逃げろと呼びかけます。

学校・教室という「世間」では居場所がないかもしれないけれども、「社会」に目を向ければ、途端に世界中の人々が目に入るでしょう。「世間(空気)に殺されてはならない」のです。

「したたがない」はしかたがない?

本書にて「しかたがない」という日本語は英訳しにくいという話題が登場します。それに近い「It cannot be helped」という表現がありますが、実際にこの言い回しを使う人は少ないそう。「We have no choice」の「選択の余地がない」がギリギリ近いかと紹介されていますが、「考えられる限りの手を尽くしたけれども他にどうしようもない」とかなり能動的なニュアンスです。

「しかたがない」には受け身で無力感があります。

ベストセラーになったカレル・ヴァン・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本とうシステム』(毎日新聞社)の中の文章が、典型的な欧米人の見方を表していると思います。

「シカタガナイ」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。シカタガナイと言うたびに、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれすべて失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたほうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるをえない」と思うたびに「シカタガナイ」と言う人は、政治的な無力感を社会に広めていることにある。本当は信じていないのに、信じたふりをしてあるルールに従わねばならない、という時、人はまさにこういう立場に立たされる。

p.44-45

「しかたがない」と口にする時、日本語話者はこんなこと考えてはいないんだろうけれども、西洋人が「しかたがない」を理解するためにはこれだけの説明が必要なのです。

あさよるも多分、元気いっぱいで、のほほ~んと本書を読んでいれば、本書に共感し、「世間を脱し社会に目を向けるべきだ!」と思ったかもしれません。

しかし昨日、台風の暴風雨により早々にテレビのアンテナが落ち、長時間の停電で「しかたがないから本でも読むか」と、寝転がって本書を読んでいました(災害時は体力温存しかできない)。外の様子が気になるし、「ああ、あれはこうしておけばよかった」と後から気づいても、「しかたがない」のです。

最大時の暴風がやや治まった頃(それでもかなりの突風が吹き荒れている)、両親がモメています。「外に出て様子を見る」という父と「余計なことをするな」という母が対立しており、二人とも「しかたがない」と言っています。父は「状況を見ておかないと、もうすぐ日が暮れるからしかたがない」と言い、母は「こんなに風が強いんだから、外に出られなくてしかたがない」と言っています。

あさよるも、アンテナや瓦が落ちて、もし近所の家や車を傷つけたら大変だと考えつつ(「世間」を気にしているのです)、だけど災害だから「しかたない」と思っています。

本書では、「世間」や「空気」に圧倒されなすすべもなく「しかたがない」と受け身にしかなれない日本人に対し「社会に目を向けようよ」と呼びかけていますが、「こう災害に出合うと無力感しかないし、しかたないと思うしかない」よなぁと、共感しきれない自分もいました。

「世間に迷惑がかかったら嫌だなぁ」と思いつつ、実際に声を掛け合い、うちのゴミを黙って処理してくれるのも「世間」なのです。こう災害が多くっちゃ「世間」がないとダメなのかもな、なんて弱気になってしまいました。

それでも「社会」に目を向けるんだろうか

ただ、本書でも災害ボランティアは「社会」であると紹介されていました。災害ボランティアに参加すると、お互いに打ち解ける間もないまま仕事が始まります。

日本でこうも災害が多く、世間では対応しきれない規模の災害が続くなら「世間」は「社会」を受け入れざるをえないでしょう。今も着々と、「世間」と「社会」は変わりつづけているのでしょう。

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『「生きづらさ」について』|空気と貧困と右翼化

こんにちは。あさよるです。図書館の楽しみは普段手に取らないような本や、書店で平積みされていない本が目につくことです。本書『生きづらさについて』も、2008年出版の10年前の本で、書店では見つけられなかったであろう本でした。Kindle Unlimited版もアリ(2018/9現在)

本書を読むと、10年前のものとは思えないくらい今につながる話題を扱っています。生きづらい、貧困や、雇用問題、超不安定な社会問題はなにも解決されないまま、10年持ち越されたんだろうことがよくわかります。

若者の空気と貧困と右翼化

本書『「生きづらさ」について』は、国内の「生きづらさ」を扱います。中でも、若者たちの貧困と右傾化について度々触れられています。貧困と右傾化は、関連する話題です。

まず「若者たちの」と一口に言っても今の10代20代のみならず、現在40代の団塊ジュニア世代(氷河期世代)の問題も深刻です。著者の雨宮処凛さんと萱野稔人さんもそれぞれ1975年と1970年生まれの方なので、90年代に社会人になった世代であり、お二人ともフリーターを経験なさっています。

貧困とトラウマ

貧困に陥る人は、親からの虐待や、学校でのいじめ等を経験し、自分が生まれた社会から隔絶され「帰る場所がない」状態が前提にあると言います。虐待やいじめを受けて育った故に、自己肯定感が低く、貧困に陥っても「自分の責任」と思いつめ、誰にも助けを求められないままネットカフェ難民やマック難民(24時間営業のマクドナルドで夜を明かす人たち)になる人も多いそう。また、生まれ育った場所にトラウマがある場合、そこへ帰るわけにもいかず、どこへも行けない。

空気を読んで自殺する

著者の一人、雨宮処凛さんの場合は中学でいじめに遭い、その後自傷を繰り返しいわゆる「メンヘラ」化していた経験もあるそうだ。自傷をする人たちが集まり、自分はこんな自傷をした、こうやって死ぬつもりだと話をしている間に、だんだん周囲からも「もうすぐ死ぬのか」「まだ死なないのか」という〈空気〉になり、空気を読んで自殺するという人がいる話はショックでした。

現在、かつて以上にコミュニケーション能力が求められる時代が到来しています。それは子どもたちも同じです。コミュニティの中で上手くやれなければ、そこに存在することができない。不登校や引きこもり問題の背景には、高いコミュニケーション能力を持ち「空気を読み」、かつ、コミュニティの中で上手くやりぬける〈運〉の要素もあるようです。

右翼化する理由

雨宮さんはその後、上京し浪人生活を送るりますが、それもやめフリーターになった途端、自分が社会の中で何物でもなくなり不安な時間を過ごしたとそうです。そのとき、自分の居場所になったのが右翼グループだったそう。左翼グループとも接触したそうだけども、彼らの話は難しく仲間に入れる感じじゃなく、消去法的に右翼団体にいたと振り返られていました。

自分が辛い境遇にあっても、靖国神社へ行き、戦死した若い特攻隊員や軍人たちを思えば「自分の生きている時代の方がまだ良い」と考える、という話もあり、こんな心のより所としての靖国があるのかと驚きました。

また非正規で最低賃金で働く人たちにとって、外国人労働者は目に見える脅威に感じるそうです。良いことではありませんが、彼らは日本人より安い賃金で働かされていたり、「〇〇人を雇った方が安いしよく働く」と言われてしまうと、自分自身の「日本人であること」を理由で職を失うような感覚に陥ると語られていました。

実現しない自己実現と、承認されない承認欲求

わたしたちは自己実現をなし、他者から承認されることでアイデンティティが保たれています……ということになっています。だから、自己実現できなかったり、他者から認められないと、アイデンティティを保てなくなってしまいます。

もしかしたら、ただ「生きるか死ぬか」だけの世界ならば、そんなこと考えずに生きられるのかもしれないけれど、高度化した社会では「自分はどう生きるか」を考え、それに成功しないと幸福を感じられなくなっているのかもしれません。豊かだからこそ「どう生きるか」を考えられるはずなのに、そのせいで貧困に陥っていくのはあまりにも辛すぎます。

また、貧困から右翼化する例を紹介しましたが、最貧困層は右も左もないそうです。考えれば当たり前ですが、今日生きることに集中するのに、思想なんかない。

金持ち以外の全部

本書『「いきづらさ」について』で扱われるのは、「金持ち以外のすべて」の人々。今は仕事があり、住むところがあり、それなりに生活していても、この先のことが分かっている人なんていないでしょう。楽観的に考えられず、だからと言って備えるにもなにを備えてよいのかもわからず、ただ漠然と不安を感じている人は多いはずです。

子どもたちの話題も少しですが触れられていました。中学生たちが公園で集まって待ち合わせをしていると「不審な中学生が集まっている」と通報されてしまい、その後、出入りできなくなってしまったという話題です。「生きづらい」なぁと感じます。

本書では「戦争は希望」論争が紹介されています。団塊ジュニアの就職氷河期世代の男性が、地方都市でフリーターとしてコンビニの深夜アルバイトをしていて、昼間にショッピングセンターへ行くと「不審者に気を付けるように」とのアナウンスが流れている。そこで「自分のような存在が〈不審者〉なんだ」と思い至り、今の状態が「平和」ならば、戦争が起こって社会が流動化した方がいい。「フリーターにとって戦争は希望だ」という言説が話題になりました。今の社会の問題をすごく的確に表していると思いました。

本書は「生きづらさ」をテーマに著者二人の対談形式なので(一部質疑応答)、テーマが広いだけに話題はアチコチへ飛び一つの問題を掘り下げる物ではありません。「軽い読み物」と呼んで良いでしょう。しかし、ページを開くたびにショックが多かったです。

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『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』|日本人の読解力がヤバイ!

こんにちは。あさよるです。本書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』は出版当初から話題なっており、ずっと読みたかった本です。本書では、「AIは人間の知能を超えない」としながらも、楽観的な未来を描いていません。むしろ危機感を持って啓蒙されています。

AIが苦手とする文章の読解が、多くの人も同じく苦手で、AIが多くの仕事を担う世界では、一部の人を除いて失職してしまうだろうと危惧されているからです。

その反面、小さな希望として、読解力を大人になってからも伸ばした人の存在にも触れられています。また、論理的に文章を読解できる人は、別に特別な教育を受けなくたって、勝手にネット上で好きな大学の講義を聴講し、勝手にテキストを読んで学べます。それは、今あまり良くない立場にいる人にとっては希望になるのではないでしょうか。

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』は、話題になるだけあって、自分自身を省みて「お、オレの読解力もヤバイじゃんww」と冷や汗が止まりませんでした。他人事ではなく、自分事として読むべき本ですね(;’∀’)

多くの人<AI<一部の人

近年のAIブームから、「AIは人間の仕事を奪う」とか「AIが人間の知能を上回り、制御不能になる」もっといえば「AIによって人間は滅ぼされる」なんていう映画『ターミネーター』さながらの話題まで飛びだします。本書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』では、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクト――通称「東ロボくん」プロジェクトに携わっている新井紀子さんが、AIのホントのところを紹介するものです。

AIは人間の知能を凌駕しない

本書によれば「AIが人類の知能を上回り制御不能になる」ということはないと説明されています。コンピュータがどんなに「知能があるかのように」見えたからと言って、計算機であることには変わらず、計算機に知能は宿らないというものです。

当ブログでも過去にAIについて書かれた本を紹介しましたが、どの本でも「AIの研究は進んでいる」「だけど、みんなが思っているほどの技術はまだ遠い」というようなこととが、ズバリ書かれていたり、やんわり明示されていたりしました。ただ、本書ほど「AIは人間の知能を超えない」と明言されている本は初めてかも。

また「東ロボくん」プロジェクトは、AIを東京大学の入試に合格させることが目標ではなく、「AIにできることとできないこと」を知るためのプロジェクトであったとも紹介されています。そしてたぶん「東ロボくん」はもう少し模試の成績は良くなるかもしれませんが、東大には合格しないだろうと予想されています。

AIは多くの人より既に賢い

「あぁ、じゃあやっぱAIって大したことないんだ」というと、それは違います。「東ロボくん」は東大には届きませんが、すでにMARCHや関関同立の学部には合格点を取っています。すでに偏差値は57.1。別の模試では偏差値61.8を獲得したそうです。まずは東ロボくんの快挙に拍手。

そしてそれはつまり、多くの人は「東ロボくんよりも偏差値が低い」ということでもあります。

AIは、一部の優秀な人間の知能を上回ることはないけれども、多くの人をすでに上回ってしまっているのです。

「AIにできない仕事ができる人」は少ない

「AIが人間の仕事を奪う」と言われる反面、「新しい技術が普及すると、新しい仕事が増え、仕事はなくならない」と考える人もいます。例えば、自動車の登場によってなくなった職業はたくさんあったでしょうが、変わりにバスの運転手や、ガソリンスタントの仕事や、自動車エンジニアの仕事など、自動車にかかわる仕事が生まれました。AIも、AIの普及によって新たな仕事が生まれると予想されているのです。

しかし……本書ではあまり明るい未来を描いていません。まず、いずれ新しい職業が登場するとしても、一時的に人々は失業し、仕事にあぶれる人が大量に生まれてしまいます。それは産業革命のあとにも世界中で起こり、のちに世界恐慌へ突き進みました。

そしてもう一つ。AIの苦手な分野は、将来も人力で仕事がなされるでしょう。しかし、「AIができない仕事」は「多くの人にもできない仕事」であるということです。AIが仕事の大部分を担うのですから、人間にはより専門的だったり、特別な技術や知識が必要な仕事が回ってくることになるからです。どれくらの人が、それらの仕事に対応できるのでしょうか。

そして本書の著者は、子どもたちの読解力の調査結果から、危機感を抱いています。

日本人の読解力がヤバイ

「東ロボくん」は文章の読解が苦手です。AIは所詮は計算機で、文章の意味を理解できないのです。なんとなく日本語っぽい文章を組み立てることはできるし、統計から一番それらしい答えを選ぶこともできる。だけど、言葉の意味を理解しているわけではないので、人間は絶対しないようなあり得ないミスをしたり、人間にとっては簡単な問題が解けません。

そこがAIの弱みなのですが、実は多くの人たちも、文章を読み解けず、論理的思考ができていない実態が、中高生の読解のテストで明らかにされていました。

ちなみに「ゆとり教育だから文章が読めない」という主張ではなく、読解力はどの世代もあまり変わらないとされていました。つまり、中高生の読解力が低いということは、多くの大人たちも同じということです。

(成績にかかわらないテストのため、手を抜いたり、適当に答えているから成績が悪いのではないか、という疑問にも答えておられました。回答を一つ一つ精査し、真面目に答えたと言い切れる答案を集めたそうです。また選択問題なので適当に答えている可能性もありますが、それも含んだうえで統計的に結論してます。多くの中高生や新大学生は真面目にテストに取り組んでくれていたと紹介されています)

ちなみにこんな感じの問題。

次の文を読みなさい。

アミラーゼという酵素はグルコースはつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も最適なものを選択しから一つ選びなさい。

セルロースは(  )と形が違う

①デンプン ②アミラーゼ ③グルコース ④酵素

p.204

この問題は、新聞社の論説委員から完了までが③グルコースを選んで間違いが多発したそうです。

ほかの問題は、この辺の記事を読んでみてください↓

あさよるもザーッと問題を読みましたが、ぽちぽち間違ってて焦った(;’∀’)(;’∀’)

訓練すれば論理的に話せる

読解力を上げる方法はまだよくわかっていないそうです。本書ではちょっぴりショックな調査結果がまとめられていました。

全国2万5000人を対象に実施した読解力調査でわかったことをまとめてみます。

・中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない
・学力中位の高校でも、半数以上が内容理解を要する読解はできない
・進学率100%の進学校でも、内容理解を世する読解問題の正答率は50%である
・読解能力値と進学できる高校の偏差値との相関は極めて高い
・読解能力値は中学生の間は平均的には向上する
・読解能力値は高校では向上していない
・読解能力値と家庭の経済状況には負の相関がある
・通塾の有無と読解能力値は無関係
・読書の好き嫌い、科目の得意不得意、1日のスマートフォンの利用時間や学習時間などの自己申告結果と基礎的読解力には相関はない

p.227-228

あさよるが個人的に意外に感じたのは、

・読解能力値は高校では向上していない
・通塾の有無と読解能力値は無関係
・読書の好き嫌い、科目の得意不得意、1日のスマートフォンの利用時間や学習時間などの自己申告結果と基礎的読解力には相関はない

の3つの項目でした。

まず、中学生の頃は学年とともに読解力も微妙に上がってゆくのですが、高校生になると横ばい。つまり、その人の読解力はもう、中学生の時点で決まってしまっているということ。

また、塾通いと読解力は関係ないというのは、お金を出している親御さんにとってはしんどい結果じゃないでしょうか。

そして、当あさよるネット的には「読書の好き嫌いと読解力は関係ない」というのがショックですねw と言いつつ、読書習慣がある人にもいろんな人がいるのも知っているし、本を読んだからって頭が良くなるわけではないことは自分が一番よく痛感しているので、納得(苦笑)。

しかし、

・中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない
・学力中位の高校でも、半数以上が内容理解を要する読解はできない
・進学率100%の進学校でも、内容理解を世する読解問題の正答率は50%である

という結果は、想像もしてなかったので、かなりショックでした。これ、ヤバくね?

ちなみに「日本人の読解力が下がっている!」と言っても、世界的にはトップレベルです。ただその理由は、日本は移民を受け入れておらず、日本語を母国語としている人が圧倒的多数なため、語学力が高く出るのは当然のこと。今は下駄を履いている状態なことを忘れてはいけません。

読解力を上げることはできるの?

この「読解力」というものが、いったい何なのかは、東ロボくんプロジェクトではまだわかっていないそうです。ただ「精読する」ことにヒントがあるかもしれない、と著者の新井紀子さんご自身の体感として紹介されていました。

また、面白いなぁと感じたのは、冤罪で容疑者となり、のちに無罪になった人たちに取材すると、みなさんとても論理的に受け答えをし、「なんでこんな人が疑われたんだろう」と不思議に感じるそうです。彼らはきっと、元々は普通の人で、しかし裁判で自らの無実を訴えねばならない状況に追い込まれ、論理的に話す能力を身に着けたのではないかと考えられます。

高校生以降は論理的な読解力は横ばいであるという調査結果ですが、それ以降は読解力が伸びないとは限らないようです。大人になってからでも、読解力を伸ばした人はいます。

将来、本当にAIに仕事を奪われる人はいる……というか、すでにもうAIは実装され、人員削減は始まっています。「AIにできない仕事」ってなんだろうと考えつつ、論理的思考力、大事。

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池上彰『高校生からわかるイスラム世界』|今を知るには歴史が必要

池上彰先生のイスラムの授業

本書『高校生からわかるイスラム世界』は、テレビでおなじみの池上彰さんが、イスラム教やイスラムの歴史、イスラム世界にまつわる現在の国際問題までを解説するものです。「高校生からわかる」とあるように、10代の人向けで、社会科の教科書だけでは扱いきれていない話や「世界史」「現代社会」などと教科別ではなく、「イスラム世界」というテーマで話題が扱われます。教科を超えて、より広い視点で世界を眺めることができるでしょう。

日本にもイスラム教徒はいますが、あまり身近ではない存在の人も多いのではないでしょうか。あさよるも、キリスト教徒の人は知り合いにもいますが、イスラム教徒の人はいないんで、「知識としては知っているけど……」という存在だったりします。

しかし、世界的には、イスラム教徒の数はどんどん増えていて、近い将来、キリスト教徒の数を上回るそうです。また、アジアの国々でも、ヨーロッパでもイスラム教徒はたくさんいますから、日本が例外的な立地なのかもしれません。

で、池上彰さんといえば「わかりやすい解説」ですよね。もちろん本書『高校生からわかるイスラム世界』でも、やさしく話しかけるような文体で、とてもわかりやすい!

イスラム教は怖い?

本書の冒頭では、高校生の前で講義をする際、池上彰さんが生徒たちにイスラム教のイメージを訪ねた話題から始まります。生徒たちは「怖い」「暗い」「他の宗教より激しい」という答えだったそうです。高校生に限らず、大人たちも同じようなイメージを抱いている人は多いんじゃないでしょうか。

イスラム教について知識が乏しければ「自分の知らない存在」ですから、得体が知れなく「怖い」と感じてもおかしくないでしょう。その上に、ニュースではイスラム世界で起こっている紛争やテロの報道が続いています。そりゃあ「怖い」「暗い」「他の宗教より激しい」と思う人もいるでしょう。

しかし、イスラム教は世界三大宗教であり、ほとんどの圧倒的多数の人は「普通の人」なんだろうなぁと想像します。それは、日本人の中にも悪い奴も時々いますが、まぁ概ねほとんどの人は「普通の人」であるのと同じじゃないでしょうか(「普通の人」というのは「聖人君子なわけでもないけど、極悪人でもない」という感じで)。

まずは「得体の知れない存在」から「知っている存在」に変えることは、自力でできます。その入り口に本書『高校生からわかるイスラム世界』にいいんじゃないでしょうか。

10代へ世界の常識を

本書『高校生からわかるイスラム世界』で扱われる話題は、

  • イスラム教とは。コーランとは
  • ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係
  • イスラム教徒の戒律や習慣
  • イスラム「原理主義」とは
  • イスラム教を取り巻く国際問題(中東問題や、ユダヤ世界、エルサレム、湾岸戦争など)
  • イスラム世界のこれから

ざっとこんな感じ。

大人も、ややこしい話はわからないor忘れちゃってる部分があるでしょうから、「高校生からわかる」シリーズですが、本書は大人こそオススメだったりします。というか、「高校生からわかる」ってネーミングいいですね。昔は「サルでもわかる」とか、最近だと「中学生からの」みたいなタイトルの本が多いですが「高校生からわかる」というのは、サルでも中学生にもわからない、難しい話を扱っている感じがしますw

なんで歴史を学ぶのか?

夏休み中帰省していた親戚と「子どもの頃、なんで歴史なんか勉強しないといけないのかと思っていた」という話をしました。「大人になると義務教育で習ったことは知ってないといけないんだとわかった」という話です。

「歴史をなぜ学ぶのか」というのは、「お母さんはなぜ起こっているのか」という話と同じだろうと思います(笑)。お母さんは別に、今日、我が子が生まれて初めて部屋を散らかしっぱなしでゲームをしているから怒っているわけではないでしょう。たぶん、過去にも同じようなできごとが散見されていた結果として、今、怒っているんだろうと想像されます。

「今、なにかできごとが起こる」のは、過去になんらかの理由や原因が複数あって、それらが絡み合い、重なり合い、なにがなんだかわからなくなりながら、「今」がある。その瞬間瞬間はランダムに起こるできごとでしょうが、それらを振り返ると軌跡となっていて、それが「歴史」になっているんじゃないかと思っています。

現在の国際問題について知るには、モーゼやノアの時代の話題が飛び出すというのは、「歴史は必要なんだ」というのをよく表していますね。よく「歴史から学ぶ」という言い回しがありますが、あんまりそれは的確じゃなくって、「今を知るために、過去を知る」という感じじゃないかなぁと思います。

あと、世界の戦争や紛争のニュースは、キリスト教やユダヤ教の問題でもあるのに、イスラム教ばかり「怖い」と思われてしまうのは偏った話だなぁと思いました。

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池上彰さんの本

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『小中高・教科書の新常識』|バージョンアップし続けるのは大変だ!

こんにちは。最近物忘れがひどいあさよるです。若い頃は記憶力はいい方だと自負していましたが、最近サッパリなにも覚えられない。そのうえ、知っているはずのことが思い出せない。ヤバイ。常にアイドリングするように、いつも思い出していることはすぐに思い出せますが、一度離れてしまった分野のことって勘が戻るまで時間がかかりますね。

で、あさよるにとって「昔得意だったのに今サッパリなこと」の代表が数学と物理です。どちらも中高生の時は得意だったし、好きな教科だったのに、今、自分でも引くくらいなんにも覚えていない! まぁ、そんな浅はかな学習しかしてなかったんだろうな……って事実を突きつけられているんでしょうが、なんとも受け入れがたいです。

そんで、今日『小中高・教科書の新常識』を読むと、子ども時代のことを覚えていたって、教科書で習う常識自体が変化していることもあると知り、常に学び続けなきゃ仕方ないんだなぁなんて思いました。

本書は親書で、かなり軽く読める内容なのですが、歴史、理科、数学、国語と広く分野を扱っているので、面白いです。

昔の常識は非常識?新しい話題を入手するために

本書『小中高・教科書の新常識』は昭和の頃と比較して、今の教科書に採用されている歴史、数学と理科、国語の学習内容の変化を扱ったものです。本書は青春出版社の「青春新書プレイブックス」というシリーズなのですが、昭和世代のオッサンオバサンホイホイな内容です。「青春新書プレイブックス」の紹介文に

つねにいち早く時代のニーズを切り取り、既成のジャンルにとらわれない個性的な切り口

とあるので、トレンドを学び続けましょう、というのがコンセプトみたいですね。本書『小中高・教科書の新常識』もまさに、時代とともに新説や新発見が反映された〈今の教科書〉を貪欲に学ぼうというもの。「昔はこうだった」とか「今の子どもは~」という年寄りになっていくのか、今の子どもたちが学ぶ最新の学習を取り入れるのか、「自分の生き方」が反映されるような読書ですね(苦笑)。

いつの時代も若い人が正解なのだ

あさよるは個人的に、いつの時代も「今」という時代を正しく見ているのは若い人だと思っています。それは、若い人には前例を持っていないから「今しか見えていない」とも言えます。反対に歳を取るというのは「過去の記憶が増える」ことで、経験値が増えることで対処できることも増えますが、一方で過去の経験が邪魔をして先入観なしで「今を見る」のはとても難しいことです。

そして、誰もがかつて若者で、誰しもがいずれ歳を取ります。誰だって時代がちゃんと見えていたここともあるし、誰だって生きた分、経験値が増えてゆくのです。

何を言いたいかっていうと、若い人との会話って大事だよね、ってことです。で、人と人がコミュニケーションを取るときに必須なのが「言葉」です。本書『小中高・教科書の新常識』では、昭和世代が使っている常識や語彙と、今、小中高の学校で教えられている常識や語彙の違いを知ることで、世代を超えたコミュニケーションに役立つのではないでしょうか。

昭和世代も61学年あるからね

『小中高・教科書の新常識』では、昭和世代が学校で習った常識と、今学校で教えられている常識の違いが紹介されるもので、昭和ホイホイなのですが、「昭和世代」といっても61学年もありますからね~(数えた。昭和元年は12月しかないから、昭和2年4月~昭和63年3月生まれまでが昭和の学年)。「昭和世代」の中でもかなり常識には差があるでしょう。単純に戦前と戦後で全然違うしね(戦前世代が読者に想定されているかは知りませんが)。

あさよるも昭和世代ですが、昭和の終わりのグループなので、本書で「新常識」として紹介されている内容の多くは、学校で習った記憶があります。

ただ、あさよるたちと、今の現役小中高生との常識の違いは「教科書の分厚さ」でしょう。あさよるはゆとり世代で、どんどん教科書が薄くなっていた世代なので、今の教科書の分厚さにはビックリ。内容が増えただけでなく、昔に比べると教科書が大きく、カラー資料が充実するようになり、とても分厚い教科書になっているそうで、プリント資料もたくさん配られますから(コピー機で刷れるらかね)、カバンが非常に重く、保護者は子どもの登下校を心配するほどだそう。

これって知ってた?新常識!

さて、具体的に本書で取り上げられている「新常識」をいくつか紹介してみます。

まず「聖徳太子」の話題。聖徳太子は日本史の中のヒーローの一人ですが、時代とともに教科書から聖徳太子の存在感が薄くなっているそうです。「厩戸皇子」「厩戸王」と習い、「通称・聖徳太子」とされたりしているそう。その方が今の歴史的な解釈に近いそうですが、一方で聖徳太子信仰もありますから、「聖徳太子」という存在は大事なんじゃないのかなぁなんて思ったりもする。

関ヶ原合戦では、徳川家康vs石田三成ではなく、西軍の大将は毛利輝元、二番手が宇喜多秀家です。二人は秀吉の「五大老」です。歴史ファンなら常識かもしれませんね。

江戸時代に取られていた「鎖国」も「いわゆる鎖国」と表現されるそうです。江戸時代は鎖国していると言っても、中国とオランダ、そしてアイヌと琉球への窓口がありました。全く国交がなかったわけではなく、限定的な貿易はあったんですね。

算数の「さくらんぼ計算」というのは、甥がやっているのを見て「これはいい教え方だなぁ」と思った記憶があります。「さくらんぼ計算」とは、例えば「7+5」の場合、5を3と2に分解して、「7+3+2」とし10のまとまりを作って「10+2」として計算します。この計算方法、面倒くさいと感じる大人が多いそうなのですが、あさよるはソロバンを習っていた経験もあり、この「さくらんぼ計算」はとてもいいと思います。余談ですが、あさよるは数学が得意&好きだったんですが、数学はなるべく丁寧に式を書き出して、できるだけ頭で考えない方が、問題を解くのが簡単じゃないぁなぁと思っています(問題を解くだけならね)。

いつまでも最新でいるのは大変だ

本書『小中高・教科書の新常識』を読んで、いつまでも最前線の知識を持ち続けるって大変ですね。また、大人になるというのは、それぞれの専門分野へ進むことですから、別に学校で習ったすべての教科をアップデートし続ける必要もないのかもしれません。だけど、時々本書のような、教科書のっ変更点が簡単にまとめられている書籍に目を通すのは良いですね~。

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『才能の育て方』|体験・経験が才能を見つける・「良い子」とは

こんにちは。小学生に挨拶をされる あさよるです。登下校時、子どもたちが「おはようございます」「こんにちは」と声をかけてくれるので、慣れるまでビクッとしてましたがw、慣れると誰かが街中で挨拶してくれるのっていいですね。

あさよるは独身で子どももいないので、これまで子どもたちと関わる機会なんてなかったんですけど、先日、小学生の男の子に「す、すいません」と声をかけられて話を聞くと「友達が下校途中でお腹が痛くなったから助けてほしい」というSOSで慌てたw(「近くの郵便局か神社でトイレを借りよう」と提案したのですが、ひとまず「頑張って家まで帰る」という話になった)。大人だけで暮らしてると地域社会と接点がありませんが、子どもを通じて地域と関わっている実感を持てている気がします。

とまぁ、要するに子育てとは縁のないあさよるですが、なぜだか子育て本を読んでみました。今、子育てをしている人たちがどういうことを考えているのか知れたらいいなぁという思惑もありました。

子ども時代になにをするか

本書『才能の育て方』では子どもに大人たちがどんな「育て方」ができるのか紹介するものです。学校へ通うようになった時、学校でクラスメイトと潤滑にコミュニケーションを取り、学業にも意欲的に取りくめる「良い子」を育てます。

本書が対象としているのは、小学校に上がる前の児童と接する機会のある大人です。小学校に上がるまでに、学校生活を支障なく送れるよう準備すること。クラスメイトとコミュニケーションを取れること。学習効率を上げる素地をつくること。刺激溢れる日々を提供すること。運動ができる子にすること。前向きで意欲を失わない子どもをつくること。子育てで親は何をすべきか、など、意欲的でコミュニケーション能力の高い「良い子」と、そのために親がすべきことについて触れられます。

やっぱ「体験」の見つけ方

本書では「右脳を育てる」という文句が目立ちます。左脳を刺激せず右脳のみを育てることってできるのか? と少々ツッコみたくなりましたが(苦笑)、「右脳を育てる」とは、「想像力や直観を育てる」というニュアンスで使われている言葉みたいですね。「つまり抽象概念を扱えるようになること?」と思いましたが、抽象思考を扱うのは左脳の仕事らしいので、よくわかりません>< どうやら、右脳は〈身体感覚〉を伴うような思考を指してるのかな。

んで、本書では「右脳を育てましょう」ということですから、つまり「体験・経験を育てよう」ということです。

小中高ので扱う勉強の範囲って、理科や社会科なんかは特に、身近で起こっている出来事が中心です。子ども時代に多くの経験・体験をした人ほど、身近で見知った出来事の「理由」なんですよね。勉強って、「ただ暗記するだけ」「役立たないことをやらされてる」と思えば、こんなにくだらないことはありません。しかし一方で「これは自分に関係ある」「これは自分の将来に関係している」と、「自分ごと」に感じると、いっぺんにあらゆることが興味深く、面白く思えるから不思議です。

もし、大人が子どもにできることがあるなら、「あなたのすぐそばで起こっていることである」と実例を挙げるくらいかもしれません。

「自分の子ども時代」が当てはまらない

子育ての話になると、誰もが当事者なので、誰も彼もが言いたいことを言います。そう、すべての大人はかつて子どもでしたし、子育てを経験する人も少なくありません。

だけど、忘れちゃいけないのは、今は2018年で、今子育てしている人たちは〈2018年版の子育て〉をしてるってことです。他人の子育てに物申す系の人の話って聞いてると、平気で半世紀も前の自分の子ども時代の話を持ち出しますからねぇ。さすがに50年前と今じゃ世界はまるで別のものでしょう。学校の制度もがらりと変わってるしね。でもまぁ、気持ちはわからなくもないから、一方的に攻めてやるのも酷だなぁとも思わなくもないけど。

子どもは「思い出」の中に生きていない

赤木かん子さんの『子どもに本を買ってあげる前に読む本』で、ドキッとする記述がありました。子どもが読書嫌いになる理由の中に、大人が面白いと思って与えた本が子どもにとって面白くないことがある、というものです。例えば「ハリー・ポッター」シリーズはすでに今の子どもたちにはあんまりウケない、なんて話も……!?

あさよるネットでも以前「こまったさん」シリーズを紹介しました。この「こまったさん」シリーズは、あさよるが子ども時代に夢中になって読んだ大好きなシリーズなのですが、確かに今の子どもが読んでも面白くないんじゃないかと感じます(ちなみに、あさよるは今読んでも面白い)。

「きっと今、子どもが読んでも面白くないだろうなぁ」と感じるのは、物語で描かれている世界が「古い」から。それに尽きます。この「こまったさん」シリーズが出版されたのは80年代で、子どもからすればもう「歴史」の時代なんですよね。だから、「こまったさん」を読むためには注釈をいっぱいつけないともう意味が分かりません。

例えば、こまったさん夫妻は花屋さんを経営していて共働きなのですが、わかったさんだけ家事や料理をします。しかも夫のクマさんは、友達を急に家に呼んで、わかったさんに料理を用意するよう一方的に指示するのです。……ね、今読むととんでもない夫でしょw だけど、80年代って今みたいに電子レンジもないし、冷蔵・冷凍の技術も進んでなかったし、24時間やってるコンビニもファミレスもなく、スーパーも夕方になると閉まってしまいます。夫婦共働きなら、どちらか料理担当・買い出し担当を設けないと対応できないし、外食できないから自宅に人を呼ぶしかなかった。80年代ってそういう時代だったんですよね。「歴史」なんです。

で、子どもにそんな「注釈がないと読み解けないような時代の本を読め」というのは、そりゃ読書が面白くないわな、と。

大人にとって、それがどんなに思い出深い「子ども時代のとっておき」だからといって、今の子どもにとっては別の話。子どもは思い出に生きていないのです。ちゃんと「今を生きている子ども」に、「今の育て方」をしなきゃいけないなら、子育てって難しいなぁと思いました。

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『注文をまちがえる料理店』|認知症介護とテレビマンが出会ったら

『注文をまちがえる料理店』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。『注文をまちがえる料理店』というタイトルを見たときから本書がずっと気になっていました。どうやら、注文をまちがえてしまう……認知症の人の支援施設がレストランをやっているらしい……というあやふやな情報だけで本書を手に取りました。

まず、「注文をまちがえる料理店」を実際にオープンした感想を、スタッフやお客さんが寄せています。認知症の患者さんたちは、料理店のことは忘れてしまっているらしいけれども、「働いてお金を稼いだ」という経験を嬉しがって、一人でお買い物に繰り出す人の話にとても感動しました。また、ピアノの先生だった奥様が認知症を患い、介護をしているご主人と二人でコンサートを開催した話も胸がいっぱいになりました。間違えながらも、最後まで演奏しきった様子に、多くの方も感動されたそうです。

著者であり「注文をまちがえる料理店」の仕掛け人の小国士朗さんはテレビ局で務めておられる方で、協賛やスポンサーを募り、企画を実現してゆく人の大切さも知りました。

認知症だけど働けるレストラン

「注文をまちがえる料理店」は、2017年6月3日、4日の2日間限定で都内にオープンしたレストランです。認知症患者がスタッフとして働き、接客をして料理を出します。だから、メニューを間違えることもあるし、間違った料理が出されることもありますが、それも「ご愛嬌」というコンセプトで、試験的に実施なされました。

本書『注文をまちがえる料理店』は、注文をまちがえる料理店がプレオープンに至った経緯と、オープンに関わったスタッフやお客の感想からなっています。

著者の小国士朗さんはテレビ局のディレクターの方です。テレビ番組の取材で、認知症患者のグループホームを取材した際、昼食をごちそうになった時、献立はハンバーグだと聞いていたのに餃子が出てきたときの〈違和感〉から話が始まります。最初は予定と違うメニューに戸惑ったけれども、「別に餃子でもいいじゃん」と思い至った経験からスタートします。思えば、別に違ったメニューが出てきても誰も何も困らないんです。

小国さんご自身が病気をし、働き方に変化があったことをきっかけに、「注文をまちがえる料理店」の構想を実現に至りました。実際にお店として出店するためには、いくつか問題があります。まず、グループホームの患者さんたちが、無理せず働けること。そして、お金を取って料理を提供する以上、おいしい料理であること。また、間違ったメニューでも食べてもらえるように、アレルギー食品にも気を遣います。食品会社の協力で実現しました。

本書の中盤は、注文をまちがえる料理店に関わった人たちの感想が寄せられています。もう注文をまちがえる料理店で働いたことも忘れちゃっている人も多いみたいですが、「働いて稼いだお金」で、買い物に繰り出す様子が紹介されていたりして、胸がいっぱいになりました。

そういえば「別に間違ってもいいじゃん」

『注文をまちがえる料理店』挿絵イラスト

本書『注文をまちがえる料理店』を読んで大きな気づきは「別にメニュー間違ってもいいじゃん」ってことでしょう。むしろ、我々は普段、なんでこんなにピリピリと神経質になってるんだろう? と疑問にさえ思いました。別にそれは相手が認知症患者じゃなくても、誰でも間違うことはあるし「そういうこともあるよね」ってだけの話なのかもしれません。

しかし、あさよるが以前コンビニのバイトを始めたとき、一番最初に教えられたのは「お腹が空いているときみんなイライラしているから、食べ物を間違えないように」というものでした。普段は温和な人も、お腹が空いてコンビニにお弁当を買いに来たのに、そこで不手際があるとブチギレられる、というもの。うん、わかるw 難しいですね。冷静に考えると「そんなに怒ることじゃない」と思うのに、いざ自分がお腹が減って食事を摂ろうとしたとき、それが阻害されると、めっちゃ腹が立つと思います(苦笑)。

その点、「注文をまちがえる料理店」は最初からコンセプトが提示されているから、そんなトラブルは少ないでしょう。だけど、忘れちゃいけないのは、認知症患者の方も「間違えるのはツライ」ということです。間違えちゃうんだけど、間違うのは誰だってツライ。

大勢を「巻き込める人」が介護の現場に来たら……

介護の現場に、テレビ局が持っている繋がりが入ってきたとき、実現したのが「注文をまちがえる料理店」です。本書のキモは、たくさんの人や企業を「巻き込める力のある人」が現場にやってきたことで、「注文をまちがえる料理店」というアイデアが実際に形になったことです。外国のマスコミでも取り上げられ、大変話題にもなりました。

著者の小国士朗さんはご自身のミッションを「テレビ局の持っている価値をしゃぶりつくして、社会に還元する」としているそうです。テレビだからすごいのではなく、テレビ局はいろんな分野の企業や人と繋がりを持っていて、その繋がりこそ必要なんですね。

企画を立てて人を動かす人が必要

アイデアやヤル気があっても、大勢を巻き込めないと大きなアクションを起こせません。介護の現場には、介護のエキスパートが配置されているのはもちろんですが、企画を立て、協力者・協賛者を募り、人やお金、知識や技術を提供してもらえる人が必要です。それは介護に求められるスキルとは、また違ったスキルを持った人でしょう。

あさよるも昔、ちょこっとイベント企画の仕事をやってたのですが、当時は自分のやっていることがよくわかっていませんでした。今回、『注文をまちがえる料理店』を読んで、自分がすべきだったのは、このようなマッチングだったんだなあと、今頃知りました。

おもしろいアイデアが浮かんだら、それだけじゃ足りない。必要な人と人を結びつける役割の人の重要さを『注文をまちがえる料理店』で知りました。

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『人は「死後の世界」をどう考えてきたか』|死んだら地底か来世なのか

『人は「死後の世界」をどう考えてきたか』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。あさよるは「前世」とか「来世」とか思想を持っておらず、その言葉自体をあまり使わないのですが、それでも慣用句のように「前世はよっぽど~」とか「このままじゃ来世は~」なんて言い回しをすることがあります(稀に)。

みなさんにもそれぞれ、ご自身の「世界観」がおありでしょう。それは、幼いころから慣れ親しんだ世界観、死生観もあるでしょうし、生きてきた中でハイブリッドな考えに至った部分もあるでしょう。みんな同じ道をゆく身ですから、多かれ少なかれ共感しながら生きているように思います。

『人は「死後の世界」をどう考えてきたか』は古今東西の人々の死生観をざっくり大まとめに紹介するものです。概要的内容ですが、古代ギリシア、古代エジプトから、キリスト教、仏教、イスラム教の世界三大宗教、そして日本人の死生観まで幅広く取り扱います。

面白く生々しく、そしてやっぱりちょっと怖い「死後の世界」を覗いてみましょう。

ズラリ世界の「死後の世界」

本書『人は「仕事の世界」をどのように考えて来たか』では、世界中の「死後の世界」観を一挙に紹介するものです。扱われているのはザッと「古代ギリシア・ローマの冥界」「古代オリエントの死後と終末」「キリスト教の地獄・煉獄・天国」「インドの輪廻転生」「大乗仏教と東アジアの来世」そして「現代の死後の世界」です。

冒頭では、現代の我々の「死後の世界」観の変化について触れられています。それは、日本人も今や「天国へ行く」という表現を使う人が増えたとう点です。天国というキリスト教的な世界観が普及しているのが見て取れます。

宮沢賢治の「来世」

かつて……宮沢賢治は妹をなくし、ノイローゼになっています。賢治の父は浄土真宗の信者でありましたが、浄土真宗の個人主義的な極楽浄土の世界観よりも、慈善活動を行うキリスト教や日蓮宗の方がリアルに感じていたようです。しかし、妹の死によって、日蓮宗的な来世観が賢治を苦しめます。

賢治が信じていた公式通りの輪廻観によれば、死者はみなバラバラの運命をたどる。身内どうしがまた再開できるといったものではないのだ。(中略)日蓮宗ではみんなが極楽浄土で会えるという立場を取らないから、どうしてもこの、バラバラの死後世界に耐える必要が出てくるのだ。(p.270)

そして、妹が「地獄へ向かったかもしれない」ことを思い、恐怖します。賢治は輪廻転生を信じ、地獄に落ちることを心配していますが、

そうした輪廻神話よりも法華経のパワーの方が優位に立つことを確信し、輪廻をめぐるノイローゼから解放されている。
つまり、賢治にとって、宗教のロジックは呪縛にも解放にもなっているのである。輪廻信仰は呪縛となっている。しかし法華経の信仰は救済となっているのだ。源信が描くような地獄堕ちの恐怖は、阿弥陀の救済によっても法華経の救済によっても無化され得るということらしい。

p.280

宮沢賢治の死や物語にある、「死」のイメージは、ダイレクトに彼のテーマでもあったのですね。あさよるは、ユニークな地獄絵図のなんかを見てると「地獄は愉快そうだなぁ」なんて気楽に考えていましたが、宮沢賢治ともなると突き詰めて考えるものなのですね。

世界の神話はなんとなく似ている

本書では古代ギリシアから日本の死後の世界まで広く紹介されるのですが、神話の世界はどことなくみんなよく似ています。太陽神がおり、地下に黄泉の世界があり、死んだ神様や人は黄泉へ行きます。ギリシア神話では、これを「冥界」と呼びます。

仏教には極楽浄土と地獄がありますが、キリスト教にも天国と煉獄があります。これらの元ネタになったであろうゾロアスター教や、エジプト人、ペルシャ人のオリエントの死後と終末の世界があります。

エジプト人は死後の世界に備えてミイラをせっせとつくっていただけでなく、死んで復活した神が冥界で死者を審判するという神話をもっていた。ゾロアスターの徒は神々も自然も善と悪の二つのカテゴリーに分け、個人の死後の審判と世界週末のときの審判の二重の審判の思想を持っていた。どちらの宗教の神話も、どこかしら聖書の神話に似ているのである。(p.65)

エジプトの神様は、太陽神ラーと、冥王オシリスが有名ですね。死ぬと冥界に行って、オシリスの審判を受けなければならないそうです。エジプトの閻魔様なのです。古代エジプト人にとって大事なのは、オシリスの楽園で永遠の生を受けることでした。

エジプト宗教とゾロアスター教を眺めると

「神の死と復活」「死後の審判」「天国(楽園)と地獄(破壊)」「神と悪魔の対立」「終末・救世主・死者の復活・審判」という、後世の一神教世界の道具立てによく似たものが概ね出揃っていた。(p.82)

エジプト宗教とゾロアスター教がユダヤ教、キリスト教、イスラム教にどう影響を及ぼしたかは不明で、なんともいえないそうですが、世界の死後の世界観は「だいたい似ている」のは分かります。

インドでは、輪廻思想が体系としてまとめられました。

インドといえば輪廻、輪廻といえばインドというぐらい、インド思想と輪廻思想は深く結びついている。全世界に転生の思想はあるが、それを厳格な体系としたのはインド人だたからである。ヒンドゥー教(紀元前二千年紀から)、仏教(前五世紀ごろから)、ジャイナ教(同)、シク教(後十五世紀ごろから)と、インド発の宗教はいくつかあるが、いずれも輪廻思想を世界観の根幹に置いている。(p.169)

輪廻信仰は近代になってから西洋にも広がり始めているそうです。

そのヒンドゥーから派生したのが仏教だとされます。

開祖の釈迦は解脱を目指すにあたって、婆羅門的伝統に距離を置いて独自路線を追求し、快楽でもない、苦行でもない、「中道」を行くという大きな指針を打ち立てた。ヒンドゥー教のヨーガ行者などはむしろ好んで派手な苦行を行う。文教の修業は相対的に穏やかなものだといわれている。(p.188)

世界の代表的な宗教が、絡まりながら流れになっている様子が面白かったです。

『人は「死後の世界」をどう考えてきたか』挿絵イラスト

さて、死後の世界は?

普段の会話の中でも「前世は~」とか「死んだら~」なんて言葉が飛び出します。死や死後の世界は「馴染み深い」とも言えるし、だけど宮沢賢治のように突き詰めて考えている人ばかりではないだろうと想像されます。あさよるは「考えても仕方のないことは考えない」ので、死んだ後のことに興味がありません。

……なーんて言いながら、一人でふと「今回の人生はツイてないな」なんて思うこともあります。また、小学生の甥が「俺はママのお腹を選んで生まれてきた」と話していて、「ほう、今はそんな教育がされているのか」なんて思いました。個人的には、その考え方は「どうなんだろう」とギモン(BADな環境にある子にも「そこを選んで生まれてきた」と言わすのだろうか。んで、反抗期を迎えたとき「パパとママを選んで生まれた」は全員にとっても苦行じゃないのかと/苦笑)。

生きている限り「死」のイメージはつきまといます。初めて「ピンピンコロリ」という文言を読んだときギョッとしましたがw、今や新たに出版される健康指南本は「ピンピンコロリ」を目標にしているものばかりで、何も感じなくなりました。高齢社会、人生100年時代というのは、こうもあっけらかんと死を語る時代なんですね。

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『それをお金で買いますか』|私の〈心〉も見積もられてるの?

『それをお金で買いますか』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。以前、マンガ家の蛭子能収さんの『笑われる勇気』にて「人の心はお金じゃ買えないが、オレの心はお金で買えます!」と断言されており、逆にカッコイイとすっかり気に入ってしまいました。

しかしホントのトコロ、人の心はお金で買えるのか? あるいは「人の心をお金で買ってもいいのか」? 難問だと思いませんか? この問いは、「YES」と答える人と「NO」と答える人がパッカリ二つに分かれる問いだと思うのですが、いかがでしょう。

今回は、白熱授業でおなじみのサンデル先生の市場倫理のお話です。

「公平」「常識」「正しい」ってなんだろう?

本書『それをお金で買いますか』は、「白熱授業」でおなじみのマイケル・サンデル先生の「市場主義」について言及された書籍です。数多くの事例が次々と提示され、「これをお金で買うのはアリ?」と語りかけられます。

例えば「お金を払うと行列に並ばなくていい権利」が買えることが、日本でも大っぴらに周知されるようになりました。ユニバーサルスタジオジャパンでは、「ロイヤル・スタジオ・パス」というアトラクションの待ち時間が短縮されるチケットが販売されています。お金で行列に割り込むのはアリ? では別の例として、アメリカでは、お金を払うと医師の携帯電話の番号を教えてもらえるサービスが増えてるそうです。お金を払うと、医師と直通電話がつながり、通院の待ち時間も短縮できます。お金で順番に割り込むのはアリ?

育児放棄を減らすプロジェクトとして、薬物中毒者の女性が避妊手術や長期の避妊を行うと、現金を支払らう慈善団体があるそうです。薬物中毒者の子どもは生まれたときから薬物中毒で、その多くは虐待や育児放棄に遭います。だからあらかじめ、薬物中毒の女性を不妊にしておくことで、社会問題を解決しようとしています。このやり方はアリ? 中国の一人っ子政策では、都市部で二人目の子どもを産むと罰金になりました。それは「罰金を払えば二人目を産める」とも解釈できます。社会が、お金のあるなしで産める子どもの数を制限するのはあり? 別の例では、成績のよい子どもにお金をあげたり、資産家の子息はお金を払うと有名大学へ入学できるのはアリ? など、命の価値や、教育や環境のお金の話が取り上げられます。

ホントに「なんでも買える」のだろうか?

本書で度々「罰金」と「料金」の関係が登場します。ある託児所では子どもの迎えの時間に遅れて来る保護者がいることから、遅刻すると「罰金」を導入しました。それで遅刻は減ると考えたからでした。しかし実際には逆でした。罰金を導入後、遅刻をする親が増えたのです。それは、罰金導入前の保護者達は、迎えの時間が遅くなると保育士たちに対して「申し訳ない」と恐縮していたのですが、罰金導入後は「料金を払えば延滞できる」と考えるようになり、堂々と時間をオーバーするようになったのです。

「お金」を徴収することにより、「何か」が失われ、新たな「何か」が表れる良い例でしょう。

しかし、同じような例で、受け取り方の違う事例もあります。それはレンタルショップの延滞料金。かつて、映画のビデオテープをレンタルし、返却が遅れると客側が「申し訳ない」気持ちになっていたし、店側は「遅れやがって」という態度丸出しだったと本書では書かれています。日本の昔のレンタルビデオ屋も、なんとなく同じような雰囲気はあった気がします(みなさんはどうですか?)。しかし、考えるまでもなく我々は「客」であり、一日延滞するごとに料金もきっちり支払っているのですから、申し訳なく思う必要はありません。

託児所の例と、レンタルビデオ屋の例は、同じような話なのですが、なんとなく違う気がするのはなぜでしょう。

「タダ働き」させる方がヤル気が出るなら

『それをお金で買いますか』挿絵イラスト

本書の興味深い例は、ボランティアの話です。学生を3つのグループに分け、Aグループにはこの活動の素晴らしさだけを解きます。BとCには理念と、出来高制で報酬を支払いますが、BよりCの方が受け取れる割合を高く設定します。この3つのグループのうち、一番多くの成果を出したのは、Aでした。次いでCグループでしたが、Aの成果にははるか及びません。

わたしたちは、「お金を貰って働く」よりも「無償で働く」方が、よりヤル気が出てたくさん働いく場合があるようです。考えてみれば、「ボランティア」はなにか自分の良心を試されているような感覚も無きにしも非ずで、「手を抜くことは人間性に関わるような気持ち」があるような気がします。しかし「時給950円」と言われると、「950円分の仕事しかしなくていい」と感じます。そしてもっと多くの働きを求めらえると「じゃあ時給を増やせ」と思うだけで、期待に応えようとは思えません。

「タダほど高いものはない」と言いますが、実際に、報酬を与えるよりも、タダ働きさせる方が成果が上がるなら……。

この話は、自分が「働く側」なのか「働かせる側」なのかによって捉え方が180度変わります。

私たちは「やりがい搾取」を求めている?

本書の例では、核廃棄物の処分場になった町民に手当てを支給すると、それを拒否した住民が多数いました。それは、自分たちは社会のために意義のある働きをしているのに、お金を受け取ることで「賄賂で動いたことになってしまうから」と考える人が多かったようです。

ときにわたしたちは、お金を差し出されても、受け取るのを拒否することがあります。お金を受け取ることで、自分の矜持や信念が汚れてしまうと考える場合です。それは美しい話なのか、はたまた労働者のプライドすらも利用して、労働力を刈り取られているのか、どう考えればよいのでしょう。

立場によって志向が変わる

あさよる個人的には、本書を読んで「もらえるお金はもらっておこう」と思いました(苦笑)。それはつまり、自分の信念やプライド、美意識などとと、お金は別の話ではないかと思ったからです。詳しく言うと、市場では、消費者のそのような「プライド」さえも予め見積もられていて「足元を見られている」のだというのが、透けて見えた気がしたからです。

「みんなのため」に働くのは大切なことですが、それと「タダ働きをする」のは別の話です。消費を煽り、労働者を雇う側の人たちは、事前に彼らの「お金に換算できないこと」も織り込み済みなんだなあと知ったのでした。それなりの報酬を求めることは悪いことじゃないんだなあというのが、あさよるの本書『それをお金で買いますか』を読んだ感想でした。

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『AIとBIはいかに人間を変えるのか』|人類の新ステージ?

『AIとBIはいかに人間を変えるのか』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。連休中に西洋音楽史の本を読みまして、「音楽」って普遍的で大昔から変わらないものだとばかり感じていましたが、今私たちが馴染んでいる「音楽」は意外と新しいものなんだと知りました。西洋ではかつて音楽は神様の世界のもので、禁欲的。今の私たちにとっては「全然楽しくない」感じです。ポピュラー音楽に至っては、20世紀、第一次大戦が終わってからのもの。もっと言えば、我々が慣れ親しんでいるのは「録音音楽」です。レコードとプレイヤーで楽しむことを「音楽」と呼ぶのは、歴史の中ではかなり特殊な環境です。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

今当たり前すぎて疑うこともない価値も、意外と新しいもので、歴史が浅いものってあるんですね。「不変」だと「信じていた」というのは、もう信仰です。「ああ、私は近代を信仰しているのか」と気づき愕然としました(;’∀’)

今回紹介するのは『AIとBIはいかに人間を変えるのか』という、これから訪れる「人類の新しいステージ」を考える内容の本です。現在、先進国は軒並み伸び悩み、成長できずにもがいています。景気対策を打っても国内の格差は広がるばかりで、国の中が貧しくなっています。現状を打破するためには、今の社会の形を根本から変える必要があるのではないか? そこで注目されているのがBI(ベーシックインカム)です。

また、AI・人工知能の技術的な進歩により、人間の働き方の変化が期待されています。また、男女同権により女性の社会進出も進んでいます。後進国だった国々は経済発展しています。インターネット網は地球を包み込み、インフラのない土地にも等しく知識や教育が行き渡っています。世界は変わっています。さて「人類の次のステージ」はどのようなものなのでしょうか。

AI、BIとは

AI・人工知能もBI(ベーシックインカム)も、どちらも近年よく見聞きする言葉です。AIとBIについて触れつつ、このAIとBIが合わさって、もたらされる「未来」を考えます。

AI・人工知能とは

まずAI・人工知能とは。1930年代コンピュータの登場した当時からAIの登場が構想されていました。しかし二度ののAIブームは合ったものの、AIの冬の時代も長く、順風満帆とは言えませんでした。2012年にGoogleが「ネコを判断できるAI」を開発し、一躍有名となりました。その頃から「ディープラーニング」によるAIの進歩が注目され、現在は第三次AIブームといったところでしょうか。

近年、AIが飛躍的に進歩したのは、ビッグデータが扱えるようになったことと、インターネットの普及により膨大な数の写真や映像、データがインターネットにアップロードされるようになったことが影響しています。

今後、AIの進歩により、人間の仕事がAIに取って代わられると話題です。一方で、AIの進歩によって新たに生まれる仕事もあるでしょう。今の子どもたちの半分以上は将来、今は存在していない職業に就くと考えられており、感覚的にもなっとくできます。

コンピュータが人間の仕事の多くを引き受けるなら、人間はより「人間らしい」活動に集中することができます。

BI(ベーシックインカム)とは

BI(ベーシックインカム)は、経済成長が軒並み頭打ちしている先進国の、現状打破策として注目されています。先進国では、かつてのような経済成長が起こらず、経済対策を打っても国内の貧富の差が拡大してしまうジレンマに陥ってます。

BIは「健康で文化的な最低限の生活を営む」ために国民全員に現金で与えられる基礎的(Basic)給付(Income)で、政治学では“生存権所得”とも言われている。このBIは、様々な社会保障制度を一元化できる上に、給付漏れが起こらず、受給者にも理解しやすいシンプルな制度であることが評価されている。

p.104

BI(ベーシックインカム)は実験的に導入される例も登場し、貧しい人たちが前向きに人生設計を考え、豊かに生きようとし始めるなど良い結果があり、期待されています。

BI(ベーシックインカム)の良いところは「シンプル」。本書では、全ての国民に月8万円を現金で給付することが想定されています。すると、年金制度や健康保険、生活保護などの社会保障が一元化され、ムダなコストも削減できます。なにより、ややこしい手続きが不要になることで、役人の数を減らすことができます。

財源として、まず国の社会保障をシンプル化することで浮いたお金を財源に回します。また税率を引き上げ、国の収益を増やします。本書では消費税を18%に引き上げても、毎月8万円ベーシックインカムを受け取る額の方が多く、貧しい世帯にもダメージはないと計算されています。

BI(ベーシックインカム)の導入を阻んでいるのは官僚たちです。ベーシックインカムが導入されると、社会保障に関わる官僚たちの仕事がなくなってしまいますから、「ベーシックインカム的」な制度は遠ざけられています。

より「人間らしい」活動を

AIの到来により、コンピュータが人間の代わりに働く未来では、人間は「より人間らしい」仕事に集中することができます。

またBI(ベーシックインカム)導入後の未来では、「死なないために働く」という労働から解放され、人々は「豊かに生きるために働く」ようになります。今、嫌々やりたくない仕事をしている人も、ベーシックインカムが導入されれば今の仕事にこだわる必要はなくなり、豊かに生きるための人生設計を考え始めるでしょう。それはつまり「より人間らしい」人生を生きようとすることです。

AIとBIの未来は「より人間らしい」世界がやってくると想定されます。これは、かつて農業革命や産業革命によって人類が「進化」したように、AIとBIが人類を「新たなステージ」へと導くものではないか?と考えられます。

『AIとBIはいかに人間を変えるのか』挿絵イラスト

「豊かに生きる」ことができますか?

はてさて、AIとBIの未来は明るい!みたいな感じがしますが、問題は命が保証され、お金も保証されたとき、ハッと気が付くのです。「豊かに生きる」ことってどんなこと? もしAIが面倒な仕事を引き受け、BIで最低限の生活の保障がなされているとして、あなたはどう生きますか?

今、「楽しむ」という言葉が乱用されているように感じます。スポーツ選手も、「試合を楽しみます」ってインタビューで答えていますし、学校の勉強も「楽しんで学ぶことが良いこと」のように語られます。プライベートな時間はまるで「楽しくないと生きている意味がない」くらいの勢いで、ライブやレジャーや、食事やショッピングなどの予定を詰め込んでいる人がたくさんいます。

みんな身づくろいも小奇麗で、清潔感のある爽やかな人ばかりになりましたね。

もしかしてすでに私たちの社会は「死なないように生きる」時代は終わり、「楽しく生きなければならない」という価値が到来しているのではないでしょうか。しかもそれは強迫観念的に執着して。AIとBIによって人類が新しいステージへ進んだなら、私たちは今以上に「豊かに生きる」ことこそが「人間らしさ」であり、「お金の価値ではない豊かさを生きなければならない」時代が到来するとも考えられます。

BIは単に「働かなくていい」「怠け者が増える」政策ではなくて、もしかして「結構キツい」時代が来るのかもしれません。今はほら、連休に海外旅行へ行ったInstagramドーン! 彼氏にプレゼント貰ったドヤァ。ママにバーキン買ってもらったFacebook投稿いいね! なんかをしてるだけで満足できるけど、「新しい時代」はそれじゃ豊かじゃない。「お金の豊かさじゃない豊かさ」をアピールできないといけない。

新しい時代は。「センス」とか「才能」とか「オシャレ」とか「ステキ」とか「可愛い」「美形」とか、そういう価値が重要になるんじゃないのかな? 「ダサイ奴」は生きにくい時代になってしまうのだ。はてさて、「ステキ」に生きられるように、生涯邁進し続けなければならない人生、〈楽勝〉な人と〈ムリゲー〉な人に、パッカリ分かれるんじゃないかしら。

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