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『弱いつながり 検索ワードを探す旅』|弱くて軽薄な憐れみを

家族、同僚、ネットのともだち……

みんな「強いつながり」ばかり。

こんにちは、あさよるです^^

東浩紀さんの著書をかつて、数冊手に取ったことがあったのですが、そのときは「なんのこっちゃ」と分からずに、数ページで投げ出してしまいました(苦笑)。

今回、東浩紀さんの『弱いつながり』はSNSにて知人が紹介していたので、手に取ってみましたが……。「最後まで読めるのかしら」と不安な読書の始まりでした(^_^;)

あれ?インターネットってこんなだった?

誰もがスマホを持ち、いつでもどこでもインターネットにアクセスできるようになりました。いつでもどこでも世界中の情報にアクセスできるのですから、それはそれは便利にな……りましたか?

SNSを通じて、これまでとは全く違う生い立ちや背景の人と繋がれ……ましたか?

あれ?インターネットって、これまで見たこともないようなワクワクドキドキ好奇心が止まらないモノだと思ってたのに、いつの間に、「いつもと同じような」メンツと、いつもと同じようなブログやサイトを閲覧するようになったんだろう?

そういえば「ネットサーフィン」なんて言葉も聞かなく&使わなくなりました。

調べ事をしようとGoogle検索すると、Googleはアルゴリズムを使って、自分が好きそうなページを検索上位に表示します。

SNSでは、自分がお友達登録をしたアカウントの情報しか流れてきません。TwitterもFacebookもそうです。「自分」という人物のフィルターを通しているので、それ以外の人と繋がりが持てません。

インターネットはどんどん、自分と似た、自分と親しい、自分の好きな人や情報としか繋がれないものとなっています。

ネットの「強いつながり」からリアルへ

インターネットにより部屋に居ながらにして世界と繋がり、見聞が広がるだろうと予想されました。

が、実際には、インターネットは自分が見たいものしか見えない、知りたいことしか知れないツールです。

しかも、思考がより濃密に凝縮されてゆくツールです。SNSでフォローしているアカウントは、みな自分の思想や心情が近い人ばかり。目障りな人や意味不明な人は、ブロックやミュートしてしまいます。

すると、どんどん自分と同じ思想を持つ人ばかりと繋がるようになる。Google検索すれば、アルゴリズムにより自分の思考に沿った検索結果が現れる。ますます、思考や思想が濃く、狭くなってゆく。

東浩紀さんの『弱いつながり』では、思考が狭まってしまうのを防ぐため、物理的な位置を動かしてしまおうと勧めています。

すなわち、旅に出る!

しかも、バックパッカーなような旅ではなく、「観光客」になろう。

軽薄な観光客になろう

旅行代理店やパックツアーを使っても良いでしょう。軽薄な、表層しか見ない観光客になりましょう。

バックパッカーのような旅は、やはり敷居が高いというか、ある一定の条件を満たせる人じゃないと難しいでしょう。例えば、小さな子供いる家族旅行では無理だし、まとまった休暇が取れる人じゃないと難しい。

現在「観光」というと、ちょっとミーハーな雰囲気があるのでしょうか。「どうせ上っ面しか見ないんだったら、行かないほうがマシだ」と思う人もいるそうです。

しかし、「百聞は一見にしかず」という言葉があります。

『弱いつながり』では、東浩紀さんご自身の旅行の経験が数々紹介されています。東さんは、ツアーメニューとして、アウシュビッツへ赴かれたそうです。そこで、観光地化された施設への驚きとともに、生々しい「死」にも驚かれたそうです。

あくまで観光客として訪れた地ですが、その一回の経験でその後の考え方まで大きく影響を与える出来事でした。

「観光客」と言うと、なんだかミーハーな響きにも聞こえますが、たった一回、上辺だけなでる「観光客」だって、「百聞は一見にしかず」を実感できます。

「憐れみ」をキーワードに

インターネットの濃い繋がりでは、どんどん思想が偏ってしまいがちです。自分の考えや自分の好みなものばかり表示されるのですから、視野が狭くなってゆくばかり。

差別発言を平気でしまくる人や、「◯◯は死ねばいい」「△△は殺してしまえ」なと、過激で突飛な発言を繰り返す人がいます。

しかし、そのような発言をする人だって、目の前で人が倒れていれば、駆け寄って声をかけるでしょう。この時、国籍を問うて助けるか助けないか考えたりしないでしょう。

そこにあるのは、目の前の人物に対する「憐れみ」です。

頭の中にある考えと、実際に目の前で起こることには隔たりがあります。

どこの誰かへ向ける「憐れみ」を本書では「弱いつながり」と呼びます。家族や親類、あるいはインターネットがもたらした「強いつながり」から離れ、人としての「憐れみ」を持ち、「弱いつながり」のある世界へ旅しましょう。

グローバリゼーション

旅先では、グローバリゼーションにも出会います。

アジアの都市は近代化が進み、西洋的な建築もたくさん立ち並びます。日本の都市もみなそうですね。

しかし、同じアジア圏の西洋化といっても、その国その国によって「違い」があります。その「違い」こそが、他のものに取って代われない、その国独自の文化なのかもしれません。

また、「東京」を模倣した商業施設もあります。西洋化された東京の街を、さらに模倣するという、段階を踏むことで、新たな文化が生まれようとしています。面白いですね。

旅行嫌いのあさよるには……

実のところ あさよるは、旅行はあまり好きではありません。用意や、荷造りや荷解きが面倒です(苦笑)。

たまには、日帰りのパックツアーなら行ってもいいかなぁと思いますが、一泊となると嫌だなぁw

なるべく家から出ずに生きたい あさよるとしては、『弱いつながり』は耳の痛い話でした。

なぜなら、『弱いつながり』の主張は真っ当なものだと感じたからです。ダラダラと本を読んだりYouTubeを見ていても、楽しく毎日やっていけます。

ただし、絶対的な経験値不足に陥ってしまわないかと、実は内心恐れていたところを、図星されちゃいました。

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『君の膵臓をたべたい』|私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ

読書の秋に小説でも。

青春モノと思いきや、大人になるほど胸がいっぱいに……

あと、映画化されるらしい

オススメをオススメをされた!

『君の膵臓をたべたい』は他人からオススメされて手に取りました。しかも、オススメされたをオススメされるという、又オススメでしたw

「まぁ最近、小説もチェックしてないし、人気なら読んでみようかなぁ」と、図書館の蔵書を検索すると、確か予約が30人以上入っていて、本書の人気を確認しましたw で、図書館の予約をポチってたら、忘れた頃にやっと順番が回ってきたので、意気揚々と読み始めたのでありました。

あと、作者の名前が、あさよると名前が似ていたので、気になりましたw

あさよる的にはオススメです。サラッと一気読みできて、文章も平易で堅苦しくもなく、普段小説を読まない人にもオススメしやすい感じ。読書の秋ですしね。

余命1年の彼女に、出会ってしまった

Amazonの紹介文を引用します。

 偶然、僕が病院で拾った1冊の文庫本。タイトルは「共病文庫」。
それはクラスメイトである山内桜良が綴っていた、秘密の日記帳だった。
そこには、彼女の余命が膵臓の病気により、もういくばくもないと書かれていて――。

病を患う彼女にさえ、平等につきつけられる残酷な現実。
【名前のない僕】と【日常のない彼女】が紡ぐ、終わりから始まる物語。
全ての予想を裏切る結末まで、一気読み必至!

君の膵臓をたべたい | 住野 よる | 本 | Amazon.co.jp

主人公は高校生の男の子。

たまたま病院でクラスメイトの女子・山内桜良と出会い、彼女が膵臓の病気により余命1年だと告白されます。

しかし、彼女はあと1年の命だとは思えないくらい元気で天真爛漫。これまで人と関わらず自己完結した世界で過ごしていた主人公は、彼女に振り回されるハメに。しかし、流れに流されることをヨシとする彼は、いつの間にか彼女と同じ時間を過ごす内、これまでにない「思い」が湧いてくるのですが……。

不治の病を患う女の子に出会ってしまった彼の物語。「ガール・ミーツ・ボーイ」モノの小説です。

高校生のお話。だけど大人の方が共感しちゃう

あまり筋や感想に言及し過ぎると、ネタバレになってしまいます。というか、Amazonのレビューも、ザッと見るかぎりとある“仕掛け”や話の伏線のネタバレしまくってるので、見てはいけない!w

悪いことは言わない。今後、『君の膵臓をたべたい』を読もうと少しでも思っている方は、絶対にネタバレを避けるように!

と、あさよるは結構、ネタバレ平気でガンガン自ら読みに行くタイプなのですが、今回この『君の膵臓をたべたい』は一切前知識ナシで読んで良かったなぁと思います。

年齢を重ねるほど……身近に感じる物語

主人公は高校生男子。余命1年のクラスメイトの女子と出会い、彼女と一夏を過ごす……という物語です。が、これは歳を取るほどグッと来る物語じゃないかと思います。

正直、主人公と同年代の高校生がこの本を読んで胸がいっぱいになるだろうか?少なくとも、高校生の頃の自分を振り返ると、絶対に“不治の病の少女”の設定に「ケッ」となり、彼らの会話文に「ケッ」となっていただろうと思います(どんな高校生だったんだ)。

なんで歳を取るほど胸に迫るかというと、不治の病とか、余命とか、闘病とか、どうしようもない、治らない病気や怪我が「身近なもの」に感じるからです。自分自身や、近しい身内が、治らない病気や怪我を負っていることって……他人事じゃないんですよね。

「余命」を二人でケラケラと冗談で笑い飛ばしちゃう感じとか、だけど必ず来る“その時”にどうしようもなく焦ってしまう感じとか、読んでて何度も胸がいっぱいになってしまったり、思い出すことがあったりと、気持ちが落ち着きません。

途中、ガッカリしたけど、その後持ち直した

後半、思ってもみないアクシデントに見舞われます。

「えっ」と驚くと同時に「え~、それ~??」みたいな、落胆をしてしまいました。え~、なんで、よりによって~みたいな。うん、「成り行き」を見守りたかったのに、ホント思ってもみない出来事。

もちろん、それが作者の狙いで、そのアクシデントこそが、この物語の「メッセージ」なのでしょう。そう、生きるってそういうことだよね……と、ネタバレになるので詳しくは書かない( ー`дー´)キリッ

と、後半ダレちゃったんだけれども、その後の、主人公と彼女の気持ちが通じ合う描写が、よかった。

最後にちょっとネタバレするぞ!

誰も、死者に囚われている

これで最後です。ですので、ちょびっとネタバレします。

彼は、彼らは、死んでしまった彼女に心が囚われたまま、物語は終わります。

誰とも関わらず生きてきた主人公は、少しずつ、時間をかけて他者と関わり、心を交わし、関係を築き始めます。主人公はもうどこにも居ない彼女に突き動かされ、自らが変わってゆくんです。

少なからず我々は、必ず誰かに囚われています。時に、この世にもう居ない人物から離れられず、どこにも居ない人に影響を受けて生きてゆきます。それが人と関わるってことだし、生きるということでしょう。

高校生のひと夏の経験

甘酸っぱい恋模様を描くのかと思いきや、サラッと「生きる」ということを描きとっていて、かといって説教臭いわけでもなく、適度にキュンキュンしつつ、叶わぬ恋に胸が痛みつつ。

で、自分の青春時代を振り返ると、そういうゴチャゴチャと、生きることや焦燥感や恋のようなものについて考えたり文学に親しんだり(主人公は文学青年)、全部盛りの時代だったなぁと思います。

生きること、人と共に生きること、恋をすること、やりたいことをすること、記録を残すこと、いつか命が終わること。そういう、当たり前だけれども、当たり前すぎで見えなくなりがちな、あるいは見たくないからスルーしちゃう事柄を、高校生の彼らの視点、彼らの言葉で見せつけられる物語でした。

サラッと一気に読めますし、言葉使いも平易で読みやすい。読書の秋にオススメです。

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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』|都会で大冒険!カネなし生活

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。先日読んでブログでも紹介した『0円で生きる』が面白くて、ゴールデンウィークに「家財道具を売ってみよう」とメルカリに出品してみました。『0円で生きる』で紹介されていた「ジモティー」も利用したいのですが、荷物の運搬手段がないので、これから考えよう。

これまで物の譲渡って、役所とか公民館の「あげます・ください」の掲示板を見たり、フリーマーケットに出品するとか面倒くさかったけど、ネットサービスが充実することで、誰もが気軽に安価or無料でやりとりができてとても便利です。「テクノロジーは社会を変えるんだなあ」なんて、大げさなことを考えてみたり。

今回手に取った『ぼくはお金を使わずに生きることにした』も、イギリス人の男性がロンドン郊外で1年間、一切のお金を使わず生活をするチャレンジをした記録です。彼がチャレンジを決行したのは2008年の年末のこと。2008年はリーマンショックがあった年です。さらに3.11以降のわたしたちにとって、彼のチャレンジは当時と違った意味を感じるかもしれません。

現代の冒険譚・お金を使わない

著者のマーク・ボイルさんは現代の冒険家です。かつて「冒険」とは、大海原へ漕ぎ出だしたり、未踏峰を踏破したり、誰も行ったことのない場所へ踏み込むことでした。現在では都市部の郊外で「1年間一切お金を使わない」というチャレンジが、誰もやったことのない大冒険なのです。現にマーク・ボイルさんは、1年間お金を使わない構想を発表してから、世界中のメディアから数多くの取材を受けます。

テクノロジーを否定しなくていい

マーク・ボイルさんのチャレンジの特徴は、まずロンドンの郊外で行われること。お金の一切は使わないけど、友人たちを頼るし、社会のインフラも使います。また、基本的にはテクノロジーの否定はしていません。

1年間お金を使わない計画に際し、マーク・ボイルさんはルールを自分で設けています。まず、石油燃料は〈自分のために〉使わないこと。電気は自分で発電しますが、誰かから「どうぞ」と差し出される分には使用してもいいこと。つまり、わざわざ〈自分のために〉石油・ガソリンや電気は使いませんが、他の人が使っているものを分けてもらうのはOKということ。例を挙げると、「自分のために車を出してもらう」はNGですが、ヒッチハイクで「元々あっち方面へ向かう車の助手席」を分けてもらうのはOK。

この辺が「世捨て人」的な感じではないところ。なにより交友関係はとことん使います。「ロンドンの郊外」ですから、落ちているモノ、捨てられているモノを手に入れやすい環境にもあります。

マーク・ボイルさんはお金と石油燃料を自分のために使うことを避けていますが、それ以外のテクノロジーやコミュニティーは特段否定していません。

菜食主義で健康に

お金を使わない生活をすると、納税しないことになります。だからマーク・ボイルさんは1年間、病気をしないように健康に気をつけるのですが、ビーガンになることで、かつての不調がウソのように改善した様子を綴っておられます。菜食主義の人がよく「肉や乳製品をやめると体調が良くなった」と仰ってるのを目にしますが、実際のところどうなんでしょう。

また、肉食をやめたことで、体臭に変化があったそうです。お風呂も洗濯機もありませんから、衛生状態と〈清潔感〉をどうキープするのか周囲の人も気にしているようです。「ボディソープを使わなくても体はきれいになる」と説明しても、信じてくれない様子。

これについては以前、あさよるネットでも『「お湯だけ洗い」であなたの肌がよみがえる!』で紹介しました。有機物は水溶性で水に溶けて流れます。だから「水浴びだけでも清潔」は、そうなんでしょう。

Wifi完備でネット環境

マーク・ボイルさんはネットで住処の提供を求めたところ、なんとキャンピングカーの提供を申し出る人が表れました。また、そのキャンピングカーを停める場所も、ボランティアを引き受けることで場所を貸してもらえました。そこはWifiもつながっていて、マーク・ボイルさんは自家発電をしてネットに接続し情報発信を行います。プリペイドカード式の携帯電話を所持しているので、電話を受けることもできます。世界中のメディアからの取材も、電話を貸してもらって受けています。

「現在の冒険譚」と紹介したのは、現代のネットワーク環境を活用しているからです。『アルプスの少女ハイジ』の〈オンジ〉のように、コミュニティーに属せず、人々から隔絶された地で生きるのとは正反対です。積極的にコミュニティーを持ち、情報を発信し、人とつながりながら「お金を使わない」から、冒険なのです。

お金はすごく便利だ!

本書『ぼくはお金を使わずに生きることにした』は、著者のマーク・ボイルさんの体当たりレポにより「お金」の価値について問い直されます。本書を読んでつくづく思うのは「お金はとても便利なものだ!」ということです。マーク・ボイルさんご自身も、「お金が少ないのと、お金を全く使わないのは、全然違う」と書いておられます。

本書が面白いのは、別に貨幣経済を否定してるワケでもないところ。ただし「お金の価値しかない社会」はどうなの? という問いかけになっていますし、また「お金を使わない生き方を選ぶ自由がある」という至極当たり前のことを体現した記録でもあります。

マーク・ボイルさんの結論として、「お金のない世界で暮らしたい」と理想をあげながらも、現実的には「地域通貨」への切り替えが落としどころとして提示しておられます。小さな町や村のコミュニティーの中で、スキルや物を提供したりもらったりして、交換する価値としての「地域通貨」です。

お金で買っているのは「時間」

カネなし生活で、足りなくなるのは「時間」だと言います。朝起きて、水を確保しないといけませんし、ネットにつなぐための電気を発電し、どこへ行くにも何十キロと自転車を飛ばさねばなりません。ボールペン一本、安いお金を出せばに入る物ですら、ボールペンが落ちていないか探さねばならないのです。

お金を使うことで、一瞬でほしいモノが手に入るのですから、最強の「時短」アイテムなんですね。

カネなし生活には「お金以外の力」が必要

お金は便利だと紹介したのは、カネさえあれば、他に何もなくても欲しいものが手に入るからです。お金がない生活とは、人とのつながりが重要で、自分を助けてくれる人、自分を気にかけてくれる人の存在が重要です。幸いにもマーク・ボイルさんは、彼のチャレンジに協力してくれる友人や恋人がいて、また世界中のマスコミが取り上げ多くの人が彼に注目していました(もちろん賛否アリ)。またマーク・ボイルさんは健康で若い男性であり、彼の思想や信仰も、お金を使わない計画を後押ししたでしょう。いくつもの要素が絡まり合って、成立したチャレンジだと考えることもできます。

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『ALL YOU NEED IS KILL』

2014年、トム・クルーズ主演で米国で公開された同タイトル作品の原作小説。『デスノート』『ヒカルの碁』の小畑健さんによるコミック版もある。わたしは映画→マンガ→小説の順で読んだ。映画版は原作のコンセプトを踏襲しながら、小説とは違う物語になっている。どちらも楽しいので、どっちもおすすめだ。

お話はいわゆるループもの。個人的には北村薫の『ターン』を連想した。主人公は記憶を保持したまま同じ時間を何度もループして繰り返す。世代によっては『時をかける少女』だったりするだろう。

物語は宇宙から飛来した「ギタイ」と呼ばれる怪物が人々を襲い、人類は壊滅的な打撃を受けている世界だ。ギタイと闘うため、数々の兵器が開発され、機動スーツを着た兵士たちが攻防に明け暮れている。主人公はキリヤ・ケイジ。ハイスクールで失恋した勢いで入隊した。

初めて投入された戦線で、あるギタイと相打ちをしたことがきっかけで、ループの能力を手に入れる。同じ二日間を何度も何度も繰り返しながら、ギタイを倒すための能力を身につけて行く。

あんまり書くとネタバレになっちゃうから、あとはテキトーに話を濁しつつ。

わたし自身ラノベをあまり読まないので、楽しく読めた。読まず嫌いはいかんねぇ。独白に次ぐ独白で、テンポよく物語が進んで行くのも楽しい。

わたしは映画を先に見たけど、映画はキャラクター設定から別のものになっている。映画は映画で面白かった。そのあたりの感想も、またサブブログで書きたい(サブブログ「あさよるラボ」は映画の感想を書く場になっている……)。

マンガ版も全2巻でコンパクトにまとまっていて読みやすく充実していた。ただ、小畑健先生は女の子キャラをもっと可愛く描くはず!とちょっと欲求不満にw その辺は、すでに原作、キャラクターデザインが先にあって、制約のある中だから難しいやね。もっとふわふわの女の子が見たかったっす(^。^)/

桜坂洋 2004年 集英社スーパーダッシュ文庫

目次情報

第1章 キリヤ初年兵

第2章 フェレウ軍曹

第3章 戦場の牝犬

第4章 キラー・ケージ

『魔女の宅急便』を読んだよ

『魔女の宅急便』書影

魔法使いには魔法使いの“ならわし”があります。
子供の頃に読んだ物語には、私とは違う“ならわし”を持った人たちの、こだわりや習慣にいつも、心奪われていました。
自分とは違う、違う世界の物語であることが、それにより表わされているからです。

魔法使いのキキは、真っ黒の服を着て、真っ黒のネコを連れています。それが魔女のしるし、魔女とはそういうものだからです。
しかし、13歳のキキは、そんな古臭いしきたりや慣習が煩わしく、お母さんから魔法薬の作り方も学ばないまま、魔女の修行にでかけます。

黒い服や黒いネコ、しきたりや習わし、伝統は、人と魔女を分けるものです。魔女の“ならわし”こそが、魔女のしるしで、人と魔女を分け、魔女を魔女らしくしているのでしょう。
キキたち魔女は数も減り、もうたくさんの魔法を忘れてしまっており、キキのお母さんも空を飛ぶことと、くしゃみ止めの魔法しか知りません。

境界は時に、タブーや禁忌を作ります。
私たちの世界でもよく知られたタブーは、食べものそれでしょう。豚肉食の禁止はイスラムとユダヤを分け、キリスト教世界とイスラム世界を分けています。ヒンズーの牛肉食のタブーは、イスラムの豚食の禁忌に影響を受けていると言われています。タブー・境界は、コミュニティを強化します。

しかし一方、外部から誤解や、「知らないこと」「分からないこと」による恐れや偏見も招いてしまいます。
魔女も、魔女のいない地域では怖がられているようです。キキが修行先に住み着いたコリコの町も、長らく魔女がおらず、魔女には怖いイメージがあったようです。キキが町に馴染んでゆくずつ、その誤解は晴れてゆきます。

キキは、町に馴染めるようになると、自分が魔女なのに空を飛ぶとこしかできないと気づきます。なぜ母からそれ以外の魔法を習わなかったのか、不要だと思っていたのかと思います。せっかく、コリコの町の一員になろうとしているのに、キキは自分が魔女であること、コリコの人たちとは“違う”ことを意識し始めるんですね。そうして、キキは人々と境界を濃くし、魔女らしくなってゆきます。
町に馴染むほど、人とは違う、異質な存在に自らなってゆきます。

魔女が魔法忘れ、人と馴染んでゆく中、しきたりや習わしがますます重要になってゆきます。魔女と人を分けるものですから。

13歳で独り立ちし、魔女の居ない町へ移り住むしきたりも、魔女の存在を知らしめますが、魔女がどんどん人に馴染んでゆく原因でしょう。しかしキキの例を見ると、「魔女である」意識をつなぐには、有効な手段なのかもしれませんね。

全6巻まであるシリーズなので、今後のキキの成長が楽しみです。

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