エッセイ

立川談春『赤めだか』|落語を知らない人にもめちゃ面白い

こんにちは。落語が好きな あさよるです。

今回、『赤めだか』を読んだんだけど、きっかけは、米津玄師さんの『死神』のMVだったのかもしれない。

これきかっけで、YouTubeで「死神」の動画なんかをいくつか見まして、その流れで、「落語と言えば、やっぱ立川談春さんの『赤めだか』は名作だよなあ」とか思い始めて、手に取った次第です。

本当は、本じゃなくて談春さんの高座が見たいんだけどね~ (´・ω・)(・ω・`)ネー

落語を知らない人/興味のない人にもおすすめしたい!

著者は落語家さんですが、落語の知識のあるなしは関係なし。

落語を知らない方/興味のない方にとっても、『赤めだか』は良い本だと確信しています(`・ω・´)b

なんで良い本なのかを説明します。ポイントは2つ!

立川談志という天才を間近で目撃してしまった遭遇記

『赤めだか』は落語家の立川談春さんが、立川談志さんに入門して、真打になるまでのお話です。

特に、前半の前座時代のお話は、師匠・談志とのエピソードが満載。師匠の言動は弟子たちからすれば奇想天外で、振り回されっぱなし。夢を持って入門してきたのに、夢をあきらめてゆく兄弟弟子もいる。

そう、師匠・談志は天才なのだ。

そしてこの『赤めだか』は天才に惚れ、天才を間近で目撃した目撃譚なのだ。

我々凡人は、普通に生きていても天才なんてすれ違うこともないだろう。そういう意味で、かなり稀有な経験をした人の話として貴重なのだ。

圧倒的な存在を前に、無力な談春少年の話は興味深く、そしてめっちゃ面白い。

「師匠」と「弟子」という関係性

2つめ。

友達とも、家族とも、恋人とも違う、「師匠」と「弟子」という関係性。多くの人にとっては縁遠いものです。

仕事上で先輩後輩や、上司や部下という間柄はあるけれども、「師匠」と思うべき存在に出会える人って稀なんじゃないでしょうか。

談志師匠は……なんで表現したらいいんでしょうか。他人事として読んでいる分には、奇抜でおかしくて、時々愛らしくて……というように読めるんですが、実際のところはそんな言葉じゃいい表れない関係なのだろうとも推測できます。

師匠と弟子の関係性については、内田樹さんの『先生はえらい』なんかもおもしろく興味深かったです。あわせてどうぞ。

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『だるまちゃんとてんぐちゃん』|絵の中の〈伏線〉を読もう!

こんにちは。子どもの頃、結構大きくなるまで絵本を読んでいたあさよるですw 母が熱心に絵本を買い揃えていて、未だに「定番」な絵本は読んで育ちました。大人になってからは、たまに軽く新刊をチェックする感じ。

昨日の記事で、かこさとしさんと福岡伸一さんの『ちっちゃな科学』を紹介しました。この『ちっちゃな科学』をきかっけに、かこさんの作品を読み返したいと思いました。

『ちっちゃな科学 – 好奇心がおおきくなる読書&教育論』|好奇心はどこから来るの?

かこさとしさんは絵本作家で、あさよるもかこさんの絵本を読んで育ちました。図書館の絵本コーナーにもぐりこんだ あさよるは『あさですよ よるですよ』というかこ作品に遭遇。

これは!あさよるのための本じゃないか!ww

嬉しくなっちゃった勢いで、かこさとしさんの〈代表作〉の一つである『だるまちゃんとてんぐちゃん』を熟読いたしました。

絵本って、読むのに少し〈コツ〉があるんじゃないかと思います。そのコツのようなものも、紹介できるといいなぁと考えています。

『だるまちゃんとてんぐちゃん』こんな話

お友達の〈ちいさい だるまちゃん〉と〈ちいさい てんぐちゃん〉、二人が一緒に遊んでいます。

だるまちゃんは、てんぐちゃんに興味津々。てんぐちゃんの持っている〈うちわ〉や履いている〈くつ〉、かぶっている〈ぼうし〉、そして、てんぐちゃんの長ーいお鼻が気になって、自分も欲しい!

だるまちゃんはお家へ買って、大きな〈だるまどん〉に「てんぐちゃんのようなうちわが欲しい」「ぼうしが欲しい」とお願いします。

だるまどんは、家中の履物やぼうし、せんす等を出してきてくれますが、ぴったり良いのがない!

そこで、だるまちゃんは思いつきます。窓の外に生えているヤツデの葉をせんすに見立てたり、まな板をげたに見立てます。てんぐちゃんと同じではないけど、工夫をしてオリジナルのいでたちになった だるまちゃん。てんぐちゃんもほめてくれます。

最後は、だるまちゃんはスズメを、てんぐちゃんはトンボを捕まえて、良かったね!

ズラリと並ぶ、せんす、ぼうし、げた、はな

『だるまちゃんとてんぐちゃん』の見どころは、だるまどんが家中から集めてくれたぼうし、せんす、くつ、お花がズラリと並んだ絵!

そう、「絵本」って、絵の本ですから、絵に描かれているものを楽しみましょう。

てんぐちゃんの被っている帽子を見て、だるまどんに「自分も帽子が欲しい」とねだります。だるまどんは、いろんな帽子をズラリ用意してくれます。シルクハットもあれば、サンタクロースのぼうしもありますし、ナポレオンが被ってそうな帽子や、唐傘が学生帽、中世の甲冑が被っている帽子、ベレー帽に烏帽子。みーんな「ぼうし」。

「ぼうし」って言っても、いろんな種類があるんだね!子どもと一緒に読むなら、一つずつ指さして、「これは何の帽子だろう」と話しながら読み進めると絶対楽しい!

もう一つ、お話の中の大きな〈しかけ〉は、だるまちゃんが「赤くて長い鼻が欲しい」と言ったのに、だるまどんは「赤くて長い〈花〉」を用意しちゃうところ。〈はな〉と同じ言葉だから、全然違うものを連想しちゃったんですね。

そう、この『だるまちゃんとてんぐちゃん』は、だるまちゃんとだるまどんのイメージの食い違いが面白いんです。

〈花〉と〈鼻〉の同じ音でも別のものとか、〈靴〉〈帽子〉と言っても色んな種類があることが、ズラッと一覧するのがおもしろい!

よーく一つずつ見て!

絵本は〈絵〉を見るべし!というのが、あさよるの絵本の読み方なのですが、よーくよーーく観察してみてください。

〈伏線〉が絵によってたくさん張られていることがわかります。

ヤツデ、おわん、まないたはどこにある?

てんぐちゃんの扇が欲しいだるまちゃん。しかし、お家にはちょうどいいのがありません。そこで だるまちゃんは植物のヤツデを扇に見たてます。

……ここで、一切文章による説明がありません。字しか読んでいないと唐突な展開。しかし……実は前のページに、ヤツデが描かれているんです。見逃していませんか?

てんぐちゃんの高下駄が欲しい だるまちゃん。いろんな靴を用意してもらうけど、いい靴がありません。そこで、だるまちゃんはまな板を下駄に見立てました。

……そう、たくさん靴が並んでいる中に、ちゃんとまな板が描かれています。

文言では説明されていませんが、絵によって説明されています。よーく絵を見て!

すずめととんぼはどうなるの?

最後、スズメとトンボを捕まえたお二人。ここでお話は「めでたしめでたし」……ではないんです!

さらに次のページ、本の奥付のページをまでちゃんと見て!

電車ごっこしている二人の頭の上を、スズメとトンボが飛んでいます。逃がしてあげたんですね。

さらにらさに、本をパタンと閉じると、裏表紙にはスズメとトンボが空を舞っています。

本は最後のページまで……ではなくって、本の奥付や裏表紙までよーく見て!本によっては、カバーを外してみたり、本の装丁の隅まで見てみると発見があるかも!

絵本って、隅が面白い!

だるまちゃん&だるまどんにキュン!

絵本の読み方のコツは、「絵を読む」ことです。しかも、よ~く、隅々までじっくり見て!

子どもは同じ本を何度も何度も飽きずに読む子がいます(あさよるもそうです)。ですから、子ども向けの本は、数百、数千回読まれても飽きないような〈仕掛け〉がなされています。恐るべき回数を読みまくっても飽きない本が「良い絵本」じゃないかなぁと、あさよるは思います。

そして、『だるまちゃんとてんぐちゃん』も、何度読んでも面白い。しかも、子どもだけじゃなく、大人が読んでも面白い仕掛けが素晴らしい!

文章だけではなく「絵を見る」。これは、絵本を読みなれていないとザーッと流し読みしちゃうかも。「絵を読む」んです。

じっくり、〈仕掛け〉と〈伏線〉を探しながら読んでみてください^^

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大槻ケンヂ『サブカルで食う』|文化系オタク趣味でお金を稼ぐ

『サブカルで食う』挿絵イラスト

こんにちは。サブカルになれなかった あさよるです。10代の頃、サブカル的な存在に憧れていて、日々邁進していたのですが、結果、なんかサブカルとは違った感じのオタクになってしまいました……。「日本語の〈オタク〉というより英語の〈ナード〉だよね」と定評です。 ん?ディスされてんのか!?

友人の中にも〈サブカル〉な人と〈アングラ〉な人がいますが、正直なにが違うのか分からなかった。本書『サブカルで食うの』著者は大槻ケンヂさんで、本書内でサブカルとは、アングラに笑いの要素を加えたものだと定義されていて「なるほど~」と納得しました。なのでアングラ趣味よりも、サブカルのほうが一般受けしやすいと。言われてみれば、アングラなお芝居に誘われたり同人誌を受けとるとき、妙に裏取引をしてる的な感じだった理由がわかりました。

本書は〈サブカル〉の話なので、映画『モテキ』的なノリでOKだそうです。文化系オタク必読です。

「サブカルで生きれたらいいのになあ」…と思う君へ

本書『サブカルで食う』は、「社会適応性も低いし、体力もないし、なんかサブカルなことをして生きていけたらいいのになあ。例えばオーケンのように……」と思う人へ向けて書かれた本です。著者の大槻ケンヂさんは、そんなサブカル周辺で生きたい人のことを、「サブルなくん」「サブルなちゃん」と名づけています。

大槻ケンヂさんもかつて「サブルなくん」でした。本書は一つのケーススタディとして、大槻ケンヂさんがサブルるなくんから、「サブカルで食う」に至った経緯をまとめたものです。

「サブカル」とは

まず「サブカル」とは。本書では、

ややこしい歴史的なことは一切無視して、最近、映画『モテキ』のヒットなどによって注目されている「サブカル」ってアレのことだと思っていただけたら。
「サブカルチャー」じゃなくって、もっと軽い「サブカル」ですね。一応本業らしきものは持っているけど、どう考えてもそれ一本で食っていけるとは思われていないって感じ。
たまにテレビやラジオや雑誌で名前を見たり、そういえば新宿ロフトプラスワンでイベントとかもやっているけど、結局、何をやってるんだかよく分からない。でも、就職しないで好きなことをやって楽しそうに生きている人たち……それが世の中の人がボンヤリとした「サブカル」のイメージじゃないでしょうか。

p.11-12

「これがサブカル」という定義があるわけじゃなく、なんかフワッとした、文化系の趣味が高じて仕事になっているような人のイメージですかね。本職はどうなってんのかわからんけど、ロフトプラスワンでイベントをたまにしているような……ああ、なんかリアルw

サブカルの人たちは「○○になりたい」という夢や目標があるわけじゃなく、何かに打ち込んで△△一筋!ってワケでもない。スポコン的な世界観じゃないのです。ふわっとしたものだから、アレコレといろんな変化球を打ってみる。大槻ケンヂさんの場合はロックバンドがそれで、デビューに至ったけれども「ロックをやるぞ!」と意気込んでそうなったわけではないらしい。

「何かをしたい」「何かができる」人は、そっちに向かって進んでゆきます。しかし、サブカルな人は「何かができない」ことに着眼していて、できないからこそ、変化球を繰り出すことになり、それがヒットすることもあるのだ。

サブカル=アングラ+笑い

本書ではさらに、「サブカル」をアングラ+笑いだと指摘しています。

僕がアングラな世界にどっぷりだった80年代、アングラって本当に気持ち悪いものとして捉えられていました。(中略)その後、「自主制作盤」のことを「インディーズ」と呼んでちょっとオシャレにしたように、「アングラ」だとみんなが引いてしまうので、誰かが「サブカル」と言い換えて敷居を低くしたんだろうなとも思うんですよ。そして、アングラがサブカルに変化していく過程でさらに「笑い」が付け加えられ、より多くの人にとって取っつきやすい軽いものとなったわけです。
「サブカル」というのは「アングラ」に笑いの要素を加えた結果、軽い印象になり、間口が広がったものだと考えることもできるかと思います。

p.15

近年では「サブカル」を自称する人も多いですね。どれくらいの人たちがアングラやサブカルチャーを踏まえているのかわかりませんが「サブカル」という言葉がある一定の知れ渡っていて、その存在も周知されているのは事実でしょう。

オーケンの場合

本書は元サブルなくんだった大槻ケンヂさんが、現在のようにサブカルで食うまでになるまでの経緯を紹介するものです。一つのケーススタディとしましょう。

大槻ケンヂさんの子ども時代は身体が弱く気が弱く、ある日「お前、明日からいじめるぞ」と宣言され、強迫神経症になってしまったエピソードから始まります。教師からも「腐った魚の目をしている」「お前の人生はいつもビリだ!」なんてヒドイことを言われたそうで、お、おう……。

そして当時、インターネットもSNSもない時代です。マイナーな趣味を持つ人たちは、仲間探しにあの手この手を使います。その一つが「机SNS」。机に落書きをしておいて、同志を探すのです。落書きが縁で親しくなった友人とマンガを描いて同人誌を作ろうかと相談しますが、なんか地味だし、友人宅限定のロックバンドを始めました。バンドの名前は「ドテチンズ」。するとオシャレなコピーバンドをやってる同級生から、公民館でのライブの前座を頼まれ初舞台を踏みます。

その後、「ドテチンズ」のメンバーが進学先の大学の先輩に自分たちの音楽を聴いてもらうと、気に入ってもらえ新宿JAMでライブをすることになります。

あの頃、何かを表現したいと思っている少年少女が出会う場所というのはライブハウスしかなかった。だからみんな仲間とつながるため、友達を作るためにはとりあえずライブハウスに通っていたんです。今、SNSでやっていることを、僕らはリアルでやる必要があった。それはとてもいい経験値の上げ方だったと思います。パソコンがなくて僕らは得をした。

p.27

「自分学校」で自習する

ライブハウスでは刺激的な経験をするけれども、学校生活ではパッとしないし、いじめられないよう透明人間のように過ごしていると、精神的に追い詰められて、火炎瓶まで自作してしまいます。

スクールカースト制度からドロップアウトすると、サブルなくんは学校の外にもうひとつの学校を作ろうとするんですよね。言うなれば「自分学校」です。学校の授業についていけない分、そこで自らに何かの宿題を課すわけです。
「俺は数学ができないけれど映画は山ほど観ている」「物理とかも分からないけど、本はこれだけ読んだ」そういった自分に対する宿題。これが彼にとってはちっぽけなプライドになるんです。

p.28-29

映画を見るというのも、「とにかくたくさん見なければならない」と自分に課し、まるで修行のように見まくったそう。もちろん、本も乱読するし、少女マンガまでチェックします。

「プロのお客さん」になるな

本書ではサブカルで食べてゆくために、大槻ケンヂさんはどうやってサブカル力(?)を上げてきたのか、またデビューの経緯や、ブレイク後の仕事や契約の話など、これまでの経験を語っています。

その中で重要だろうと思しきは「プロのお客さんにはなるな」という忠告です。

「プロのお客さん」とは、

サブカルな人になりたいと思って自分学校で一生懸命に自習している人が陥りがちなんですけど、色々な本や映画、ライブ、お笑い、演劇を見ているうちに、それを受容することばかりに心地よさを感じてしまって、観る側のプロみたいになってしまうことってよくあるんです。
だからといって、批評、評論の目を養うわけでもなく、それこそツイッターとかに「今日はそこそこよかったなう」とかつぶやくだけで満足してしまう。それでいてチケットの取り方だけは異常に詳しい……みたいな。そういうのを「プロのお客さん」というんです。

p.36

ドキッ……なんか胸が痛いんですけど……。ただサービスを受容して「ああ気持ちよかった」ってだけじゃただのお客さんです。サブカルな人になるのなら、

色んなライブを観ました、色んな映画を観ました、でも「じゃあその結果、君はどうしたの?」と聞かれると「え? いっぱい観たんですけど……何か?」で終わっちゃう。もちろん、そういう生き方もあると思いますけど、自分も表現活動をこれからしていこうというサブルなくん、サブルなちゃんは、プロのお客さんになっちゃいけませんよ。

p.36-37

ライブや映画鑑賞の結果「〈君は〉どうしたの?」という問いが、サブカルなんですかね。一般の評価とか歴史的位置づけとか、同時代に及ぼした影響とか、そんな話ではなく「君はどうしたの?」と、評価が内に向いています。また、サブカルになりたい人って、ゆくゆくは表現活動をしたいと考えているんですね。そのための肥しとしてのゲージュツ鑑賞なのだ。観賞することが目的になってしまっては、本末転倒なのです。

『サブカルで食う』挿絵イラストIMAXシアターの追加料金で椅子の背もたれの音響が使えるやつ、椅子がめっちゃ揺れる

あとは〈運〉だけなのだ

本書『サブカルで食う』は大槻ケンヂさんの自伝的構成なのです。大槻ケンヂさんはサブカルな仲間とつながるためバンドを始め、ライブハウスのステージに立つようになる頃、ちょうどインディーズブームが起こり、バンドブームに乗って、デビューに至ったと、なにやらそれはまるで「運が良かった」という話になっていますw

あさよるの感想は「大槻ケンヂさんは罪作りな人だなあw」というモノでした。サブカルな活動をしこしことしていて、たまたま「運が良かった」から「サブカルで食う」ことができているという話は、「身も蓋もない」とも言えるし「夢がある」とも感じる人がいるでしょう。あさよるは前者ですw

忘れちゃだめなのは、大槻ケンヂさんはただ映画見たり本読んでただけじゃないんだからね。仲間とバンドをやったり、ステージに立ってたんだからね、と一応書いておこう。

〈サブルなくん〉の言うことがわかった

あさよるの周りにも、サブカルな人になりたい〈サブルなくん〉〈サブルなちゃん〉がいましたw 本書『サブカルで食う』を読みながら、彼らの顔が浮かびます。そして、彼らの言動の意味が少しわかった気がします。それは「ぬるい趣味の延長で食べていけたら」「自分の知識やセンスが認められたら」と言いながら、特に何かに打ち込んでいる様子もないところ。

そうか〈運〉が巡ってくるのを待っているのね。毎日ブログを書いてると、誰かが自分を見初めてくれて、なんかトークライブとかに招待されて、なんとなくギャラや執筆料をそこそこもらって、贅沢しないけどセンスのいい友達が増えて、楽しくやれたらいいなあってことなのか。

みんなバンドやらないのもわかった

大槻ケンヂさんは仲間とバンドをすることで、より多くの仲間をつながりを持とうとしました。しかし、現在はインターネットもSNSもありますから、バンドをする必要はなくなったんですね。今の若い世代はバンドをやらなくてヤバイという話をアチコチで聞きますが、「居場所づくりとしての」「仲間とつながるための」音楽バンドは、やる必要性がなくなってしまった。そのせいでゴソッとバンド人口が減ってしまったのでしょうか。音楽一筋に打ち込む人は、時代や仲間は関係なく打ち込んでいるでしょうし。

今、YouTubeに動画投稿する10代や学生さんたちは、「仲間との思い出作り」や「仲間との活動として」動画を公開していると聞いたことがあります。だから儲けや費用対効果は度外視で動画を作ってるんですね。現在の「サブカル」の発表の場は、YouTubeがステージになっているのでしょうか。

そんなこと言ってる あさよる自身も、10代の頃バンドもやらずにWEBサイトを作って、日々ブログを更新していましたw あさよるにとって、サイトやブログはサブカルな発表の場だったのかもしれません。そして、今もね。

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『天然ブスと人工美人どちらを選びますか?』|あなたのマニアがどこかにいる

こんにちは。あさよるです。光文社新書は、思わず手に取ってしまう煽りタイトルの本が多いですね。目を引き手に取らすという点では秀逸とも言えますが、タイトルと中身が違っていることも多いので、あまり期待をせずにページをめくり始めます(苦笑)。今回手に取った『天然ブスと人工美人どちらを選びますか?』というタイトル。もう、煽りまくっていて「はいはい、いつものやつね~」と読みはじめたのですが、話が二転三転して、予想外の結末に着地して、驚きました。

なにをテーマとしているのかわかりにくかったのですが、あさよるなりにまとめてみました。冒頭で「美人論&ブス論」は「どんな顔の人が書いているか」で印象が変わるという話から始まり、最終章では著者の容姿についての話で終わります。なるほど、著者の「顔」を知らずに読みはじめたときと、「顔」の理由について知った後では、本書の意味がまるで変っているのです。

「美のヒエラルキー」が支配する美の格差社会

本書では、この世は「見た目」が大事な美のヒエラルキーが存在する美の各社社会であるとの前提で話が進んでゆきます。書店では「美人論&ブス論」の本が溢れ、また「見た目」本が持て囃されます。大ヒットした『人は見た目が9割』が代表ですね。しかし、これらの「見た目」本は、容姿が「悪くない」人に向けた本であり、そもそも容姿が優れない人は対象外だと指摘します。

本書では、著者の山中登志子さんは、自らを「外見オンチ」と称しておられます。ここでいう「外見オンチ」とは「天然美人以外」みんなです。山中登志子さんは、10代の頃「脳下垂体腫瘍」という病気を患い、「病気で顔が変わった」という経歴を持っています。「脳下垂体腫瘍」とは、脳の脳下垂体から成長ホルモンが過剰に分泌され、体が過剰に成長し「先端巨大症」とも呼ばれる病気です。山中さんの場合は思春期の頃に発病し、顔や手足が成長し「外見オンチ」になったとの経緯を、本書の最終章にて紹介されています。

元はかわいらしい姿だった著者が病気により「顔が変わってしまった」のち、美の格差社会の中で、編集者として各所で取材を続けてこられたのが、本書です。

「天然ブスが人工美人になる」ことは想定されている

本書では「天然ブスと人工美人のどっちがいい?」という質問を著者が男性に問いかけた結果が紹介されていました。多くの男性は回答を濁し、「好きになった人の顔が好き」という模範解答をする人もいました。中には「人工美人が好き」と答える人もいました。この質問の興味深いことは、「天然ブスがいい」と答えた人はいなかったという結果です。

「人工美人」についても言及されています。人工美人……すなわち美容整形手術で人工的に美人になった人のことです。美の格差社会の中では、美人は持て囃されますが、人工美人には後ろ指をさされるのが現状です。「ブス論&美人論」の本を書いている作家の中に、美容整形手術を受けたことを公開した上で、他人の美醜について言及してる人もいますが、稀な例です。

ふしぎなことに、整形疑惑が絶えない芸能人たちは、整形についてカミングアウトしません。例外として、飯島愛さんが現役時代に整形を発表したくらいだと本書では指摘されていました。他に、プチ整形と言われる、ボトックスやシワやシミ取りを公表するくらいです。それくらいに、「美容整形」は広まっているといえど、未だに「公言しない」ことなのでしょう。

可愛い人が「外見オンチ」になった

美の各社社会では、「外見オンチ」から人工的に美人になることは想定されています。あるいは、「美人でない」ということに奮起して、外見を磨く人もいます。しかし、元々が可愛らしい人が、「外見オンチ」になったという例は想定されていません。まさに、かわいらしい容姿だった著者の山中さんが、病気によって顔が変わり、「外見オンチ」になったことは、想定外。

だから、病気のことを隠していると、男性からは恋愛対象外で、低ランクの女性として接せられ、アケスケに男性同士の下ネタにも参加できることもあるそうです。しかし、病気について明らかにすると、相手は困った様子を見せます。「外見オンチ」の理由が、病気によるものだと分かると、どう反応して良いのかわからないのです。

「外見オンチ」の恋愛、セックス、人生観

本書『天然ブスと人工美人どちらを選びますか?』では、人はどんな顔の人の発言かによって、発言内容の受け止め方が変わる、という話から始まります。巷にあふれる「美人論&ブス論」の本を手に取れば、著者の顔写真を検索し、「この人なら語る“資格”がある」と品定めしていると、著者は言います。

本書も、著者の山中登志子さんの病気については伏せ、著者が自らを「外見オンチ」だと自称していて、執拗に人の容姿についてこだわっているようにページは進んでゆきます。そして最終章にて、著者の「顔が変わった」理由についてネタばらしばなされ「ああ、この人ならこの本を書く“資格”がある」と納得させる構成なのでしょう。最後まで読むと、著者の立場が分かるので、本書に書かれている内容が、また違った意味で読めてしまうからオソロシイのです。

本書では病気で顔が変わってしまった著者による、恋愛やセックス、結婚や人生観も盛り込んで、話が展開してゆきます。バブル真っただ中に付き合っていた彼氏には「1千万円あげるから整形手術をしていいよ」と言われたと回想しています。「ヒューマニズムでセックスさせるな」と言われたこともあるそうです。インターネットが普及してからは、いわゆる「出会い系」で出会った人たちとのエピソードも盛り込まれています。

自分の「顔」が好きか、嫌いか

本書の最後で、山中登志子さんは

自分のからだも顔も、好きとはいえない。でも、嫌いでもない。微妙だ。でも、もっと好きなりたいと思っている。まだまだこの「変わった顔」から課題をもらっている。(p.245)

と結んでおられます。山中さんの場合、編集者という職業柄「人と違う」ことで、自分の存在を覚えてもらいやすいとも書いておられます。

この「自分のからだも顔も、好きとはいえない。でも、嫌いでもない。微妙だ。」というのは、多くの方が共感する言葉でもあるのではないかと思いました。「美の各社社会」とはよく言ったもので、誰もが自分の容姿について、なんらかを感じて生きているのではないでしょうか。

そういえば あさよるも昔、自分の容姿にコンプレックスがあって、他人と真正面から目を合わせられなかったことがありました。恥ずかしくて俯いてしまったり、顔を手で隠してしまったり、今もクセでやってしまいます。他人から容姿について特に指摘された記憶はありませんが、ちゃんと「美人じゃない」と空気を読んでいたのです……。コンプレックスについて、真っすぐ見つめてこなかったから、自分を振り返りつつ、コンプレックスから周りの人に勘違いをさせるような言動をしていたなあと思いました。

本書では、自分の容姿にコンプレックスがあっても、人間には「フェチ」があり、「どこかにあなたのマニアがいる」というのが印象的です。

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『老いる勇気』|「嫌われる勇気」・さいごまで他者貢献できる

『老いる勇気』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。『嫌われる勇気』を読んで「アドラー心理学」というものを知って以来、アドラー心理学の考え方が気に入って自分にも当てはめるようにしています。アドラー心理学では、過去や未来ではなく〈今、この瞬間〉にのみ光を当てます。もし仮に、過去にとても悲しいことがあったとしても、過去を引きずるのをやめ、〈今、この瞬間〉に注目することで、今「幸せ」を感じることができるのです。

もし過去に上手くいかなかったことや、つらい経験、悲しい経験があっても大丈夫。今、わたしたちは幸せになれる。そのメッセージは前向きでいいなあと思いました。

ということで、今回、『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎さんの新刊『老いる勇気』が出版されたので、早速手に取ってみた次第(^^♪

歳をとった分だけ賢くなった

本書『老いる勇気』は、ベストセラー『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎さんによる著作です。岸見一郎さんは哲学者であり、心理学の研究もなさっています。『嫌われる勇気』のヒットにより、アドラー心理学が注目されました。『老いる勇気』は、哲学や心理学的なアプローチと、岸見一郎さんご自身のご経験を交えながら「老い」という、全ての人が直面する「問題」を真正面から扱っています。

岸見一郎さんさんは1956年生まれの方で現在(2018年)62歳になられます。お母様を亡くされ、認知症のお父様を介護中の50歳の時、ご自身も心筋梗塞で倒れられたご経験が紹介されていました。とても大変な経験ですが、そこで学んだり、感じたりなさったことがとても大切だったのがわかります。お母様は、病床で意識がもうろうとする中でも、「ドイツ語を学びたい」「『カラマーゾフの兄弟』を読んで欲しい」と最期まで意欲をなくされなかったそうです。お父様は認知症でしたが、岸見さんが心筋梗塞で倒れてからしばらく、しっかりと息子を支えようとしてくださったそうです。どんなにギリギリの状態でも、その瞬間その瞬間を力強く生きることができるのです。

また、年齢を重ねるということは、一人の人間としてより成熟してゆくことです。若い頃は他人の目を気にしたり、他人からの評価にばかり気を取られてしまいがちです。しかし、大人になるとは「価値を自分で決める」ようになることです。他人と自分を比べて生きるのか、自分で自分の人生を決めて生きるのか、それ自体を自分で決めているのです。

年齢を重ねることはネガティブに表現されることが多いですが、長生きするとは「生きた分だけ賢くなる」ことです。若いころ、右も左も分からずがむしゃらにやるしかなかったことも、歳を取れば知識が増え、より本質をとらえながら着手することができます。本書では例として、楽器の演奏が挙げられていました。若い頃の方が楽器の覚えは良かったかもしれないけれど、歳をとった今の方がよりたくさんの音楽を聴いているし、知識も増えているし、今の方がずっとそれを深く探究できます。

もう一度10代からやり直したい?

「若い頃に戻りたい」と思いますか? 若い肉体を手に入れ、これまでの記憶を失い、今と同じ知識・技術を身につけるためには、もう一度過去の努力を繰り返さなければなりません。今持っているスキルを、再び努力で身につけるのを考えると、うんざりする人も多いのではないでしょうか。

確かに、若い身体を持っている人が羨ましく思うことはたくさんあります。だけど、歳を取ったからこそ持っている物にも注目しましょう。「あれができなくなった、これもできなくなった」と〈ひき算〉で考えるのではなく、「これができるようになった、あれをより深く知ることができた」と〈足し算〉で人生を考えることが「老いる勇気」を生み出します。

「助けてもらう」という他者貢献

本書では「他人から助けてもらうことも他者貢献である」という考えが示されています。自分が病気や怪我で何もできなくなって周りの人に世話をされることは、周りの人にとっては「自分を必要とする人がいる」という状況が新たに生まれることだと紹介されているのです。

わたしたちは、誰からも必要とされずに生きるのもまた、とても苦しいものです。もし自分にできないことが増えてしまっても、それでも生きていることで誰かを支えているのかもしれません。また、誰かが何もできなくなってしまっても、それでも「生きている」だけで誰かを支えているのです。

そういう風に考えられると「生きている価値」を考える必要すらなくなる気がします。みんなが誰かを必ず支えているのですから。

「だからできない」からできない

本書で紹介されるエピソードで印象的なのは、著者のお母様が病床で「ドイツ語を勉強したい」と話していたことです。もう自分の命が長くない状況でも「あれがしたい」と思えるんだなあと知ると、なにやらパワーが沸くようです。岸見一郎さんご自身も、入院中にたくさん本を読みたいだけ読んだり、退院後マラソンにチャレンジしていいかと医師に願い出たところ、意外にも「OK」が出て、拍子抜けしている様子も印象的です。

わたしたちはあらかじめ「きっとこんなことできないだろう」を、予定を立てるよりも先に「できない」と自分で自分に規制をかけているのかもしれません。「できない」と思うから本当に「できなくなってしまう」と考えるといいのかも。

さいごまで何をしましょうか

『老いる勇気』挿絵イラスト

本書『老いる勇気』は、意外と若い人の方が、安心できたり、来るべき未来を考える役に立つのではないでしょうか。特に病気や怪我もしたことがなく、まだ介護や老いが遠いところにある人ほど、「発見」があるでしょう。それは「他者貢献」という視点が顕著だと思います。

もし、自分が元気いっぱいでなにも欠けていない状態ならば、もしそれを失った時、何か、自分の持っている「価値」まで失ってしまうような気がするのではいでしょうか。少なくとも、あさよるは若いころそんな感覚がありました。挫折したり、健康を損ねて、誰かに迷惑をかけて生きることに、意味がないように感じていました。だけど、生きていると怪我もするし、病気もするし、誰かに世話になりながら生きるのが当たり前です。若いころの感覚は完全に思い上がりだったなあと思います。

そして、今は「自分はさいごまで何をし続けるのだろうか」と考えることがふとあります。いつその時が来るのか知らないけれども、誰かに助けてもらいながら、それでもさいごまで何かをしていたいなあ。

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