生き方を考える本

『「嫉妬する女はブスになる」問題』|NG!嫉妬する/される

こんにちは。あさよるです。インターネットは人の嫉妬心を拡大する装置じゃないかという話を耳にして、ちょっとモヤモヤしていた。ネットの到来によって、これまでなら触れることのなかった人の幸せな話や成功譚により、嫉妬が作られているというのだ。

だけどわたしは、嫉妬はネット以前からもちろんあるし、世間が狭かったからこそ、嫉妬もより複雑だったんじゃなだろうかなんて思うと、今と昔で人の嫉妬心は違っているのだろうか……なんて考えていた。

だけど、嫉妬が自分にとって良からぬものであり、人間関係においても面倒なものであることは同じだろう。もちろん、嫉妬をモチベーションとする有効活用法もあるんだろうけど、上手にコントロールできている人は希だろう。

『「嫉妬する女はブスになる」問題』は、嫉妬が生まれる仕掛けや、そのいなし方、そして、人に嫉妬されない方法が紹介される。軽く読める内容だけど、気づきも多く読んでよかった。

嫉妬は自分への苛立ち

「嫉妬」は誰にでもある感情だけれど、自分の嫉妬心に振り回される人を「嫉妬ブス」と本書では名付けられている。嫉妬は上手に使えば、モチベーションにもなる。だけど、嫉妬の炎にやかれ、人の幸福を見て落ち込み、人の足を引っ張ることに時間を費やすようになると、自分の幸福からどんどん離れていってしまう。そんな生活を「嫉妬ブス」としている。

友人や恋人へLINEの返信や電話の催促で睡眠時間を削って……となると本当に美容にもよくはない。「嫉妬」してしまうこと自体は誰でもすることだだけど、自分で「嫉妬している」と自覚しないと、自分で自分の足を引っ張ってしまうのだ。

本書でハッとしたのは、嫉妬している人は、本当は「変化することのできない自分」に対して苛立っているというものだった。似たような境遇にいたのに、自分より先に良い思いをする人や、幸福を手に入れた人は、環境にうまく適応した人だ。自分が気にいらないのは、「環境に適応できない自分」なのだ。変わらなければならないのは自分なのに、他人の言動や考えを変えようと攻撃や依存をしかけるから、嫉妬は厄介だ。

嫉妬ブスから抜け出すには、嫉妬心を抱いたら、まずは「今自分は嫉妬している」と自覚する、そして「自分が変化しよう」と、この二つの思考へと自分を導くといいみたい。

嫉妬されない方法

「嫉妬の対象にならない」ことも、人間関係では大事だ。負の感情に晒されるだけでエネルギー消耗しちゃうよね。

嫉妬をかわすには「抜け感」が大事だと紹介されている。例えば、FacebookやInstagramに投稿するときは、リア充アピールしたなら、そのあとの〈オチ〉をつける。つまり、失敗エピソードを添えておく。良いところばかり切り取って見せていると、「見せびらかしている」ように受け取る人もいるからだ。

「別に自慢したいわけじゃないし」「向こうが勝手に嫉妬してるんだろう」と思うかもしれないけれども、それはお互い様だ。自分も、他人の言動に勝手に嫉妬心を掻き立てられて、嫉妬ブスに陥っていることもあるだろう。「無暗に嫉妬を誘わない」のも、これもまたスマートなやり方だろう。

嫉妬に火をつけないように

本書はつい嫉妬してしまう嫉妬心を解説したものだけど、それを応用して「嫉妬されない方法」まで話が及んでいるのが良い。嫉妬しないように気を付けている人は多いだろうけど、「嫉妬されること」に無自覚な人は多いように思う。わたしは個人的に、人に嫉妬されることも、これはこれで良くないことだと思っている。

「嫉妬心」は誰もが持っている気持ちだ。そして嫉妬は自らを焼き尽くし、身を破滅させてしまう程の力を持っている。これはすべての人に備わっている危うさだから、心が弱いとか、性格が悪いとか、そういう話ではない。そして、人の嫉妬を掻き立てるのは、破滅という爆弾の導火線に火をつけて回っていることと同じじゃないかと思う。物騒な話だ。

自覚的に嫉妬を煽るのはもちろんだけど、無自覚に人の嫉妬心を刺激していないか、常に確認していたいと思う。

こう感じるのは、わたし自身も嫉妬深いからかもしれない(;^ω^) 「負けず嫌い」で、嫉妬心がプラスに働いてモチベーションを上げることもあるけれども、とめどもなく時間と労力を消費するだけで終わることも多い。

嫉妬心をコントロールすることも、自慢話でマウンティングしたい気持ちを抑えるのも、どちらも「試されている」瞬間なのかも。

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『捨てる。』|物、人、過去…断捨離で今に集中する

こんにちは。年が明けても片づけが済んでいない あさよるです。一応、部屋はキレイにして新年を迎えたんですが、ダラダラと正月を過ごしていると、すぐに元の混沌に戻ってしまった。片づけはライフワークね。

片づけの「断捨離」という言葉はもう定着してしまってるけど、本来の意味を失って独り歩きしている感の強い言葉だ。今回読んだ『捨てる。』は「断捨離」という新しい概念を世に広めた、やましたひでこさんの著書で、改めて「断捨離」の意味が説明される。単にモノを捨てたり、部屋を片かたづける言葉ではなく、もっと大きな視点での言葉だった。

ちなみに、「断捨離」という言葉を広めた『新・片づけ術「断捨離」』という本がオリジナルのようなんだけど、これは公演の様子を書籍化したものなので、読み物としては今回の『捨てる。』の方が読みやすいし、わかりやすいと思う。

「片づけ」の話は壮大だ

ベストセラーになった「こんまりさん」こと近藤麻理恵さんの『人生がときめく片づけの魔法』では、「これからの自分の姿」を想像することから片づけが始まる。過去の惰性の未来ではなく、理想の未来を思い描く。この一番最初のステップが、こんまり流片づけの大事なところだろう。片づけを通してセルフコーチングをしながら、あるべき状態へ近づいてゆく。だから、今の仕事にときめかないのであれば、転職のための用意を始めるし、収入を増やしたり、職場環境を変える。だから「人生がときめく」なのだ。

「片づけ」というのはどうやら、単に散らかっている物を棚や箱の中にしまうことではなく、もっと重大なものらしい。「断捨離」はすっかり「片づける」「物を処分する」という意味で日常で使う普通の言葉になってしまっているが、そもそもは片づけの哲学を表した言葉として広まった。

元々「断捨離」はヨガの哲学から着想を得て、やましたひでこさんが考案した考え方だ。

「断」とは、「決断」の「断」です。
「捨」とは、不要・不適・不快なモノを手放すこと。
「離」とは、「断」と「捨」を日々繰り返すことで至る境地、すなわち自在です。

やましたひでこ『捨てる。』(2018年)p.22

片づけができていない状態は、決断ができず、自分以外のなにかに支配されている状態だ。それは、過去に自分が買い集めてため込んだ「モノ」であったり、人間関係であったり、仕事であったり、生活習慣であったりする。だから「断捨離する」ことは、自分で決断をして、自分で選択をすることだ。だから、実は「断捨離」は家の中のことだけじゃなく、仕事や外の世界でも役に立つ。

家の中をきれいにする本だと思って本書『捨てる。』を手に取ると、内容が全然違っているだろう。

先延ばししない

断捨離の〈「断」は決断の「断」〉である以上、断捨離はとてもエネルギーが必要だ。人間の脳は決断をしたがらずに、なるべく決断をしなくて済むよう働いてしまうらしい。これは脳のクセみたいだから、意識して「決断」を選択しないと、ズルズルと過去と同じ行動をし続けてしまう。「断」「捨」「離」と3つのステップはとても大事だろう。

わたしたちは、「もったいない」とか「まだ使える」とか「気が引ける」とか、なにかと理由をつけてものを手放すことから逃れたくなってしまう。モノだけではなく、人間関係や仕事も同じだ。本当は離れた方がよいことが分かっていても、決断するのがしんどいから、先延ばしにしておきたい。

だけど、今目の前のことに集中するためには、過去のしがらみを整理しておかないと、なにもできない。わたしの経験だと、プロの仕事をする人たちの仕事場や机の上は、みな見事に片づいていた。片づけを徹底することは、仕事のための道具を大切にすることでもある。

そんなことを言いながら、わたしの机の上はいつも散らかっていて、今使わないものも出しっぱなしだ(;^ω^) ということで、わたしの片づけも今後も続くのであった。まだ、自分のあるべき状態に到達していないし、まだイメージが膨らみ切れてもいない

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『自分の顔が好きですか?』|人から愛される顔になる

『自分の顔が好きですか?』イラスト

こんにちは。あさよるです。「自分の顔が好きですか?」なんて質問されたら、どう答えるでしょうか。「YES」と即答する人って、どれくらいいるんだろう。
自分の顔だからこそ、愛着もあるだろうけれども、もっとここがこうだったら……と「欠点もよくわかってるよ」と言いたい人が多いんじゃないかと思う。

「人の顔」というのは、なにやら奥深いものらしい。『自分の顔が好きですか?』の著者の山口真美さんは、「日本顔学会」の役員をなさっている方だ。って、「顔学会」ってなんだ。「顔」というのは、特別なものらしい。

大事なのは「人当たり」

だけど『自分の顔が好きですか?』を読むと、自分の顔への不満はどうも勘違いというか、お門違いというかなんというか……わたしたちは「自分の顔を正しく見られない」らしい。そもそも、人の顔をじっと見つめていると、最初はちゃんと見えていても、数分もすると顔が歪んで見えてしまうようだ。よく学校の怪談話で、「肖像画が動く」みたいな話も、こういうところからきているのかもしれない。

さらに、自分の顔を見る時はいつも鏡越しだ。当然ながら、鏡で自分の顔を見ると、顔の左右が逆に見える。顔は誰しも微妙に左右差があるから、右と左の顔が入れ替わるだけでも、その人の印象を大きく変えてしまう。

人の顔を見つめていると、顔が歪んで見えてしまう上に、「自分が見ている姿」と「他人が見ている自分」が違っているから、自分の本当の顔を、自分では見られないのだ。

美男美女の苦労

美男美女に生まれた人は羨ましいなぁと思うけれども、彼らには彼らの苦労があるらしい。まず、顔が整っていると第一印象が良いから、「良い人」認定されてしまいがち。だからこそ、少しでも人の期待から外れるところがあるだけで、ギャップが大きく「やっぱり美人は性格が悪い」なんて陰口を言われてしまう。

美人ってだけで目立つだろうし、その界隈での有名人になってしまうと、みんなから一挙一動を観察され、余計に欠点が見つかりやすいのかもしれない。

羨ましい悩みにも思えてしまうが、人にはそれぞれ悩みがあるものなのね。

「愛される人」が良い顔

『自分の顔が好きですか?』イラスト

人の印象は、第一印象で決まると言われている。最初のパッと見たときの印象がその後の印象を作っているとも言えるし、その人の人となりは一瞬で相手に伝わっているとも言える。上っ面で取り繕ってるつもりでも、見透かされているのかもしれない(;^ω^)

人から愛される人、人気者になる人は、優しそうだったり、話しかけやすそうだったり、人と打ち解けやすい雰囲気を持っている。怖そうな人や、イライラしている風な人には、近づきたくないもんね。

美人不美人は生まれ持った才能なのかもしれないけれども、「優しそう」とか「声をかけやすそう」な人を目指すことは、今からでもできるだろう。それはきっと、今一緒にいる人や、これから出会う人たちを大切に、親切にすることかも。そう思うと、「自分の顔は好きですか?」という質問の答えも、少し変わってくる……のかな。

みんなだいたい同じ顔

ペンギンの雛たちがコロニーをつくって、親ペンギンたちがエサを運んでくるのを待っている……という様子を見聞きするたびに、「やっぱりペンギンも顔を見れば親子だとわかるのかなぁ」なんて思っていた。ペンギンなんてみんな同じ顔に見えるけれども、ペンギンからしたら、みんな違った風貌に見えているのかもしれない。昔、うちで猫を飼っていたけれども、たぶん同じような模様の猫が何匹もいても、自分の猫は一目見てわかると思う。「顔を見たらわかる」自信がある。わたしはペンギンは身近にいないから、みんな同じ顔に見えるけれども、飼い猫と同じように、ずっと一緒にいると見分けがつくんだろうか。

と、前置きが長くなくなったけれども、人間の顔も、わたしたちにとっては特別なものだから千差万別に感じているけれども、ペンギンと同じように、だいたいはみんな同じ顔だ。ごくわずかな差を見分けて、人を識別したり、その人の機嫌や気分を読み取っている。

このわずかな差を読み取るのに長けている人もいれば、苦手な人もいる。人の顔の見分けが得意なのは、意外にも赤ちゃんだそうだ。生まれたての赤ちゃんはまだ視力が良くないから、人の顔がわからない。生後10か月くらいの赤ちゃんが一番、人の顔の識別能力が高いそうだ。

「人の顔がわからない」と思っていたけれど……

わたしは常々、「人の顔を覚えるのが苦手」と思っていたけれども、それはどうやら思い過ごしらしい。本書でも、人の顔が覚えられない人のパターンについて触れられているけれども、わたしは「人の顔をちゃんと見ていない」タイプだ。日本人は人と話をするとき、目を見ずに口元を見ている人が多く、目を見る時は相手の感情を読み取ろうとしている時だそう。そういえば、わたしも人の口元に注目してる時間が長いような気がする。

あと、人の顔がわからないという人の中には、「だいたいは覚えているけれども、鮮明に思い出せない」という記憶の精度をより高めたいという、贅沢な悩みを持っている人もいる。わたしはこのタイプだろうと思った。

もちろん、脳の特性で人の顔が認識できない人や、人の顔に注目するのが苦手な人のもいる。いろんなパターンの顔認識について知ると、「人の顔を見る」という、いたって当たり前で、毎日毎日生まれてから繰り返し続けている行為が、実はとても込み入った、複雑な話だったことに気づく。これは面白い。

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『「お金に強い女」になれる本』|自分の価値は自分で決める

『「お金に強い女」になれる本』

こんにちは。あさよるです。年末はなにかと出費がかさむ時期で、「大丈夫かなぁ」とちょっぴり不安にもなる(;^ω^)

わたしはお金と縁のない人生を送ってきた。これからもずっと縁がなのかもしれない……。ずっとお金がないのは同じだけれども、面白いことに、その時々で「自分は幸せだ」「わたしは豊かだ」と思っていた頃もあったし、「わたしは貧しい」「みじめだ」と思っていた頃もあった。生活水準も、貯蓄額も、収入も大して変わらなくても、豊かにも貧しくもあった。

お金に振り回される人生…

みじめに感じていた時は、自分以外の「何か」に振り回されているときだった。それは「欲しいものが手に入らない」ことでもあったし、まともな食事を用意できる時間と余裕がなくてジャンクフードに偏っているときもそうだった。毎日、炭水化物を脂質でコーティングして化学調味料で味付けされた「やめられない食べ物」は、本当にやめられなくて泣ける。そういうときは決まって「みんなと同じようにしたいのに、できない」と思いつめてしまって、つらい。

「自分以外の価値観で、自分の価値を決める」というのは、これは本当に擦り減ってゆく。精神面や肉体的にももちろんだけれども、お金がいくらあっても足りない。Facebookに写真をアップロードするために旅行をしたり、いつもお土産をもらうお礼を買うためにテーマパークへ行くのは大変だ。誘われるがままに外食を繰り返したり、みんなが持っている流行のアイテムを手に入れたり、最新のiPhoneを買っても、本当はわたしは、持て余してしまっているのだ。自分が良いと思うものだけを選んで、自分の価値基準で生きられたら、どんな気分なんだろう。

「お金万能」に注意

「お金スゴイ」「お金万能」と信仰していると、お金に振り回される人生を送るそうだ。それは「自分よりもお金の方が価値がある」と信じることだ。お金が自分よりも価値が高いと妄信すると、お金をもらうために働かされることになる。

お金はとても大事だけれども、生きるための便利な道具だ。あくまで価値基準を決めるのは自分だし、お金よりも自分の方が価値がある。「自分が豊かに生きるために」そのために、お金が必要だ。間違っても「お金があると豊か」ではない。これは状態としては似ているけれども、因果が逆だ。

お金がなくても、好きなことをする

『「お金に強い女」になれる本』は、女性向けの自己啓発本だ。自分の価値基準を持っておらず、貯金ができない人がターゲットになっている。お金を貯められない人は、自分よりもお金の方が価値が高いと信じ、お金に振り回されている人だそうだ。

そういう人は「お金があれば好きなことができる」「お金があれば欲しいものが買える」「お金があれば幸せになれる」と信じている。だけど、そう考えている限りは、いくらお金があっても充足できない。だから、お金を全部使い切って、貯金が0でも、「まだ足りない」と感じてしまう。

お金がなくても、好きなことはできる。小さなことかもしれないけれども、自分の生活中でも、幸せな充実した時間を増やすことができる。そのためには、小さな自分の気持ちの変化を見つけて、少しでも良い時間を増やすことだ。

もっと突っ込んだ話では、「お金のために仕事をさせられている」よりも「好きな仕事をしてお金を稼ぐ」方が良い。「気の持ちよう」と言ってしまうとそれまでだけれども、正論なんだろう。

「させられる」はつらい

『「お金に強い女」になれる本』

どんなことでも「させられている」状況は退屈だ。わたしは多少苦しくても、つらくても、退屈からだけは逃れたい。といっても、別に劇的な「なにか」を必要をしているわけでもなくて、熱中できる仕事とか、自分の興味のあることを深く追求するようなことでいい。

退屈を紛らす手段は、お金を使って出かけたり、買い物をしたり、消費すること以外にもやりようがある。「お金万能」思考にハマってしまうのは、お金を使って「消費すること」が退屈を紛らすことだと信じているからなんだろう。

本書『「お金に強い女」になれる本』は、貯金がない女性向けのお金の本だけれども、書かれている内容は生き方を考えることであり、健康な状態を保つためのことだった。なにかに依存するのではなくて、自分の価値基準をもって、自分の意思で生きられると、きっといいんだろう。

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『かかわると面倒くさい人』|いるよね、自信がなくて強がる人

こんにちは。あさよるです。人間づきあいというのは難しいものです。自分のワガママを通すのもいけないし、だからといって相手に言われるがままでもいけません。「対等に」てのが理想なんだろうけれども、なかなかそう上手くもいかない。二者間の人間関係も難しいのに、複数人でチームワークをするって、大変なことだ。

こう考えると、本人のいない間にみんなでその人について愚痴って、ハハハと笑ってお開きにするのが、ちょうどいいのかもしれない。ただ、わたしは変に潔癖なところがあって、そういう場に耐えられないんだけど。ということで、わたしもまた、チームにいると「面倒な人」の一人だ。

面倒な人はどこにでもいる

『かかわると面倒な人』は、どこにでもいる面倒な人の特徴が紹介される。本書では面倒な人が10タイプに振り分けられている。

  1. 過敏で傷つきやすい人――約束を断られると「嫌われたんじゃないか」と思ってしまう
  2. 強烈な比較意識をもつ人――勝手にマウンティングされたと思う
  3. 自己中心的で相手の心に関心がない――空気を読まず場を凍らせる
  4. 自己防衛意識が異常に強い――不必要な言い訳や「すみません」が多い
  5. 劣等感を隠しもつヒーロー――自分は正義の味方ぶって自己陶酔してる
  6. 自分の判断力に自信がない――どうでもいい手続きに異様にこだわる、自分で判断できない
  7. 自信がなく、甘えが強い――すねる、恨む、褒めて欲しい、察してほしい
  8. 「謙虚な自分」を売り物にする――「私なんか」と遠慮しつつ、内心は忖度を期待している
  9. 取捨選択ができない――話が長い、何が言いたいのかわからない
  10. 過去の肩書だけが自分の支え――対等に付き合えない、定年後もマウンティングおじさんに

どれも「いるよね~」と目に浮かぶ。

⑧の「〈謙虚な自分〉を売り物にする」人には、イジワルな気分になってしまう。彼らはわざと自分を卑下することを言って、「そんなことないよ~」を期待している。だからあえて「そうなんだ~」と言いたくなってしまう。

一方で、わたしの場合は③の空気を読まない「自己中心的で相手の心に関心がない」や、⑨の「取捨選択ができない」は、あんまり気にならないかも。こういうのは相性というか、自分がスルー出来る人と、ひっかかってしまう人がいるようだ。

相手から見ると自分も面倒な人

わたしは「強烈な比較意識をもつ人」「〈謙虚な自分〉を売り物にする」人や対しては、わざとイジワルな応対をしてしまうようだ(;^ω^) ……ということは、彼らから見ると、わたしは「かかわると面倒くさい人」ということになる。謙遜してるだけなのにマジレスしてくる「空気が読めない人」や「マウンティングしてくる人」ってことだ(;’∀’)

本書では10タイプもの「かかわると面倒くさい人」が登場するから、読者自身もどれかにあてはまるだろう。みんな、自分のことを棚に上げて「あいつは面倒くさいヤツだ」とやってるのだ。

面倒くさい人の性格や考え方を外部から変えるのはとても難しい。「あなたの○○が迷惑だ」と指摘しても、それが図星であればあるほど、相手の心は頑なになるだろう。それよりも、人の面倒くさいところを刺激しないようにそっとしておくのが、お互いに平穏に過ごせるだろう。

自分が自分にできることと言えば、自分の持っている劣等感を隠そうとしたり、強がって見せたり、自分を守ろうと先回りして面倒くさいことにならないように。劣等感は劣等感で、それを受け入れられるよう、気持ちを向けたほうがいみたい。難しいことだけどね。

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『図解 確率の話』|諦める前に確率を求めてもいいんじゃない

こんにちは。あさよるです。わたしは中高生のころ一番得意だった&一番好きだった科目が数学だったんだけれども、高校を卒業して十数年経つと、なかなかにきれいさっぱり忘れている。たまに、時間のある時にちまちま復習をしてるが、筆算や因数分解のやり方とか、分数、対数とか怪しい……。

別に日に何時間も勉強する必要ないけれども、忘れない程度には思い出しておかないともったいないやね。今も超スローながらも、分数を復習している(;^ω^)

夢が叶う確率

『図解 確率の話』は中学、高校で習う数学の面白いところだけを抽出したような本だ。「図解」とあるように、小難しい数式ではなく、図で示されているから、じっくり読むと面白い。

第1章に「あきらめなければ夢は叶う?」という節がある。3割バッターでも、4回打席に立てば、ヒットを打つ確率は76%だそうだ。5回打席に立つと83%。成功確率が30%と低くても、回数が増えるずつ100%に近づいてゆく。450回やれば成功する確率は99%になるらしい。だけど、諦めてしまえば成功確率0%。

この話は、なんとなく実感としてわかる。わたしの友人でマンガを描いていた人が数人いたが、諦めずにずっとマンガを描き続けていた人は全員、一応はみんなが知ってるようなマンガ雑誌で連載したり、出版社から本を出版した。諦めた……というか、マンガを描くのをやめた人は当然ながらそれっきりだ。

わたしも制作の出身だけど、制作をやめずにずっと続けている人たちは、最初の1回で希望の職に就けなくとも、経験を積み、転職しながらより本人の希望に近い職に就いている印象がある。だけど、途中でやめちゃった人は、その例ではない。

小説家になるには、小説を完成させて出版社に持ち込んで……と、5回くらいやれば、それなりに仕事につながるという話も聞いたことがある。

意外と、「ずっと頑張ってればいつか成功する」というのは、キレイごとではなく実感として納得できる。それを今回、数学的な確率として考える切り口に出会えてよかった。

感覚と実際は違う

実感としてわかると言った後にこんな話をするのはナンですが、数学を勉強する意義は「実感と実際の隔たりがある」事柄があるからだろう。

右へ行くか左へ行くかで迷ったとき、感覚的には「こっち!」と思っても、実際に確率を計算すると間違っていることもある。動物はそういう間違い・勘違いをしてしまうようだから、AIは確率で物事を判断できるのがスゴイんじゃないかと思っている。

具体的には、例えばクジをひくとき、クジが完全に公平ではないことがある。本書では、あみだクジはクジを引く前から、どのスタートを選ぶかでアタリを引く確率は違っていると紹介している。

コインを投げた時、裏表が交互に出る確率よりも、同じ面が3回連続で出ることの方が多い。1/2の確率は、交互に起こるよりも、3回以上連続して起こるほうが多のだ。、これは図解されると納得できるんだけど、実感としてはわからない話だ。

大きな買い物をする時とか、なにかチャレンジするときなんかは、確率を頭に入れておきたい。

諦める前に確率を計算してもいいかもね

以前、このブログに、人当たりのいい人はガチャを回す回数が多いから、アタリを引く可能性が高いんじゃないか、みたいなことを書いた。

「成功の秘訣」とか「引き寄せ」とか、眉唾っぽい話も多いけれども、つまりは人間関係が良好な人は、人からチャンスを回してもらえる機会……つまりガチャを回す回数が多いんじゃないかってことだ。怒っている人より優しい人の方がみんなに好かれるし、いつも「すみません」と謝っている人より「ありがとう」と言ってる人の方がいい。自分が「いい話」を持っているとき、それを嫌いな人に教えたいとは思わない。

30%の確率で成功する人は、5回チャレンジすると成功確率が83%になると書いた。だけど実際には、回数が増えるごとに上手になって成功率が上がっていくことが多い。5回チャレンジしたら、回を追うごと上達して、83%以上の成功率になっているだろう。

確率を知ると、その確率を上げる方法や、チャレンジの回数を増やす方法を考えようと思える。闇雲に真っ暗な中を、“アタリがないかもしれないクジ”を引き続ける恐怖に苛まれるくらいなら、ちゃちゃっと計算しちゃって、さっさと上達させた方が早いんじゃなかろうか。確率の計算は、結構、かなり役に立つ。気がする。

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『みんなひとみしり』|人の話に耳を傾け、違うことを受け入れる

こんにちは。ひとみしり気味なあさよるです。わたし自身はひとみしりしている自覚はないけれども、無駄な世間話とか、駄弁りとか、愚痴の言い合いとか、そういう会話を誰とでもするわけではないから、「心を閉ざしている」と称されることがある。挨拶はする。だけど、用もないのに話をしたい相手って、かなり限定されている。

それは「用もないのに人と話したくない」と思っているからなんだけど、同時に「どうせ人に話をしてもわかってくれるわけがない」という捻くれと諦めを持っているせいだと、一応は自覚している。だからなるべく自分から情報開示するよう心掛けてはいるけれども、なんだかしっくりこない。それに、人から「ひとみしり」だと思われているということは、人から見るとなにか、やりにくさとか、よろしくない感じがしているんだろうとも思う。

自分にとって「ひとみしり」はこんがらがっていて、悩ましい問題だ。

「黙ってれば察してくれる」から脱却

いつも周囲を和ませたり、明るく振る舞ってくれる人は、偉い人だなぁと常々尊敬と感謝をしている。人間なんだから、いじわるな気持ちになったり、イライラしたり、捻くれることもあるだろうに、だけど私の前ではそんな素振りは見せないように気づかってくれているからだ。わたしも、なるべく穏やかに振舞いたいと思ってはいるんだけれども、かなりダイレクトに感情を爆発させている気が……ご迷惑をおかけしております<(_ _)>

自分と違う考えや気に入らない主張だって、最後まで話に耳を傾けてくれたり、まじめに根気よく反論を展開したり(感情的にならず)、なかなかできることじゃない。嫌な顔一つせず、ただ真面目に、素直に、受け答えしてくれる人はすごい人だ。

「ひとみしり」というのは、この反対にあるんじゃないかと思っている。わたしも結構ひとみしりをするし、たぶん多くの人もひとみしりをするんじゃないかと思う。ひとみしりって「何も言わなくても相手が察してくれる」っという前提のもと、自分がムッと黙ってその場の雰囲気を険悪にしても構わない心境のとき起こる……キツい言い方だけれども。人が自分に配慮して、自分の気持ちを推し量って欲しいのに、それをしてくれないから、居心地が悪くなってその場を立ち去ることもある。

「自分の気持ちを察してほしい」という子どもっぽい欲求を、わたしもビシビシ持っているし、誰もがそういう側面を持っていて当然だとも思っている。だからこそ、ひとみしりせず、周囲への気遣いを忘れず接してくれる人のことを尊敬と感謝している。

自分なりに気を付けていることは、自分がひとみしりをするからって、いつも明るく柔和な人のことを悪く言ったり、嫉妬したりするのだけはやめようと、それだけは自分に課している。

相手の立場に立って「聞く」練習

『みんなひとみしり』は、今ひとみしりしてしまう人が、どんな風に人と関わればいいのかを優しく指南する本だ。大事なのは「人の話を聞く」ということ。

「聞く」とは、相手の話に耳を傾け、「私はあなたの話を聞いていますよ」という合図を送ること(相槌を打つ)と、質問をする(尋ねる)ことの2つ。「自分の言いたいことを言う」訓練じゃないのが、ひとみしり克服ポイントなんだろう。

相手を思い、話題を提供することも大事だ。何を話していいのかわからないなら、相手の良いところを褒めるのも良い。でもこれは「おべんちゃら」をしているわけではなくて、あくまで本当に素敵な、すごい、良いと思うところを口にすればいい。だから、普段から物事のポジティブな側面に注目するクセを身につけておくと良いそう。

あと、「自分なんか…」と自虐するクセがあるなら、それはやめた方が良い。なぜなら、自虐する人とは関わらなくて良いから。自分も自虐し続けている限り、周囲の人から距離を置かれてしまっている。類は友を呼ぶとも言うし、自分とよく似た人ばかりが集まってしまうものだから。

ハッキリ断ったり、自分の意志や意見を言葉で表現することが、人への気遣いになることも多い。例えば食事の予定なんかで「なんでもいい」「どこでもいい」と言うのは、相手への負担になってしまう。それよりも「○○な気分だ」とか「△△は苦手なんだ」ときちんと伝えた方が、相手も楽だ。それに自分が「言いたいことを言えない」と不貞腐れて、不本意な展開にムスッとしているよりは、積極的に楽しんだ方が周囲の人にとっても嬉しいものだ。

ひとみしり克服とは、「相手の立場に立って考える」というのに尽きるみたい。

考えの違う人を受け入れる

ひとみしり克服には「多様性」を受けれることも重要なんだろう。自分と違う考えを持っている人、自分と対立する発言をした人を、敵視したり、遠ざけたり、自分を否定し傷つけた人だと思うのではなく、違っていることを認めるしかない。

人間関係において自分の思うようにいかないとき、自分が否定されたと感じるのは、自分とは違う考えや価値観があることを受け入れられず、それを拒絶している状態なんだろう。

誰にでも譲れないこともあって、それを曲げる必要はない。だけど譲れるものは譲ればいいし、相手を否定したり拒絶する必要もない。結局、頑なになっていたのは自分なんだろう。

人に配慮する大人になる

わたしも結構ひとみしりだ。もうちょっと正確に言うと、ある人から見るとわたしは、はにかみ屋のひとみしりに見えるようだ。だから便宜上「わたしはひとみしりです」と名乗る時もある。だけどその実は、すごく頑固で自分勝手だから、「そもそも他人の話を聞く気がない」というのが正しかったりするw

だからこそ、周りの人への配慮を忘れない人を見ると、ほんとうに尊敬と感謝しかないし、本音を言えば「そういう姿を見せられるとツライ」w 自分の子どもっぽいワガママが恥ずかしいから(;^ω^)

『みんなひとみしり』というタイトルは、その通り、誰もがひとみしりな部分を持っているんだと思う。だから自分だけがひとみしりをして苦しんでいると思わなくてもいい。だけどそれは同時に、みんなひとみしりだけど、人へ配慮できる大人として振る舞っているとも言える。だから、自分だけが子どもっぽく甘えているのは、やっぱそれは違うよね、とも思う。

なにより、ひとみしりし続けるのは、自分がいちばん居心地が悪い。

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『「対人不安」って何だろう?』|誰だって自分のことが気になっている

こんにちは。あさよるです。ブログをもっと充実させようと、本の感想とは別に記事を書きたいなぁと思っておりまして、それに伴ってまずは自分の記録として「ブログと私」みたいなものが書きたいなぁなんて考えていた。わたしは「ブログ」が登場する前からWEBでホームページ作って遊んでたので、元々こういうちまちまとした作業が好きなんですね。一人遊びが好きなのは、集中して遊べるから。人と一緒だと、相手の集中力にあわせないといけないから、イーっとなってしまうw

人と一緒に何かをするのは、なにかと気を使うし、それなりにストレスにもなる。人間はナワバリ意識が強い生きものだなぁなんて思う。どんなに親しい間柄でも、適度な距離感ってのがある。

人間関係に悩むのは、この「適度な距離感」がなんらかの理由で上手く取れないときだろう。距離が近すぎても苦しいし、遠すぎても寂しい。もっと一緒にいたい人が、自分のことを親しく思ってなければこんなに悲しいことはないし、特に親しくもない人が自分を特別だと思っていたりすると、こんなに鬱陶しいものはない。これは難しい話だ。

いくつになっても、人との距離感に悩むんだろう。

人間関係には悩むものだ

10代というのは無駄に悩むものだし、悩むのが本業のようでもある。と、30代になった今なら思う。その当時は、そんな無責任なことを言う大人世代に苛立ったけれども。

だけれども、たぶん悩みの解決策や対処法を教えられたところで、当時の自分はそんなもの受け入れなかっただろう。だって、「諦める」とか「許す」とか「愛す」とか、まさかそんな当たり前で使い古されたような言い回しをされたって、そんなものに納得する10代がいたら、それはそれで嫌なもんじゃないか。

こと人間関係においては、子どもは不自由だ。そもそも自分の意志で決定できない学校社会に放り込まれ、そこには人を傷つけても平気な未熟な人間ばかりが待ち構えている。もちろん、自分もその中の一人で、デリカシーのない言動で自分も人を傷つける。成長過程で「こういうことは言ってはいけないものなんだ」と学んでゆくのだけれども、その過渡期はむちゃくちゃだ。

で、10代は悩む。仲良しの友だちと一緒にいるはずなのに、なぜだかとんでもなく疲れてしまう。楽しいおしゃべりのハズなのに、自分が仲間から浮いてるんじゃないかとか、言動がおかしいんじゃないのかとか、目線が泳いでることを変だと思われてるんじゃないのかとか、あれこれと考えていると苦しくて苦しくて……という渦に呑み込まれてしまう。誰だって、多少なりとも経験することだろう。

『「対人不安」って何だろう?』では、人の目が気になる人の特徴として、「自己モニタリング」機能というものが紹介されている。「自己モニタリング」とは、

他者の反応をみながら自分の言動が適切かどうか判断する能力と、適切な言動をとるために自分の言動を場にふさわしい方向へと調節する能力の二つの側面がある。(p.99-100)

とされており、人の目が過度に気になる人は「相手の反応をみる能力はあるのに、自分の言動を修正する能力が低い」とき「対人不安」になってしまう。つまり、いわゆる「空気」は読めるんだけど、うまく「乗れない」って感じだろうか。若い人が人間関係に悩みがちなのも、自己モニタリング機能が未成熟だからなのかもしれない。

こたえはなくてもいいのだ

『「対人不安」って何だろう?』では、人の目が気になる対人不安の特徴や、なぜそんな気持ちになるのか、どうして人の目が気になるのかと理由は解説されるんだけれども、肝心の解決策は載っていない。いや、正確に言えば、ズバッと解決策は載ってるんだけれども、悩みの渦中にいる人が、こんな答えでは満足できないだろう「解決策」なのだ。

というのはつまり、正論であり、当たり前の答え。「誰だって対人不安を抱えている」。人の目が過度に気になるのは、「自分にしか興味がない」ことであり、人のことを気にしている風でいながら、「他人に無関心な状態」だ。だからお互いに対人不安を抱えているんだから、お互いに「自分にしか興味がない」のであり、それは「他人は自分のことに興味がない」ということだ。だから、あまり気にしすぎても仕方がない。

年齢を重ねると、この説明はとても納得できる。他人は、逆に腹が立つほど、わたしには興味がないものだ。

「誰にも嫌われないようにしよう」と決めた頃

しかし、読者が気に入るような結論になっていないというのは、さすが10代向けの新書だけある。答えを教えるのは簡単だけれども、自分で悩むのも大事なことだ。

もちろん、あまりに対人不安が強すぎて日常に支障をきたすようなら、新書を読むよりも専門家に直接相談すべきだ。

わたしは10代の頃、とくに高校生くらいの頃は、「人に好かれたいと思うから苦しいんだ」と思い「好かれなくてもいいから、嫌われないようにすればいい」と考えた。当時はそれはすばらしい発想だと思ったし、今ではとても愚かな考えだと思うw 思い出すと恥ずかしい思い出の一つだ。

誰にも嫌われないとは、誰ともかかわらないことだ。まぁ、わたしの性格的にも人とベタベタ一緒にいるのは嫌いだし、なんかダラダラと用もないのに駄弁ったり、そういうの嫌だから、結果的に「ちょうどいい距離感」を取れてしまったから、悩ましいんだけれどもw

まぁ、嫌われないよに程々にやるのはいいけれども、やっぱり「誰にも好かれない」というのは、考えものだ。お互いに気が合って、心置けない間柄になれる人をもうちょっと積極的に探しても良かったんじゃないかと思う。

心が平和な「忙しい」

今は、「忙しい」というのは、なんて平和なもんかと思う。わたしの周囲にいる人たちは、みんな忙しい人たちばかりだ。仕事に打ち込んだり、趣味に励んだり、勉強に打ち込んでいたり、スポーツや音楽をやっていたり、週末休む間もなく、充実した時間を過ごしている人たち。彼らは余計な時間はないので、だいたい連絡も箇条書き程度で済ませたいし、約束も時間通りスタートして、用が済んだら早く解散したい。だって、ほかにもやりたいことが詰まっているから。

類は友を呼ぶというように、自分がそんな風に生きていると、周りもそういう人ばかりになる。というか、そういう人とじゃないと、お互いに一緒にいられない。

あと、わたしが居心地が良い関係性は、顔見知りで、たぶんお互いに存在は認識しあっているけれども、別に言葉も交わさない間柄。わたしは社会人学生もやっているので、たまに試験や授業に出席すると、そういう人に出くわす。「あ、あの人まだ頑張ってるんだな」と思うと、それだけですごく励まされてしまう。別に挨拶も特別しないけど、ものすごく影響を受けている。これが、わたしが見つけた答えの一つ。

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『フランス人は10着しか服を持たない』|異文化の中でメンターに出会う

こんにちは。あさよるです。年末、大掃除がそろそろ話題になりはじめていて、片付けや掃除なんかの本を読みたいモード。今日読んだ『フランス人は10着しか服を持たない』は、人からすすめられた本でもある。しかも、外出先で本を読んでいたら初対面の人に話しかけられて、「最近何を読んだのか」という話題でこの本をおすすめされた。「読んどきます」と答えたので、律義に一応読んでみる。

本書は以前に話題になっていたのは知っていたから、読んだものとばかり思っていたが、そんなことはなかったみたい。単にシンプルライフやミニマリストの本かと思いきや、異文化の中で自分のスタイルを見つけてゆく過程がまとめられていて、一人の人間の成長期というか、未熟だった若者が成熟してゆく様子がサラッと書かれていて、さわやかな気持ちだ。

メンターと出会うこと

わたしたちは時々、尊敬したり憧れたりできる人物に出会えることがある。そういう人物のことを「メンター」とか「師匠」とか呼ぶんだろうけれども、わたしはあまり、そういう言葉を使うのは好きじゃない。言葉として「この人はわたしのメンターだ」と認識してしまうと、なんだか言葉に縛られてしまって、本当に大事な本質をうっかり見失ってしまいそうな気がするからだ。だから、わたしは「メンター」とか「師匠」とかいちいち考えずに、ただただ「すごい!」「すてき!」「おもしろい!」と心躍らせることに専念している。

そして、過去を振り返ると「あの頃に出会ったあの人は、わたしの師匠だったのだなぁ」とわかる。夢中になって、一心にその人の持っている「なにか」を吸収しまくっていたり、好奇心や、あるいは反発・怒りを抱いていたりして、わたしの血肉となっていたことに、後々気づくから。

10代の多感な頃の出会いを話題にしがちだけれども、未成熟な子ども時代の考えや発想よりも、大人になってから、つまり20代以降に自分の身に起こった出来事の方が、大人の身体で感じて考えているだけに、実はより密度が濃いんじゃないかと思っている。社会的な経験はね。

『フランス人は10着しか服を持たない』は、以前話題になってタイトルくらいは知っている人も多いかもしれない。カルフォルニア出身の著者、ジェニファー・L・スコットさんが、パリに留学した際、ホームステイ先のホストファミリーを通じて、パリの文化に触れた経験から、シンプルライフを見出す話だ。と言っても、彼女は留学後すぐに新しい生活に突入したわけじゃない。カルフォルニアへ帰国後、また元の生活に戻ってしばらく時間が経ってから、パリでのホストファミリーの暮らしぶりを思い出し、そして彼らが良いお手本だったことを知る。

つまり、学生時代が終わってから、当時出会った人物が自分のメンターであることを知る。留学中は慣れない土地で、違う文化の中で生活するのに夢中だったんじゃないだろうかと想像する。だから、その最中は何が何だかわからないんだけれども、しばらく時間が経って落ち着いた時に「自分は特別な経験をした」と気づく。

「満足」は自分が決める

で、『フランス人は10着しか服を持たない』は、アメリカ人がフランスの文化に触れて、カルチャーショックの中から、自分の生き方を見出してゆく物語だ。もともと著者は、飽食で物が有り余った生活の中から、質素で倹約なパリでの生活に、ホームステイで半強制的に放り込まれる。ホストファミリーの夫婦は、ムッシュー・シックとマダム・シックと本書では呼ばれている。とくにマダム・シックが、著者のメンター的存在になってゆく。

彼らは「シック」に生きている。「シック」とは服装や髪型のテイストだけじゃなくて、生き方そのものがシックなのだ。つまり、服装も髪形も生き方も、その人のスタイルだ。そして、パリで出会う人たちは、みなそれぞれに「スタイル」のある人ばかりだったと回想される。

クローゼットに入っている服も最低限で、だけど質の良いものが用意されている。決して、寝巻姿で家の中を歩き回らず、家庭内でもきちんとした服装をしている。厳選された調度品に囲まれ、一番良い食器でいつも家族が食事を取っている。普段はテキトーにやっておいて、特別な日だけ着飾るのではなく、日頃の平凡な毎日こそ良い物に囲まれ、良い環境で過ごしているのだ。

質素で最低限の生活なんだけれども、選び抜かれた道具たちに囲まれ、折り目正しく生活することは、生活そのものが豊かで充実している。そんな価値観・世界観に、著者は留学で初めて触れたのだ。読んでいると、やっぱりアメリカは豊かで物が溢れていることがわかる。パリでは、どんなものも大事に大事に手入れしながら使わないといけないそうだ。例えばパリでは女性用下着が壊れやすいから乾燥機にかけられないと書かれていた。

大事なのは「自分のスタイル」を持っていることだ。自分のスタイルがあれば、購買欲を煽ってくるセールスにいちいち反応しなくていいし、ブームや見栄に振り回されることもない。「自分が満足できる」ことに集中できれば、それだけで豊かだ。何に満足を感じるのかは、周囲と比べなくても、自分で決めればいい。

長く使える良い物を持つ

今、日本でもアメリカの量販店が全国展開されていて、大量に食品や生活雑貨を購入することで、倹約に努めている人もいる。それは一つの生活スタイルだろうけれども、だからこそ「物を手入れしながら大事に使う」という素朴なことを、時々思い出しておいても悪くはないだろうと思う。

わたしはどちらかというと、大量にものを買いこむタイプではなく、多少割高でも必要なときに必要なだけ買えばいいやと思っている。もちろんセールで安く買えたらラッキーだけど、焦って要らないものや、中途半端なものを買うよりは、よく考えてから定価で買ったほうがいいんじゃないかなぁと考える。なので、買い物にでかけても、何も買わずに帰ってくることも多い。

それでも、これまでは家には物がたくさんあって「安い物を買わなきゃいけない」と思っていた。ここ数年、片づけを進めていて、持ち物がかなり厳選できるようになってからは、「良い物を、それなりの値段で欲しい」思うようになった。これはかなり心境の変化だ。できれば、何年も何十年も手入れしながら長く使えるものが欲しい。だから、デザインや素材にもこだわりたい。オーダーメイドしたいとも思う。それは浪費ではなく、むしろ以前よりも使うお金は減っているから、ふしぎな話。

異文化の中から

『フランス人は10着しか服を持たない』では、メンターと出会うこと、異文化に刺激されることが、読みどころだろう。本書は著者学生時代の若い頃の経験をもとに自分のスタイルを確立してゆく過程が収められているけれども、いくつになってもメンターにも出会うし、異文化にも触れる機会は続くと思う。

そのときに、自分が全身でぶつかってゆける準備はしておきたい。自分を動かすのは好奇心かもしれないし、違和感や戸惑いから始まるかもしれない。面白く楽しい経験かもしれないし、怒りや反発から自分のスタイルを見つけるかもしれない。ときどき、自分をひっかきまわす「何か」に、これからも出会うだろう。

そのとき、本書の著者、ジェニファー・L・スコットさんのように、メゲずに挫けずに、よく周囲を観察して、自分をつくる力としたい。本書『フランス人は10着しか服を持たない』から学べることがあるなら「メンターを持つこと」と「異文化に触れること」が、「シンプルライフ」というテーマでまとめられていることだろう。生活をテーマにしているから、自分の経験が、生き方そのものを大きく変えることがよくわかる。

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堀江貴文『逆転の仕事論』|「成功者はと自分は同じ」は安心?

こんにちは。あさよるです。堀江貴文さんの本を読んだ。ホリエモンといえば、堀江さんが逮捕されたころだったか、裁判中だったかに、堀江さんの本を数冊読んだことがあった。そのとき、「堀江さんみたいな特別な人だからそう言えるんだ」「普通の人はそんなこととできない」と反発した記憶がある。確かあの時読んだのは、『君がオヤジになる前に』だったかな。当時わたしも学生だったから世間知らずだったし、なんだかよくわからない無力感でいっぱいだった。というか、まだ子ども時代の全能感みたいのを持っていながら、だけど社会はそれを受け入れないギャップに苛立ち続けていた頃だったかもしれない。

だから、堀江さんのいう「行動せよ」という言葉に、素直にノレなかった。「行動したくてもできない人だっているんだ」と怒りながら、今思えば、その実は「なにも行動してなかった」というのが正確なように思う。言われたくないことを言われたから、「そりゃそうだな」と思えるまで少し時間がかかった。

君がオヤジになる前に

それ以来、堀江さんん本はときどき読んでいる。最近は、書いてあることが素直に読めるようになった。以前は、もっと穿った読み方をしていたように思う。というか、書いていないことを勝手に読み取っていた気がする。それはヤバイ。今日、久々に堀江さんの本を読んで、自分の心境ん変化にも驚いた。

成功者に共通点があるならば…

社会の中で成功した人が「自分とは違う」と思って安心する人と、「自分と同じだ」と思って安心する人がいるんじゃないかと思う。それは「どうせやってもムダだろう」と諦めを肯定したい人と、「いつか上手くいくかもしれない」という期待を肯定したい人の違いかも。

そもそも、どういう状態を「成功例」とするのか、その定義によっても話が違ってくる。使い切れないほどのお金が預金口座に入ってることなのか、大アタリもないけれども大ハズレもない堅実な道を選ぶのか。生きてられたそれだけでいいのか、好きな人と一緒に入れたら幸せなのか。などなど、バリエーションはくらでもある。

ただ、どんな道を選ぶにしても、自分の意志で選択して決断し続けて生きることには変わらない。目先のことだけ考えるなら、他人に意思決定を任せることは責任逃れになりうるのかもしれないけれども、何十年と遠い未来まで自分の身の振り方を保証してくれるものはない。だからやっぱり、自分で決断し続けるしかないよね、という。そのための感度とか、反射神経みたいなものを、鈍らせずに維持し続ける心がけも必要だ。

んで『逆転の仕事論』は、自分で決断し続けた人の中で、今のところ成功している人の記録だ。著者の堀江貴文さんと親交のある方の聞き書きが中心だ。「今のところ成功している人」というのは、別にいじわるな言い方をしてるんじゃない。ここで取り上げられている人たちの経歴はてんでバラバラなんだけれども、共通点があるとすれば「失敗もしている」ということと「みんな普通の人だった」ということくらいじゃないかな。

それって「わたしと同じ」なのね。

自分のやりたいようにやるなら

この本に登場する人、武田双雲さん、佐渡島庸平さん、増田セバスチャンさん、ロンブー田村淳さん、HIKAKINさん、小田吉男さん、小橋賢児さん、岡田斗司夫さんの8人は「自分でやりたいようにやっている人」だ。だから「成功する」ということはきっと、やりたいようにやっている最中、それが社会的に認められたり、お金がもうかったり、多くの人が「ステキね」なんて思う状態のときに、使われる言葉なんだろう。

今は成功していてもこれから失敗するかもしれないし、今失敗してもこれから成功するかもしれないし、それはその時々で変化し続けるものなんだろうと思う。

そして『逆転の仕事論』で取り上げられている8人の方々は、それに自覚的で、失敗の体験も、成功の体験も、どちらの経験も語っている。ひきこもり経験をした人もおれば、一つのことに熱中するあまりそれ以外で大ミスばかり繰り返す人もいるし、社会の中で生きることに違和感を持っている人もいる。みんな何かしら「上手くいかない」ことを自覚しているのが印象的。

「やりにくい」に注目したら

で、「自分でやりたいようにやっている人」って、反対に言えば「みんなと同じことをしない」あるいは「みんなと同じことができない」とも言える。みんなと同じ道を行けないから、消極的に自分の道を行かざるを得なかった。不遇の時代があって、その中で「自分のワクワクすること」をやっているうちに、芽が出て成功につながった。

社会の中で「居心地が悪いなぁ」「うまくいかないなぁ」と感じるなら、その部分が自分が社会と折り合いのついていない部分……言い方を変えると、それが個性や特性なんだろう。

もし、自分が大アタリを狙うならば、型にはまり切らない部分を特化させてゆくことなんじゃないだろうか。それは、大失敗の可能性もある。ひょっとすると、それを実行すると法に触れてしまう人もいるんだろう。『逆転の仕事術』で紹介されている8名は、そういう意味で、失敗はしても法に触れるようなものではなかった「運」を持っていた人だ。

逆に言えば「運がいい」というのは、その程度のことなのかもしれない。

成功術はみんなちがう

『逆転の仕事術』でもうひとつ印象的なのが、成功を収めるまでのサクセスストーリーが8人が8人とも違っていることだ。諦めずに粘り強く頑張ったから成功につながった人もいれば、見切りをつけて新たなチャレンジが成功した人もいるし、そもそも人と同じことをする気がない人もおれば、社会になじめず引きこもりを経験した人もいる。

共通していることは、「失敗もしている」ことを「自分のやりたいようにやった」ということくらい。

成功者が、自分の成功までの軌跡を語る本は数多あるけれど、成功への「道筋」そのものをマネしてもしかたがない。それよりも「失敗もする」ということと、「それでもやり切った」ことに注目すべきなのかも。

どうせやるなら、どうするか

手堅く行くのも悪くないけれども、ただ何十年もの先まで誰も保証してくれるわけではないから、やっぱり自分で選択と決断はし続けなくちゃならない。それは、自分の道を行くのも同じ。

社会との折り合いのつかなさをいなしながら行くのか、かわりに自分のやりたいことをやりながら行くのか、それだけの違いと言えばそうなのかも。

ただ、成功者たちとわたしは、そんなに大きくは変わらないみたい。「成功者は特別じゃない」ということは、自分にとって良い話なんだろうか、それとも嫌な話なんだろうか。

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堀江貴文さんの本

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『一億総ガキ社会』|諦めないで、お客様

諦められない大人たち

『一億総ガキ社会』は、モンスターペアレントやモンスターペイシェント(患者)、引きこもりや「草食系」なんかの話を、心理学的なアプローチを交えつつ、社会問題を語ります。これらの社会的な「現象」は、元をたどれば同じ心理状態から発していると言います。それは「挫折ができない」ことです。

我が子を特別扱いするよう学校や教諭に求める親は、自分の子どもが「特別ではないこと」を受け入れられません。それを受け入れることは「自分が特別ではないこと」を認めるのと同意だからです。我が子の問題をなにもかも学校のせいにする親も、「自分の子育てに問題があった」ことを受け入れられません。

「草食系」という言葉が使われ始めて久しいですが、恋に消極的だと、恋に破れるリスクを回避できます。

学業や仕事で問題にぶち当たったとき、その責任を他者や社会に求める人もいます。「新型うつ」の傾向として、本人が何かを「挫折した」ものの、それをなかなか認められず、現実と理想のギャップに苦しんでいる場合があるそうです。その挫折は、左遷されたり、仕事が上手くいかなかったり、自分の頑張りを周囲が思うように認めてくれなかったり、問題は様々です。

諦めて大人になってゆく

「大人になる」とは、挫折を知り、諦めることが増えてゆくことです。反対に、子どもは無限の可能性と、全能感を持っています。若者は夢を追いかけて、努力をするものだし、何も始める前から諦めてしまうのもおかしな話です。

だけど、全員の夢が100%叶うわけではなく、多くの人たちは一つ一つと壁にぶつかり、諦め、身の丈を知り、自分のできること、できないことを受け入れてゆく過程に大人になってゆくと言えるのではないでしょうか。

ということは、「諦められない」現代人は、ずっと子どものままということ。子どものように諦めないことを推奨されているのに、現実には諦めざる現状に直面し、そのギャップが社会現象として浮上しているというお話。

「諦めないで」の苦しみ

「諦められない」理由は、「自分らしく」生きることが推奨されている時代だからでもあるし、また消費社会はお客様に対して「諦めないで」と発し続けます。

「諦めないで、英会話を始めましょう」「諦めないで、美容にサプリを飲みましょう」。自己実現のために仕事終わりに買い物や外食にお金を使い、帰宅後も自分磨きに時間を費やし、「自分へのごほうび」や、「自分の楽しみ」が必要です。時間もお金もいくらあっても足りません。サービスを提供する側は、そうやって消費を促しています。

「選択」と「決定」し続けること

自分らしく自由に生きてゆくとは、自分で「選択」し続け、「決定」し続け、その結果の「責任」を負い続けることです。自由に生きる、自分らしく生きることは、自分の責任のもと選択・決定をし続けることが大きな負荷となる人もたくさんいます。

自由に生きられる世界は、素晴らしい世界です。今の日本社会は、ほぼ人類の夢を叶えた世界なのかもしれません。自由に自分の生き方を選ぶことができ、医療が行き届き長寿になって、死はなるべく遠ざけられ、すごい世界に生きています。

先日、ジブリ映画の『かぐや姫の物語』の小説版を読みまして、かぐや姫が月の世界で罪を犯し、地球に落とされる理由を知りました。(以下、軽くネタバレ?します) 月の世界は悲しみのない幸福な世界です。だけど、かぐや姫は地上の人々が活き活きと生きる姿を見て「何か」を思うのです。その「何か」が彼女の犯した罪です。月の世界は悲しみがない……つまり死もなく飢えもない幸福の世界です。それは同時に、生もなくお腹が空かず、喜びのない世界でもあります。その幸福な世界で生きるかぐや姫が、地上の喜びを持って生きる人々…つまり悲しみを持って生きる人々を見て「何か」を思ったのですね。

かぐや姫の物語 (角川文庫)

幸せになるとは、退屈に生きることなんでしょう。あさよるも、自分の大切な人は絶対に、一瞬でも長く平たんで穏やかな気持ちでいることを願っています。波風はなるべくなく、いつまでも平穏でいて欲しいんです。それは「ずっと退屈でいて欲しい」という願いなのかも。

だけど実際には、理想と現実の間にはギャップがあり、「諦める」という手は封じられている以上、他人のせいにするか、他の何かに依存して気を紛らすしかなくなってしまいます。

「運がいい」「運が悪い」

ふと、『一億総ガキ社会』を読んでいると、現在のわたしたちは「運がいい/悪い」ということを、どのように受け止めているんだろうと感じました。

確かに、自由に生きるとは自己責任を負って生きる生き方なんだけども、どんな結果が待っているかは運要素も大きく関わっています。

『一億総ガキ社会』では、司法試験を何度も受験している男性が、想いを寄せていた女性が他の医者と結婚してしまい、その現実を受け入れられず「彼女はもうすぐ離婚して自分のところにやってくる。それまでに司法試験に合格しないと」と考えている話が登場します。これは恋が破れた場合の話です。だけど、恋が実ることもありますよね。自由に自分らしく生きる世界では、実った恋も自己責任(自分の成果)ということになるんでしょうか。

こと恋路に関しては、縁のものだし、タイミングもあるし、パートナーとして一緒にいられる期間が長いのか短いのかもあるし、それらは複合的に要素が入り組んでいて、大雑把に言うと「運」だと思うんですw

良いことも悪いことも、意図せずともそうなることが多々あります。「運」としか言えない、神頼みするしかないこともたくさんあります。それらをどう処理してるんだろう。たぶん「諦める」ことを認めるとき、「運」を受け入れることなのかな、なんて思いました。

「有難い」の反対は「当たり前」という話がありますが、恋が実るかどうかが自己責任の世界では、「恋が実って当たり前」という解釈になるのかな。

ちなみに あさよるも、初めて「カオス」という存在に触れたとき、理解の範疇を超えていて、ものすごく動揺しました。実際にカオスの実験も目にしましたが、心のどこにそれを持っていけばよいのか分からず、長い間そのまま棚上げしていました。やっと最近になって、なんとなく「カオス」ってこういうことなのかと扱えるような心持になってきました。

カオスから見た時間の矢―時間を逆にたどる自然現象はなぜ見られないか (ブルーバックス)

こう解釈できる

『一億総ガキ社会』も、具体的な解決策が出ないまま終わってしまいます。それは著者自身も現代を生きる人であり、子どもっぽく諦められない性質だと吐露されています。しかし、「自分はこういう状態にある」と認識できるだけでも、少し状況は変わります。実際に精神科医の著者のもとに訪れる患者さんは、自分の状況を理解するだけで、少しずつ好転してゆくそうです。

何もわからない状態は不安で、不安がかき立てられると自分を守るため攻撃的にもなってしまいます。何も解決していなくても、「知る」という行為だけで、「わからないという不安」は減るでしょう。

「諦められない」「失敗できない」現状はさながら、赤ちゃんが転びそうになれば大人が助けてやって、一度も転んだことのないまま子どもが育ってゆくような感じ。実際には、見るのは辛いですが、赤ちゃんは何度も転んで転んで、転んで起き上がる練習をしないといけません。ただ転べばいいってもんじゃなく、本書では

一)他人のせいにばなりしない
二)敗因を分析する
三)自分で起き上がる

p.247

と三つの練習が紹介されています。

あさよるにとって、本書で知れた一番の収穫は「あなたらしく」「諦めないで」というメッセージは「儲かる」ということ。そんな言葉で語りかけてくる人がいたら、その真意を探ってみるのは有効かも(苦笑)。

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『フリーランス、40歳の壁』|仕事が激減!健康、マンネリ、やっかみ…

こんにちは。あさよるです。年齢と共にぶち当たる壁ってどんどん変化してゆきます。あさよるの10代は苦しかったけれどもイケイケどんどんで怖いものなしでしたが、20代が迷ったり悩んだりもがいていたと思います。当時は無我夢中なのでそんな風に思いませんでしたが、今振り返るとそう思います。

今は30代真っただ中なので、今を客観視できませんが、のほほんとのんびりやってるつもりです。そして来るべき40代。どうやら40代って、社会的に試される年代っぽいですね。若い頃は一発逆転を狙ったり、自分の生き方を「選ぶ」時期ですが、40代はある方向を向いて進み続ける時期……といったところでしょうか。楽しみでもあり、おっかなびっくりでもあります。

今回読んだ『フリーランス、40代の壁』は、10代20代と、自分の得意分野で生計を立てていた人が40代でぶつかる問題を扱っています。特に、クリエイティブ系の人が直面する壁とは。

クリエイティブ系フリーランスの生き方

『フリーランス、40歳の壁』は、〈著述作家業を中心とした「表現業者」〉が自由業者として仕事をする時、40代ごろにぶつかる「壁」について書かれています。これから作家やライター業などでフリーランスを目指している人、転職を考えている人におすすめです。

本書によれば40歳を境にして仕事が減ってしまう人が多いそうです。健康面・体力的な問題、仕事の発注者が年下になってゆく問題(目上に発注しにくい)、仕事のマンネリ化、周囲からのやっかみから仕事が上手くいかないと感じることもあるようです。

著者の竹熊健太郎さんは40歳を境に仕事が減り始めた理由を〈①「マンガ評論家」の仕事に嫌気が差して、断り続けたこと〉〈②依頼元(出版社)の担当編集者が、年下になっていたこと〉と二つの理由を挙げてらっしゃいます。②は、若い編集者からすると年上の作家・ライターに仕事を頼みにくいようです。そのせいで、なんとなく仕事が回ってきにくくなる。①の理由は自分の都合ですが、自由業の良さは自分で仕事を選べることだけど、それを実行しすぎると仕事が減ってしまうというジレンマですね。

また竹熊さんはご自身が発達障害と診断されたことに触れつつ、自由業者の中にも発達障害を持っている人が少なからず含まれていると指摘されています。会社員として勤めることが難しく、自分の得意を活かして自由業者になっている場合です。竹熊さんは40代に仕事が減ったことをきっかけに大学の非常勤講師を始めるのですが、困ったことに大学に「就職」したものの、雇用された働き方があわず、適応障害を発症してしまったそうです。

健康面でも竹熊さんの場合は脳梗塞で倒れ、幸い後遺症もなかったのですが、40代は年齢と共に体力的な不安を感じ始める頃かもしれません。

また社会そのものも変化しています。出版界隈の仕事も、インターネットの普及、ブログやSNS、電子書籍の登場と、かつての業界や業務とは違っています。竹熊さんも、ご自身のブログを立ち上げたり、SNSで炎上したり、オンラインコミックが読める「電脳マヴォ」を運営なさっています。

「40代は若者」と「先生」の間、どちらでもない年代だから、他の世代からやりにくい年代なのかな、なんて思いました。自由業者がこの魔の40代を突破するには、それ以前からの人脈に助けられることも多いそうで、お互い様ですから、仲間は多い方がいいですね。

変化の世代

本書『フリーランス、40の壁』では、プロとして専業で食べている人が直面する「40代の壁」が主題ですが、各世代ごとに「壁」はあるでしょう。本書では、50代、60代の話題も登場します。

10代には10代の悩ましい悩みがあることは自明のことで、20代の挫折もあれば、30代の葛藤もあります。本書では、著述執筆系の、作家業、ライター業で生計を立ててこられた人向けですから、ある意味で「若い頃に成功した」人の話ってことでもあります。そんな道を進んでも、それなりに「壁」があるってことでしょうか。

たぶん、会社員を続けておられる方でも40代の「壁」ってあるんじゃないかと思います。「ローン組むなら」とか健康面のことだったり、家族のことだったり、それまでとは違う変化に直面するのかもしれませんね。あさよるも、これまで若さに物を言わせてなんとかなっていたものが、30代も半ばになるとこれまで通りにいかなくなっている気が……(;^ω^)

社会の変化に乗り遅れないように

今は変化の速い時代ですから、20代の頃に身に着けた知識やスキルもいつまで通用するのかわかりません。本書で紹介される方たちは時代の変化に対応しながら、新しいメディアへと仕事の幅を広げてらっしゃいます。

だけど実際には、そういう人ばかりでもないんでしょう。インターネットの普及で仕事がなくなった人や、時代の雰囲気、空気感が読めなくなる人もいるでしょうから、本書で取り上げられている人たちは特別な人かもしれません。

竹熊さんも、大学教授という仕事を通じて、現在の大学の実情を目の当たりにされておられるし、仕事を通じて若い世代と接点を持つのは大事なことかもしれませんね。特に表現者にとって、その時代の感覚を敏感に感じ取れるかって大事なことじゃないかと思うので、若い人の声をどうやって聞くのかって、真面目に考えてもいいのかも。

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『編集者という病』|過激すぎると「本」でしか読めない

こんにちは。あさよるです。ブログを書くって、自分で文章を書き、自分で編集し、自分でディレクションして、自分で記事を公開することなんですよね。一人編集部なわけです。何年書いてもブログのクオリティが上昇しないのも「全部ひとりでやってるからしゃーないな」ということにしておきましょうw

この「編集する」という作業が、あさよるにとって、よくわかっていないトコロです。そういえば昔、仕事で「編集の勉強をせよ」と言われたこともありましたが、あまり気ノリせず、結局やらず仕舞い。「編集」と呼ばれる仕事をしている人の様子を見ていても、あまり「良い」とは思えず、モヤモヤとしたまま今に至ってしまいました。

そして、先日読んだ編集者の見城徹さん『読書という荒野』がとても印象的で、他の本も読んでみようと手に取ったのが『編集者という病』でした。『読書という荒野』でも、編集という仕事について書かれていましたが、『編集者という病』では、もっとダイレクトにこれまで編集してきた本の話が満載でした。

編集するということ

角川書店を経て幻冬舎を立ち上げ、数々のベストセラーを出してきた編集者・見城徹さんが、ご自身の仕事を振り返る。仕事……といっても、それは私事とか仕事とかそんな話ではなく、全身全霊、すべての時間をかけて本を作る編集者の姿です。それはもう「仕事」の枠をとうに超えていて、「病」であるというタイトルです。

尾崎豊に小説を書かせ、世に送り出し続けたエピソードは、「公私混同」とかそういう話じゃないですね。表現者とは魂を削ってそれを行う。編集者はそれを「本」という形にするため、表現者と向き合う。

あさよるは「編集」って、イマイチなにをする仕事なのかわかっていなかったのですが、その人の持っている「何か」をどう切り取り、どう見せ、どう形にしてゆくのかを決める大事な仕事なんですね。

出版当時話題になった、郷ひろみさんの『ダディ』では、ずっと友人だった郷ひろみさんが、妻から離婚を告げられ苦しんでいるという話を聞き、それを本にするよう持ちかけます。内容がセンセーショナルに扱われましたが、あくまで男女が出会って結婚し、子育てをし、離婚をするという、よくある話を、当事者が心情を吐露するのだと紹介されていました。そのとき、はらわたまで書き出すような、人間の光も影も詳らかに言葉にし、本にする。そのために編集をするのです。

出版はオワコンだから終わらない

よく「出版はオワコンだ」なんて言いますが、本書を読むと改めて「出版はオワコンなんだなぁ」と思うとともに「オワコンだからこそ、出版は終わらないんだろう」とも思います。

雑誌や書籍に書かれている内容は、本の形態に印刷され、綴じられているからこそ成立しています。で、ときどき、雑誌のコラムなんかがそのままWEBマガジンにWEB記事として掲載されたとき、炎上しちゃったりしています。メディアが変われば読者が変わり、文脈も変わるので、本・雑誌ではアリだけどWEBだとNGってのが少なからずあります。

雑誌や書籍のノリの記事がWEBで炎上しているのを見ると「オワコンだなぁ」と思うと同時に、だけど、だからこそ「WEBじゃ書けないこともあるんだなぁ」とも思うので、やっぱ紙の本・雑誌がなくなることもないのでしょう。誰でも無料で読めるWEB記事の良さもあるけど、読者を限定できないが故に、読者を想定しきれず、違う文脈で読まれてしまって、違う解釈をされることもあるでしょう。多くの人にあてはまる話だけをすると、毒にも薬にもならない話しかできないし、難しいところです。

で、本書『編集者という病』に書かれている中身って、結構ヤバいというかw、他人事として読むと「こんな熱い世界があるのかぁ~!!」と燃えるけれども、自分の身近にこんな魂かけて仕事する人がいるとヤだなと思う人も多いんじゃないでしょうか(苦笑)。特に、作家と公私混同を超えて、共依存関係のように、混ざり合い、本を作ってゆく様子なんて、一般社会には受け入れがたい世界観じゃないでしょうか。だけど、ギリギリで表現をし続ける作家の作品を「読みたい」という欲を止めることも難しい。

一般の良識、社会のモラルと、狂気の世界に生きる表現者の作品を受容することのせめぎ合いって、どちらを正しい/間違いと言い切れないから、なんとも言えませんね。これから私たちの社会は、それらをどうジャッジしてゆくのかを迫られているのかもしれません。

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稲盛和夫『生き方』|素朴な生き方だから、みんなが共感してしまう

こんにちは。あさよるです。秋も深まり気温が下がってきますと、基礎代謝量が増えます。「食欲の秋」というように、身体はたくさん食べてたくさんエネルギーを燃やし始めますから、すごく疲れる! だら~んと週末を過ごしますと、週明けには気合の入るような本が読みたくなります。

今回手に取ったのは京セラ、KDDIの稲盛和夫さんの哲学が詰まった『生き方』です。ずっと積んでました。今のタイミングで読んでよかった。じっくり日曜の午後、時間をかけて読むことができて良かったです。

成功者には成功者の哲学があるようですが、その哲学は拍子抜けするほどに素朴です。「宇宙」とか「ビッグバン」とか壮大な考えも飛び出すのですが、それでも一般の人たちが持っている死生観と遠くありません。むしろ、素朴な思想だからこそ、多くの人に共鳴し、人を動かし、会社を動かせるのかもしれません。

生まれてきたことに意味がある

『生き方』は京セラ、KDDIの稲盛和夫さんの哲学が記された一冊。ビジネス書の定番ですね。といっても本書では、経営のテクニックを語るものではなく、経営者として、職業人として、一人の人間として「どう生きるのか」について言及された抽象的な内容です。

成功者の生き方ですが、「どう生きるのか」はすべての人々がそれぞれに追及しているものです。社会の中で名前もなく不遇であったとしても、「どう生きるのか」は自分で選び取らなければなりません。そのときに、稲盛和夫さんの『生き方』は自分のモデルケースとして採用しても良いのではないでしょうか。

稲盛和夫さんの『生き方』は仏教的な言葉が使われていて、その哲学が紹介されています。日本国内だけでなく、世界でも売れているベストセラーなんですって。今まで読んだことなかったや。

内容が抽象的なので紹介するのが難しいのですが、「生きる」ということが前向きに語られているのが印象的でした。「やってもムダ」「頑張っても仕方ない」「生きてる意味なんてない」なんて言う人もいますが、稲盛和夫さんは「人には生まれてきた意味がある」「人生をかけて心・精神を高めることができる」と考えておられるんですね。あさよるなんかは「生きることに意味なんてないよ」なんて思ってるタイプなので、全然違う世界観です。

人間として正しいことを正しいまま貫いていこう

稲盛和夫さんは京セラができたとき、まだ経営に明るくなくて、どう経営すればよいのか見当がつかず、

人間として正しいことを正しいままに貫いていこうと心に決めました。(p.19)

と回想なさっています。嘘はつかない、人に迷惑をかけない、正直で欲張らない、自分のことばかりを考えない。子どもの頃に教えられるようなことを、実直にやったと仰るのです。

大人になるというのは、子どもへの「建前」と、そうは言ってもその通りにできない「本音」を使い分けることです。阿部謹也さんの『「教養」とは何か』で、建前と本音の二重の世界が存在することを知ることで、日本人は社会を知り、大人になってゆくと紹介されています。

稲盛和夫さんの考えは、ある意味で子どもっぽいのかもしれません。

だけど、成功者って、無邪気で子どものような側面を大きく持っている人物であるイメージがあります。あるいは、優秀な頭の良い人もそうですよね。子どもっぽさを持っていて、その子どもの探求心、好奇心が大きな原動力となっているイメージですね。

京セラでの研究開発のエピソードも、ある意味で「無邪気」と解釈できます。開発者たちは製品としての妥協点を探っていても、稲盛さんは完璧を求める。完璧な製品を「手の切れるような」と表現されていて、モノをつくる人って妥協せず、極限まで極めに極めるんだなぁと遠い目になりました(一応、あさよるも制作の出身なので……)。

ここまで完成度を求め続けなければならないと、襟を正しました(`・ω・´)>

気分が上がる読書って大切

読書っていろんな効能がありまして、「気分が上がる」とか「興奮する」のも読書の大きな役割の一つです。稲盛和夫さんの『生き方』は、初心にかえり襟を正されるような側面もありますが、夢中でモノづくりに邁進する興奮や、完璧、究極を求める業の深さみたいなものも溢れています。

本書『生き方』では「謙虚であれ」と書かれていますが、完璧すぎて「手が切れるような」製品を創りたいって、これはこれですごく業の深い話なんじゃないかなぁ。その二つの思いが同時に存在するからこそ「無邪気」だし、誰もが到達できるものではない「境地」なのではないかと思います。

そんな人、滅多に出会えるもんじゃない。だけど、本を使って特別な人の面影くらいは追うことができる。本を読む醍醐味みたいなものを再認識しました。

ド定番のベストセラーということもあり、一度は読んでおいて良い本だと思いますv

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『読書という荒野』|いくら読んでも満たされない読書欲

こんにちは。読書の秋がはかどっていない あさよるです。バテバテだった真夏よりは読書に時間をさけるようになってるんですが、なんだか日々が慌ただしくて本が読めていません>< 食欲の秋だったり、スポーツの秋だったりと、忙しいですからね。夏の間延期していたことがどっと押し寄せてきた感じです。

さて、今日読んだのは見城徹さんの『読書という荒野』です。見城さんは幻冬舎の社長で、数々のヒット作をつくった編集者でもあられます。

この「荒野」という響き、先日図書で『オオカミと野生のイヌ』という写真集を読みまして、荒野で一匹オオカミがジロリとこちらを見ているようなイメージが湧きました(図書館ではもっぱら動植物の写真集や図鑑を見るのが好きです)。

オオカミと野生のイヌ

実際にはオオカミは家族で生活するそうで、「一匹狼」とは親離れしてまだパートナーと出会う前の若い個体だけだそうで……って、オオカミの説明はいいやw

『読書という荒野』の表紙も、見城さんがジロリとこっちを見ておられて、最初は「これは一体なんの本なんだ」とドギマギとしてしまいましたw

無我夢中に読書する

『読書という荒野』は、幻冬舎の社長・見城徹さんが本を読みまくり、編集する理由の一端に触れることができます。

見城徹さんは子どもの頃からいじめに遭い、劣等感にさいなまれていた頃から、高校に入り一転リーダー的存在になり、その後進学のため上京し、そして編集者として〈暴れまわる〉様子が綴られています。

子ども時代のいじめの経験は読んでいても胸が痛いのですが、「死んでもいい」と決心し、いじめっ子に対峙したことで運命が変わり始める様子は、大人になった あさよるにも思うところがありました。そこまで人を追い詰めちゃダメだし、そして追い詰められた人はなんとしても生き延びます。その経験が、編集者としてのスキルに繋がっておられるんですね。

高校生になって、いじめがなくなって反対に自分の言葉で自分の考えを述べられる生徒になってゆく様子も、あさよるもこうありたいと思いました。体面を気にしたり、その場の雰囲気に呑まれるのではなく、自分で考えて自分の言葉で表明する。これも編集という言葉を扱う職業に繋がっています。

そして、編集者としてのご経験は、その高揚感と熱狂が羨ましすぎると感じました。この感じ、あさよるは赤塚不二夫さんのエッセイなんかを思い出す……トキワ壮の思い出のような。とんでもなく高揚した時間を一瞬でも過ごした人の話って、いつも羨ましく思います。あさよるにはそんな時間がなかったなぁ。

赤塚不二夫120% (小学館文庫)

編集者は「言葉」で作家にアプローチし、本を作りますから、言葉はとても大切なものです。そこに説得力や力を持たせるためには、嘘を言ったり口先だけの話をしていてはいけません。「編集者」というのも、これも一つの生き方なのだなぁと知りました。

思い出、思い入れのある本がある

あさよるにはちょっぴり劣等感がありまして……それは「人生を変えた一冊」的な、思い出の本、思い入れのある本が特にないということです。もちろん、その時々にハマったり大好きだった本はありますが、あくまでマイブーム的な感じで、「今の自分を作った本」みたいなね、そんな存在がないのです。

だから実は、読書体験や、自分の特別な本について語る人というのは、憧れの存在です。

『読書という荒野』にもそういう特別な本、特別な読書体験が語られていて、しかもただ読者としてではなく著者・作者と同じ時間を過ごしながら本を作っているんですね。羨ましい&憧れのW!

見城さんは小中学校ではいじめられて、読書がある種の居場所としても機能していたよう。これもあさよるにはない経験だったり……あさよるは一体、今まで何を読んできたんだろうかと頭が痛くなってきます(;’∀’)

みなさんも、特別な本、思い入れのある本、読書が逃げ場だったり居場所だったり、ただの情報源、物語に触れる以上の働きを感じられたことがありますか?

全然足りない、満たされない読書を

心を落ち着かせるために本を読むという人もいるそうです。あさよるは逆で、本を読むと興奮するし、刺激を求めて読書がやめられません。『読書という荒野』を読んでいると、同じく「興奮」「刺激」を追い求めていると感じました。だからこそ「羨ましい」「憧れる」とも思いました。

「読書という荒野」という言葉もいいですね。豊潤で実りの多い感じよりも、「荒野」でむさぼるように読む方が、読書っぽい。そう、いくら読んでも読んでも満たされない。まだまだ欲しい、全然足りない。だから荒野の中で孤独にただ我を忘れて本を読みまくる。読書ってそんなイメージです。

『読書という荒野』の表紙の、乱雑に本を積み重ねた感じとか、わかるわかる~って感じじゃないでしょうか。もちろん、読書する人って年間千冊単位で読むそうですし、あさよるも全然足元に及ばないんですけどね(;’∀’)

本を読む高揚感、興奮、読んでも読んでも満たされない、もっともっと欲しい気分が溢れ出ている本だったし、読んでいるだけで自分の読書欲が刺激されまくる本でした。

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