【書評/レビュー】内田樹『先生はえらい』

先生はえらい!

なぜならば、先生はえらいから!

この屁理屈みたいな話が、生き方を変えちゃうのかも!?

キッカケ:内田樹さんの本を読んでみたかった

これまでに何度か、内田樹『先生はえらい』がおススメされたことがありました。

ずっと読みたい本リストには入っていたのですが、結構長い間放置していたような……。

たまに、ラジオで内田樹さんのお話を聞いていたので、どんな人なのかなぁと、著書を(やっと)手にするに至りました。

先生はえらかった!

さて、結論から言います。先生はえらいんです。必ず先生はえらい。なぜかと言うと、「先生だから」。

こんな風に結論を先に言うと、屁理屈のような話ですよね。だけど、本書『先生はえらい』を読むと、その通りだとわかる。内田樹さんの鮮やかな論理の展開にワクワクしました。

もし「いや、先生なんて下らないヤツばっかだ」「先生なんて大したものじゃない」と思うのなら、あなたはまだ、「先生」にであったことがないだけです。

でね、その「先生」は、どこにいるのか?ってことですね。どこにいるのでしょう。それは、「自分次第」としか言いようがありません。

先生との出会いは、恋のようなもの

そう、先生って、自分で見つけるもの、自分から探し出すものなんですね。

夏目漱石の『こころ』を思い出します。大学生の“私”が海水浴をしていると、たまたまある男性が目に留まります。なぜかその男性が気になり、“私”は彼を勝手に「先生」と呼び、先生のもとへ通い続けるのです。

この“先生”、客観的に見るとダメな人なんですよ。無職で、財産を食いつぶしながら家に引きこもっている。奥さんのことも、放置してるっぽいし……。実際にこんな人がいると、「ろくでなし!」と思ってしまうのかも。

だけど、“私”は彼を「先生先生」と呼び慕い、偉大なる先生の教えを少しでも吸収してやろうと躍起です。お家の事情で故郷へ帰っても、頭の中は先生のことでいっぱい。早く先生のもとへ行って、先生に教わりたいことがいっぱいあるのに!

冷静に考えてみると、なんだかよくわからない話です。だけど、漱石の名作であり、あさよるの大好きな小説の一つだったりもします。

先生に出会うって、いうなれば「恋に落ちる」のと同じこと。予測不可能だし、理屈で説明できないのです。

「先生はえらい」理由はややこしい?

なんか、わかるようなわからない話ですよね。

しかも、恋に落ちるように先生に出会うと言われてしまうと…。どうすればいいのかわかりません。先生が欲しくても、打つ手ナシってこと!?

そもそも、この『先生はえらい』はややこしいんですよ。途中、ほとんどは先生とは関係のなさそうな話ばっかりだし。確かにね、しっかりと最後まで読めば、関連していることはわかるんですが、読んでいる最中はチンプンカンプン。それが苦痛で読むのやめちゃう人もいるんじゃないでしょうか。

で、肝心の「先生の作り方」は載ってないんですよね。あくまで、先生とは何かを考え「先生はえらい」と結論に至るだけ。

この本を最後まで読めば「そういうことか」と納得できる人は多いでしょう。だけど、そこから実際に「先生」を見つけられるようになれる人って……「恋」と同じ。そうなるときはなるし、ならないときはならないんです。

先生が人生を、考えを変える

先生がいると勉強がはかどります。一人で自習するよりも先生に教えを乞うほうが、ずっと学習しやすいのは、ご存知のとおりでしょう。

それは何も学生の頃だけの話ではありません。大人になっても、社会人になっても「先生」に教えを請うことができるんです。

先生のいる人の先生の居ない人。今すぐには、大きな違いはないでしょう。だれけれども、10年、20年、30年と、長いスパンで見るとどうでしょう。

大げさに言うまでもなく、先生の有無は、将来的には生き方の違いを生むでしょう。仕事や収入にも影響があるでしょう。

「誤解」と「思い込み」が生む「先生」

『先生はえらい』では、先生の作り方は書かれていませんが、先生に必要な要素は明確に提示されています。

それは「誤解」と「思い込み」。

「先生はえらい」という「誤解」「思い込み」が、先生をえらくするんです。

先生を先生にするのは、他でもない弟子です。先生がいるから弟子がいるんじゃない。弟子がいるから、「先生になる」んです。

『こころ』の「先生」は、ろくでなしです。ろくでなしの彼に、主人公は出会い、彼を「先生」にしました。主人公は「先生はすごい」と誤解したんです。

ですが不思議な事に、主人公は「先生」から多くの学びを得ます。人生を学び、哲学を学び、学問に勤しみます。それはなにも、「先生」が主人公になにか知識を与えたのではありません。

主人公が「先生はえらい」と思い込み、勝手に、先生の一挙手一投足から、勝手に学んだんです。そう、主人公は「先生はえらい」と誤解したからこそ、一人だと辿りつけない思考や気づきを手に入れました。

先生はどこにでもいる

先生はなにも、目上の人であるとは限りません。世間的に「先生」と呼ばれる職業に就いている人とも限りません。学歴や職歴、収入は関係ありません。ということは、目下の人に先生がいるかもしれません。社会では地位の低い人に先生を見出すこともあるでしょう。これだけはわからないのです。

もっというと、先生が人間とも限りませんしね。

先生はどこにいるかもわからない

たぶん、我々が生きるには、「先生」が必要です。先生は、我々に気付きをもたらし、思慮深さを要求します。

その先生は、自分で見つけ出すしかありません。自分が他者と出会い、「先生はえらい」と誤解しないと始まりませんから。

内田樹『先生はえらい』。とても筋の通った理屈で、その通りだと納得できる内容です。読了時には得も言えぬ高揚感すらあるかも。

それだけに、人を喰ったように感じたり、屁理屈に聞こえる人もいるのかも。それこそ、読む人次第なのかなぁと思います。

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先生はえらい

  • 内田樹
  • 筑摩書房
  • 2005/1/1

目次情報

はじめに

先生は既製品ではありません
恋愛と学び
教習所とF-1ドライバー
学びの主体性
なんでも根源的に考える
オチのない話
他我
前未来形で語られる過去
うなぎ
原因と結果
沈黙交易
交換とサッカー
大航海時代とアマゾン・ドットコム
話は最初に戻って
あべこべことば
誤解の幅
誤解のコミュニケーション
聴き手のいないことば
口ごもる文章
誤読する自由
あなたは何を言いたいのですか?
謎の先生
誤解者としてのアイデンティティ
沓を落とす人
先生はえらい

内田 樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院博士課程(仏文専攻)中退。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門は、フランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『映画の構造分析』(晶文社)、『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)、『子どもは判ってくれない』(洋泉社)、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)、『私の身体は頭がいい』(新曜社)、『街場の現代思想』(NTT出版)、『他者と死者』(海鳥社)ほか多数。

コメント

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