ちくまプリマー新書

『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』|知ったかより自習を

こんにちは。あさよるです。毎日本を読んではブログに書いても、読む本はなくならないし、自分が賢くなった気もしないので、人類の知識の貯蔵はすごいなあと思うし(日本語で書かれている本の量と分野の幅広さもすごい)、自分の浅はかさもすごいなあと思います(;’∀’)>

今回手に取ったのは『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』。タイトルはドキッとせざるを得ません。

覚えることと、覚えないこと

『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』では、中高生を対象に、勉強の心得、勉強との向き合い方について指南されます。

印象的なのは、勉強には「暗記しなくてもいいこと」と「覚えた方がいいこと」があるということ。暗記しなくても、頭で考えると筋道が見えてくるのは数学の公式です。本書では面積の求め方が例に挙げられていました。形が複雑な図形も、視点を変えると単純な計算で答えが求められる場合が多いのです。「考えることで大まかな筋道が見える」「およその答えがわかる」という感じでしょうか。数学は、暗記の量は少なく抑えることができます。

反対に、覚えた方がいい「暗記」の鉄則。脈略もない組み合わせの言葉を記憶するのは至難の業です。なので、暗記するものは「なるべく多くの情報を一緒に覚える」と、記憶に残りやすいのです。例を挙げると、

① 太った男が  錠を買った
② 力の強い男が  ペンキのハケを買った
③ 眠い男が  水差しを持っていた

p.50-51

上記の文は、要素は少なく単純ですが、脈絡がないので覚えるのは面倒です。しかし、情報量が増えると、一気に記憶に残りやすくなります。

①肥った男が買った錠は、冷蔵庫にかけるためです。つい冷蔵庫を開けて食べてしまうので、食べ物を出すのにわざと手間のかかるように、錠を買ったのです。
②力が強い男は、ウエイトトレーニングに使うバーベルにペンキを塗り、その後始末でハケを洗っていたのです。
③眠い男は、眠気覚ましにコーヒーを飲もうと考えました。そして、コーヒーメーカーに水を入れようとして、水差しを持っていたのです。

p.52

こうやって文にすると、情報量は多くなり暗記量は増えているハズなのに、記憶しやすいんです。「この人はなぜこうしているのか」と状況を想像することにより、人と行為が結びついてすんなりと頭に入ってきます。思い起こすのも簡単です。暗記勝負になるとつい「覚えることは少ない方がいい」と考えてしまいがちですが、反対に覚える情報を増やす方が簡単です。歴史の年号を語呂合わせで覚えるよりも、「なぜどんな流れでそうなったのか」と他の情報と合わせて覚えるほうが思い出すのも簡単です。

さらに忘れてはならないのは、総合的な知識です。先ほどの例だと、③の「眠い男は、眠気覚ましにコーヒーを飲もうとした」という文は、「コーヒーは眠気覚ましになる」という知識があって初めて理解できることです。知識は総合的に、他の分野を行ったり来たりしながら、教養を深めてゆくことが、勉強を効率的にするのです。

「わからない」に注目する

本書後半は、本当はよくわからないのに、なんとなくわかった気になっている落とし穴に注目します。たとえば「蜘蛛は昆虫ですか?」と質問すると、学生たちは「蜘蛛は昆虫ではなく虫だ」と答ますし、昆虫の定義を言います。しかし定義を知識として知らなくても、昆虫の体の仕組みを知っていると、昆虫と虫の違いがわかるんだそうです。これも「教養」があれば、定義の暗記がなくとも、答えが導き出される例です。

こういう「わかったつもり」はたくさんあります。例として三好達治の詩「こんこんこな雪ふる朝に」が紹介されています。この詩は、特に難しい言葉も使われていないので「わかる」んです。が、改めてその情景について質問されると、パッとイメージが広がります。つまり、サラッと読んで「わかったつもり」でいても、鮮明にイメージしないと詩に描かれている様子を理解したとは言い難いですよね。

「わかったつもり」は厄介です。もしかしたら「わからない」「苦手だ」「嫌い」よりもたちが悪いかもしれません。『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』ではこの「わかったつもり」をあぶり出すよう指南されております(;’∀’)>

大人は「分かったつもり」か「知ったかぶり」

はてさて、本書『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』を読むと、大人になるというのは「わかったつもり」ばかり増えて、さらに「知ったかぶり」も増えることなんだなあと痛感します。これは仕方がない側面も大きいと思うし、一概になにもかもが悪いとは思いません。自分の知らない話題が展開されていても、自分だけが「わかりません」と発言して全体の流れを妨げてしまうことを遠慮することもありますし……。しかし、一人の人間としては「知ったかぶりはなるべくしたくないなあ」と思うし、そして「ああ、また知ったかぶりをしてしまった」とヘコむこともあります。

昔、甥が幼稚園へ上がる前の頃、電車が好きで、路面電車を見に行きました。あさよるが「あの電車は道路の上を、自動車と一緒に走るんやで。信号が赤になったら車と一緒に止まるねん」と教えると、「コイツなんかアホなこと言うてる~!でっ、電車が信号で止まるワケないや~ん!ぷぷぷ~!」みたいな、まさにプケラ状態で、ホントにこんな感じで → m9(^Д ^) 指さして心の底から嘲笑うようにバカにされたんですよね~。だけど、いざ路面電車が動き出し、本当に道路の上を走り、本当に赤信号で停止している様子を見て大フィーバー! さっきまでの嘲笑いモードから一変、「見て!見て!電車がぁああ!」みたな大興奮でキャーキャー叫び声を上げていました。私は「だから言うたやん」と思いつつ、「この手のひら返しはマネできんな」と、子どものパワーに圧倒されました。

こんな風に自分の発言が全く否定されるような現実に直面したとき、大人はどうしてもなかなか発言を撤回できません。それは頑迷とも言えるし、「発言の一貫性を失ってしまう戸惑い」もあると思います。だけど、子どもはそんなの全く気にせず、盛大に、さっきと全然違うことをしまう。この子どもパワーは大人になると羨ましい限りです。

知ったかぶりはやめられなくとも……

あさよるは、「知ったかぶり」「前言撤回できない」のは大人の性だと思うので、それ自体は仕方ないと思うし、他人のそんな振る舞いもなるべく寛容でありたいです(なかなか難しいですが……)。

その代わりに、人前では偉そうに知ったかぶりしちゃったなら、その後プチ反省して、後々コッソリと自習する習慣は持っていたいと思っています。自戒しつつ、自習できればいいかななんて思います。大人になると、どんどん誰も何も教えてくれなくなるし、自分からも「教えて」って言いづらくなってゆくし、せめて「後から勉強しよう」って習慣だけは死守したい……。

もちろん、「知りません、教えてください」って素直に言える人を見ると「偉い人だなあ」と尊敬しかないし、「それに引き換えわたしは……」とヘコむばかり。(;´д`)トホホ

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『QOLって何だろう』|命の質を自分で決める、そのために

こんにちは。あさよるです。あさよるはここ数年、断捨離・片づけに励んでいるのですが、「QOL」という言葉を知ってから、片づけがひとつ進むたびに「QOLが向上した!」と悦に浸るようになりました。あさよるにとっての「QOL」は、生活のクオリティー、気分よく、機嫌よく毎日を過ごすことでありました。

今回手に取った『QOLって何だろう』では、生活の質の話ではあるのですが、もっとシビアな「命」のお話です。生命倫理を一緒に考える内容です。

明快な答えが用意されているものではないので、読んだらモヤモヤとしてしまう読書になるかもしれません。だけどそのモヤモヤと向き合って生きることが、QOLを考えることにつながるんだと思います。

「幸せ」ってなんだろう

本書『QOLって何だろう』は、「幸せ」とはなんだろうかと考え込んでしまうものです。現代日本では、高度な医療に誰もがかかることができ、「人生100年時代」なんて言われるくらい長寿が叶っています。ヒトにとって、医療にかかれる、長生きができるとは、これ以上のない幸せが到来している時代だと言えるでしょう。

そこでわたしたしは「どう生きるのか」「幸せに生きるとは」と新たな課題に直面しています。本書『QOLって何だろう』は10代の若い方たち向けに、医療現場で直面する「命」や「幸せ」「意思」を問いかけるものです。若い世代ほど「老い」や「病」がまだ遠いものである方も多いでしょうから、なおさら大切な問いかけです。

「QOL」とは

「QOL」とは「Quality of Life」の略です。。

 Quality of Lifeは、その「よさ(質)」を問います。
「生命の質」と言えば、生きることの意味や価値が問われ、人間の生命の尊厳や、苦痛のない「いのちの状態」が問題となります。
「生活の質」と表現すれば、病気を抱えながらも、できるだけ普段通りの生活を送れることや、自立して生きられること(これは人間の幸福感の源です)を目指そうとし、「人生の質」と言えば、その人の「生きがい」、自分らしく生き切ること、自分の人生観に沿った生き方が実現できるかが注目されます。
つきつめれば、QOLは、そのいのちを生きる本人にとっての「幸福」や「満足」を意味しているのです。

p.9-10

「病気をしても、いつも通りに生活したい」「自分らしく生きたい」と願い、幸せに生きられる「質」の向上が求められています。「畳の上で死にたい」とか「最後は自宅で」と願う人は多いですし、延命治療をどこまで受け入れるのか、どこでやめるのかは、本人にも、また家族にとっても重大な決断になります。

同時に、医師や看護師、介護士らにとっても、クライアントのQOLは重大です。患者の願いを優先するのか、医療を施すべきなのか、悩みが生まれています。

医療の進歩が「QOL」をもたらした

かつて伝染病が蔓延し、たくさんの人々が死んでいった時代、個人のQOLよりも、患者の治療や隔離が重大でした。ことによってはパンデミックを引き起こし、国の存亡にまで関わることだからです。また、医療が十分に発達していなかった時代には、治療を受けることがリスクになることもありました。例えば麻酔がなかった時代や、抗生物質が発見される前の時代は、治療を受けない人もたくさんいました。

QOLは医療が十分に発達したことで、直ちに治療、隔離しなければ他の人の命にかかわるような環境から社会が脱したことによります。医療の進歩が、QOLの概念をもたらしたのです。

医療の進歩が「QOL」を難しくした

同時に、医療の進歩がQOLの判断を難しくしました。余命宣告をされ、手術により延命できるとき、それを受け入れるのか。認知症高齢者は、入院によって体力が落ち、寝たきりになることがあります。治療とにって食事が困難になるならば「おいしいものを食べたい」という欲求の、どちらを優先すべきなのか。

どれも答えのない問いです。本書ではたくさんの実例が紹介されています。

アメリカで起こった「リナーレス事件」では、生後7か月の子どもが風船を誤飲する事故を起こし、一命はとりとめますが、脳を損傷し自発呼吸ができず、意識も回復しないと告げれました。人工呼吸器につながれた息子を前に、父親は「息子の魂を自由にしてほしい」と人工呼吸器を外すよう頼みますが、医師は断ります。当時の考えでは、人工呼吸器を外すことは「殺人」に当たると考えられていたためです。8カ月ものあいだ父親は苦悩し、ある日ある決断をします。銃で医療者を脅し、誰も病室に近寄れないようにして、父親自らが人工呼吸器を外したのです。そして我が子を抱き、命が失われるのを確認してから、泣きながら自首をしました。

当時「延命治療がもたらした悲劇」として話題になったそうです。

本書ではこう考察されています。

 おそらく、彼は、息子のいのちが「生かされている」状況を見て、延命による生とQOLとのギャップを感じていたのではないでしょうか。それは、このような状態で生き続ける息子の「生命の質」は低いという、QOLの判断です。
その判断をもう少し抽象的にすれば、確かに生命は尊いけれど(息子の生命は自分にとってかけがえのないものだけれど)、その生命の状態によっては、生きるに値しない生命もあるということになります。

p.114-115

本来ならば、何が幸せで、何が活きるに値するかのQOLは、本人の意思によって決められるべきです。他の人が見て「あの人はQOLが低い」「あれは生きるに値しない」と決めることではありません。親であっても、我が子の命の判断をしても良いのでしょうか。

植物状態で意識もないと考えられていた人が、肉体が一切反応もなく動かないだけで、全くクリアに意識があった事例が話題になりました。その後、植物状態だと考えられていた人を検査しなおすと、同じような人がたくさん見つかったそうです。動かない肉体の中に、意識が閉じ込められた状態だったというわけ。タブレットを使って意思の疎通が取れるようになった人の話では、医師と家族とのやりとりなど、鮮明に覚えており、ずっと意識がハッキリとしていたといいます。

意識のない人や、QOLの判断ができない状態の人のQOLを、誰が決めるのかについて「生命倫理学」では統一見解がないそうです。

本人のQOL、家族のQOL

認知症で徘徊のある高齢者が骨折をしたとき、家族は「寝たきりのままでいい」と判断することも少なくないそうです。病気や怪我の本人のQOLのみならず、その人を介護する家族のQOLも絡んできます。

本書では羽田圭介さんの小説『スクラップ・アンド・ビルド』のエピソードが紹介されます。主人公は祖父が「自然死」を望んでいることから、祖父の身の回りの世話をなにもかも勝手出ます。祖父を「なにもしなくていい」状態に置き、体力を低下させ、判断力を失わせ、自然と死に導入させられると考えたからです。一方で、主人公の母は「皿は流しに持っていきなさい」「自分でなんでもやらなきゃ寝たきりになってしまうから」と、祖父に厳しく当たります。母には母の思いがあります。

祖父は自分のことを「早う死んだらよか」と言っていたのに、ある時お風呂場でバランスを崩し、主人公に助けられ「死ぬとこだった」と安堵します。その言葉を聞いて主人公はめまいを感じます。「早く死にたい」と望んでいた祖父が「死ぬとこだった」と言うからです。どちらが祖父の本音なのでしょうか? ……たぶんどちらも祖父の本音でしょう。

スクラップ・アンド・ビルド

また、家族も「自宅で自然死してほしい」と願っていても、同時に「少しでも長く生きてほしい」と願ってもいます。自宅で死を迎える準備をしていたのに、いざ親や配偶者が目の前で発作を起こすと救急車を呼んでしまう人も少なくないそうです。そして、「もう一回話がしたい」と、「もう一回」を望むのです。

若い世代には馴染みのない話題をやさしく

本書『QOLって何だろう』は、ちくまプリマ―新書で、10代の人でも読めるように構成されています。副題に「医療ケアの生命倫理」と謳われていますが、若い人ほどまだ「病気」や「老い」に縁遠い人も多いでしょうから、多くの事例や例を挙げて紹介されています。

2016年の相模原障害者施設殺傷事件では、事件が海外でも報道されました。

 私はこの事件について新聞の取材を受けた際に、記者の方といろいろとお話したのですが、そのとき、つくづく感じたのは、この事件に対する、海外の反響と日本のそれとの大きな違いでした。
欧米では、優生思想に対して、世論がとても敏感に反応します。今回の事件でも、米国ホワイトハウスやローマ教皇は、すぐに声明を出しました。
ローマ教皇・フランシスコは、同日、事件で人命が失われたことに「悲嘆」を表明し、「困難なときにおける癒し」を祈り、日本における和解と平和を祈願していました。ホワイトハウスでも、プライス報道官は「相模原で起きた憎むべき攻撃で愛する人を殺害されたご家族に、米国は最も深い哀悼の意を表する」という声明を発表しました。
しかし、日本では、障害者がターゲットにされた事件だということに対して、国民の当事者意識が低いように感じられます。精神的に問題のある一人の男性が起こした凶悪事件という認識にとどまり、彼に「障害者はいなくなればいい」と言わしめてしまった社会のあり方や、いのちの尊厳について、根本から問い直すという問題意識が、希薄なのではないかと思えてなりませんでした。

p.16-17

日本は高齢社会ですから、これからますます「どう生きるか」「どう死ぬか」「幸せとはなにか」に社会は直面するでしょう。にもかかわらず、一般にはまだQOLの考え方は広まりきっていないですし、「命は誰が決めるのか」と議論する土壌すらまだないのかもしれません。

本書は、若い世代へ向けた生命倫理について問いかけるもので、明確な「答え」は存在しません。本人の意思だけでなく、苦悩する家族や医療者にも共感してしまい、答えが見つけられない人も多いでしょう。

幸せは自分で決める

あさよるは昔、路上で気分が悪くなって救急搬送されたことがあります(;’∀’)> その時に始めて「救急車の乗り心地は悪いんだなあ」と知り、カーテンで仕切られた処置室の天井を眺めながら「ここで死ぬのは嫌だなあ」としみじみ思いました。「最期のときは自宅で」と望む人がたくさんいる理由を痛感したのでした(ちなみに、今はもう元気っす)。

誰も病気になりたくないし、怪我や事故に遭いたくはない。叶うならどうか、静かに自宅で家族と一緒に居たいと願うのはおかしなことではありません。だけど、病や事故は突然やってくるもので、願いが叶わない人もいます。

今回、記事中ではかなりギリギリな例を挙げましたが、誰もがいつか最期の瞬間を迎えます。その時自分は「どう生きるのか」「どう死ぬのか」「何が幸せなのか」と考えることは、悪いことではないでしょう。

しかし、自分で選択するとはつまり、責任は自分が持つということでもあります。これまでのように「医師にお任せ」ではなく、自分の意識を持つことが迫られているとも言えます。自分の命の行く末を家族に決めさせるのも、それはそれで酷な話だろうと思います。やっぱり、自分でよく考えて、自分でよく調べて、家族に話しておくべきことじゃないかと思いました。本書はその助けとなる、最初の一冊になるでしょう。

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『独学という道もある』|道を踏み外すと……また別の道がある

こんにちは。あさよるです。このブログを始めたのは「読書習慣を身につけたい」ことがきかっけでした。元々本を読むのは好きでしたが、社会人になってから忙しくて読書をしなくなり、いつの間にか「本が読めない」「集中できない」ようになっていました。このブログも、長続きしない予定で始めたのですがw、なんとか2年半くらい、毎平日一冊の本を読んで感想を投稿するという習慣がつきつつあります。

そう、社会人になると、忙しいんですよ。学生時代にやっていた習慣の多くがなくなってしまいました。習慣は失うとなかなか帰ってきません。その最たるものが「勉強」じゃないでしょうか。朝から夕方まで椅子に座って授業を受けて、家に帰って復習予習をして……って、よくそんなことできるもんだぜ!w

あさよるは、いざというときのために、前もって読書習慣や、勉強の習慣を身につけておいた方が安心できると思っています。だって、ピンチのときに本なんか読めないし、ヤバくなってから勉強できないもの! いざという時はもう遅い。「安心」のために勉強しよう。

自分で道を選ぶこと

本書『独学という道もある』では、「みんな」とは違う、「普通」じゃない道を選んだ人の体験記です。ただし、最初にネタ晴らししちゃいますが、みんなと違う、普通じゃない人生を歩む人は、意外と多いという体験を綴った内容でもあります。

著者の柳川範之さんはお父様の仕事の都合で、小学生の頃シンガポールで過ごし、日本の中学へ進み、高校生になる年齢の頃はブラジルで過ごしました。ブラジル時代に会計士の勉強をし、独学で大検を取り、慶応大学の通信教育学部で学びました。その後、東京大学大学院へ進学し、現在は東京大学の教授をなさっている方です。

変わり種の経歴だと思いますか? しかし、著者によると、慶応大学の通信課程で学ぶ人の年齢も経歴も様々で、東京大学大学院へ入学しても、いろんな経歴の持ち主が集まっていたそうです。もちろん、東京大学から大学院へ進む人が多いのですが、社会人を経験してから大学院へやってくる人もいます。

小中高と、周りと同じように学校へ出席し、進学していると、それ以外の道は閉ざされているように感じます。それ以外の道を選ぶことは「道を踏み外す」ことで「人生詰む」ことのように考えてしまいます。しかし、ふたを開けてみると、意外にも様々な経歴の持ち主が社会の中にいるんです。

自分で道を切り開く

本書は『独学という道もある』というタイトルにもある通り、「独学」のメリットデメリットが紹介されます。メリットはいつでもどこでも自分のペースで勉強できることですが、デメリットは、自分で勉強するモチベーションを保ち続けないといけないこと。そして、著者の場合はブラジルから日本の大学に在学していたので、資料集めに苦労なさったそうです。

独学は、自力でなんとかできる人にとってはとても有益。よい学び方ですが、かなりエネルギーが必要な学び方みたいですね。また、全日制の高校だと、勉強をサボったり授業をフケても、先生が怒ったり追試を受けさせられますが、独学ではそんなサポートもありません。

自分の道を自力で切り開くのは、大きな力が必要です。それが苦痛と感じるか、自由で良いことだと感じるか、自分次第……(–)>

道を踏み外す……と、別の道がある

本書『独学という道もある』は、10代の若い人へ向けられて書かれた本です。子ども時代は、横並びの学校教育を受けていますから、みんなと違う、人と違う選択をする機会もないし、それはとんでもなく悪いことで、恐ろしいことだと感じている人も多いでしょう。でも、万が一、道を外れてしまっても、そこにはまた別の道があるだけです。

著者の柳川さんは、お父様の仕事の都合という子どもにはどうにもならない事情で、変わり種な経歴を歩みはじめました。しかし、柳川さんはその環境で、自分のやるべきことをやり続けたんですね。人と違うからって、腐ったり、スネたりしてたら、マジそのまま「人生詰み」になる可能性もありますが、メゲてないのがすごいところ。

選択肢を増やそう

本書で度々挙げられているのは、外国の学校事情です。ブラジルでは、進学先としてアメリカや他の国の大学を考える人も少なくありません。また、子育てが一段落してから大学へ来る人や、経歴も年齢も様々です。著者の柳川さんが学んだ、慶応大学の通信教育課程でも、経歴も出身も様々な人と出会ったそうです。そして、東京大学大学院でも、社会人を経てから大学院へ入学する人もいました。

別に、小→中→高→大学→社会人だけが道じゃないし、一度社会人になったら二度と勉強しちゃいけないわけじゃないし、自分の好きなようになれば良いんです。

本書の最後に、選択肢を増やすこと大切さに触れられています。難しい時代です。この先どうなるかわかりません。誰も行く先を照らしてくれません。だからその都度学び続けないといけないし、嫌でも自力で「独学」という選択肢を常に持っていたいところ。

社会人だって、独学できる

本書『独学という道もある』は若い10代向けの本です。だから「独学という道〈も〉ある」なんですね。今のままの道を進んでもいいし、大勢と同じカリキュラムを選んでもいい。その中で、独学という道〈も〉あるよ、という提案です。今、自分の進路に迷っている人や、多くの人と違った道に進まざるを得ない人は、元気のでる体験談でしょう。

一方で、大人たちにも響く内容だと思います。一度社会人になっちゃうと、多くの人は傍に先生も師匠もいない人が多いでしょうし、教科書・参考書を開いて勉強する機会も減ります。その分、社会生活の中で実地で学ぶことが増えますね。でも、なにかのタイミングで「勉強したい」や「勉強しなければ」という事態に直面しても、「独学という道〈も〉ある」という選択肢は、勇気づけられるのではないかと思います。

社会人になってから、誰もが大学や大学院へ入学できるわけじゃないし、仕事や子育て、介護や病気や障害を抱えながら通学できる人も限られているでしょう。そのときに「独学という道〈も〉ある」というのは、「そりゃそうだな」と納得できるんじゃないでしょうか。

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『西洋美術史入門』|旅支度するように美術鑑賞の用意をしよう

『西洋美術史入門』挿絵イラスト

こんにちは。旅行しない あさよるです。旅行の計画を立てている内にお腹いっぱいになっちゃって「もういいや~」とお流れになるのが定番。その代わりの楽しみとして、フラッと近場の美術展で満足しています。

はじめて美術館へ行ったとき、確か兵庫県立美術館のゴッホ展へ行ったのですが、なにがなんだかわからず驚愕しました。絵って、パッと見てスゴイ、圧倒される~って感動の連続だと思ってたのですが、想像と違ったんです。今思えば、予想以上に「情報量」が多くて驚いたんだと思います。ただ「パッと一目見て感動して終わり」ではなく、絵の一枚一枚に説明があって、またゴッホの作品以外にも書簡や文字の資料も展示されていました。

「どうやら美術を鑑賞するには、なにやら事前知識が必要だぞ……」と、思い知った一日でした。知識って言っても、詳しい人に案内してもらったり、数をこなしているうちにちょっとずつ身につくでしょうが、やはり大人の遊びとしては、ガッツリやりたいじゃないですか! ということで、あさよるの中で「美術鑑賞のための下準備」は、折に触れて少しずつ進行中です。

絵はメディアだった

現在の日本で生まれ育った人は、小学校中学校と義務教育を受けていますから、文字の読み書きができて当然の社会で生きています。しかし、それは歴史の中で見ると異常な状態で、昔は文字が読めない人が大半でした。現在では書物に書き記せば他の人に情報が伝えられますが、文字が読めない人に情報を伝えるために用いられたのが「絵」でした。

教会の壁に絵が描いてあって、その絵の「絵解き」をして人々に信仰に基づく振る舞いを教えていたのです。昔の画家たちは、自分の好きな絵を描いていたわけではなく、教会や上流階級の貴族たちから「注文」されて絵を描いていました。ですから、発注者から受け取り拒否される絵画もありました。

現代の感覚だと「好きな絵を描く」「趣味で絵を描く」と考えてしまいがちですが、画家たちが思い思いに好きな絵を描くようになったのはとっても最近のお話です。多くの絵画は発注者の要望が反映されています。ですから、「なんでこの絵を注文したのか」という理由を知らなければ、今の感覚で絵画を見ても「何が書いてあるのかサッパリわからん」「何がいいのかわからない」ということになってしまいます。そこで、絵画について「学ぶ」必要が生じるのです。

絵を買う人には、欲しい理由がある

絵画を発注者がいて、受注して絵を描くのが画家だと紹介しました。その時代その時代で、描かれた絵、流行った画題には、発注者のニーズが反映されています。

例えば、ペストが流行した時代、まだウイルスが人から人へ感染していると分からず、特効薬もなかった時代です。人々は神からの罰だと解釈して当然です。そこで、聖セバスティアヌスの図像がたくさん描かれました。聖セバスティアヌス(聖セバスチャン)とは、キリスト教迫害により、殉教した人です。柱に括り付けられ、数々の矢を射られて死刑になりました。この「矢」がペストと重なります。ペストという罰を受けても、聖セバスティアヌスのように信仰を貫き続けなければ天国へ行けないと、当時の人々は考えたんですね。

絵を発注する人々は、自分が善行を重ねていることを神にアピールするために、絵画を発注しました。西洋では慈善活動や、社会的弱者を救済する文化があります。有名なミレーの「落穂拾い」では、貧しい人々が、収穫後の畑に落ちた地面に落ちた穂を拾っている様子が描かれます。

「神様へのアピール」って面白いですね。多くの日本人にとって、ただ知識もなく西洋絵画を見ていても「その発想はなかった」って感じじゃないでしょうか。

流行りを知ると社会背景が見える

先ほどのペストの例のように、その時代ごとに流行した画題があります。どんな絵が流行ったかを見てゆくことは、その時代の社会背景を読み取っていくことです。多くの人が文字を読めなかった時代、「絵」には今以上に「意味」が込められていました。西洋美術に触れることは、西洋の歴史に触れることなんですね。

ということは、「絵を見る」ためには勉強しなくちゃいけないなあと、新たな好奇心がうずきます( ´∀`)b

絵には「見方」があるのだ

『西洋美術史入門』挿絵イラスト

本書『西洋美術史入門』で大きな学びがあるならば、「絵画には見方がある」ということでしょう。もしかしたら、アート鑑賞を「自由に」「感じたままに」するものだと考えていた人にとっては、ビックリかもしれません。あさよるも以前は「自分がどう感じるかこそが大事だ」と思い込んでいました。

しかしこの「自由に」というのは、実はとても不自由だったりします。それは、旅行のツアーで「自由時間」という名の放置時間を、持て余してしまうのと同じです。いくら観光地だからって、右も左も分からない所に放り出されても、途方に暮れるばかり。結局、その辺をプラっと歩き回って、あとはカフェや休憩所で時間を潰すのがオチ。「自由に」というのは聞こえは良いですが、不案内な場所・事柄の場合は逆に「不自由」な結果になります。

残念ながら日本の学校教育では、西洋美術について学びはしますが「鑑賞の仕方」までは時間が割かれていません。だから美術作品を「自由に」鑑賞せよとなると、どうしていいかわからないのかも。また、一部の美術・芸術ファン以外は、美術館も博物館も馴染みのない施設かもしれません。

美術鑑賞は、旅行のように、ワクワクと事前リサーチして、よりディープに浸りましょう。楽しみのための勉強っていいね。

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『伝わる文章の書き方教室 書き換えトレーニング10講』|ゲームで文章力うp!

こんにちは。毎日ブログを書いていると、自分の文体というかキャラというか……を見失いがちな あさよるです。愉快でコミカルな感じでお送りしたいと常に思っているのですが、上手く伝わっているでしょうか……(;’∀’)>

今日紹介する『伝わる文章の書き方教室』は、その名の通りズバリ「伝わる」ための作文レッスンの本です。良い文にせよ悪い文にせよ、まずは〈伝わらないと〉善し悪しの判断さえしてもらえません。とにもかくにも「伝わる文章」の練習をはじめましょう。

作文ゲームで文章を練習しよう!

本書『伝わる文章の書き方教室』は、作文のレッスン方法が紹介される、ちょっと変わった本です。あさよるネットでもこれまで、文章の書き方に関する本を紹介してきましたが、漢字ドリルや算数ドリルのように、文章を自分で組み立てながら進めていく内容のものって、なかったんじゃないかな?

一つ目のレッスンはこんな感じ。

レッスン1 適切なことばを選ぼう――特定の音を使わずに書き換える

例題1
次の文章を、「い」を使わないで置き換えてください。

吾輩は猫である。名前はまだない。 (夏目漱石『吾輩は猫である』冒頭)

もちろん答えは何通りもある問題です。あさよるはこんな風に考えました。

「私は猫よ。名前なんて初めからなかったわ。」

どうでしょう。本書では「余は猫である。目下のところ名無しである」と文章を作っていました。これは「吾輩」という偉そうな感じを前面に出し、猫の横柄さがそのまま出ている文章です。ちなみにあさよるは、誰もいない指令室に駆け込むとAIが音声で「私は猫よ」と話しかけてくるイメージでしたw 確かにこれじゃ、元の『吾輩は猫である』と全く違う世界になっちゃいます(;’∀’)>

これは〈語彙力〉を増やすレッスンです。一つの文章を、他の言葉を使って表現し直します。『吾輩は猫である』の例文では「い」を使わないというルールでした。子どもが遊ぶ〈しりとり〉もこの手の遊びですね。もっと他の音をどんどん抜いて、表現の幅を増やすレッスンがあります。

〈語彙力〉の他に〈表現力〉〈論理力〉を伸ばすレッスンが用意されています。

やっぱ書いてナンボ!?

本書は読んでいるだけでなく、実際に手をうごかして文章を作っていくことが前提になっています。でも、退屈な〈お勉強〉というよりは、頭を使った〈ゲーム〉みたいに取り組んでOKだから、勉強よりずっと楽しい時間でしょう。

やっぱり、文章力アップしたければ、まずは「書く」ってことが大事なのね……当然だけど(;’∀’)>

そして、数をこなせばいいわけじゃないってこと。本書のように、良い文とは何か?を踏まえたうえで、そこへ向かっていかなければならず、アサッテの方向に進んでも仕方がありません。闇雲に作文を嫌々書きまくるよりも、本書『伝わる文章の書き方教室』のような指針になる本に添って、レッスンをした方がよさ気ですね。

分かりやすい文章に、ビビる……

本書では、伝わる文章の良い例も数々紹介されているのですが、改めてその的確さにビビりました(;’∀’)

その例が、夏目漱石の『門』。

・針箱と糸屑の上を飛び出す様に跨いで茶の間の襖を開けると、すぐ座敷である。南が玄関で塞がれているので、突き当りの障子が、日向から急に這入ってきた眸には、うそ寒く映った。其所を開けると、廂に逼る様な勾配の崖が、縁端から聳えているので、朝の内は当って然るべき筈の日も容易に影を落とさない。(一の二)
・夫婦の坐っている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間ある。下に女を入れて三人の少人数だから、この六畳もじゃ余り必要を感じない御米は、東向の窓側に何時も自分の鏡台を置いた。(四の十四)
・宗助は玄関から下駄を提げて来て、すぐ庭へ下りた。縁の先へ便所が折れ曲がって突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間程の所は尚更苦しくなっていた。(七の四)

p.110

この文章から、家の間取りが分かるというのです。分をじっくり読んで想像してみて下さい。同じく、『門』の文章から間取りを書き起こした図が、朝日新聞の記事にもありました。合わせてご覧ください。

それにしても、これだけの文章だけで家の間取りを正確に描写できるのって……論理的に論述できているということです。みなさんのお住まいも、言葉だけで表現できるでしょうか。あさよるは……絶対ムリ!(^^♪

宿題にもブログにも作詩にも

本書『伝わる文章の書き方教室』は、ほとんどすべての人に必要な力のレッスンが紹介されています。文章を書かない人もいないでしょうし、簡単な連絡や引継ぎでさえ、文章で正しく書き記せるといいのにねぇ……(遠い目)。例えばパパママだって、子どもの連絡帳にきちんと伝えるべきことを書けないとなりませんし、お友達とLINEで行き違いを生まないためにもやはり必要なのは文章力。なにも仕事や勉強でのみ必要な特殊技能ではありません。

本書は子どもの宿題の助けにもなるだろうし、このようにSNSやブログで文章を投稿している方にも、良い励みになるでしょう~。こっそり詩を書き溜めている人とか、言葉を綴っている人にも!

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先生はえらい

先生はえらい!

なぜならば、先生はえらいから!

この屁理屈みたいな話が、生き方を変えちゃうのかも!?

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