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堀江貴文『逆転の仕事論』|「成功者はと自分は同じ」は安心?

こんにちは。あさよるです。堀江貴文さんの本を読んだ。ホリエモンといえば、堀江さんが逮捕されたころだったか、裁判中だったかに、堀江さんの本を数冊読んだことがあった。そのとき、「堀江さんみたいな特別な人だからそう言えるんだ」「普通の人はそんなこととできない」と反発した記憶がある。確かあの時読んだのは、『君がオヤジになる前に』だったかな。当時わたしも学生だったから世間知らずだったし、なんだかよくわからない無力感でいっぱいだった。というか、まだ子ども時代の全能感みたいのを持っていながら、だけど社会はそれを受け入れないギャップに苛立ち続けていた頃だったかもしれない。

だから、堀江さんのいう「行動せよ」という言葉に、素直にノレなかった。「行動したくてもできない人だっているんだ」と怒りながら、今思えば、その実は「なにも行動してなかった」というのが正確なように思う。言われたくないことを言われたから、「そりゃそうだな」と思えるまで少し時間がかかった。

君がオヤジになる前に

それ以来、堀江さんん本はときどき読んでいる。最近は、書いてあることが素直に読めるようになった。以前は、もっと穿った読み方をしていたように思う。というか、書いていないことを勝手に読み取っていた気がする。それはヤバイ。今日、久々に堀江さんの本を読んで、自分の心境ん変化にも驚いた。

成功者に共通点があるならば…

社会の中で成功した人が「自分とは違う」と思って安心する人と、「自分と同じだ」と思って安心する人がいるんじゃないかと思う。それは「どうせやってもムダだろう」と諦めを肯定したい人と、「いつか上手くいくかもしれない」という期待を肯定したい人の違いかも。

そもそも、どういう状態を「成功例」とするのか、その定義によっても話が違ってくる。使い切れないほどのお金が預金口座に入ってることなのか、大アタリもないけれども大ハズレもない堅実な道を選ぶのか。生きてられたそれだけでいいのか、好きな人と一緒に入れたら幸せなのか。などなど、バリエーションはくらでもある。

ただ、どんな道を選ぶにしても、自分の意志で選択して決断し続けて生きることには変わらない。目先のことだけ考えるなら、他人に意思決定を任せることは責任逃れになりうるのかもしれないけれども、何十年と遠い未来まで自分の身の振り方を保証してくれるものはない。だからやっぱり、自分で決断し続けるしかないよね、という。そのための感度とか、反射神経みたいなものを、鈍らせずに維持し続ける心がけも必要だ。

んで『逆転の仕事論』は、自分で決断し続けた人の中で、今のところ成功している人の記録だ。著者の堀江貴文さんと親交のある方の聞き書きが中心だ。「今のところ成功している人」というのは、別にいじわるな言い方をしてるんじゃない。ここで取り上げられている人たちの経歴はてんでバラバラなんだけれども、共通点があるとすれば「失敗もしている」ということと「みんな普通の人だった」ということくらいじゃないかな。

それって「わたしと同じ」なのね。

自分のやりたいようにやるなら

この本に登場する人、武田双雲さん、佐渡島庸平さん、増田セバスチャンさん、ロンブー田村淳さん、HIKAKINさん、小田吉男さん、小橋賢児さん、岡田斗司夫さんの8人は「自分でやりたいようにやっている人」だ。だから「成功する」ということはきっと、やりたいようにやっている最中、それが社会的に認められたり、お金がもうかったり、多くの人が「ステキね」なんて思う状態のときに、使われる言葉なんだろう。

今は成功していてもこれから失敗するかもしれないし、今失敗してもこれから成功するかもしれないし、それはその時々で変化し続けるものなんだろうと思う。

そして『逆転の仕事論』で取り上げられている8人の方々は、それに自覚的で、失敗の体験も、成功の体験も、どちらの経験も語っている。ひきこもり経験をした人もおれば、一つのことに熱中するあまりそれ以外で大ミスばかり繰り返す人もいるし、社会の中で生きることに違和感を持っている人もいる。みんな何かしら「上手くいかない」ことを自覚しているのが印象的。

「やりにくい」に注目したら

で、「自分でやりたいようにやっている人」って、反対に言えば「みんなと同じことをしない」あるいは「みんなと同じことができない」とも言える。みんなと同じ道を行けないから、消極的に自分の道を行かざるを得なかった。不遇の時代があって、その中で「自分のワクワクすること」をやっているうちに、芽が出て成功につながった。

社会の中で「居心地が悪いなぁ」「うまくいかないなぁ」と感じるなら、その部分が自分が社会と折り合いのついていない部分……言い方を変えると、それが個性や特性なんだろう。

もし、自分が大アタリを狙うならば、型にはまり切らない部分を特化させてゆくことなんじゃないだろうか。それは、大失敗の可能性もある。ひょっとすると、それを実行すると法に触れてしまう人もいるんだろう。『逆転の仕事術』で紹介されている8名は、そういう意味で、失敗はしても法に触れるようなものではなかった「運」を持っていた人だ。

逆に言えば「運がいい」というのは、その程度のことなのかもしれない。

成功術はみんなちがう

『逆転の仕事術』でもうひとつ印象的なのが、成功を収めるまでのサクセスストーリーが8人が8人とも違っていることだ。諦めずに粘り強く頑張ったから成功につながった人もいれば、見切りをつけて新たなチャレンジが成功した人もいるし、そもそも人と同じことをする気がない人もおれば、社会になじめず引きこもりを経験した人もいる。

共通していることは、「失敗もしている」ことを「自分のやりたいようにやった」ということくらい。

成功者が、自分の成功までの軌跡を語る本は数多あるけれど、成功への「道筋」そのものをマネしてもしかたがない。それよりも「失敗もする」ということと、「それでもやり切った」ことに注目すべきなのかも。

どうせやるなら、どうするか

手堅く行くのも悪くないけれども、ただ何十年もの先まで誰も保証してくれるわけではないから、やっぱり自分で選択と決断はし続けなくちゃならない。それは、自分の道を行くのも同じ。

社会との折り合いのつかなさをいなしながら行くのか、かわりに自分のやりたいことをやりながら行くのか、それだけの違いと言えばそうなのかも。

ただ、成功者たちとわたしは、そんなに大きくは変わらないみたい。「成功者は特別じゃない」ということは、自分にとって良い話なんだろうか、それとも嫌な話なんだろうか。

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『編集者という病』|過激すぎると「本」でしか読めない

こんにちは。あさよるです。ブログを書くって、自分で文章を書き、自分で編集し、自分でディレクションして、自分で記事を公開することなんですよね。一人編集部なわけです。何年書いてもブログのクオリティが上昇しないのも「全部ひとりでやってるからしゃーないな」ということにしておきましょうw

この「編集する」という作業が、あさよるにとって、よくわかっていないトコロです。そういえば昔、仕事で「編集の勉強をせよ」と言われたこともありましたが、あまり気ノリせず、結局やらず仕舞い。「編集」と呼ばれる仕事をしている人の様子を見ていても、あまり「良い」とは思えず、モヤモヤとしたまま今に至ってしまいました。

そして、先日読んだ編集者の見城徹さん『読書という荒野』がとても印象的で、他の本も読んでみようと手に取ったのが『編集者という病』でした。『読書という荒野』でも、編集という仕事について書かれていましたが、『編集者という病』では、もっとダイレクトにこれまで編集してきた本の話が満載でした。

編集するということ

角川書店を経て幻冬舎を立ち上げ、数々のベストセラーを出してきた編集者・見城徹さんが、ご自身の仕事を振り返る。仕事……といっても、それは私事とか仕事とかそんな話ではなく、全身全霊、すべての時間をかけて本を作る編集者の姿です。それはもう「仕事」の枠をとうに超えていて、「病」であるというタイトルです。

尾崎豊に小説を書かせ、世に送り出し続けたエピソードは、「公私混同」とかそういう話じゃないですね。表現者とは魂を削ってそれを行う。編集者はそれを「本」という形にするため、表現者と向き合う。

あさよるは「編集」って、イマイチなにをする仕事なのかわかっていなかったのですが、その人の持っている「何か」をどう切り取り、どう見せ、どう形にしてゆくのかを決める大事な仕事なんですね。

出版当時話題になった、郷ひろみさんの『ダディ』では、ずっと友人だった郷ひろみさんが、妻から離婚を告げられ苦しんでいるという話を聞き、それを本にするよう持ちかけます。内容がセンセーショナルに扱われましたが、あくまで男女が出会って結婚し、子育てをし、離婚をするという、よくある話を、当事者が心情を吐露するのだと紹介されていました。そのとき、はらわたまで書き出すような、人間の光も影も詳らかに言葉にし、本にする。そのために編集をするのです。

出版はオワコンだから終わらない

よく「出版はオワコンだ」なんて言いますが、本書を読むと改めて「出版はオワコンなんだなぁ」と思うとともに「オワコンだからこそ、出版は終わらないんだろう」とも思います。

雑誌や書籍に書かれている内容は、本の形態に印刷され、綴じられているからこそ成立しています。で、ときどき、雑誌のコラムなんかがそのままWEBマガジンにWEB記事として掲載されたとき、炎上しちゃったりしています。メディアが変われば読者が変わり、文脈も変わるので、本・雑誌ではアリだけどWEBだとNGってのが少なからずあります。

雑誌や書籍のノリの記事がWEBで炎上しているのを見ると「オワコンだなぁ」と思うと同時に、だけど、だからこそ「WEBじゃ書けないこともあるんだなぁ」とも思うので、やっぱ紙の本・雑誌がなくなることもないのでしょう。誰でも無料で読めるWEB記事の良さもあるけど、読者を限定できないが故に、読者を想定しきれず、違う文脈で読まれてしまって、違う解釈をされることもあるでしょう。多くの人にあてはまる話だけをすると、毒にも薬にもならない話しかできないし、難しいところです。

で、本書『編集者という病』に書かれている中身って、結構ヤバいというかw、他人事として読むと「こんな熱い世界があるのかぁ~!!」と燃えるけれども、自分の身近にこんな魂かけて仕事する人がいるとヤだなと思う人も多いんじゃないでしょうか(苦笑)。特に、作家と公私混同を超えて、共依存関係のように、混ざり合い、本を作ってゆく様子なんて、一般社会には受け入れがたい世界観じゃないでしょうか。だけど、ギリギリで表現をし続ける作家の作品を「読みたい」という欲を止めることも難しい。

一般の良識、社会のモラルと、狂気の世界に生きる表現者の作品を受容することのせめぎ合いって、どちらを正しい/間違いと言い切れないから、なんとも言えませんね。これから私たちの社会は、それらをどうジャッジしてゆくのかを迫られているのかもしれません。

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『街場のメディア論』|「贈りもの」を贈ろう

こんにちは。あさよるです。内田樹さんの本はまだ数冊しか読んだことがありませんが、どれも面白かったので今回『街場のメディア論』も読む前から楽しみでした。

この「街場の」というシリーズがあって、『街場のアメリカ論』『街場の中国論』『街場の教育論』に続いた4冊目だそうです。Wikipediaを見ると『街場の大学論』『街場のマンガ論』『街場の読書論』『街場の文体論』『街場の憂国論』『街場の共同体論』『街場の天皇論』とシリーズがあって、どれも読んでみたいです。

今回読んだ『街場のメディア論』では、メディアの不調は、そのメディアにどっぷり浸かっている我々の不調であると宣言されています。確かに、異論はありません。

メディアの不調

本書『街場のメディア論』は内田樹さんの「メディアと知」という大学の講義がもとになっています。大学生でもわかるような話で、かつ飽きさせない話題が続きます。

「自分がやりたいことをやる」というのは実は大きな力が生まれない。それよりも「誰かから求められること」の方が人間は大きな力を発揮できるのです。本書では、内田樹さんご自身が、娘さんが生まれて子育てが始まってから、大きな父性愛が溢れ出たと回想されています。そして、その自分の潜在的な力は、その立場になってみないとどうなるのかわかりません。

「望まれる」というのは、とても力強いことなんですね。

ここからメディアの話が始まります。主にテレビ、新聞、出版が扱われます。そしてこれらの業界は「オワコン」と言われて久しい業界でもあります(内田樹さんは「オワコン」なんて言葉使わないけどね)。

メディアはもともと公共ものです。ですが近年、お金が儲からない話ばかりが語られます。また、メディアは世論、正義の名のもとにクレイマーのお手本のような報道をくり返しています。メディア自身がメディア離れを加速させているように感じます。

世間とおまじない

昨日、ブログで鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』を紹介しました。

『「空気」と「世間」』では、伝統的な「世間」という価値観が古びつつも、今なお「空気」という言葉で顔を覗かせてていると説明されていました。「世間」には理屈がなく、迷信や呪術的がまかり通る世界です。理屈がないからこそ、人々はそれに抗えないのです。そして、著者の鴻上尚史さんは「世間」「空気」に対して否定的な語り口です。『「空気」と「世間」』では、誰も本音ではやりたくないお中元お歳暮も、お祝い金をもらったらその半分の額をお祝い返しする風習も否定されています。

一方で、本書『街場のメディア論』での内田樹さんの話は対照的です。そもそも「街場の」と名前のつくシリーズで、「街場」とはまさに「世間」のことでしょう。そして、内田樹さんは迷信や呪術(おまじない)的なことも肯定します。そして、お祝い返しのような、人から贈り物を受け取ったらお返しをする。それは贈り物をもらった嬉しさの表現でもあります。

くり返しますが、メディアは公共のものです。本書では、本来お金を目的にするものではないと語られています。じゃあ、どうやってメディアの人たちは食べてゆくのかというと、テレビやラジオ番組、新聞や出版物という「贈りもの」を提供するのが仕事で、受け取ったわたしたちは、「贈りもののお礼」をするのです。

商売人と客の関係ではないのです。

おまじないのある世界の方がいいかも

あさよる的には、鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』で語られるような、世間から脱して社会に目を向けることよりも、「街場の」おまじないが効力を持っている世界の方がいいかもしれないと思いました。もちろん、非科学的なことを推奨するのではありません。だけれども、人と人の間に、理屈にならない術的な要素が多少はあってもよい……というか、あった方がいいんじゃないかと思いました。

こんなこと、昔の自分なら絶対思わなかったはずです。誰も欲しくない・送りたくないお中元お歳暮や年賀状なんて大嫌いだったし、世間話の天気の話題すら時間の無駄だと思って忌み嫌っていましたから。だけど、今は、まつりごとや、しきたりも、それなりに役割はあるんだと思うようになりました。

ということで、時候の挨拶の練習をしている あさよるです(;’∀’)

メディアは「贈りもの」であり、受け取った人が、贈もののお礼をするという関係性も健全だと思いました。「商売人とお客様」という関係って、自分がお客だと得があると考える人もいるのかもしれませんが、むしろ全員の居心地を悪くしているだけだと思っています。

それよりも、毎日電車が運行していることとか、牛乳がスーパーに届いていることとか、今日もパソコンがインターネットに繋がっていることは「有難い」ことです。だって「乗せてやんない」「売ってやんない」「繋げてやんない」って言われて困るのは自分ですからね。

自分に必要なものがあるというのは、なかなかあり得ない状況、「有難い」のです。今朝は食べ物がなくて、お店にも食品が並んでなくて、「売ってもらいたいなぁ」とホントに思いましたw

そして、最初に紹介した「自分のためにやる(儲かるからやる)」よりも「望まれてやる」方が大きな力が発揮され、良い仕事になります。そしてそれは良い贈りものになりうる存在です。

ミドルメディアに参加する

あとがきには、

本書では特に既存のマスメディア(新聞、テレビ、出版)に対して、たいへんきびしい言葉を書き連ねました。これも蓋を開けてみたら、まるでお門違いであって、十年後もあいかわらずテレビではどの曲でも同じようなバラエティ番組を放送し、新聞は毒にも薬にもならない社説を掲げ、インスタント自己啓発本がベストセラーリストに並んでいる……というようなことになった場合には、ほんとうにお詫びの申し上げようもありません。p.210

とありました。本書が出版されたのは2010年ですから、それから8年経ったわけで、残念ながら内田樹さんのネガティブな予言通り、相変わらず新聞もテレビも出版も変わっていません。

内田樹さんはマスメディアではなく、ミドルメディアというブログの存在に光を当てています。ブログでは、出版社や放送局のスポンサーを気にせず書きたいことを、書きままの言葉で書いても構いません。トゲのあることを書いても、角を取られることもありません。

あさよるもブログを書いているので、ブログがそういう場になればいいなぁと思っています。今はTwitterやFacebookなどSNSに記事や写真、動画をアップロードする人が多いですが、これらのSNSはアーカイブが弱すぎるので、せっかくの活動が埋もれてしまいます。それよりも、ブログの記事として投稿して、自分のスペースをネット上に作った方が、きっとみんなにとってもいいことだと思っています。

微力ながらも小まめにブログを更新していて、人類にとって何かすごく少ない量でも、寄与できればいいなぁと考えています。これが「贈りもの」なんでしょう。喜んでくれる人がいるのかわからないけどね……(;’∀’)

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『その情報、本当ですか?』|デマ拡散のネットとテレビ、どっち?

こんにちは。あさよるです。毎日ブログを更新する程度には日々ネット漬けで、新聞もあまり読まないし、テレビは全く見なくなって久しいです。しかし災害時や緊急時は、ネットニュースの速報性はとても高いですが「まとまった情報を俯瞰する」ことには向いていないようにも思います。また、SNSを使って情報がシェアされますが、なんとなく有益そうな情報に感じるけれども、出どころ不明の情報だったり、どこかから転載してきたと思しき情報も散見されます。出展元がわからないと、その情報をどこまで信頼していいのか悩みます。また、「以前はこうだった」と過去の経験を語る人も多くいます。もちろん、他人の経験は重要ですが、緊急時にそれぞれの人が直面する問題は全く違っているだろうし、平和で安全な場所でいる人が、過去の思い出話を拡散することが、どれくらい今困っている人の役に立つのかなあと感じます。

ネットの情報は趣味や余暇の楽しみには最適です。が、人の命がかかっているような状況では、やはり新聞社やテレビ局の情報に耳を傾けてしまいます。災害時でも、NHKや政府のTwitterアカウントが拡散されていますね。

デマや誤認などの玉石混交……というか、石ばっかりの情報の中から、有益な「何か」を読み取れるリテラシーの高い人にとってネットはとても使い勝手の良いものでしょうが、圧倒的多数の人にとっては、ネット情報を扱うのは難しすぎるのではないか……と、今回『その情報、本当ですか?』を読んで改めて思いました。

テレビや新聞は「誰かがフィルタリングした情報」であることが大事で、意味のあることなのかもしれません。

テレビニュースのつくり方

『その情報、本当ですか?』の著者・塚田祐之さんは1975年にNHKに入社し、報道番組の企画・取材・制作に携わり、専務理事まで務められた方です。1985年の日航ジャンボ機墜落事故や、1995年の阪神大震災、2004年の新潟中越地震、2011年の東日本大震災と、日本の大災害や大事故もテレビマンとして経験されました。

2011年の東日本大震災では、TwitterをはじめSNSで安否情報や被害情報が拡散され、SNSが注目されました。現代ではアメリカのトランプ大統領も、Twitterを使って直接全世界に向けて生のメッセージを拡散しています。ネット情報は迅速でかつ誰もが発信できることが良い点でもあり、悪い点でもあります。ネットニュースには、フェイクニュースが少なくない量混じっています。「フェイクニュース」とは本書では「事実でない、にせのニュース」全般を指して呼ばれており、発信者の意図は問わず、勘違いや間違いも含みます。

1995年にMicrosoftのWindows95がリリースされた頃から、日本国内の一般家庭にも徐々にインターネットが普及してゆきます。1996年にはYahoo!JAPANが登場し、ヤフーニュースが始まりました。当時は、通信社や新聞社から安い価格で記事を買って配信されていたそうです。そして2003年、ライブドアは新聞社の書いた記事と、ブロガーが書いた記事を同じように並べ、ランキング形式にして表示しました。ブロガーの中にも専門家はいますが、裏付けの薄い記事も閲覧数が多ければランキング入りします。数多くの「ニュースサイト」が登場しました。このころから、テレビや新聞の報道と、ネットの情報のパワーバランスが変わり始めたのかもしれません。

著者の塚田祐之さんは、テレビ報道の現場でどのようにニュースが作られるのかを紹介しながら、ネットニュースとの違いを強調されています。粘り強く取材を重ねたり、実際に現場に赴いたり、時間と手間をかけてニュースが作られているのがわかります。また、冷戦時代、「鉄のカーテン」で仕切られたソ連で大やけどを負った少年を北海道の病院が受け入れた様子を取材したり、北方領土問題をめぐり当時のロシアのエリツィン大統領と中継で結び、元北方領土島民がインタビューをする企画を実現しました。こんな企画はテレビならではで、ネットのニュースサイトでは難しそうな企画です。

視聴率主義とページビュー主義

テレビは放送内容よりも視聴率重視の傾向があるなんて言われます。それは民法だけでなく、NHKも視聴率を気にしているようです。ちなみにNHKで2017年一番視聴率が良かった番組は、朝の連ドラ『わろてんか』だったそうです。

じゃあ、テレビは視聴率主義だから、テレビ番組も視聴率を取れる内容に偏っていて、見る価値ないのか? というと、なんとも言えません。それは、ネットの情報もまた、ページビュー数稼ぎのために書かれた記事が大量にあるからです。ネットの場合、記事に添付された広告の表示回数によって収益が発生したり、または記事に張られたハイパーリンクを辿ってショッピングサイトで買い物されると、売り上げの数パーセントを仲介手数料として受け取れる仕組みなどが存在します。ページビュー数を稼ぐためのネット記事が溢れかえっており、正直、なかなか裏付けのある情報にたどり着けなかったりもします。このページビュー数稼ぎは、テレビの視聴率主義とは比べものにならないくらいでしょう。

テレビの方がより〈マシ〉?

本書『その情報、本当ですか?』を読む限り、ネットの出どころ不明、執筆者不明の記事や情報に比べれば、テレビの情報の方が「マシ」といったところでしょうか。今現在、テレビニュースでもSNSで拡散された情報や写真・映像が報道されることが普通になりました。ネット発の情報ですが、「テレビ局が選んだ情報である」という点で、フィルタリングが一度は成されています。ネット上で拡散される情報から、取捨選択して必要な情報だけを抜き出すには「ネットリテラシー」が必要です。テレビが視聴者の代わりに情報を選んでくれていると考えると、テレビでネット発の情報が取り上げられる意味はあるのかもしれません(あさよる個人的には、報道が素人のスクープをそのまま放送してどうするんだと思ったりもする)。

あさよる家では新聞を取っているので、一応毎日、新聞の一面はザッと読んで、紙面の見出しくらいも目を通します。前日の早朝のニュースなんかだと、すでにネット上でひとしきり話題になった後なので、なんだか遠い昔のことのようで「ああ、このニュース昨日だったのかあ」と驚くこともあります。あさよる的には「速報はネット」「まとまった記事は新聞」って感じなので、テレビを情報源として使うことがほぼなくなりました(;’∀’)>

まあ、「ネットの情報より、テレビの方がまだマシ」というのは、納得します。緊急時、SNSではデマの拡散が毎回取り沙汰されますし、「拡散すべきことと、拡散すべきでないこと」の判断を個人が完璧にし続けるのは難しいから、多くの人にとってテレビ報道は必要なのかもしれません。

“TVer”ってサイトを知った

今回『その情報、本当ですか?』を読んで初めて知ったのは、「TVer」というサイトの存在です。「TVer(ティーバー)」は民放各局のテレビ番組が見れるポータルサイトです。直近一週間分のテレビ放送が見れるそうなので、radikoのテレビ版みたいに考えても良いのでしょうか。さっそく「情熱大陸」を見てみました。

部屋のテレビがもう古くて寿命みたいなので、捨てようか悩んでいましたが、ネットでテレビ番組が見れるならテレビ本体は手放してもよさそうだなあ。あさよるは基本ラジオっ子なので、ラジオがあれば十分だし。

今のテレビを買った経緯も、2011年の東日本大震災の時、単身世帯でテレビを持っておらず、ネットニュースはわけがわからないし、SNSではデマが飛び交い、ラジオだけでは状況が把握できなかったので、「映像の情報は最低限必要かも」と思って、テレビを買いました。しかし、今では緊急時もネットでライブ配信されてるし、マテリアルとしてのテレビはなくてもいいかも。

こんなことを言うと、すごく皮肉を言っているような感じですが、報道が、新聞、ラジオ、テレビ、誌面など、媒体によって区切られていた時代から、現代はみんな同じインターネットという媒体に集約され、テレビ局や新聞社の取材や企画、編集、スクープなど、情報の質や内容によって、他のものと分けられ始めていんじゃないでしょうか。

あさよるも好きなユーチューバーさんの動画を見るのは好きですが、テレビを見るとやっぱりテレビ番組のクオリティはすごいと思うし、ネットニュースよりも新聞記事の方がソースとして良いと感じます。今はメディアが再編成される過渡期なのかなあなんて思いました。

「テレビだから信じる」から「テレビ局が取材して裏取りをした情報だから、ネットニュースより信頼できる」へと、利用者の意識が上がってゆくことが、本書『その情報、本当ですか?』で著者が読者へ求めていることだと思います。

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『アヘン王国潜入記』|のどかな山間のアヘン栽培日記

こんにちは。人が読んでいる本が読みたくなる あさよるです。『アヘン王国潜入記』も誰かが読んでいるのを見つけて、読みたい本リストに入っていたのでした。だって、タイトルが『アヘン王国潜入記』ですよ!?で、表紙がコレですよ!?ケシのお花畑で武装した男性が笑顔で並んでるんですよ!?

と、インパクトしかなかったので、読みたかったのです。

本エントリーでは、ミャンマーを「ビルマ」と表記しています。本書『アヘン王国潜入記』が「ビルマ」表記ですので、それに倣いました。

世界の大麻薬生産地域に潜入

本書『アヘン王国潜入記』はノンフィクション作家の著者・高野秀行さんが、実際にビルマ(ミャンマー)のワ州と呼ばれる地域にあるムイレ村という閉ざされた村へ潜入し、村人と共にアヘンを育て収穫するまでの半年以上に渡る記録です。

まず、ビルマの一角がアヘン王国なのかという理由から。引用します。

 ゴールデン・トライアングル、もしくはその和訳「黄金の三角地帯」という名称は誰しも一度は耳にしたことがあると思う。インドシナのタイ、ラオス、ビルマの三国が境を接するあたりに広がる、いわゆる《麻薬地帯》である。麻薬といってもいろいろあるが、ここは麻薬の王たるアヘンもしくはアヘンを精製して商品化された非合法モルヒネやヘロインの世界最大の生産地である。世界のアヘン系麻薬の六〇~七〇パーセントはこの国境地帯から流出しているというもっぱらの評判であった。
しかし、タイとラオスはもともと生産量が少なったうえ、政府の規制でアヘンの生産は一九八〇年代に入ってから激減している。(中略)
ところが、ビルマでは諸々の事情からアヘンの生産量は落ちるどころか九〇年代になってからも増加する一方で、今ではゴールデン・トライアングルの全生産量の九割以上をビルマが担っているという。(中略)
といっても、アヘンはビルマのどこででも獲れるというわけではない。生産地は漠然とタイ、ラオスと国境を接するシャン州と考えられているが、その六〇~七〇パーセントがワ州で産出されていることはほとんど知られていない。つまり、全世界の四割前後のアヘンをこの小さな土地が生み出していることになる。

p.16-17

ゴールデン・トライアングルを地図で見ますと、中国、ラオス、タイ、ビルマ(ミャンマー)にまたがる地域。アヘンの育つ気候や土地にこの辺りが適していることと、自治区であるワ州はビルマ政府の支配を受けていないことなど、国際的“裏”の仕事がしやすい要因なのでしょう。

近代から隔絶された村で

その中のムイレ村に潜伏するという、どんなに退廃した恐ろしい土地なんだろうと想像していましたが、本書『アヘン王国潜入記』を読むと、牧歌的でのどかな土地で驚くばかり。そこで暮らす人々ものんびりと朗らかに生きているのが印象的。しかし、そんな平和そうな小さな村の中にも拘わらず、戦争の影が生々しく潜んでいる。徴兵されている人もいるし、戦争で夫を亡くした未亡人も多い。

村人たちの多くは農業に従事しています。もちろん、アヘン栽培です。他の作物は作られていないようで、村の食事は貧しいもののよう。農業といっても、日本の超効率化された農業のようなものではなく、原始的農業を想起させるようなもの。開墾した土地にアヘンの種をまき、あとは雑草を抜くだけ。親類や知り合い同士で畑を手伝いながらも、当番やスケジュールもなく、その日その日予定が変わってゆく。著者は積極的に毎日雑草取りに参加していたら、アヘンの収穫時に少しアヘンを分けてもらえることになりました。

村人たちの間では喧嘩やモメ事も少なく、万一喧嘩が起こっても次の日には仲直りする。

資金源はアヘンなのだけど、収穫の半分以上は政府に差し出さないといけないし、兵も取られるし、かなり税は重い。

そして、このムイレ村はとても不思議な村なのだ。ムイレ村は電気もなく、近代から隔絶された村だ。他の村との交わりもなく、婚姻も村内で行われる極めて「閉じた」村である。このムイレ村での日々を読んでいると、世界がこの谷あいしかないような錯覚に陥るが、実は山一つ越えれば電気もあるしラジオも衛星放送も見れて、世界情勢がリアルタイムで入って来る。車で三日も走ればセブンイレブンがあるという。決して、近代文明から遠く離れているわけでなく、すぐ隣にあるのだ。どうやらムイレ村はじめこのあたりの地域は、首狩りをしていたようで、未だにその名残があるよう。

教育とは、医療とは、労働とは

ムイレ村では一切の近代的医療がない。衛生観念もなく、我々の感覚でいうと「不潔」な環境だ。だから、病気になったらサヨウナラだ。現に、本書中でも元気だった若い男性がある日コロッと死んでしまう場面がある。非常に恐ろしい。

「教育」というものもなく、子どもたちは字も読めない。著者・高野秀行さんの世話役のアイ・スンさんが、滞在中だけ村で学校を始め、アルファベットを子どもたちに教える。すると、それまでみんな平等で同じだった子どもたちの中で、優秀な子と落ちこぼれが生まれる。そして、貧富の差が浮き彫りになる。教育とは子どもを画一化することであり、するとその中で優劣、貧富の差が現れる。

労働も同じで、村人たちは特に取り決めもなく畑仕事をやっている。だから、働いている様子を見ても優劣の差はない。

近代化されていない村を見ることで、近代のシステムを垣間見るようで興味深い。

だんだん常識が入れ替わってゆく

ムイレ村はアヘンと共にある。アヘンを育て、収穫することが目的で潜伏した著者は、ついにアヘンを手に入れる。

しかし、その頃には著者自身もアヘン中毒になっておりw、村を足早に立ち去る。タイのチェンマイに戻ってから、収穫物のアヘンを自慢するとひどく怒られ、その場で処分してもらうことになる。そう、ワ州にいたころはアヘンがある生活が当たり前だったが、そこから一歩外へ出ると「あってはならないもの」なのです。

ムイレ村へ潜入時も常識が全く違う村で驚くことばかりだったが、半年経ちそこから外へ出てくると、次は世界の常識にクラクラする。

冒険記・探検記ってオモシロイ

本書は探検記になるんだろうと思うけれども、これは面白い。世界のどこかにこんな世界があるんだ!

また、著者の目線も楽しい。出来事を綴っているだけなんだけれども、ユーモアで溢れている。

一方で、子どもたちへの教育事情や医療事情などもしっかりを描かれている。

あさよるは時折、衛生観念の無さや、教育がないということに腹立たしさも感じた。すぐそばでは近代の文明があるのに、それに触れられない彼らは長生きができないだろう。実際に、本書に登場する人達は年寄りがいない。

それも含めて、知らない世界を覗き見た興奮は面白かった。高野秀行さんの他の本も読みたい。

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『花森安治の青春』|「暮しの手帖」と戦争

2016年4月に始まったNHK『朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」』も終わってしまいました。あさよるも張り切って、ドラマ開始時に主人公のモデルになった大橋鎭子さんの随筆を読んだりしました。

ドラマは終わってしまいましたが、次に手にとったのは『花森安治の青春』。花森を主人公とした物語仕立てで、間に著者の馬場マコトさんのルポが挟まる構成です。

花森安治は思想家であり、広告マンであり、ジャーナリストやグラフィックデザイナー、編集者の顔を持ちます。

花森安治は10代の頃フェミニズムと出会います。母を思い、フェミニストとして生きようと思います。旧制高校時代には、校友会雑誌の編集を一人で手がけ、東京帝国大学へ進学後も、東京帝国大学新聞部に所属しました。

「ペンは剣よりも強し」を信じた花森青年も、大学卒業後召集され、中国とロシアの国境近くに出兵します。が、肺病のため帰国。帰国後は大政翼賛会の宣伝部に所属しました。

「贅沢は敵だ」「進め 一億火の玉だ!」「欲しがりません勝つまでは」など、あの有名な標語の採用に、花森安治も関わったそうです。敗戦後、大橋鎭子と出会い、「暮しの手帖」を創刊します。

ペンが剣になる「戦争」

雑誌「暮しの手帖」は戦後、皆が“暮らし”を大切にしなかったから戦争が始まったのだとし、暮らしを見つめ直すことがコンセプトです。ですので、反体制の思想のある雑誌です。

ですが、花森安治さんの半生を知り、とても意外というかなんというか……読み始めには大きな戸惑いも感じました。

「ペンは剣よりも強し」を地で行くはずの優秀な青年が、こうもあっけなく体制に呑みこまれ、戦地で銃を構え、人を撃つ。病気により本土へ帰ってきてからも、先輩に誘われ翼賛会で活躍をする。ペンが持っている大きな力を、戦争を躍動し、国を鼓舞する力に使うのです。

戦争というのは、一人の力では抗えない大きな蠢きなのだろうか。花森安治ほどの人でも、「流れ」から離れることはできないのか……ゾッとする読書体験でした。

大橋鎭子さんと出会い、『暮しの手帖』の創刊に際してのエネルギッシュさや、戦後の花森安治さんの活躍が爽快であればあるほど、戦時中の彼の様子が浮き彫りになるようでした。

広告とは、デザインが持っている力とは

『花森安治の青春』を、あさよるは文庫版で読みました。まぁまぁぶ厚めな文庫です。

どんなボリュームもある内容かとビビっていましたがw、思いの外読みやすい文体で、物語っぽく時系列に話が進んでゆくので、一気に読み切りました。

しかし先に上げたように、ショッキングというか、胸にズシンと重いものが残る読書でした。広告とは、編集とは、デザインとは何だろうと、答えのない問が降り掛かってきたようです。

広告やデザイン関連の仕事をしている人、目指している人は、花森安治の思想、生き方に触れてみることをすすめたい。あさよるも広告・デザイン系出身で、他人事と思えない内容だったからです。

サクッと読める上に、読み応えもある内容で、よい読書でした( ´∀`)bグッ!

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