

こんにちは。友だちの少ない あさよるです。中高生のことから人と「ツルむ」「群れる」のが苦手で、プイッと一人で図書室で本を読んでいました。そう、あさよるは人と喋りたくないばっかりに本を読んでるヤツだったのです。ネガティブ~。
先日、東洋経済オンラインで、『「意識高い系」社員につけるクスリはない』という記事を読みました。
この記事の中で、「意識高い系」の定義として「スクールカースト」という言葉が登場します。意識高い系はスクールカーストは被支配階級で、土地を持っていないと定義されています。だからこそ、都会へ出てワンチャン狙いたいということらしい。
そこから派生して、ダイヤモンド・オンラインの記事も読みました。ここでは、スクールカーストと学力、コミュ力、容姿、職業と、10代の頃の教室内での地位と絡めて話されています。
あさよるは「スクールカースト」という言葉を知ったのはここ5年程でしょうか。あさよるが10代の頃は「1軍」「2軍」とか「メジャー」「マイナー」なんて言葉が使われていたように思います。……しかしながら、あさよるはそういうの疎い子どもだったので、自分の教室内のポジションとかよく分かっていなかったんですけどね(;’∀’)
スクールカーストとは
本書『教室内(スクール)カースト』では「スクールカースト」という言葉の出典から始まります。
この言葉が最初に紙面に載ることになったのは、2007年に出版された教育評論家の森口朗(あきら)さんの『いじめの構造』(新潮社・2007年)という本の中です。(中略)
森口さんは、「スクールカースト」の定義を以下のように設定しています。
スクールカーストとは、クラス内のステイタスを表わす言葉として、近年若者たちの間で定着しつつある言葉です。従来と異なるのは、ステイタスの決定要因が、人気やモテるか否かという点であることです。上位から「一軍・二軍・三軍」「A・B・C」などと呼ばれます。(41~42頁)
p.28-29
『いじめの構造』が出版された頃にはすでに「スクールカースト」という言葉が存在し、意味付けもなされていました。では、いつ「スクールカースト」という言葉が登場したのでしょうか。
朝日新聞社発行の雑誌『AERA』にて「スクールカースト」の言葉を生み出したという人物が、自身の体験と共にネット上に「スクールカースト」のワードを登録したと語っています。
マサオさんは2年ほど前、インターネット上に言葉を登録し、説明文を編集できるサイトに、実体験を基にこう書き殴った。
「主に中学・高校で発生する人気のヒエラルキー(階層性)。俗に『1軍、2軍、3軍』『イケメン、フツメン、キモメン(オタク)』『A、B、C』などと呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流がほとんど行われなくなる現象」
こうして、「スクールカースト」という言葉ができた。
(森慶一「学校カーストが『キモメン』を生む――分断される教室の子どもたち」『AERA』2007年11月19日号)
p.32-33
このマサオさんはシステムエンジニアの当時29歳で、10代の頃「イジられキャラ」でピエロを演じていたが、イジりがエスカレートし、「いじめられキャラ」に変わり、高2で退学をしました。そして「スクールカースト」という言葉を登録した、と証言しています。
スクールカーストが生まれる背景
日本の学校で起こる「いじめ」の特徴は、「教室の中」で起こることだそうです。本書でも、他のクラスに友だちがいて、昼休みなどに教室外で集まっている人たちに対し「生きてる意味あるのかな」なんて感想もあって、スクールカーストが「教室の中」の限定された空間で起こることが顕著です。本書のタイトルも『教室内カースト』と書いて「スクールカースト」と読ませています。
ちなみに、あさよるも友だちを作らず一匹狼でフラフラしてるのが好きですが、周りの人から「生きている意味あるの」なんて思われてたんでしょうか……(;’∀’)
いじめとスクールカーストのカンケイ
いじめで暴行や恐喝等が起こった場合、速やかに警察を介入させるべきだと考える人がいます(あさよるもそう思います)。しかし、いじめは「シカトされる」「クスクス笑われる」といった「実被害はない」けれども「やられる当人は死ぬほどつらい」状況に置かれることも多く、解決が難しいのです。
「いじめ」を作るのは「被害者」と「加害者」、そしてそれを見てはやし立てる「観衆」と見て見ぬふりをする「傍観者」、それらが四層に重なり「いじめ」が成立するというのです。(中略)
そして「いじめ」が起こらないとすれば、「傍観者」層が「仲裁者」層に変わったときなのだといいます。
p.52
いじめは少数の加害者によるものではなく、観衆と傍観者がいて「いじめ」になるというのです。
教室内では、スクールカースト上位者は自分の意見を発言しますが、下位の人は意見を言いません。ですから「いじめ」回避のための「仲裁者」になり得るのは、カースト上位者のみということでしょうか。
スクールカーストは悪なのか?
本書を読んでいると不思議なことがあります。インタビューやアンケートに答えている生徒や学生、教師らは「スクールカーストはなくなった方が良い」とは考えていないようなのです。
スクールカースト下位者は、カーストは「あって当然」と半ば諦めているように感じます。教師は、諦めモードのカースト下位者を投げやりで、やる気のない人のように感じています。スクールカースト上位にいたことを自認する生徒たちは、それなりに「特別」だったことを感じているようです。
また、教室内自治を行うにあたって、教員側から見ればスクールカーストはあった方がやりやすいもののようです。スクールカースト上位者は良くも悪くも目立つ人で、彼らの様子を見て雰囲気を察知しています。カースト下位者は顔も名前もわからないこともあるそうです。
また、クラスを代表したり、作文のコンクールに応募する際など、責任のある役割はスクールカースト上位者に任せます。それはスクールカースト下位者には、責任ある仕事を任せられないと考えているからです。
どうやら、概ねスクールカーストは「あって当然」「しかたがない」と諦めもありつつ、存在が認められているようです。
カースト上位はイージーモードか
本書で興味深いのは、高校生でカースト上位になってしまった人の証言です。クラスでの取り決めで発言したり、先生のネタにツッコんだり、カースト下位者にネタを振ったりしないといけない。カースト上位者の権利も多いけど、その〈権利を使わなければならない〉「義務」が大変だった。彼女は結局高校を中退してしまいました。
また、カースト上位者は下位者に好かれているワケではない。みんな内心ウザくても、それを表に出していないだけだと言います。ということは、カースト上位者って、「みんなの共通の敵」というか「みんなの共通の嫌われ者」だとも言えます。カースト上位者はクラスの結束を作るとみなが証言しているのですが、結束の内情は複雑です。
誰がカーストを作ってるんだ?
本書『教室内カースト(スクールカースト)』はたくさんのデータや出典が挙げられているので、ここから他の史料にあたることもできます。あくまで客観的資料の羅列につとめておられるようで、〈収まりのいい結論〉を求めている人には消化不良かもしれません。
スクールカーストがなくならないのは、学校の教室という限定された環境、構造がそうさせているようです。では、その閉ざされた特殊な空間で、誰がスクールカーストを作っているのでしょうか。教師はスクールカーストを利用しているようですが、教師がカーストを作っているなんてことがあるのでしょうか。
カースト上位者が、多数の下位者たちを抑圧している……とも言い切れない感じ。確かにスクールカースト上位者たちは自分の意志をハッキリ言って、ムードメーカー的存在ですが、それだけです。カースト下位者は、カースト上位者の物言いや染めた髪やピアスを見て「コワイ」「めんどくさそう」と倦厭しているようです。
「いじめ」は、スクールカースト下位の中の「いじられキャラ」が「いじめられキャラ」に変わることがあると紹介されていました。また、いじめ回避には「仲裁者」が必要です。本書を読む限り、仲裁者になり得るのはスクールカースト上位者しかいないように思えます(自分の意見を発現できるのは上位者だけ)。
〈構造が「スクールカースト」と「いじめ」を作っている〉と言ってしまえれば簡単ですが、スクールカースト下位者が、見た目が派手な生徒や、意見を言える生徒を〈遠ざける〉ことで、分離が始まっているようにも読めました。なんともややこしくて難しい話ですので、ぜひご一読ください……m(__)m
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