池上彰『学び続ける力』書影

読書、あるいは勉強というものは、実は役に立たない事のほうが多いです。現に私たちは小学校を6年、中学校に3年間も義務教育を受けているのに、社会生活で実際に使う知識はわずかです。その後、高校へ進学する人が殆どで、さらに大学や専門学校へ進む人たちもいます。
はたして、学んだことのどれだけが「役に立っている」のでしょうか。

最近、内堀基光『「ひと学」への招待―人類の文化と自然』という本を読んでいました。「ひと」に関する物事を紹介する内容なのですが、一口に「ひと」と言っても様々な切り口が有ります。動物としてのヒト、社会の中の人、感情を持つ人、言葉を操る人、など「人間に関することすべて」ですから、内容もそれはそれは幅広い。
それでも、語り尽くせない「ひと」の一面を知れる、良書でした(が、内容が濃すぎて大変だった)。

そしてこの本は、読んでも多分「役に立つ」本ではないでしょう。別に、人類学のことなんて知らなくても生きてゆけますし、これを読んだからってお給料が増えるわけでもありません。時間の無駄だと言われてしまえば、その通りだと思います。

しかし、私はこの本を読んで良かったと思っています。
「私って一体なんだろう」と抱え続ける問いへ、考える指針のようなものがチラリと見えた気がしました。そして、私が持っている「一人ぼっちで寂しい」という気持ちも、少しだけ「置き場」を見いだせた気がしました。
だけど、あくまでも、問いの答えが載っているわけでもないし、寂しさがなくなったわけではありません。ですので、即効性もなければ、一生そのままでしょう。

池上彰『学び続ける力』の中で、こう書かれていました。

本を読むということは、言ってみれば、ザルで水を汲むのに似ているということだな、と自分なりに解釈しました。
読んだそのときは、なるほどと感心するけれども、すぐに水(知識)はザルの目の隙間からこぼれてしまいます。つまり、忘れてしまうのです。でも、大量に本を読んでいれば、ザルでも大量に水を汲んでいれば、少しは水がたまります。読書の役割とはそういうものかもしれないと思いました。

―池上彰『学び続ける力』(講談社,2013)p.149

悲しいかな私たちはどんな知識や経験もどんどん忘れてゆきます。少なくとも私は、常に頭を動かし続けないとあっと言う間に何もかも忘れてしまいます。忘れないように必死にノートにメモを取っているのですが、すべてを書き写すことは決してできず、みるみる身体から消えてなくなってゆきます。

それがとても悔しくて、とても残念でたまりませんでしたが、池上さんの仰るように「ザルで水を汲んでいるのだ」と思えば「じゃあ仕方ないよなぁ」と思えます。そして必死の形相でザルで水を汲んでいる姿を想像すると、とても滑稽です。なんだか愛すべき人情じゃないかと思いました。これからもどんどん、ザルで水を汲むのみです。

最初に、勉強の殆どは役に立たないと書きましたが、私は違う意味では、勉強の全ては役に立つとも考えています。相反することのようですが、「役に立つ」とはどういうことか。「役に立たない」とは何かによって変わるのです。
今日勉強しても、明日の仕事を早く終わらせたり、来月の給料をアップさせるなど、短期的な役には立たないことがほとんどでしょう。しかし、長期的に「豊かに生きる」とか「人を喜ばせる」とか「幸せを感じる」とか、人生をかけた、一生の仕事には、何かしらかの影響があるように考えています。
まさに、何十年もザルで水を汲みつづけたら、そこそこの量になるのではないでしょうか。

そんな一見ムダな、今すぐに役に立たないけれども、あったらいいものを「教養」と呼ぶのでしょう。なので、「教養のある人」というのは、余計なことばっかりしている人です。余計なことばかりするから、大変非効率な人物でしょう。
しかし「余計な」「非効率な」「役に立たない」ことって、とても楽しい。
ゲームをしたり、絵を書いたり、歌ったり、部屋に花を飾ったり、どれも無駄なことです。だけども、それこそ人間らしい「ひと」の営みではないでしょうか。

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