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『カラオケ秘史』|誰も特許を取らなかった!4人のイノベーター

『カラオケ秘史』挿絵イラスト

こんにちは。人見知りで緊張しぃの あさよるです。興味本位で各方面に首を突っ込むのはいいのですが、人前で話すのは苦手だし、話し下手だし、「ああ、こんなことしなきゃよかった」と落ち込んでも後の祭り。引っ込み思案な自分を変えようと、度胸をつけるためボイトレやカラオケ必勝法を勉強したこともありましたw

『歌上手になる奇跡のボイストレーニングBOOK』でしばらく毎日練習して「体の中で声を響かせる」感覚を少しだけ感じ(た気がし)ました。だけど、やっぱ全然ダメですね~。

『カラオケ上達100の裏ワザ』は、カラオケというレジャーをより楽しむ本ですね。あさよるはカラオケにあまり行かないので、上達しようがないと後から気づいたのですが……(苦笑)。

さて、「カラオケ」ってすごく身近にある娯楽で、誰もが一度は行ってマイクを握ったことはあるでしょう。しかし昭和生まれの人はご存知のように、カラオケって今のように普及したのは90年代のことで、結構最近。それ以降、子どもたちが歌を歌うのが上手になったなんて言われてもいるそうです。余暇活動として音楽鑑賞をする人より、カラオケに行く人のほうが多いという調査もあるそうで、面白い話です。

カラオケは、近年の日本人……といわず世界での音楽受容の形を変えてしまったといってもいいでしょう。日本国内でも、ヒット曲が「カラオケで歌える曲」になってから久しいですね。なのに、カラオケについて研究はまだ始まったばかり?

カラオケ発明者列伝

『カラオケ秘史』は、今や世界中に広がり「音楽のあり方を変えてしまった」と言っても過言ではない「カラオケ」についてまとめられたものです。これだけ多くの人に愛され、親しまれているにも関わらず、カラオケは日本の文化の中でも低いもの、あるいは研究対象として扱われてこなかったため、これまでカラオケについてまとめられることもなかったそうです。

本書では、カラオケの発明の父として4名の男性が紹介されます。カラオケの装置をほぼ同時期に作った神戸で流しをやっていた井上大佑さんと、東京で電気組み立て工場を経営していた根岸重一さん。岡山市郊外で「カラオケボックス」を発明した佐藤洋一さん。そしてミシン会社・ブラザーから「配信カラオケ」を構想し形にした安友雄一さんです。さらにMIDIを作った梯郁太郎さん。そして今、カラオケ音源のデータを作っているミュージシャンで耳コピ職人の直井未明さんのお仕事も紹介されています。

カラオケを最初に発明した人……ヒットならず

まず、カラオケ業界では「カラオケを最初に発明した人は、20人はいる」と言われているそうです。それは「カラオケ」という定義がバラバラだからです。「カラオケ」という言葉は放送業界で「空オーケストラテープ」の略で使われていました。スタジオに歌手を呼んで、カラオケに合わせて歌を歌わせるためのものです。この、歌の入っていない「カラオケ」を放送するラジオ番組「歌のない歌謡曲」は今も放送中の人気番組です。

この「歌のない歌謡曲」の音源に合わせて、マイクを使って歌える装置「カラオケ」を作ったのが、根岸重一さん。根岸さんは東京のエンジニアで、日本人で初めて「カラオケ」を作った男です。NHKから借りた音源に合わせてマイクで歌える装置を作り「カラオケ」と名づけリースで貸出を始めましたが、「流し」の人たちから商売の邪魔をするなと苦情が入り、お店から撤収することとなりました。また、歌が抜かれただけの音源に合わせて素人が歌うのは難易度が高く、受け入れられにくかったようです。

同時期、カラオケを考案した人……大ヒット!

同時期、神戸で流しをしていた井上大佑さんは、お客さんの歌に合わせてキーやテンポを自在に変え、お客さんに愛されていました。伴奏だけ録音しておけば自分がいなくてもお客が歌えるため、自分の演奏を再生する装置の製作をを工務店に依頼しました。井上さんの流しでのレパートリーは、お客さんが歌いやすいようキーやテンポが編曲されており、さらにマイクにエコーをかけて気持ちよく歌えるようアレンジされています。これら、キーとテンポの変更、エコーの機能は、今のカラオケにも引き継がれています。この「素人が気持ちよく歌えるアレンジ」が井上さんのカラオケが受け入れられた一つの要因です。

また、東京での根岸さんと同様に、「流し」の仲間からのクレームが入りますが、井上さんご自身が流しであり「こんな作り物の音に負けるのか」と同業者に発破をかけ、難を逃れます。流行歌は大体一曲3分くらいであることを熟知している井上さんは、5分100円と時間制で再生ができるよう工夫もしました。5分だと中途半端な時間ですから、まとまった金額を最初に投入されます。これが大ヒット。のちのカラオケブームへと続きます。

この井上さんと根岸さんはほぼ同時期、同じ着想でカラオケを製作していますが、二人は面識もないそうです。歴史の中で、大発見や発明は同時期に同じようなことを構想する人はいるものですが、カラオケもまさにその通りですね。

カラオケボックスを発明した人

カラオケは飲み屋街で広まり、好景気だった時代の接待文化と相まって大ヒットしました。が、あくまで飲み屋での話。オジサンの間のブームといったところでしょうか。それが大転機を迎えるのが1992年、岡山市の郊外で飲食店を経営していた佐藤洋一さんが「カラオケボックス」という施設を発明します。佐藤さんは元トラック運転手で、岡山市郊外の産業道路に飲食店がないことに目をつけ、トラック運転手向けのうどん屋とカラオケ喫茶をオープンします。

ある日、奥様が入院し、一人で店を切り盛りするため、うどん屋にカラオケ機材を持ち込んだことが、カラオケボックスのアイデアに繋がります。うどん屋にカラオケを設置すると客からうるさいと言われ、カラオケ機材を引越そうとトラックのコンテナに積み込んだところ、「このまま営業すればいいじゃないか」とイノベーションが起こったのです。古いトラックコンテナを下取りし、ドアと窓を開け、断熱材を張り、リビングのような内装を施し、カラオケを設置したところ、これが大ヒットとなりました。先の飲み屋街のカラオケとは違い、主婦層や家族連れ、若者たちもカラオケに長蛇の列を作ったのです。

カラオケボックスは都市の郊外にたくさん作られました。当時好景気で土地の利用を考えていた地主たちにとって、コンテナを置くだけのカラオケは設置も撤去も簡単で、低リスクでハイリターンを期待できる良い投資でした。さらに郊外型カラオケボックスが、都心部へも進出します。都市部ではビルのワンフロアぶち抜きで、少人数から大人数まで対応できるカラオケ店が出現しました。しかし未だに「カラオケ〈ボックス〉」と呼ばれ続けていますから、コンテナの箱の中から始まった名残が残っています。

たった一人の研究者が作り上げた通信カラオケ

カラオケボックスの大ヒットで全国、老若男女にカラオケブームが起こりますが、「通信カラオケ」なくして現代のカラオケ文化を語れません。通信カラオケは、カラオケとは何の関係もないミシン会社のブラザーの研究員だった安友雄一さんが、たった一人で構想から実装まで成し遂げたというから驚きです。安友さんは「好きな研究をしてもいい」との約束で経営悪化を打破するためブラザーに招かれました。安友さんはパソコンソフトを通信で送って販売する「TAKERU」を開発しますが、後発のためシェア拡大は難しいと考えられました。ある時、音大の教授から授業で学生に作らせたたくさんのMIDIのデータを託され、このMIDIのデータをカラオケに転用できるとひらめきました。そして、そのMIDIのカラオケデータをTAKERUで全国のカラオケに通信で送信すれば、新しい曲をすぐにカラオケで歌えるようになります。

通信カラオケの搭乗前はレーザーディスクのカラオケが一般的でした。物理的に大きなレーザーディスクを補完するため場所が必要で、かつ新曲がリリースされても、それがレーザーディスク化され、カラオケ店に入荷されるまでのタイムラグがあります。現在、通信カラオケは新曲のリリースと同時にカラオケレパートリーにも加えられます。

通信カラオケは残念ながら「タイトー」に一足先を越されてしまい、当初はシェアも奪われていました。しかしタイトーのリリースした「X-二〇〇〇」は通信費がバカ高く、またたくさんの人が一斉に曲をリクエストすると曲をダウンロードし再生されるまで数時間かかる欠点がありました。しかし、安友さんが発表した「ジョイサウンド」はTAKERUのシステムに深夜のうちに電話のアナログ回線で接続し、新曲のMIDIデータをダウンロードします。一回の通信費は10円です。カラオケ営業中はすでにダウンロードしたデータを再生するだけなので時間もかかりません。口コミでジョイサウンドが広まり、通信カラオケの普及により、現在のカラオケ文化を形作りました。

世界に広まったワケ・特許を取らなかった

カラオケ文化の功労者4名についてザっと紹介しましたが、カラオケが日本と言わず世界に広まった理由は、4人のうち誰もカラオケの特許を取らなかったことにあります。そのおかげで、後発での多くの企業がカラオケ業界に参入し大きな産業になりました。

カラオケ装置とカラオケボックスを発明した3名は経営者で、商売の筋も良かったのに(カラオケという大ヒットを出している)、それ以上の儲けは考えていなかったよう。ただ多くの人に楽しんでもらえることを考えていたそうです。最後の通信カラオケを一人で作った安友さんは会社員の立場ですから、そもそも特許を取ってもその利益は自分に入らないと考え、それより自由に研究できる環境があればいいと考えておられるようでした。

あさよるのような浅ましい人間からすると、「なんと無欲な!もったいない!!」とポカーンとするのみ。

ちなみに世界的には、元流しの、神戸からカラオケを流行らせた井上大佑さんが「カラオケの発明者」として知られ、アメリカの「タイム」誌にて「アジアを変えた20人」に選ばれ、国内で一躍注目を集めました。どうやら「最初にカラオケを商業的に成功させた人」と世界に紹介されたのが、日本に逆輸入された際「カラオケの発明者」と解釈されたようです。

先に紹介した通り「カラオケ」と一口に言っても、「カラオケとはなにか」という定義によって発明者は変わります。しかし、現在のカラオケの広まりは、それを独り占めせず開かれていたからこそのカラオケ文化なんです。

大衆文化は残りにくいの?

90年代「〈新しい伝統〉としての演歌」が登場した経緯についてまとめられた『創られた「日本の心」神話』にて、大衆文化はメインカルチャーに比べ「低いもの」とみなされ、未だに記録や研究対象になっていないことについて知りました。この「カラオケ」という文化もまた、素人文化であり、大衆文化です。

カラオケ史についても同様で、まとめられた書物はまだ少ないようです。

素人文化悲喜こもごも

『カラオケ秘史』挿絵イラスト

カラオケって、現代版「寝床」ですよね。「寝床」は落語の演目で、人を集めては下手の横好きで「素人浄瑠璃」を語る大棚の旦那と、それにつき合わされる人々の災難がおかしいはなし。カラオケは長くても5分くらいで終わるので、浄瑠璃にくらべれば「ずっとマシ」に思えますがw ただ、延々と一晩中つき合わされたりするとうんざりですねw

あさよるが個人的に面白く感じるのは、「〇〇さん歌上手くてすごい!」とか「〇〇ちゃんの彼氏カラオケ上手くていいね」とか、カラオケで歌を上手に歌えることがその人物の評価軸になっていることです。とくに「〇〇ちゃんの彼、カラオケ上手いからいいね」というのは、よくよく考えるまでもなく、よくわからない話ですw 歌うこと以外に、こういう評価ってなかなかないですよね。「絵がうまい」とか「ダンスがうまい」とか人から評価されるポイントはそれぞれあるでしょうが、「カラオケで歌が上手い」というなんとも言えない〈インスタント感〉が面白く感じます。

大衆文化とは、普及すればするほど、空気のように「そこにあることに気が付かない」存在になって人々の間に溶け込んでゆくのかも。だから研究対処や記録の対象にならないのかもしれません。だけど、誰かが枝葉の話でもこうやって書き残しておくのは大事なことですね。

あさよるの自己紹介も「音楽はあまり聞きません」「カラオケはたまに行きます」ですから、他人事ではありません。

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流行語『睡眠負債』|命を縮める「寝不足」が溜まってゆく……

『睡眠負債』挿絵イラスト

こんにちは。毎夜、暑さで寝苦しくって、寝不足気味な あさよるです。エアコンの温度設定が難しいですね(エアコンつけたまま寝るのが苦手)。生活リズムが崩れそうなので、意識的に運動の時間を固定しようと奮闘はじめました。こういうの、一回生活がズレはじめると元に戻すの大変よね。

特にこの夏、W杯観戦で睡眠不足な人も少なくないでしょう。まだ夏は始まったばかりなのに、すでに気が遠くなりそうに暑いんだけど……。みなさんも体調管理に気を配ってくださいね……ということで『睡眠負債』という本を手に取りました。どうやら「NHKスペシャル」で「睡眠負債」という特集があったらしく、2017年の流行語にも選ばれていたらしい……。ご存知でしたか?

眠りの借金が健康を損なう

タイトルの「睡眠負債」とは英語で「Sleep Dedt」と言い、睡眠研究者の間で注目されている問題だそうです。本書『睡眠負債』はその「Sleep Dedt」を扱ったNHK「Nスペ・睡眠負債」の放送内容からさらに取材を加え書籍化されたものです。2017年の第34回「新語・流行語大賞」でもトップテンに「睡眠負債」がノミネートされています(知らんかった!)。

(ちなみに2017年の新語・流行語大賞は、年間大賞「インスタ映え」「忖度」、トップテン「35億」「Jアラート」「睡眠負債」「ひふみん」「フェイクニュース」「プレミアムフライデー」「魔の2回生」「〇〇ファースト」、選考委員特別賞「9.98」「29連勝」です。「睡眠負債」以外は、知ってる言葉or説明を聞くとわかるけど「睡眠負債」は全く知らなかった)

まあつまり、「注目の言葉」ということみたいですね。

「睡眠負債」とは睡眠の借金。睡眠が足りないまま翌日に持ち越し、それが慢性化している人は少なくないと言います。現代人の病とも言えるようで、大人だけではなく成長期の子どもの睡眠時間も足りていないそう。子どもは大人と違って、8時間、9時間眠らなければならないのに、夜11時を過ぎてもまだ就寝していない子どもも増えてるんですって。

睡眠は生きるために必要な時間です。しかしわたしたちは睡眠を侮りすぎているのかもしれません。この睡眠負債は不可逆で、一度体に負債が定着してしまうと一生残ってしまうそうです。そんな話知らんかった! 知ると怖い話です。

ちなみに睡眠は「負債」を抱えることはあっても、貯金、つまり「寝溜め」はできません。これは他の睡眠の本でも共通して紹介されています。日頃寝不足だからといって、休日に寝溜め(寝坊)すると、逆に生活リズムが崩れてますます睡眠負債を抱えることもあるようです。

睡眠負債を抱えた状態は、注意力が低下し、酒酔い状態と変わりません。その状態で自動車を運転したり、出社しても業務がはかどらず、いいことがありません。それを受けて、企業も社員の睡眠の質の向上に注目し始めているそうです。不規則なシフト制の仕事や、夜勤のある業務では特に、睡眠の取り方に注意を払いたいですね。

現在は、睡眠不足と、認知症やがんの発症の関連性も認識され始めています。

夜更かしの〈おもちゃ〉はいっぱいある!

あさよるは恥ずかしながら、20代の頃慢性的に寝不足でした。「人間は寝ないと死ぬ」ということを知らなかったんですね~。マジで死ぬかと思った。言い訳としては、あさよるの周りの人たちがツワモノばかりで、夜も寝ずに働いて遊んでそれでもパワーが有り余っているような広告マンやデザイナーばかりの中にいたもんで、ついうっかり「自分もみんなと同じように生活しても大丈夫」と思い上がってしまいました。残念ながらあさよるは才能がなかったようで、毎日きっちり夜寝ないと体が持ちません。

で、自分に必要な睡眠時間を測ってみたところ、「7時間睡眠だと少ないかも」と思い至り「睡眠時間8時間を確保する」というプロジェクトを始めてみました。理想は、朝6時には活動が始められるような状態になってたいなぁと。午前中の日光の下がいちばん光が見やすいから、視力を使う作業は午前中に終わらせたいのだ(`・ω・´)> すると、逆算すると夜9時には就寝準備しておきたいのですが、なかなか9時までに業務を終わらせられない日が多くて四苦八苦中です……orz

睡眠負債を抱えてしまう人も、もちろん多忙であったり、勤務時間によって負債を抱えてしまわざるを得ない人も多いのでしょう。夜勤やシフト制で働く人がいないと、今の社会はなりたたないのです。一方で、もう一つの要因として「夜更かしのための誘惑」が多すぎるとも感じました。

夜中、お布団の中でYouTubeを見たり、ソシャゲをして時間が経ってしまうこともあります。SNSをチェックしている間に数時間すぎてしまったり、LINEなんかで友だちとトークして夜更かししてしまうこともあります。むしろ今の環境で「夜更かししない方がおかしい」ような気さえします。あさよるも、睡眠時間を確保したいときは、誰からの連絡も受け付けないようにして、寝ることに集中するようにしています。

SNSやネットニュースなんかも、単に「人とつながる」だけじゃなくて、心がかき乱されて「落ち着かない」「不安になる」「イライラする」なんてことも起こります。自分の心の安定をどうやって確保するのか、情報の取捨選択のみならず、オン/オフや、平穏を乱さないスキルも必要かもしれませんね。

よく寝るためにはお金がかかる

睡眠の質は、起きている間の過ごし方が影響します。また、子どもの睡眠負債は成長にも大きな影響が出るでしょうから、大問題だろうと思います。「大人と同じ時間だけ寝ているから大丈夫」と勘違いしてしまっていることもあるそうです。先にも述べたように、子どもは中学生でも8時間の睡眠が推奨されているそうで、大人よりも長い睡眠が必要です。

あさよるの妹が市街地で子育てをしているのですが、子育て事情を聞いていると「都会で子育てはお金がないと詰むな……」と感じます。妹の息子(あさよる甥)は平日毎日のように習い事をしているそうです。何をしているかというとサッカーや体操やスイミング。つまり、子どもが走り回れる場所がないから、習い事をさせて「全速力で走る」という活動をさせているそうなのです。土日はパパと自動車で公園へ行き、そこでサッカーをするそうです。あさよるは田舎で育ったので、みんな野山や田んぼで転げまわって遊んでいてそれが当たり前だったので、「子どもが走り回れない」となると、とても大変なことが起こっているんじゃないかと感じます。あさよるの育った町も、今は宅地開発が進んで、もう子どもだけで遊ばせるのは難しいかも。山や田畑も減っているし、勝手に遊んでもいい場所がありません。

子どもの「遊ぶ場所」が顕著なので例を挙げましたが、大人もまた、体を思いっきり動かせる場所が制限されているのかもしれません。昔はバーベキューや川遊びや花火ができる場所はたくさんありましたが(それが良かったのか悪かったのかわかりませんが)、今はすっかりなくなってしまいましたね。大人も、体を動かしたり、レジャーや遊びにお金を払い、契約しないと難しくなっているのかも。

気持ちよ~く、バタンキューで寝てしまうような活動のためには、お金がかかるというのは、難しい時代かも。

ログを取るのにハマる

『睡眠負債』挿絵イラスト

本書では、シフト制で夜勤のある人などに向けては、睡眠の記録を取るよう勧めておられました。

あさよるも簡単にですが、起床時間、睡眠時間や食事の時間、運動の時間などのログを取っています。これ、大変な気がするかもしれませんが、慣れるとログ取りが楽しくなってきます。ログを取ったからといって、なにか変わるワケじゃないんですけどね(;’∀’) 改善するためには別の取り組みが必要っぽいです。だけど、「あさよるは睡眠時間8時間は欲しいかも」という気づきも、ログを取るようになって感じるようになりました。一定の効果はあるのかも。

「睡眠負債」は重いです。認知症やがんのリスクが増し、命を縮めます。もし、良い時間を少しでも長く過ごしたいなら、睡眠の取り方、時間の過ごし方に目を向けるべきかもしれません。また、残念ながら睡眠負債は不可逆なものらしく、体の中に負債が溜まってゆくそうです。だから、対策するなら今日からするしかありません。2017年の流行語、今知れてよかったです。

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『究極の選択』|音・感触・言葉にならない感覚を持ち続ける

こんにちは。あさよるです。このブログを始めてから、読書傾向が大きく変わりました。以前から有名人や著名人のエッセイやコラムみたいなのを読むのは嫌いじゃなかったのですが、その「有名人」の幅が広がって、「これまで知らなかった人物のエッセイ、コラム」も手に取るようになりました。

今日読んだ『究極の質問』もそう。著者の桜井章一さんは「雀鬼」とも呼ばれる雀士。といっても、あさよるは麻雀なんて全然知らない分野ですから、桜井章一さんのことも何も知らずに本書『究極の質問』を読み始めたのですが、質問に対し、独特の思考でありながら筋の通った話が展開されてゆく様子が、抽象的で刺激的な読書となりました。

雀鬼へ究極の質問

本書『究極の質問』は、「雀鬼」と異名を持つ雀士・桜井章一さんへ、究極の難問をぶつけまくった記録です。「殺人はなぜ罪か」や「死刑制度は必要か」みたいな質問から、「AIは人の仕事を奪うのか」「極限状態で人の肉を口にするか」「周囲に流されず独自の道を生きるには」のような、多彩な質問がよせられています。

桜井章一さんの回答は独特で、理屈を並べるのではなく、とても感覚的なのが印象的です。といっても、もちろんトンデモや電波な答えをしているわけではありませんよ。回答には理由があって納得できるものですが、その答えを導き出す経緯が独自路線な感じ。

たとえば「道徳」についての質問では、道徳はその社会の思想を広めようとしているとし、それが正しく優れたものであっても人々に押し付けをすると、反発する人も現れる。道徳によって諍いが生まれることもある。日本人には「恥の文化」がまだ残っていることもあり、慎ましく行動する傾向があるが、「ムラ社会」の名残でもある。それは「旅の恥はかき捨て」と言葉があるように、いざムラ的共同体の外に出ると、タガが外れた行動をしてしまうとも言え、はたして「恥の文化」が日本人の「徳」なのかは怪しい、と答えておられます。また、大人は子どもに「人に迷惑をかけるな」としつけるが、迷惑をかけずに生きられる人はいないため「迷惑はかけちゃうけど、お互いにあまち迷惑をかけすぎないように気をつけていこうね」と教えるべきだとも話されています。

そして「道徳」の話は桜井章一さんが主宰する麻雀の会「雀鬼会」のルールへ話が及びます。雀鬼会では「いい麻雀をみんなでつくろう」というルール、一種の道徳があるそうです。その「いい麻雀」とは、勝ち負けじゃなく、

勝ち負けを超えた次元でみなが気持ちのいい麻雀が打てるように(p.73)

と話されています。また、社会の中の「道徳」は先に紹介したように負の側面もありますが(反発する人や、諍いの種になりうる)、雀鬼会のルールは全員が気持ちよくなれるものです。麻雀にある駆け引きや騙しのテクニックを取り去った麻雀だそうです。

桜井章一さんがおっしゃっている「道徳」の説明は、言葉の上では「わかる」ものですが、

経済と政治の要素をことごとく取り去った麻雀(p.74)

というのは、実際にどういう状態なのかイメージしにくいですよね。この話では「道徳」をテーマにとても抽象度の高いお話をなさっている印象です。これは、本書を通じて、具体的な話題を扱いながらも、時折とても抽象的に話が展開したりと、結構刺激できな読書になりました。

ゲームの勝敗じゃなく「音を聞く」

「隻手(せきしゅ)の声」という言葉があります。禅の公案で、両手を叩くと「パン」と音がするが、片手だけならどんな音がするか、というもの。隻手の声を桜井章一さんはどのような解釈をするか? という質問が寄せられていました。

桜井章一さんは、片手であっても掌はそこにある空間、空気を感じ、“気体”の濃度が発する気配を「音」感じると答えておられます。本書ではこの「音」が重要な存在なのです。

 雀鬼会では牌を麻雀卓に捨てるときの音を大切にしている。
牌を打つとき、無駄な思考、無駄な動きが無ければこの「内に響く音」が鳴るが、少しでも無駄な動作が入ればいい音を響かせることはできない。
牌はつかまなければ捨てることはできないが、「つかむ」という感覚があると無駄な動作が入りやすくなる。

p.137

このあと牌の扱い方が続きます。麻雀を勝ち負けのただのゲームとせず、身体感覚を使って、スポーツをしているような感覚……という感じでしょうか。とても繊細な〈何か〉に注目し、言及されているようですが、言葉として頭に入るだけでは到達理解できなさそうです。やはり、なんらかの身体感覚を伴う、感覚的なものがあって、それを掴むためのアドバイスなんだろうと想像します。

さらに、麻雀を、川上から綺麗な水を流すように打つようにと指南されていたり、ただの勝ち負けのゲームとしてじゃなく、なんらかの抽象的な動作や存在について言及しているのだろう部分が、とても興味惹かれました。

言葉にならない感覚を失わない人

わたしたちヒトは、動物として生まれてきて、成長過程で社会的教育を受け、人間になってゆきます。社会性を身につけるのと引き換えに、われわれはたくさんの動物的感覚を失ってゆくそうです。赤ちゃんは誰に教えられなくてもお母さんのおっぱいを飲めますし、勝手に筋トレして首が座り、寝がえりやハイハイ、自力で歩けるようにとなってゆきます。

だけど、社会性というのは、後天的に見につけるもので、勝手に養われてゆくものではないし、本能的な行動欲求を抑えつけ「こんなときどうする」とケーススタディをインストールされるものです。また、時代にあわせて常識や社会規範はかわってゆきますから、適時アップデートも必要です。

さて、桜井章一さんのお話からは、とても感覚的で抽象的な感じを受けました。ある種の「動物としての感覚」を失わずに持ち続けている人なのかもしれないと感じました。麻雀ってそんな感覚を使うゲームなんでしょうか。

ちなみに「あさよるは透視ができます」というと「暑さでどうかしたのか!?」と心配されそうですが、トランプゲームの場合、テーブルや服に反射したカードの色とその面積で「赤か黒か」「色の面積が多いか少ないか」くらいは「見える」ことがあります(条件が揃えばね)。だからゲームをするときは、反射しないよう机や服を準備しないと公正とは言えませんねw 勝負事って、身体能力によって結果が左右するものだと思うから、「雀鬼」と呼ばれる桜井章一さんがなんらかの身体能力が高くても、驚くことではいのかも。

五感の感じ方の偏り(桜井章一さんの場合「音」や「感触」に言及されているのが印象的です)については、「NLP(Neuro-Linguistic Programming)」的な捉え方もできるかもしれませんが、なんだかそれは野暮な気がしました。

あさよるも、何らかの「感覚」を失わずに持っているとするのなら、これ以上それを「社会性」で上書きするよりも、持ち続けたいし、能力を引き出せるように感覚を磨いていたいと思いました。

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『やってはいけない食べ方』|今やってる健康・美容法でいいの?

『体を悪くする やってはいけない食べ方』挿絵イラスト

こんにちは。毎晩、日記に「食べすぎ」と書き続けている あさよるです。「夏バテ」してるんだけど、体重は増えてるという(;’∀’)> 『やってはいけない食べ方』は管理栄養士の望月理恵子さんによる、健康や美容の指南書です。しかも、みなさんが「良かれと思って」やっている食生活が、実は逆効果なのよ~! と呼びかけるものです。なんでも「加減」が大事なんですね。

個人的に、栄養学の勉強をおっかなびっくり少しだけやってみたのですが、あまりにも難しすぎてスゴスゴと逃げ出してきた身。栄養士さんってマジすごいと、尊敬の気持ちが高くなりました(`・ω・´)b

健康に気遣っている方なら、ちょろっと目次だけでもご覧くださいm(__)m

ダイエット、健康習慣の失敗

『やってはいけない食べ方』では、健康や美容に気づかっている人が陥りがちな失敗例が数多く登場します。それでなくても、ダイエットや健康法にはブームがあって、その時々みんなが夢中になって消費されるけれども、しばらくすると忘れ去られている……なんてこともよくあります。納豆がいいとか、ココアがいいだとか、青魚がいいだとか。

昨今、流行っているのは「主食抜きダイエット」や「炭水化物抜きダイエット」でしょうか。しかも、中年の男性の間で流行っているとかで、あさよるもランチを外食したとき、中年男性がご飯だけ残しているのを見かけたことがあります。コールドプレスジュースをいただいたこともあります。スムージーは野菜や果物をミキサーで砕いて混ぜ合わせたものですが、コールドプレスジュースは野菜や果物を高い圧力で「絞ったもの」とでも言えばいいのでしょうか。

野菜を積極的に食べるのはいいことかもしれませんが、生野菜ばっかりバリバリ食べているのも考え物です。なぜなら、野菜には灰汁やシュウ酸など、人間の体にとって良いものではない成分も含まれているからです。植物だって、なにも人間に食べられるために生まれてきたわけじゃなく、毒や棘などを持って武装しているのです。

そんな、健康や美容のブームを栄養士の立場でバッサリと正論を主張するのが本書『やってはいけない食べ方』です。別に過激なことを言っているわけでもなく、「それってあんまり意味ないよ」とか「やりすぎはよくない」とか微妙な〈加減〉のお話。

例えば今、グルテンフリーの食品が流行っていますが、本書によると小麦アレルギーやグルテンによる体調不良を起こしやすい人は控えるといいけれども、特に健康面で異常のない人はグルテンフリーでもあんまり意味ないですよ~と紹介されていました。そもそも、第一章一節からしてちょっとショック。それは「朝食は和食より洋食がいい」というものです。理由は「和食はどうしても醤油や味噌を使うと塩分を取りすぎてしまう」から。寝起きの内臓がまだ十分機能していない時間帯に、塩分の多い食事は控え「食パンと卵焼きとレタス。デザートにヨーグルトでも」と紹介されており「なるほど!」と納得。あさよるも朝食に味噌汁を飲んでいましたが、確かに味が濃いかも。

あと個人的に「朝食に果物を食べるとシミができやすい」という話は聞いたことがありましたが、ずっと「ホンマかいな」と疑っていました。しかし、本書でも取り上げられていて、柑橘類を食べるとメラニン細胞を刺激し、メラニンの分泌量を増やす働きがあるそうで、日に当たるとシミや赤み、かゆみをひきおこすことがあるそうです。マジだったのか!

『体を悪くする やってはいけない食べ方』挿絵イラスト

やりすぎ、やらなさすぎはNGってこと?

本書の内容を一つずつ紹介するのはムリなので、目次情報をご覧ください~(この記事の最後に目次情報を掲載しています)。

ここで取り上げられていることの多くは、健康や美容目的に「良かれと思ってやってた」のに、それが裏目に出ちゃってるんじゃない? というお話がほとんどです。例えば、本書では別に糖質制限ダイエットを否定しているわけではありませんが、極端にやりすぎちゃうと別の健康被害や不具合がありますよ、というスタンスです。ダイエットや美容のために食物繊維をたくさん食べることを否定はしませんが、極端に食物繊維過多の食事に偏ると、肌荒れや便秘の原因になる、と紹介されています。

つまり「極端なことをするな」というのが、全編通じて述べられていることじゃないかなぁと感じます。あるいは「〇〇を食べなければいい」とか「△△さえ食べればいい」とか、短絡的に考え行動するんじゃなくて、よく考えて下調べして、食事のコントロールを自分でしましょう、という話なのかもしれません。ああ、マジ正論。「これさえ飲めば」みたいな万能薬みたいなものは幻想なのだなぁ~。

栄養学はむずかしい!

本書を読んでて「献立を考えるのって難しい!」とつくづく感じたのは、こちらを立てればあちらが立たず、みたいな話が多いことです。例えば、果物を食べるのは良い効果もありますが、先に紹介したように食べる時間帯によっては良からぬ効果もあります。また、果物や野菜が、花粉症に反応してアレルギー症状が出ることもあるそうです。ダイエットは、健康管理の面でも必要で、生活習慣病としても必要です。だけど、ダイエットに精を出しすぎると、そのせいで生活習慣病のリスクが増えることもあります。

糖分を控えてたんぱく質を多くとろうと、肉をたくさん食べるようになり、結果的に油分を取りすぎて糖尿病リスクが増すこともあるそう。だけど、油は必ずしも悪者なわけではなく、上手に取ればダイエットの味方になる、という。……ややこしい!

あさよるはもう、こういう栄養学とか生理学とかめっちゃ嫌い&苦手の二重苦なのですよ……(´;ω;`) 栄養士ってマジで賢いよなぁ~とポカーン。

「いい塩梅」ができれば……

本書を超簡単に要約すれば「いい塩梅でやりなさい」ってことなんでしょう。だけど、その「塩梅」がわからないから困ったもんだ。子どもへの「食育」の大切さが叫ばれて久しいですが、親から子、祖父母から孫へ「食育」をするのはとても難しいんじゃないかと思います。だって、あさよるの祖父母は戦前生まれで、人生50年の時代の人たちです。今「人生100年時代」なんて言われるようになりましたが、それは「肉体を二倍も長持ちさせないといけない」ということ。あさよるの両親も、やっぱり50代を過ぎると高血圧やなんやらと健康診断で引っかかって通院をしています。両親が子ども時代に受けた「食育」は、人生50年対応だったのでしょう。そして、その子世代のあさよるは……。

やはり、親から子へ「食育」をするというのはムリがある話じゃないでしょうか。昔、親から教えられたことは、今の食環境や人生観とは合致しません。やっぱ、最新版に自力でアップデートし続けないといけないのかもね……。あ~、難しいなぁ( ノД`)

こういうのこそ、東洋医学の「中庸」ってのが大事なんでしょうね。難しいけど。

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『池上彰の世界から見る平成史』|池上さんが解説し続けたニュースたち

『池上彰の世界から見る平成史』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。あさよるは昭和の人なので、「前時代の古い人間だなあ……(遠い目)」なんて思いつつ生きておりましたが、来年、昭和はさらにもう一つ古い時代になってしまいます。この夏は平成最後の夏なんだなあ(遠い目)。思えばあさよるも、平成の荒波に呑まれ続けた半生でしたねえ……。

また、池上彰さんは平成史をテレビでわかりやすく解説し続けてきたとも言えますね。ここ30年の出来事を振り返るとともに、そういえばこのニュース池上さんの説明で聞いたな~なんて思いながら読了いたしました。

長ぁ~い「平成史」

本書『池上彰の世界から見る平成史』というタイトルでもっとも感慨深いのは「平成史」という言葉でしょう。2019年4月30日で平成が終わるということは、そうか、「平成」という時代が歴史になることなんですね。平成の前の時代、昭和は64年もありましたから、昭和と比べると平成は「短い」感じがしますが、今回改めて平成の国内外のニュースや災害の年表を見ると、いやいやとても「平成は短かった」とは言えません。

平成は、戦後高度成長期の絶頂から始まります。平成元年(1989年)12月は日経平均株価が最高値を記録します。そして翌年1990年(平成2年)3月、裁量規制が始まり、その後バブル経済が終わります。世界では第二次大戦後続いた冷戦が終わります。冷戦時代はアメリカとソ連の2チームに世界の国々が分かれ緊張状態が続いていましたが、今となれば冷戦終結によって世界の親分がいなくなったことで、世界中の混沌が始まる時代でもありました。

また、平成は大災害が相次いだ時代でもあります。1990年(平成2年)の雲仙普賢岳噴火、1993年(平成5年)の北海道南西沖地震が起こります。そして1995年(平成7年)の阪神大震災以降、日本国内の地震や火山活動が増え、2000年(平成12年)三宅島噴火、2004年(平成16年)新潟中越地震、2007年(平成19年)能登半島地震、新潟中越沖地震、そして2011年(平成23年)東日本大震災があり、その後も2014年(平成26年)御岳山噴火、2016年(平成28年)熊本地震と、地震・火山活動は続いています。平成は災害の時代でした。

また、世界がテロと対峙する時代でもありました。2001年(平成13年)の9.11テロ以来、世界中でテロが広がっています。日本でも1995年(平成7年)地下鉄サリン事件の無差別テロが起こります。オウム真理教はこの以前にも1994年(平成6年)「松本サリン事件」を起こしています。日本は昭和のころからテロが何度も起こっています。

池上彰さんが解説し続けたニュースたち

本書『池上彰の世界から見る平成史』は、池上彰さんがこれまで解説しされてきた世界のニュースでもあります。池上彰さんが出演されていたNHK「週刊こどもニュース」がスタートしたのは1994年(平成6年)です。池上彰さんが「お父さん」役で、子どもたちに一週間のニュースを教えるという番組でした。あさよるも東欧やイスラム世界について、池上彰さんの「お父さん」のわかりやすい解説を見ていた記憶があります。

平成30年ですから、平成生まれの先頭グループはもうアラサーです。平成の初めのころのニュースやブーム、文化について知らない人もたくさんいます。もうこうやって「平成史」を歴史として書籍で学ぶ世代もいるのです。

『池上彰の世界から見る平成史』挿絵イラスト

「昭和」の本をよく読んだなあ

そういえばあさよるも、古書店なんかで「昭和」を扱う本や雑誌をよく手に取って見ました。多くは平成になってから「昭和という時代」を振り返るもので、戦後から高度経済期へと何冊にもカラーグラビア満載で紹介されている雑誌をよく読んだけど、あれはなんの雑誌だったんだろう(「別冊太陽」かなあ)。家電や万博、新幹線など技術の進歩が紹介されているのが面白かった。

「一区切り」ごとに時代は変わる

昭和はまさに「激動の時代」だったけれども、こうやって「平成史」を一覧してみると平成もなかなかハードな展開だったのだなあ。日本経済・世界経済に翻弄されたり、一気にグローバルな時代が到来し、世界が小さくなった時代でもあります。

どの本に書いてあったのか忘れましたが、10年ごととか、何か区切りのいいところで時代を一まとめにすることで、人は過去を少しずつ俯瞰することができるようになるそうです。そして不思議なもので、その区切りに合わせて世情も変化していくんだそう。西暦なら10年刻み、100年刻みの変化もありますし、日本の元号のように、その国固有の区切りを持っている国もあります。

別にその区切りに合わせて我々は生きているわけではないけれど、のちの時代に振り返ってみると、時代ごとのカラーがあるのかもしれませんね。なるほど、昔の人たちがことあるごとに元号をコロコロと変えていたのも、それなりに理由があったのかもしれません。

これまで時代の波に呑まれるばかりだった時間を、俯瞰できるようになる日が来るのはなんだか不思議。

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『中高生のための「かたづけ」の本』|親離れのための自己管理術

『中高生のための「かたづけ」の本』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。当ブログ始まって以来、度々「片づけ」が話題になっています。このブログを始めた頃からも、かなり部屋の中の様子が変わりましたよ。たぶん、一番変化があったのは洋服です。あさよるは特にオシャレ好きなわけでもなかったのに、なぜだか押し入れから溢れるほどの洋服を持っていました。なのに、いつも着る服がなく、オシャレもできない……。

だったのですが、今は「お出かけ用」のシャツとワンピース2着ずつ、「リラックス用」2セット、「寝るとき用(パジャマ)」2セットに落ち着きました。めっちゃ数は少ないけども、毎日着まわせるので不便もありません。かなりの変化だと我ながら思います。ほかの荷物も同じように厳選したスタメンに絞り込んでいきたいので、「片づけ本」は今後もちょくちょく読んでいくつもりです。

今回の『中高生のための「片づけ」の本』は、親の管理下から離れ自立しようとしている思春期の人へ向けた片づけの本で、「なぜ片づけが必要か」「片づけができるとどんないいことがあるのか」と、片づけの意味を丁寧に解説されています。欲しいモノ、手放すモノ、失敗した買い物や、大事に取っておきたいモノなど、自分の価値観で選べるようになるためのレッスンです。

部屋が片づくと良いことが起こる!

本書『中高生のための「かたづけ」の本』は、収納デザイナーによる10代向けの片づけ本です。子どものころは、親が部屋の片づけをしたならば、子どもは片づけをできなくても仕方がありません。自室を与えられたり、自分の荷物の管理を自分でするよう任されたものの、片づけの方法が分からなず放置なんてことも。

なにより「片づけるとどうなるのか」「片づけないとどうなるのか」を知らないままの子どもも多いようです。本書では、幼い頃からお母さんに「友達を家に呼んだじゃダメ」と言われ続けていた女の子のお話が登場します。女の子は大きくなって、よそのおうちにお邪魔するようになって初めて「うちは散らかってるんだ!」「片づいてないから人を呼べなかったんだ!」を気づいたといいます。そして、収納の先生と一緒に片づけを初めてやっと、人から借りたまま返してないものや、未提出の資料などが多量に発見され、「周囲からの信頼も失っていた」と気づくのでした。

そう、本書では、面倒くさい片づけをなぜしないといけないのか? 片づけるとどんないいことがあるのかが紹介されます。

片づいていない部屋では、常に探し物を繰り返しがち、人に借りた物を返し忘れがち、忘れ物をしがち、部屋が物で圧迫されて心が落ち着かないなんてことも起こります。

みんなが抱えている問題は、片づけをしたくらいじゃ解決しないかもしれないけれど、片づけをすると意外なほどにスカッとするのは事実。やってみよう(`・ω・´)b

「捨てる」は技術じゃない

本書では片づけのステップを「出す」→「分ける」→「選ぶ」→「収める」と紹介されています。あれ? 「捨てる」がないんです。

まず、あちこちに散らばった物を集めて全部「出す」。そして集めたものを「分ける」。物を分類していきます。ここまでは要不要などなにも考えません。感情もはさみません。ただ作業として「出す」「分ける」をします。分類したものを「好きなもの」「必要なもの」「残すもの」に分けます。さらに「残すもの」の中から「手放せるもの」「手放せるか迷うもの」にわけます。

そして、残ったものをやっと「収納」します。収納と言っても、最初から収納家具やアイテムを買うのではなく、最初は空き箱などを使ってしばらく収納法を模索します。

ちなみに、片づけをするとき最も多く出るゴミは、収納家具や収納のための道具だそうです。収納アイテムがあるがために、その収納アイテムに合わせてものを詰め込み、どんどんものが増えてゆきます。で、また収納アイテムを買い足して……を繰り返すという。

で、「捨てる」というのは、片づいたあと、いつの間にか自動的に起こります。淀んでいた川を、川上から河口まで物の入り口と出口を整備すると、自ずと河口付近にものが堆積されてゆきます。それらをある日、ごみ袋に詰めてゴミの日に出せば、それだけで「捨てる」は完了です。

片づけというとまず「捨てる」ことを考える人は多いそうですが、本書では「捨てる」には着目せず、あくまで片づけの結果としてそれが勝手に起こるものと位置づけられています。

捨てることに抵抗のある方はぜひ、「出す」「分ける」「選ぶ」「収納する」に着手してみてください。

片づけの教育・しつけを

よく片づけの本や、片づけに関する話題で「わたしたちは片づけの教育を受けていないから、片づけられなくて当然だ」という言説を目にします。確かに、義務教育中でも、家庭科の時間でも片づけは習いませんでした。

自力で上手に片づけできる人はいいけれども、うまく片付けられないばっかりに自信を失ったり、家族間でけんかや暴力の火種になったり、貸したものを返さないなどの忘れ物・なくし物のせいで、信用を失っているのかもしれません。

そして、不思議なもので、片づけ前は「それが当たり前」ですから、自分の問題に無自覚だったりします。本書でも面白い話が紹介されていました。片づけ依頼主の許可を取って片づけ前と片づけ後の写真をブログに乗せたところ、その依頼主の方が「この散らかった部屋、うちもこんなだったな~」と自分の家だと気づかずに読んでいたというのです。

人は、片づけると、片づけ前の様子をキレイさっぱり忘れちゃうようなので、片づけ前と後に写真を撮っておくといいかもしれませんね。変化が目に見えてヤル気が出るかも。

実は親・大人向けだったりして

本書『中高生のための「かたづけ」の本』は、「中高生のための」と銘打たれていますが、中身を見ると実は大人向けだったりして……とも思ってしまいます。それくらい、片づけって大人の問題でもあるんですよね。

本書でも著者の収納アドバイザーである杉田明子さんが仕事で出会った事例を紹介されているのですが、どれも「生々しい大人の事情」感もあり。だって本書ではズバリは書かれていないけれども、片づけって健康状態とか精神状態にも影響があるだろうし、ひいてはそれは仕事や収入にも間接的に影響するんじゃないかと思います。だから、「片づけられない」って単に部屋が汚いだけじゃなくって、もしかして「家族の問題」「人生の問題」なのかもしれないなあ、なんて思いました。

だから、子どもへ向けて書かれた本だけれども、その延長線上で「家族」や「家庭」を考えるものなのかも、と、片づけの持っている深い意味を覗き込んだような気分。

それにもし、片づけられないお父さんお母さんだったとしても、「これからは子どもたちが支えてゆく」よう、世代間のバトンタッチが自然と促されているのも見逃せません。庇護されていた子ども時代から、大人になってゆく過渡期の『中高生のための「かたづけ」の本』なのでしょう。

自分で片づけられるって「自立」なのかも

『中高生のための「かたづけ」の本』挿絵イラスト

思春期の人にとって「片づけ」は、両親の管理下から逃れる、親離れの一歩なのですね。自分で自分の身の回りを片付けて、居住まい正せるようになるのは、「自立」へ向けた成長過程と位置づけられるのかも。

また、片づけとは、自分の人生、自分の生き方を考えることでもあるようです。

自立して親元を離れてからも、自分の荷物を自分で処分できず実家へ送ってしまう人がいるそうです。そして、両親が亡くなってから、かつて自分が送り付け続けた段ボールの山と再会する……なんてこともあるようです。

自分の持ち物もいつか--それは近い将来――持ち主不在のゴミとなります。100年後、自分はこの世にいないでしょう。今の自分の持ち物も今捨てずに保存したところで、いつか捨てられてしまいます。だからせめて、今は自分の持ち物をスッキリさせて、運命へのせめてもの抗いとして、「とっておきの特別なもの」を厳選し、ムダ遣いせず潔く生きられればいいのになあなんて。

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『愛とためらいの哲学』|穏やかに心が満たされる恋のために

こんにちは。あさよるです。やっぱり「恋バナ」は面白いものです。老若男女関係ない話題だし、世代を超えて年長者の話が聞けるのも楽しいところです。今回手に取った『愛とためらいの哲学』も恋バナ本で、著者は『嫌われる勇気』の岸見一郎さん。岸見さんの本は数冊読みましたがどれも面白かったし、アドラー心理学の考え方も、あさよるは納得しやすく、すんなりと読むことができました。

「恋バナ」の小ネタに読んでもいいし、本当に恋に悩んでいる人や、これから恋したい人にもピッタリです。火傷するような恋だけじゃなくて、静かに心が満たされる恋もあることがわかります。

老若男女が知りたい「恋バナ」

本書『愛とためらいの哲学』の著者は『嫌われる勇気』がヒットした岸見一郎さんです。岸見一郎さんは哲学者であり、アドラー心理学の研究もなさっています。『嫌われる勇気』は、哲人と青年の対話形式でアドラー心理学について語る内容でした。アドラー心理学では過去に囚われず「今」だけに注目します。過去にトラウマや辛い経験を抱えていても、誰もが「今」幸せに生きることができるという考え方です。

本書『愛とためらいの哲学』も、アドラーの名言を交えながら、アドラー心理学的な「愛」や「恋」の話が展開されます。岸見一郎さんは講義で学生から恋について質問を受けることがたくさんあったそうです。恋の悩みは若者の多くが抱えている悩みなんですね。アドラーもまた、学生たちから恋について質問をされたそうです。写真のイメージとは違って、柔和で話しやすい教授だったそうです。

愛や恋は、どんな権力者であっても、「私を愛しなさい」と命令したところで、本当に自分を愛させることはできません。恋には思い通りにはいかないのです。

しかし、恋路だけが特別なわけではなく、人間関係とは、思い通りいかないものなのです。しかし、恋が特別なのは、嫉妬や執着心、独占欲が特定の人物に強く発動するところかもしれません。また、焦がれていたはずなのに、恋が実ってしまうと気持ちが冷めてしまう……なんてことも起こります。独占欲や、あるいは他の人との競争心を恋と勘違いすることがあります。友人や兄弟姉妹に対抗して、「もっと素晴らしい人を恋人にすることで〈勝ちたい〉」と考えちゃうヤツですね。

自分の自信のなさや、他人への嫉妬や対抗心、独占欲や依存によって、恋が難しく苦しいものとなっているのです。

穏やかに静かに、人を愛す

『愛とためらいの哲学』で語られる恋愛は、穏やかで静かな関係が、良い関係とされています。嫉妬せず、競争せず、お互いに愛される関係性です。この時、二人の間にある闇に注目するのではなく、良いところ、つまり光に目を向けることで、お互いに穏やかな状態でいられます。大人の二人の関係って感じですね。傷つけあったり、束縛し合ったり、依存しあったり、お互いに一緒にいて嫌なことばかりの「恋愛」よりも、一緒にいることで二人ともが穏やかでより充実して、気持ちが満たされて一緒に居られる方がずっといいなあなんて思いました。

また、岸見一郎さんはアドラーの考えをただ紹介するだけではなく、ときにはアドラーの言葉を否定したり、言葉を足したりして、ご自身の考えを語っておられます。それは、西洋人のアドラーの思想よりも、より日本人的な価値観に合うようローカライズされているとも感じました。

しかし、古今東西、老若男女、恋バナは尽きないようです。

幸せになる恋もある

みんなが好きな恋の話は「悲恋」ではないでしょうか。実らない恋や、破滅してゆく恋こそがロマンチックでなまめかしく、美しく感じます。一方でこの『愛とためらいの哲学』で語られる恋愛は、幸せで静かで、満ち足りたものです。だからあんまりロマンチックじゃないし、スリリングでは全くありません。物語の恋の話しか知らないなら、こんなに穏やかな恋愛があるのだと知るだけでも収穫かも。みなさんは、嵐に翻弄されるような恋と、穏やかで静かな日々が続く恋、どっちがご所望でしょうか。これは自分が何を求めているのか、今何が欲しいのかによって答えはさまざまでしょう。

恋を扱う本って、面白おかしく書き立てるものや、見当はずれなもの、一歩間違えはセクハラやパワハラになることを勧めるものなど、危ういものもたくさんありますが、『愛とためらいの哲学』は至ってまじめで、地味だけど、ジワジワっと憧れるような恋を扱った内容でした(^^♪

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『その情報、本当ですか?』|デマ拡散のネットとテレビ、どっち?

こんにちは。あさよるです。毎日ブログを更新する程度には日々ネット漬けで、新聞もあまり読まないし、テレビは全く見なくなって久しいです。しかし災害時や緊急時は、ネットニュースの速報性はとても高いですが「まとまった情報を俯瞰する」ことには向いていないようにも思います。また、SNSを使って情報がシェアされますが、なんとなく有益そうな情報に感じるけれども、出どころ不明の情報だったり、どこかから転載してきたと思しき情報も散見されます。出展元がわからないと、その情報をどこまで信頼していいのか悩みます。また、「以前はこうだった」と過去の経験を語る人も多くいます。もちろん、他人の経験は重要ですが、緊急時にそれぞれの人が直面する問題は全く違っているだろうし、平和で安全な場所でいる人が、過去の思い出話を拡散することが、どれくらい今困っている人の役に立つのかなあと感じます。

ネットの情報は趣味や余暇の楽しみには最適です。が、人の命がかかっているような状況では、やはり新聞社やテレビ局の情報に耳を傾けてしまいます。災害時でも、NHKや政府のTwitterアカウントが拡散されていますね。

デマや誤認などの玉石混交……というか、石ばっかりの情報の中から、有益な「何か」を読み取れるリテラシーの高い人にとってネットはとても使い勝手の良いものでしょうが、圧倒的多数の人にとっては、ネット情報を扱うのは難しすぎるのではないか……と、今回『その情報、本当ですか?』を読んで改めて思いました。

テレビや新聞は「誰かがフィルタリングした情報」であることが大事で、意味のあることなのかもしれません。

テレビニュースのつくり方

『その情報、本当ですか?』の著者・塚田祐之さんは1975年にNHKに入社し、報道番組の企画・取材・制作に携わり、専務理事まで務められた方です。1985年の日航ジャンボ機墜落事故や、1995年の阪神大震災、2004年の新潟中越地震、2011年の東日本大震災と、日本の大災害や大事故もテレビマンとして経験されました。

2011年の東日本大震災では、TwitterをはじめSNSで安否情報や被害情報が拡散され、SNSが注目されました。現代ではアメリカのトランプ大統領も、Twitterを使って直接全世界に向けて生のメッセージを拡散しています。ネット情報は迅速でかつ誰もが発信できることが良い点でもあり、悪い点でもあります。ネットニュースには、フェイクニュースが少なくない量混じっています。「フェイクニュース」とは本書では「事実でない、にせのニュース」全般を指して呼ばれており、発信者の意図は問わず、勘違いや間違いも含みます。

1995年にMicrosoftのWindows95がリリースされた頃から、日本国内の一般家庭にも徐々にインターネットが普及してゆきます。1996年にはYahoo!JAPANが登場し、ヤフーニュースが始まりました。当時は、通信社や新聞社から安い価格で記事を買って配信されていたそうです。そして2003年、ライブドアは新聞社の書いた記事と、ブロガーが書いた記事を同じように並べ、ランキング形式にして表示しました。ブロガーの中にも専門家はいますが、裏付けの薄い記事も閲覧数が多ければランキング入りします。数多くの「ニュースサイト」が登場しました。このころから、テレビや新聞の報道と、ネットの情報のパワーバランスが変わり始めたのかもしれません。

著者の塚田祐之さんは、テレビ報道の現場でどのようにニュースが作られるのかを紹介しながら、ネットニュースとの違いを強調されています。粘り強く取材を重ねたり、実際に現場に赴いたり、時間と手間をかけてニュースが作られているのがわかります。また、冷戦時代、「鉄のカーテン」で仕切られたソ連で大やけどを負った少年を北海道の病院が受け入れた様子を取材したり、北方領土問題をめぐり当時のロシアのエリツィン大統領と中継で結び、元北方領土島民がインタビューをする企画を実現しました。こんな企画はテレビならではで、ネットのニュースサイトでは難しそうな企画です。

視聴率主義とページビュー主義

テレビは放送内容よりも視聴率重視の傾向があるなんて言われます。それは民法だけでなく、NHKも視聴率を気にしているようです。ちなみにNHKで2017年一番視聴率が良かった番組は、朝の連ドラ『わろてんか』だったそうです。

じゃあ、テレビは視聴率主義だから、テレビ番組も視聴率を取れる内容に偏っていて、見る価値ないのか? というと、なんとも言えません。それは、ネットの情報もまた、ページビュー数稼ぎのために書かれた記事が大量にあるからです。ネットの場合、記事に添付された広告の表示回数によって収益が発生したり、または記事に張られたハイパーリンクを辿ってショッピングサイトで買い物されると、売り上げの数パーセントを仲介手数料として受け取れる仕組みなどが存在します。ページビュー数を稼ぐためのネット記事が溢れかえっており、正直、なかなか裏付けのある情報にたどり着けなかったりもします。このページビュー数稼ぎは、テレビの視聴率主義とは比べものにならないくらいでしょう。

テレビの方がより〈マシ〉?

本書『その情報、本当ですか?』を読む限り、ネットの出どころ不明、執筆者不明の記事や情報に比べれば、テレビの情報の方が「マシ」といったところでしょうか。今現在、テレビニュースでもSNSで拡散された情報や写真・映像が報道されることが普通になりました。ネット発の情報ですが、「テレビ局が選んだ情報である」という点で、フィルタリングが一度は成されています。ネット上で拡散される情報から、取捨選択して必要な情報だけを抜き出すには「ネットリテラシー」が必要です。テレビが視聴者の代わりに情報を選んでくれていると考えると、テレビでネット発の情報が取り上げられる意味はあるのかもしれません(あさよる個人的には、報道が素人のスクープをそのまま放送してどうするんだと思ったりもする)。

あさよる家では新聞を取っているので、一応毎日、新聞の一面はザッと読んで、紙面の見出しくらいも目を通します。前日の早朝のニュースなんかだと、すでにネット上でひとしきり話題になった後なので、なんだか遠い昔のことのようで「ああ、このニュース昨日だったのかあ」と驚くこともあります。あさよる的には「速報はネット」「まとまった記事は新聞」って感じなので、テレビを情報源として使うことがほぼなくなりました(;’∀’)>

まあ、「ネットの情報より、テレビの方がまだマシ」というのは、納得します。緊急時、SNSではデマの拡散が毎回取り沙汰されますし、「拡散すべきことと、拡散すべきでないこと」の判断を個人が完璧にし続けるのは難しいから、多くの人にとってテレビ報道は必要なのかもしれません。

“TVer”ってサイトを知った

今回『その情報、本当ですか?』を読んで初めて知ったのは、「TVer」というサイトの存在です。「TVer(ティーバー)」は民放各局のテレビ番組が見れるポータルサイトです。直近一週間分のテレビ放送が見れるそうなので、radikoのテレビ版みたいに考えても良いのでしょうか。さっそく「情熱大陸」を見てみました。

部屋のテレビがもう古くて寿命みたいなので、捨てようか悩んでいましたが、ネットでテレビ番組が見れるならテレビ本体は手放してもよさそうだなあ。あさよるは基本ラジオっ子なので、ラジオがあれば十分だし。

今のテレビを買った経緯も、2011年の東日本大震災の時、単身世帯でテレビを持っておらず、ネットニュースはわけがわからないし、SNSではデマが飛び交い、ラジオだけでは状況が把握できなかったので、「映像の情報は最低限必要かも」と思って、テレビを買いました。しかし、今では緊急時もネットでライブ配信されてるし、マテリアルとしてのテレビはなくてもいいかも。

こんなことを言うと、すごく皮肉を言っているような感じですが、報道が、新聞、ラジオ、テレビ、誌面など、媒体によって区切られていた時代から、現代はみんな同じインターネットという媒体に集約され、テレビ局や新聞社の取材や企画、編集、スクープなど、情報の質や内容によって、他のものと分けられ始めていんじゃないでしょうか。

あさよるも好きなユーチューバーさんの動画を見るのは好きですが、テレビを見るとやっぱりテレビ番組のクオリティはすごいと思うし、ネットニュースよりも新聞記事の方がソースとして良いと感じます。今はメディアが再編成される過渡期なのかなあなんて思いました。

「テレビだから信じる」から「テレビ局が取材して裏取りをした情報だから、ネットニュースより信頼できる」へと、利用者の意識が上がってゆくことが、本書『その情報、本当ですか?』で著者が読者へ求めていることだと思います。

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『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』|知ったかより自習を

こんにちは。あさよるです。毎日本を読んではブログに書いても、読む本はなくならないし、自分が賢くなった気もしないので、人類の知識の貯蔵はすごいなあと思うし(日本語で書かれている本の量と分野の幅広さもすごい)、自分の浅はかさもすごいなあと思います(;’∀’)>

今回手に取ったのは『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』。タイトルはドキッとせざるを得ません。

覚えることと、覚えないこと

『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』では、中高生を対象に、勉強の心得、勉強との向き合い方について指南されます。

印象的なのは、勉強には「暗記しなくてもいいこと」と「覚えた方がいいこと」があるということ。暗記しなくても、頭で考えると筋道が見えてくるのは数学の公式です。本書では面積の求め方が例に挙げられていました。形が複雑な図形も、視点を変えると単純な計算で答えが求められる場合が多いのです。「考えることで大まかな筋道が見える」「およその答えがわかる」という感じでしょうか。数学は、暗記の量は少なく抑えることができます。

反対に、覚えた方がいい「暗記」の鉄則。脈略もない組み合わせの言葉を記憶するのは至難の業です。なので、暗記するものは「なるべく多くの情報を一緒に覚える」と、記憶に残りやすいのです。例を挙げると、

① 太った男が  錠を買った
② 力の強い男が  ペンキのハケを買った
③ 眠い男が  水差しを持っていた

p.50-51

上記の文は、要素は少なく単純ですが、脈絡がないので覚えるのは面倒です。しかし、情報量が増えると、一気に記憶に残りやすくなります。

①肥った男が買った錠は、冷蔵庫にかけるためです。つい冷蔵庫を開けて食べてしまうので、食べ物を出すのにわざと手間のかかるように、錠を買ったのです。
②力が強い男は、ウエイトトレーニングに使うバーベルにペンキを塗り、その後始末でハケを洗っていたのです。
③眠い男は、眠気覚ましにコーヒーを飲もうと考えました。そして、コーヒーメーカーに水を入れようとして、水差しを持っていたのです。

p.52

こうやって文にすると、情報量は多くなり暗記量は増えているハズなのに、記憶しやすいんです。「この人はなぜこうしているのか」と状況を想像することにより、人と行為が結びついてすんなりと頭に入ってきます。思い起こすのも簡単です。暗記勝負になるとつい「覚えることは少ない方がいい」と考えてしまいがちですが、反対に覚える情報を増やす方が簡単です。歴史の年号を語呂合わせで覚えるよりも、「なぜどんな流れでそうなったのか」と他の情報と合わせて覚えるほうが思い出すのも簡単です。

さらに忘れてはならないのは、総合的な知識です。先ほどの例だと、③の「眠い男は、眠気覚ましにコーヒーを飲もうとした」という文は、「コーヒーは眠気覚ましになる」という知識があって初めて理解できることです。知識は総合的に、他の分野を行ったり来たりしながら、教養を深めてゆくことが、勉強を効率的にするのです。

「わからない」に注目する

本書後半は、本当はよくわからないのに、なんとなくわかった気になっている落とし穴に注目します。たとえば「蜘蛛は昆虫ですか?」と質問すると、学生たちは「蜘蛛は昆虫ではなく虫だ」と答ますし、昆虫の定義を言います。しかし定義を知識として知らなくても、昆虫の体の仕組みを知っていると、昆虫と虫の違いがわかるんだそうです。これも「教養」があれば、定義の暗記がなくとも、答えが導き出される例です。

こういう「わかったつもり」はたくさんあります。例として三好達治の詩「こんこんこな雪ふる朝に」が紹介されています。この詩は、特に難しい言葉も使われていないので「わかる」んです。が、改めてその情景について質問されると、パッとイメージが広がります。つまり、サラッと読んで「わかったつもり」でいても、鮮明にイメージしないと詩に描かれている様子を理解したとは言い難いですよね。

「わかったつもり」は厄介です。もしかしたら「わからない」「苦手だ」「嫌い」よりもたちが悪いかもしれません。『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』ではこの「わかったつもり」をあぶり出すよう指南されております(;’∀’)>

大人は「分かったつもり」か「知ったかぶり」

はてさて、本書『あなたの勉強法はどこがいけないのか?』を読むと、大人になるというのは「わかったつもり」ばかり増えて、さらに「知ったかぶり」も増えることなんだなあと痛感します。これは仕方がない側面も大きいと思うし、一概になにもかもが悪いとは思いません。自分の知らない話題が展開されていても、自分だけが「わかりません」と発言して全体の流れを妨げてしまうことを遠慮することもありますし……。しかし、一人の人間としては「知ったかぶりはなるべくしたくないなあ」と思うし、そして「ああ、また知ったかぶりをしてしまった」とヘコむこともあります。

昔、甥が幼稚園へ上がる前の頃、電車が好きで、路面電車を見に行きました。あさよるが「あの電車は道路の上を、自動車と一緒に走るんやで。信号が赤になったら車と一緒に止まるねん」と教えると、「コイツなんかアホなこと言うてる~!でっ、電車が信号で止まるワケないや~ん!ぷぷぷ~!」みたいな、まさにプケラ状態で、ホントにこんな感じで → m9(^Д ^) 指さして心の底から嘲笑うようにバカにされたんですよね~。だけど、いざ路面電車が動き出し、本当に道路の上を走り、本当に赤信号で停止している様子を見て大フィーバー! さっきまでの嘲笑いモードから一変、「見て!見て!電車がぁああ!」みたな大興奮でキャーキャー叫び声を上げていました。私は「だから言うたやん」と思いつつ、「この手のひら返しはマネできんな」と、子どものパワーに圧倒されました。

こんな風に自分の発言が全く否定されるような現実に直面したとき、大人はどうしてもなかなか発言を撤回できません。それは頑迷とも言えるし、「発言の一貫性を失ってしまう戸惑い」もあると思います。だけど、子どもはそんなの全く気にせず、盛大に、さっきと全然違うことをしまう。この子どもパワーは大人になると羨ましい限りです。

知ったかぶりはやめられなくとも……

あさよるは、「知ったかぶり」「前言撤回できない」のは大人の性だと思うので、それ自体は仕方ないと思うし、他人のそんな振る舞いもなるべく寛容でありたいです(なかなか難しいですが……)。

その代わりに、人前では偉そうに知ったかぶりしちゃったなら、その後プチ反省して、後々コッソリと自習する習慣は持っていたいと思っています。自戒しつつ、自習できればいいかななんて思います。大人になると、どんどん誰も何も教えてくれなくなるし、自分からも「教えて」って言いづらくなってゆくし、せめて「後から勉強しよう」って習慣だけは死守したい……。

もちろん、「知りません、教えてください」って素直に言える人を見ると「偉い人だなあ」と尊敬しかないし、「それに引き換えわたしは……」とヘコむばかり。(;´д`)トホホ

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『皮膚は「心」を持っていた!』|好き嫌いも肌で感じてる?

『皮膚は「心」を持っていた!』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。『皮膚は「心」を持ってた!』とタイトルがなんだか非科学的な感じがしますが、読んでみると結構普通でした。理系とか医学系の本は難しいので読むのが大変ですが、誰でも読めるように噛み砕かれた内容です。また、多くの人が共感ができるような話題が扱われています。

本書では皮膚の感覚、触覚という、四六時中感じているけど、あんまり意識することのない器官が取り上げられています。皮膚感覚が無意識にもたらす効果を知ると、自分の感じ方、考え方も変わるかも?

皮膚は露出した「第二の脳」

本書『皮膚は「心」を持っていた』というタイトルはややミスリードを誘うような、煽りタイトルですが、中身はまともです(だと思う)。皮膚は「第二の脳」と呼ばれるくらい、生き物が生きるために重要な器官らしいのです。身体の中で一番大きな器官でもあります。

脳がとても小さい昆虫も、触覚の感覚を使って俊敏に行動します。あるいは脳を持っていない単細胞生物のミドリムシだって、体の表面に触れる外界を察知して動き回っています。皮膚は脳が生まれるよりもずっと前から、生き物が活動するために使われていたんです。

また、皮膚は音を聞いています。音は空気の振動ですが、聴覚では感知できない周波数の空気の振動も、皮膚で感じることができるのです。また、目を閉じていても「色」を感じることもできます。色は光の波長の中の可視光線を「色」と感じているので、皮膚は光の波長の違いを感じるんですね。赤外線は温かく感じるし、紫外線を受けると「日焼け」をするのも、皮膚が「感じている」証拠でしょう。

肌の感覚で快不快を感じている

わたしたちは快/不快を肌感覚で感じていると言います。心地よさなんてまさに「心」で感じているように思いますが、皮膚感覚が重要らしいのです。同じシチュエーションでも、温かなカップを持ってるときと、冷たいグラスを持っているときで、相手への好感度に変化があるそうです。もちろん、手が温かいときは相手への好感度が高く、手が冷たいと相手への好感度が下がります。

心理学では、サルの赤ちゃんを使った実験が有名です。サルの赤ちゃんを母親から引き離し、ワイヤーで作ったミルクをくれるママの人形と、ミルクはくれないけど布でできたママの人形を用意しするろ、子ザルは布の人形に愛着を示すそうです。つまり、「エサをくれる存在」よりも「肌触りがいい存在」の方に愛着を持つということ。人間の子育に当てはめるなら、赤ちゃんは「母乳をくれる母親」ではなく「肌触りがいいもの」や「優しく体に触れてくれる人」に愛着を示すということ。だから、父親や祖父母、保育士など、母親じゃない人だって、赤ちゃんに安心や愛着を感じさせることができるのです。

柔らかいものに触れると心が和らぐのは、大人だって実感があるでしょう。スヌーピーが登場するマンガ『ピーナッツ』に登場するライナスは、いつもお気に入りの毛布を引きずっています。その様子から、触っているだけで心が落ち着くようなアイテムを「ライナスの毛布」と呼ばれています。子ども時代に「ライナスの毛布」があった人は多いだろうし、大人になったって「ライナスの毛布」がある人も実は多いんじゃないかなあと思います。ちなみに あさよるは、洗濯してクタクタになったタオル地が好きです。

また、悪いことをしたとき、悪口を言ったらな口を、悪口を手紙に書いたら手を、洗ったりゆすいで清潔にすると罪悪感が減るそうです。朝、熱いお湯を目覚めのシャワーであびると気分が切り替わって、気合が入ったりもします。

皮膚は「心」を持っているというのは、言い過ぎではなさそうです。

「触れる」を上手に使えたら

心許せる人に身体を触れられると「オキシトシン」というホルモンが分泌されるそうです。オキシトシンは「愛情ホルモン」「幸せホルモン」とも呼ばれ、幸せを感じたり、ストレスが軽減されます。疲れたとき、エステやマッサージに行きたくなるのも、「人に触れられる」という行為そのものが、ストレス軽減につながるからでしょう。また、エステやマッサージでは、施術している人も、施術されている人に同調してオキシトシンが分泌されるそうです。家族や恋人など、近しい人同士でも、身体が触れ合うような習慣があると良いですね。

オキシトシンは女性のほうが分泌されやすいそうですが、オキシトシンは人の縄張り意識を高め、攻撃的にする効果もあります。子どもを産んだ母親は、オキシトシンにより幸せを感じる一方で、子どもを守るために「強くなる」んですね。

なもんで「触れる」というのは、上手に行えばストレス軽減し幸せを感じますし、下手に触れると不快感が増しイライラが募ります。好きな人に触られるのは気持ちいけど、満員電車の中で見ず知らずの他人と体を密着させるのはとても不快です。不快感を紛らすために、目をつむったり、スマホや本に目を落としたり、なるべく気を紛らす工夫をみなさんしています。

日本人はハグをしませんし、握手も滅多にしません。「触れない文化」を持っていると言っていいでしょう。「触れる」というのは上手に使えばコミュニケーションもスムーズになるし、自分自身のストレスも軽減されるなら、積極的に「触れる」関係を作っていきたいなあと思いました。もちろん、「お互いに親密だと思いあっている」間柄限定ですよ。

触れられることで「自分」を確認する

本書では、「触れる」ことは自己を形成するためにも重要だと紹介されていました。子どもの頃、人から「抱きしめらられる」ことで、安心と同時に「自分がここにいる」ことを感じるそうです。自分の存在を感じることは、自分と他人が別の存在であることを知ることでもあります。

本書では、幼少期に抱きしめられた経験が少なかったために、自分と自分以外の境界線が曖昧な人の例が登場します。自分の心に土足で上がり込んでくるような人を許してしまったり、断れずに相手の要求を呑んでしまったり、苦しい思いをした経験が紹介されています。世界と自分との境界線があやふやだから、自分の持ち物が否定されると、自分が否定されたように感じてしまったり、傷つかなくてもいいことで傷ついたり、拒絶してもいい場面で拒絶できなかったり、大人になってからも影を落としています。

人から「抱きしめられる」って経験は、想像以上に重要なものみたいです。もちろん先に紹介したように、「抱きしめる」存在は母親だけでなく、父親や祖父母、保育士など、どんな間柄の人でも同じです。子育てをするなら、母親以外の人にも抱きしめられ、安心できる経験を増やすよう努めると良いみたいです。

触れ合いは〈絆〉も〈束縛〉もつくる

スキンシップは夫婦・恋人同士や親子、仲間内の〈絆〉を深めるものなのですが、〈絆〉はお互いに〈束縛〉しあうものであることも忘れてはなりません。子どもは抱きしめることで安心を感じるのですが、思春期になっても、親が子ども扱いして身体に触れるのは、ご法度です。親離れをしようとし始める時期ですから、子ども扱いはやめましょう。しかし一方で、思春期とはいえど「甘えたい」という気持ちも同時に持っています。子どものように甘えさすのではなく、激励するように肩に触れるなど、スキンシップの方法を変えてゆきましょう。

欧米でも年月とともに、夫婦間のスキンシップは減っていくようです。なるべく同じベッドで寝たり、ソファに並んでくつろいだりと、同じ空間で、お互いに距離を縮めるような工夫を持った方がいいと紹介されています。

人に触れない文化だけど

『皮膚は「心」を持っていた!』挿絵イラスト

日本人はハグや握手をしない、スキンシップの少ない文化を持っています。そういえば あさよるも、人と触れ合うような経験って、電車の中で他人と密着する程度かもなあと考えて、「こりゃヤバイ」と感じました(;’∀’)

また、照れ臭くってスキンシップってなかなか取れなかったりするけども、恥ずかしがらずに「触れる」って大事なんだな。

まだ、肌の感覚って、見過ごしてしまいそうだけれども、自分の精神状態をつくるにも大きな役割を果たし得ていることも知りました。清潔を保つことや、気持ちのいい衣類を身につけること、座りやすい椅子を選んだり、「手ざわり」「肌ざわり」にもっと意識的にこだわってもよさそうです。

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『勉強法が変わる本』|脱・暗記主義!点が良ければそれでいい?

こんにちは。あさよるです。5月末から用事が重なっていて、なんだかヘトヘトなまま月曜を迎えています。疲れているときは時間があればゴロゴロと寝っ転がって本を読んでいるので、読書ははかどっているんですけどね。

なるべく自習の習慣を途切れさせまいと踏ん張っているのですが、疲れにかまけてサボっているので、気合を入れようと『勉強法が変わる本』を手に取りました。著者の市川申一さんは教育に関する研究をなさっている方で、本書も高校生へ向けた勉強法を指南するものです。

高校生諸君に語り掛けるような文体で、点取りに勤しむのではなく、知識を身につけ、「考える」ための力を身につけるよう指導されています。良い本だと思います♪

高校生向け!勉強法

本書『勉強法が変わる本』は、高校生向けの勉強法を指南する内容です。単に、教科書を〈丸暗記する〉学習ではなく、〈理解する〉〈展開できる〉ように学習する方が効果的だし効率的であると説かれています。本書では、学習法を5つのテーマに分けて紹介されています。

  1. 学習観を見直す
  2. 記憶する
  3. 理解する
  4. 問題を解く
  5. 文章を書く

それぞれのまとめをちょろっと紹介してきます(^^)>

  • 学習観を見直す

これまでの学習法に問題があるかもしれないから、この機会に見直してみましょう。たとえば、考えるときは紙とペンを用意して、図に書きながら考えるクセをつけましょう。意外と、図解せず頭の中で考えて「分からない」と唸ったり、思い違いをしていることもありあます。また、「結果主義」「暗記主義」「物量主義」の学習観はやめましょう。暗記より理解、結果より課程、量より身についた内容へと、勉強法を変えることで、勉強がはかどるようになるでしょう。

  • 記憶する

記憶法では、一気にドカッとやるのではなく、毎日少しずつ反復して勉強するほうが効果的です。そのときも、ただ漫然とやるのではなく、記憶に定着しているものを省き、記憶できていない部分をあぶり出して、集中的に記憶してゆきましょう。また、単に暗記するのは難しいので、他の情報と関連付けて記憶させましょう。だから、物事の原因や理由などを知って、それらを関連づける力が必要です。

  • 理解する

理解を深めるためには、他人に説明できるか確認しましょう。わかりやすい説明には「定義」と「具体例」の両方を説明する力が必要です。また、教科書や先生の説明は、一部解説が省かれていたり、それぞれの解釈の違いで説明が変わることもあります。自分でも「なぜそうなるのか」を理解しておきましょう。

  • 問題を解く

問題解決では、

数学や理科などの問題解決では,問題を理解する課程と,解決方法を探索する過程とがある.(p.146)

と紹介されています。問題のパターンを知っておくことと、新たな問題に知っている問題を持ち込んで考える方法があります。問題を解くことばかりするのではなく、まずは「理解する」ことに努めましょう。教科書の問題には解がありますが、実際の世界には答えがなかったりします。勉強では、答えを当てることではなく、解を探し、失敗から経験を得て、経験を積むことが大切です。

  • 文章を書く

小論文を書くときには,課題文をきっかけにして,自分の問題としてひきつけて考える姿勢が必要だ.(p.191)

とまとめられています。考えを深め、練り上げることが評価につながるし、自分の力にもなります。論説を読むときは「読解メモ」と、思いついたことを「連想メモ」、そして内容を整理しながら「構成メモ」をとりましょう。文章を書くことで「考える」ことができるのです。

勉強法を勉強する高校生へ

青少年向けの本には2種類あります。それは「子どもが読む本」と「親や保護者が読む本」です。本書『勉強法が変わる本』は完全に前者。高校生本人が能動的に読むことが前提となっています。親や教師が本書を読んだところで、子どもの勉強への取り組みは変わらないでしょう。

なもんで、日ごろから読書をする習慣があって、勉強の効率を工夫したいと考えている高校生が対象の内容です。読書習慣がない子どもにとっては、本書は結構読むのが難しいのではないかと思います。今、巷にあふれている文書って、「誰でも読める」ような易しい文体のもが多いですよね。本書は2000年出版の本なのですが、章立てされているから、文章を読み解けないといけません。

といっても、〈賢明な読者諸君〉に語り掛けるような文体で、きちんと「岩波ジュニア新書感」があって好きです。

試行錯誤するより指南書を

あさよるは高校生の頃、生産性のない生徒だったもんで、ただがむしゃらに与えられた課題をこなすだけで、「勉強法を勉強する」という発想がありませんでした。よって、本書のような、学習の指南書みたいなものがこの世に存在することもしらない10代でした(;’∀’)

今になって思うのは、自分一人で四苦八苦するのも大事だけど、同時にどんどん先輩たちの〈勉強法〉もたくさんインストールして、試行錯誤の質をどんどん上げてゆくのが良いよね。

文章を書くことは、考えること

第5章の「文章を書くこと」では、文章を書く意味が紹介されています。

文章は頭の中ですでにあることの写しではない.書いてみようとすること,書いたものを自分で読み直すことを通じて考えが深まるのである.そのときに,どのように考えを進めるかという指針と,人間がついどのような考えに流されやすいかという心理的な傾向を知っておくことは,素朴な意見から脱するための助けになるだろう.

p.192

「文章を書く」とは、単に頭の中をアウトプットすることではないというのです。書いて読み直すことで、自分の考えを深めていけるというのですね。

以前、人間は〈言葉〉を発することで考えることができると聞いたことがあります。感覚的には「頭の中で考えたことを、言葉にして発している」ような感じがしますよね。しかし、実際には逆。人間は、言葉で発したことを記憶し、それを反芻することができる、というのです。この反芻が「考える」ということだそうです。よく、ポジティブな言葉使いなさいとか、〈言霊〉の考え方なんかがありますが、これは本質をついたものらしいのです。たぶん「書く」という行為も、自分の言葉を反芻することで「考える」課程の一つになり得るのかも。

あさよるも、なんとなく読書の記録にブログを始めましたが、当初の想定以上に有意義な活動なのかもしれません(^^♪

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『創られた「日本の心」神話』|演歌とJ-POPは同級生?

『創られた「日本の心」神話』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。さて、西洋音楽史の歴史を扱う本を読んでいて、今わたしたちが「音楽」と呼んで親しんでいる形式は、意外にもとてもとても新しいことを知り驚いたのでした。そこで、もうちょい音楽について知りたいなーとリサーチしていたところ『創られた「日本の心」神話』を見つけました。本書は日本人の心のふるさとである「演歌」が、一つのジャンルとして定着したのは90年代であるという、衝撃的な内容のものです。

もちろん、演歌が人々に愛され、歌い継がれてきた系譜はもっと前から存在しますが、今の要は「演歌」という確固たるジャンルとして群を成し、また演歌を歌う歌手は、正統派で実力派揃いの演歌歌手である、という共通認識が登場したのは最近である、ということ。往年の演歌歌手の方々も、昔は流行歌を歌う、当時人気の歌手だったのです。

また、演歌について明らかにするために、本書では明治以降の日本の大衆芸能を幅広く取り扱います。とても情報量も多く、読み応えのある本です。

「日本の心」と「J-POP」

本書『創られた「日本の心」神話』は―「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史―と副題があり、今われわれが「演歌」というものがいつごろ登場したのかを探りながら、近代日本の大衆音楽史を紐解いてゆく内容です。「え、演歌って昔からの伝統的なモノじゃないの?」と思う方こそ、どうぞ本書をお手に取ってみてください。演歌は戦後、しかも結構つい最近に創られた、新しいジャンルだというのです。だけど、「なんとなく伝統的な」「なんとなく日本人の心を打つ」感じはどこから来るのでしょうか。

まず「演歌」という言葉は、明治期に「演説の歌」という意味で用いられていました。歌に言論を乗せていたのです。しかし、この「演歌」と、今わたしたちが「演歌」と呼んでいるものは、全くの連続がなされているわけではありません。むしろ、戦後のある時期に「演歌」という言葉が思い出され、新しい意味付けがなされたと考えた方が分かり良いでしょう。

明治時代、文明開化し、西洋の音楽が日本にも輸入され、西洋音楽の音階やリズムを日本人は身につけようとします。西洋のクラシック的なものが高尚で良いものと考えられ、日本の世俗的なものは低く考えられました。戦後アメリカ音楽が流行しますが、大衆にとって「正当な音楽」「高尚な音楽」はインテリのエリート的音楽と感じられるようになり、それに対してアウトロー的な歌が登場します。股旅物やヤクザものの、エリート的ではない=大衆的な歌として、現在「演歌」と呼ばれるものが流行します。しかしこの頃はまだ「演歌」とは呼ばれず、当時の流行歌です。

その後、テレビの時代がやってきて、テレビ主導のヒット曲の数々が登場します。それらは、テレビ番組でこぞって宣伝されて「売れた」ものもあれば、「あえてテレビ番組には出演しない」ことで〈芸術性〉を演出しながらも、テレビCMのタイアップで「売れた」ものもあります。テレビ番組に出演するのも、番組には出演しないけどCMタイアップをつけるのも、いずれも「テレビを使って売れた」ことでは同じです。

(あさよるは「昔テレビCMで売れた曲」というと『君のひとみは10000ボルト』を思い浮かべました。資生堂の化粧品のCMを見たことがあります)

テレビが流行を作る時代になると、後に「演歌」と呼ばれる歌は「古臭い」ものとなりながら、ナツメロとして残ります。ここで「どこか懐かしい」「昔からある」「伝統的な」というイメージが付与されます。そして、若手歌手(当時の)が、ナツメロをカバーすることで、ある種の権威付けとなってゆきます。本書では、森進一が当時のナツメロ集であり大ヒットした『影を慕いて』に寄せられた解説では、森進一が(後の)演歌的なメロディを歌うのは奇妙だであるという、今となれば奇妙な文が寄せられています。

こうして演歌は「伝統的な感じ」と「正統な感じ」を帯びてゆくのです。

そして、1990年代「J-POP」という言葉が用いられるようになったとき、「J-POP以外の歌」が「演歌・歌謡曲」と呼ばれ、ジャンルとなりました。現在われわれが慣れ親しみ、日本の伝統と正統性を感じる「演歌」は意外にも、一つのジャンルとして歩み出したのはつい最近なのですね。

『創られた「日本の心」神話』挿絵イラスト

近代大衆文化を一挙におさらい

以上が演歌が演歌になるまでの経緯をものすごくテキトーに書き並べたものなので、ぜひ興味のある方は本書をご参照ください。というのも、本書は「演歌」をテーマにしていますが、演歌について掘り下げるために、明治以降の近代日本の大衆音楽全般を一挙に扱っているのです。それらは「大衆の」ものであって、いわゆる「伝統手な」「高尚な」日本の文化ではなく、時代時代でオゲレツでアングラだった大衆文化が扱われているのです。

また、「昔の歌」というと、レコードとして普及し残っている曲が紹介されることがほとんどです(あさよるは深夜にラジオで昔の聞くのを好んでいた時期がありました)。しかし、レコードが普及する以前のものは残りにくいうえに、「大衆文化」はなかなか記録に残っていないものです。これだけ幅広く固有名詞や出典が挙げられているのは圧倒でした。情報量が多すぎ~。

軍歌童謡から、ピンクレディーに藤圭子に、北島三郎、美空ひばりに椎名林檎や小島麻由美、そして最後には半田健人まで飛び出す幅広すぎる一冊です。ブログ記事では紹介しきれるはずがないので、ぜひお手にどうぞ。

個人的には、あさよるの出身である大阪で親しまれている「河内音頭」について知りたいなあと文献を探していたのですが、見つからない。大学の先生にも相談してみたりしていたのですが、本書を読んで見つからないワケがわかりました。つまり、「そんなもの存在しない」ということなのね。本書では日本の近代の大衆文化について扱われていますが、「大衆文化」が今やっと研究対象になり始めているというのが現状っぽい。……ということは、河内音頭も自分で調べなければならないということ!?(;’∀’)>

「日本ローカル」は前時代?

さて、本書を読むとよくわかるのが、いかに近代日本人は「西洋クラシック」こそが本流とし続けてきたのかということです。現代でさえも、日本の文化を指し示すとき、西洋的な尺度を用いて語ってしまいます。西洋音楽を正解としつつ、だけど日本の俗な節回しも忘れられないようです。エリート的な西洋音楽と、「庶民の歌」という対比がイデオロギーとして解釈されているのも、現代の「反知性主義」や「ヤンキー文化」を連想させ、グルグルと考えが止まりません。

また地方から人が街へ集まり、都市化されてゆくなかで、都会と田舎という対比も生まれ、またそれらが混ざり合います。しかし、それらでさえも、現代のグローバリゼーションの前では「近代日本」という〈局地的〉な現象とも思えます。

あさよるは個人的に、2016年下半期に起こった世界的ブーム、ピコ太郎の「PPAP」を日本のテレビがきちんと扱えなかったことが、とてもとても腹立たしかったことを思い出しました。それはピコ太郎の扱いがぞんざいであったことも多少ありますが……余談として、あさよるはブロガーですから、ピコ太郎さんはマジ尊敬していて、いつもは「ピコ太郎先生」と呼ぶ程度にはリスペクトしていて、YouTubeライブの新曲発表を見ていて感動して目頭が熱くなるという、自分でもよくわからない感じになっていたりするw……ゲフゲフ。えっと、なもんで、テレビがピコ太郎先生をぞんざいに扱うことも多少気に入らなかったのですが、それ以上に「テレビはネット発のブームを扱えないんだ」という現実をまざまざと見せつけられてショックだったんだろうと、今になって思います。

あさよるも、なんだかんだと言いながら1980年代生まれのテレビっ子世代です。テレビは見なくなってしばらく経ちますが、それでも「テレビはスゴイもの」だった。いえ、テレビはスゴイものであってほしかった。なのに、もはやテレビはブームを作れないどころか、「世界のムーブメントすらろくに扱うことができない」という事実がショッキングでした。

「テレビはオワコン」だと思っていましたが、本当は「テレビの時代はもう過ぎていた」のかもしれません。

なにが言いたいかというと、もう次の時代が始まっちゃってるんじゃないの?ということです。「PPAP」はもう、これまでの尺度じゃ測れない。もうすでに、わたしたちは新しい次の世界から、「前時代」としての明治大正昭和そして平成の「J-POP」を俯瞰し始めているのではないか? 少なくとも本書『創られた「日本の心」神話』では、すでに平成初期は「歴史」になっています。

YouTubeはスゴイ!

本書『創られた「日本の心」神話』を読み解くにあたって、必要不可欠なのはYouTubeです。YouTubeはスゴイ。マジですごい。もしYouTubeがなかったら、本書で取り上げられている曲や演芸を実際に見聞きするためには、古書店を探しまくったり、演芸場に通い詰めたり、人づてで資料を持っている人を頭を下げて探し回るしかないんじゃないかと思います。しかし、世にはマニア・愛好家というスゴイ人がおりまして、彼らがネット上に情報を公開しているのです。ネット、YouTubeあってこそ過去に存在した歌・演芸に触れるチャンスがあるのです。

本書『創られた「日本の心」神話』があまりに面白かったので、同じ著者の『踊る昭和歌謡』もさっそく読みました。こちらでは、「踊らない音楽」が高尚で「踊る音楽」は低いものだと考えられていたことを踏まえ、庶民に愛される踊る音楽の変遷が紹介されます。ゴールデンボンバーや気志團まで。

こっちもおすすめです。

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ハッカーにあなたは利用されている?『サイバー犯罪入門』

『サイバー犯罪入門』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。あさよるは自宅のネットワークを構築したいのですが、よくわからなくて頭を悩ませております。接続が不安定なのも困っていますし、セキュリティが弱いので、なんとかしたいのですが、なにがなんやらなのです。ちゃんと勉強しなきゃなあということで、とりあえず簡単に読めそうな『サイバー犯罪入門』を手に取りました。

本書はサイバー犯罪について啓蒙する内容で、読了後、あさよるもしっかり啓蒙されて「ネットワークのセキュリティちゃんと設定しなきゃ!」と焦り始めています(苦笑)。内容も、多くの人に理解できる文章で書かれており、「すでにもう被害に遭ってるかもしれない」サイバー犯罪につて意識を高める良書でした。

まず、本書ではサイバー犯罪を行う人々を「ブラックハッカー」とし、「ハッカー」と呼ぶとき、この「ブラックハッカー」を指しています。ここでも本書に倣ってサイバー犯罪を行う「ハッカー」と呼ぶことにします。

まずはサイバー犯罪への意識を

本書『サイバー犯罪入門』は、サイバー犯罪への対策を講じるものではありません。なぜなら、そんなことをしてもあっという間に情報は古くなり、「使えない情報」になるからです。そこで、本書は「サイバー犯罪への意識を高める」ことが目的とされています。

まず知っておくべきは、誰もがサイバー犯罪の標的になりえること。そして、残念ながら今の日本はサイバー犯罪の対策はとても万全とは言えません。2020年の東京オリンピックに向けて、東京の街では公衆Wi-Fiの設置が急がれているようですが、それはサイバー犯罪を企てる人々にとっても都合のよい整備になるかもしれません。

わからないまま報道するマスコミ

サイバー犯罪がテレビや新聞のニュースになることもありますが、マスコミもサイバー犯罪について熟知しているとはいいがたく、よくわからないまま報道しているのが現状です。

 多くの報道内容を確認していくなかで、プレスリリースをインターネット翻訳しただけのような、どの角度から読んでも全く理解できない文章を多々見かけることとなった。用語が混同されていたり、製品名とプロトコルの名称が混同されていたり……というのが主な要因だと思われるが、残念なことに、大手報道機関の文章にも、そういった誤りが散見されたのである。
だが、これも仕方ないと言えなくもない。というのも、もはや、単に「ITに詳しいだけ」ではサイバー犯罪やセキュリティについて読み解き、説明をしていくことは難しい、というのが実情だからだ。

p.27

例として、自動車のハッキングについて理解するためには、

自動車に関する基礎的な知識、自動車のIT化に関する知識に加え、ハッキングに関する知識やネットワークに関する知識なども総合的に必要となる。そのため、いずれかの領域の専門家であったとしても、全体像を正確に理解することは容易ではない。(p.27-28)

その事件について理解すること自体に時間がかかり、またそれを一般に向けてわかりやすく説明することは難題です。報道がサイバー犯罪について正しく扱いきれていないのも納得です。

盗まれていも気づかない!?

本書では紹介されているサイバー犯罪の例が紹介されているのですが、印象的なのは被害者たちは「サイバー犯罪に巻き込まれていることに気づかない」とうことです。

預金残高が1億円以上ある銀行口座から、3%を上限にこっそり抜き取る手口が紹介されていました。

日本円換算でおよそ1億円以上の預金残高がある銀行口座から、最大で3%(1億円の預金残高がある場合、300万円)ずつを上限に、こっそりと抜き取ってしまうという方法を取った。しかも被害者のブラウザには「抜き取られる前の残高」が表示されるようにハッカーが細工した偽画面が表示されるため、すぐには被害に遭ったことに気付けない。

p.46

「3%だけ」というのが巧妙で、何かの拍子に少しだけ残高が減っていることに気付いたとしても、「何かの手数料を差し引かれたのか」程度にしか考えず、発覚に時間がかかります。

また、「マルウェア」と呼ばれる、不正にコンピュータやシステムをハッキングするためのソフトウエアが、自分のパソコンに侵入していたとしても、なかなかそれに気付かないそうです。また、ハッキングの対象はパソコンやスマホのみならず、冷蔵庫や自動車、街中の監視カメラがハッキングされているかもしれません。

サイバー犯罪において日本はとても魅力的

サイバー犯罪はもはやSF映画の世界のではなく、スパイ映画さながらのハッキングが日常で起こっています。ある人にとってはそれは寝耳に水のような話であり、別の人にとってはもはや常識かもしれません。サイバー犯罪に対してのリテラシーには人によってかなりの差があります。

残念ながら、日本は国も大企業もとてもサイバー犯罪への対策ができているとは言えません。ハッカーたちは強固なシステムを狙いません。彼らは、どこか〈弱い〉ところを探し当て、弱点を突いてシステムに侵入します。日本はサイバー犯罪への対策が広まっていないため、弱点だらけということです。

たとえ大企業が、自分たちの持っている情報を守ろうと強固なセキュリティを作っても、その企業へ出入りする下請け企業のどこかに弱点があれば、そこからハッカーがシステムに侵入することも十分考えられます。

映画のような、建物を爆破したり、自動車をハッキングし遠隔操作することも、フィクションではなくなります。

「わたしは狙われない」はない。その理由

『サイバー犯罪入門』挿絵イラスト

「ハッカーにとって日本は魅力的な市場である」と聞いても、「わたしのスマホorパソコンは大丈夫、だって大したデータが入ってないし」と考える人がいれば、それは間違いです。ハッカーは、あなたに興味がなくても、あなたの知り合いに興味があるかもしれません。あるいは、あなたの知り合いの知り合いの知り合いの……と、あなたを踏み台にして、他の人の情報を欲しがっていることがあります。

誰もが狙われる理由として「六次の隔たり(six Degrees Separation)」というものが紹介されていました。

「人は自分の知り合いを6人以上介すと、世界中の人々と間接的な知り合いになることができる」という仮説のことであり、知り合いの知り合いを6回たどれば世界中の人とつながることができるという。(中略)
試しに計算してみよう。
あなたの知り合い44人から、さらにそれぞれの知り合いの44人と言う具合にたどっていくことを数式に表すと「44人の6乗」となる。44人の6乗は、7,256,313,856人。すなわち世界の人口(国連による2013年の統計で約72億人)と同じくらいの人数がそこには存在することが分かる(ただしこの場合、理論上では、最初の44人と次の44人、そしてその先に繰り返している44人ずつはそれぞれが互いに重複してはならない)。
つまり、あなた自身が重要な情報を持っていなかったとしても、あなたの友人やそのまた友人を何人かたどってゆくことができれば、重要な情報を持った人物にたどり着ける可能性が極めて高いということだ。
もしあなたに情報的な「価値」がなかったとしても、あなたには「利用価値」があるのだ。

p.39-40

ハッカーはシステムの弱い部分から狙います。もしあなたが、サイバー犯罪へのリテラシーが極めて低いなら、ハッカーにとって「利用価値」があると判断されかねません。

正直、どうしていいかわからない……

本書『サイバー犯罪入門』を読んで、サイバー犯罪は他人事ではなく、自分も狙われるかもしれない……というか、すでに被害に遭っているのかもしれないと知り、冷や汗をかきました。何が恐ろしいって、「それを知ったところで、どう対策していいかわからない」というのが正直な感想だからです。

本書は先に述べたように、具体的な対策を指南するものではく、サイバー犯罪について啓蒙することが目的の本です。とても平易な表現を使い、多くの人が理解できる言葉や例を挙げながら、今、われわれが晒されているサイバー犯罪について紹介されています。セキュリティ、ハッキングについて右も左もわからない、全くの素人にとって、本書は良書でした。

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『QOLって何だろう』|命の質を自分で決める、そのために

こんにちは。あさよるです。あさよるはここ数年、断捨離・片づけに励んでいるのですが、「QOL」という言葉を知ってから、片づけがひとつ進むたびに「QOLが向上した!」と悦に浸るようになりました。あさよるにとっての「QOL」は、生活のクオリティー、気分よく、機嫌よく毎日を過ごすことでありました。

今回手に取った『QOLって何だろう』では、生活の質の話ではあるのですが、もっとシビアな「命」のお話です。生命倫理を一緒に考える内容です。

明快な答えが用意されているものではないので、読んだらモヤモヤとしてしまう読書になるかもしれません。だけどそのモヤモヤと向き合って生きることが、QOLを考えることにつながるんだと思います。

「幸せ」ってなんだろう

本書『QOLって何だろう』は、「幸せ」とはなんだろうかと考え込んでしまうものです。現代日本では、高度な医療に誰もがかかることができ、「人生100年時代」なんて言われるくらい長寿が叶っています。ヒトにとって、医療にかかれる、長生きができるとは、これ以上のない幸せが到来している時代だと言えるでしょう。

そこでわたしたしは「どう生きるのか」「幸せに生きるとは」と新たな課題に直面しています。本書『QOLって何だろう』は10代の若い方たち向けに、医療現場で直面する「命」や「幸せ」「意思」を問いかけるものです。若い世代ほど「老い」や「病」がまだ遠いものである方も多いでしょうから、なおさら大切な問いかけです。

「QOL」とは

「QOL」とは「Quality of Life」の略です。。

 Quality of Lifeは、その「よさ(質)」を問います。
「生命の質」と言えば、生きることの意味や価値が問われ、人間の生命の尊厳や、苦痛のない「いのちの状態」が問題となります。
「生活の質」と表現すれば、病気を抱えながらも、できるだけ普段通りの生活を送れることや、自立して生きられること(これは人間の幸福感の源です)を目指そうとし、「人生の質」と言えば、その人の「生きがい」、自分らしく生き切ること、自分の人生観に沿った生き方が実現できるかが注目されます。
つきつめれば、QOLは、そのいのちを生きる本人にとっての「幸福」や「満足」を意味しているのです。

p.9-10

「病気をしても、いつも通りに生活したい」「自分らしく生きたい」と願い、幸せに生きられる「質」の向上が求められています。「畳の上で死にたい」とか「最後は自宅で」と願う人は多いですし、延命治療をどこまで受け入れるのか、どこでやめるのかは、本人にも、また家族にとっても重大な決断になります。

同時に、医師や看護師、介護士らにとっても、クライアントのQOLは重大です。患者の願いを優先するのか、医療を施すべきなのか、悩みが生まれています。

医療の進歩が「QOL」をもたらした

かつて伝染病が蔓延し、たくさんの人々が死んでいった時代、個人のQOLよりも、患者の治療や隔離が重大でした。ことによってはパンデミックを引き起こし、国の存亡にまで関わることだからです。また、医療が十分に発達していなかった時代には、治療を受けることがリスクになることもありました。例えば麻酔がなかった時代や、抗生物質が発見される前の時代は、治療を受けない人もたくさんいました。

QOLは医療が十分に発達したことで、直ちに治療、隔離しなければ他の人の命にかかわるような環境から社会が脱したことによります。医療の進歩が、QOLの概念をもたらしたのです。

医療の進歩が「QOL」を難しくした

同時に、医療の進歩がQOLの判断を難しくしました。余命宣告をされ、手術により延命できるとき、それを受け入れるのか。認知症高齢者は、入院によって体力が落ち、寝たきりになることがあります。治療とにって食事が困難になるならば「おいしいものを食べたい」という欲求の、どちらを優先すべきなのか。

どれも答えのない問いです。本書ではたくさんの実例が紹介されています。

アメリカで起こった「リナーレス事件」では、生後7か月の子どもが風船を誤飲する事故を起こし、一命はとりとめますが、脳を損傷し自発呼吸ができず、意識も回復しないと告げれました。人工呼吸器につながれた息子を前に、父親は「息子の魂を自由にしてほしい」と人工呼吸器を外すよう頼みますが、医師は断ります。当時の考えでは、人工呼吸器を外すことは「殺人」に当たると考えられていたためです。8カ月ものあいだ父親は苦悩し、ある日ある決断をします。銃で医療者を脅し、誰も病室に近寄れないようにして、父親自らが人工呼吸器を外したのです。そして我が子を抱き、命が失われるのを確認してから、泣きながら自首をしました。

当時「延命治療がもたらした悲劇」として話題になったそうです。

本書ではこう考察されています。

 おそらく、彼は、息子のいのちが「生かされている」状況を見て、延命による生とQOLとのギャップを感じていたのではないでしょうか。それは、このような状態で生き続ける息子の「生命の質」は低いという、QOLの判断です。
その判断をもう少し抽象的にすれば、確かに生命は尊いけれど(息子の生命は自分にとってかけがえのないものだけれど)、その生命の状態によっては、生きるに値しない生命もあるということになります。

p.114-115

本来ならば、何が幸せで、何が活きるに値するかのQOLは、本人の意思によって決められるべきです。他の人が見て「あの人はQOLが低い」「あれは生きるに値しない」と決めることではありません。親であっても、我が子の命の判断をしても良いのでしょうか。

植物状態で意識もないと考えられていた人が、肉体が一切反応もなく動かないだけで、全くクリアに意識があった事例が話題になりました。その後、植物状態だと考えられていた人を検査しなおすと、同じような人がたくさん見つかったそうです。動かない肉体の中に、意識が閉じ込められた状態だったというわけ。タブレットを使って意思の疎通が取れるようになった人の話では、医師と家族とのやりとりなど、鮮明に覚えており、ずっと意識がハッキリとしていたといいます。

意識のない人や、QOLの判断ができない状態の人のQOLを、誰が決めるのかについて「生命倫理学」では統一見解がないそうです。

本人のQOL、家族のQOL

認知症で徘徊のある高齢者が骨折をしたとき、家族は「寝たきりのままでいい」と判断することも少なくないそうです。病気や怪我の本人のQOLのみならず、その人を介護する家族のQOLも絡んできます。

本書では羽田圭介さんの小説『スクラップ・アンド・ビルド』のエピソードが紹介されます。主人公は祖父が「自然死」を望んでいることから、祖父の身の回りの世話をなにもかも勝手出ます。祖父を「なにもしなくていい」状態に置き、体力を低下させ、判断力を失わせ、自然と死に導入させられると考えたからです。一方で、主人公の母は「皿は流しに持っていきなさい」「自分でなんでもやらなきゃ寝たきりになってしまうから」と、祖父に厳しく当たります。母には母の思いがあります。

祖父は自分のことを「早う死んだらよか」と言っていたのに、ある時お風呂場でバランスを崩し、主人公に助けられ「死ぬとこだった」と安堵します。その言葉を聞いて主人公はめまいを感じます。「早く死にたい」と望んでいた祖父が「死ぬとこだった」と言うからです。どちらが祖父の本音なのでしょうか? ……たぶんどちらも祖父の本音でしょう。

スクラップ・アンド・ビルド

また、家族も「自宅で自然死してほしい」と願っていても、同時に「少しでも長く生きてほしい」と願ってもいます。自宅で死を迎える準備をしていたのに、いざ親や配偶者が目の前で発作を起こすと救急車を呼んでしまう人も少なくないそうです。そして、「もう一回話がしたい」と、「もう一回」を望むのです。

若い世代には馴染みのない話題をやさしく

本書『QOLって何だろう』は、ちくまプリマ―新書で、10代の人でも読めるように構成されています。副題に「医療ケアの生命倫理」と謳われていますが、若い人ほどまだ「病気」や「老い」に縁遠い人も多いでしょうから、多くの事例や例を挙げて紹介されています。

2016年の相模原障害者施設殺傷事件では、事件が海外でも報道されました。

 私はこの事件について新聞の取材を受けた際に、記者の方といろいろとお話したのですが、そのとき、つくづく感じたのは、この事件に対する、海外の反響と日本のそれとの大きな違いでした。
欧米では、優生思想に対して、世論がとても敏感に反応します。今回の事件でも、米国ホワイトハウスやローマ教皇は、すぐに声明を出しました。
ローマ教皇・フランシスコは、同日、事件で人命が失われたことに「悲嘆」を表明し、「困難なときにおける癒し」を祈り、日本における和解と平和を祈願していました。ホワイトハウスでも、プライス報道官は「相模原で起きた憎むべき攻撃で愛する人を殺害されたご家族に、米国は最も深い哀悼の意を表する」という声明を発表しました。
しかし、日本では、障害者がターゲットにされた事件だということに対して、国民の当事者意識が低いように感じられます。精神的に問題のある一人の男性が起こした凶悪事件という認識にとどまり、彼に「障害者はいなくなればいい」と言わしめてしまった社会のあり方や、いのちの尊厳について、根本から問い直すという問題意識が、希薄なのではないかと思えてなりませんでした。

p.16-17

日本は高齢社会ですから、これからますます「どう生きるか」「どう死ぬか」「幸せとはなにか」に社会は直面するでしょう。にもかかわらず、一般にはまだQOLの考え方は広まりきっていないですし、「命は誰が決めるのか」と議論する土壌すらまだないのかもしれません。

本書は、若い世代へ向けた生命倫理について問いかけるもので、明確な「答え」は存在しません。本人の意思だけでなく、苦悩する家族や医療者にも共感してしまい、答えが見つけられない人も多いでしょう。

幸せは自分で決める

あさよるは昔、路上で気分が悪くなって救急搬送されたことがあります(;’∀’)> その時に始めて「救急車の乗り心地は悪いんだなあ」と知り、カーテンで仕切られた処置室の天井を眺めながら「ここで死ぬのは嫌だなあ」としみじみ思いました。「最期のときは自宅で」と望む人がたくさんいる理由を痛感したのでした(ちなみに、今はもう元気っす)。

誰も病気になりたくないし、怪我や事故に遭いたくはない。叶うならどうか、静かに自宅で家族と一緒に居たいと願うのはおかしなことではありません。だけど、病や事故は突然やってくるもので、願いが叶わない人もいます。

今回、記事中ではかなりギリギリな例を挙げましたが、誰もがいつか最期の瞬間を迎えます。その時自分は「どう生きるのか」「どう死ぬのか」「何が幸せなのか」と考えることは、悪いことではないでしょう。

しかし、自分で選択するとはつまり、責任は自分が持つということでもあります。これまでのように「医師にお任せ」ではなく、自分の意識を持つことが迫られているとも言えます。自分の命の行く末を家族に決めさせるのも、それはそれで酷な話だろうと思います。やっぱり、自分でよく考えて、自分でよく調べて、家族に話しておくべきことじゃないかと思いました。本書はその助けとなる、最初の一冊になるでしょう。

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『天然ブスと人工美人どちらを選びますか?』|あなたのマニアがどこかにいる

 

こんにちは。あさよるです。光文社新書は、思わず手に取ってしまう煽りタイトルの本が多いですね。目を引き手に取らすという点では秀逸とも言えますが、タイトルと中身が違っていることも多いので、あまり期待をせずにページをめくり始めます(苦笑)。今回手に取った『天然ブスと人工美人どちらを選びますか?』というタイトル。もう、煽りまくっていて「はいはい、いつものやつね~」と読みはじめたのですが、話が二転三転して、予想外の結末に着地して、驚きました。

なにをテーマとしているのかわかりにくかったのですが、あさよるなりにまとめてみました。冒頭で「美人論&ブス論」は「どんな顔の人が書いているか」で印象が変わるという話から始まり、最終章では著者の容姿についての話で終わります。なるほど、著者の「顔」を知らずに読みはじめたときと、「顔」の理由について知った後では、本書の意味がまるで変っているのです。

「美のヒエラルキー」が支配する美の格差社会

本書では、この世は「見た目」が大事な美のヒエラルキーが存在する美の各社社会であるとの前提で話が進んでゆきます。書店では「美人論&ブス論」の本が溢れ、また「見た目」本が持て囃されます。大ヒットした『人は見た目が9割』が代表ですね。しかし、これらの「見た目」本は、容姿が「悪くない」人に向けた本であり、そもそも容姿が優れない人は対象外だと指摘します。

本書では、著者の山中登志子さんは、自らを「外見オンチ」と称しておられます。ここでいう「外見オンチ」とは「天然美人以外」みんなです。山中登志子さんは、10代の頃「脳下垂体腫瘍」という病気を患い、「病気で顔が変わった」という経歴を持っています。「脳下垂体腫瘍」とは、脳の脳下垂体から成長ホルモンが過剰に分泌され、体が過剰に成長し「先端巨大症」とも呼ばれる病気です。山中さんの場合は思春期の頃に発病し、顔や手足が成長し「外見オンチ」になったとの経緯を、本書の最終章にて紹介されています。

元はかわいらしい姿だった著者が病気により「顔が変わってしまった」のち、美の格差社会の中で、編集者として各所で取材を続けてこられたのが、本書です。

「天然ブスが人工美人になる」ことは想定されている

本書では「天然ブスと人工美人のどっちがいい?」という質問を著者が男性に問いかけた結果が紹介されていました。多くの男性は回答を濁し、「好きになった人の顔が好き」という模範解答をする人もいました。中には「人工美人が好き」と答える人もいました。この質問の興味深いことは、「天然ブスがいい」と答えた人はいなかったという結果です。

「人工美人」についても言及されています。人工美人……すなわち美容整形手術で人工的に美人になった人のことです。美の格差社会の中では、美人は持て囃されますが、人工美人には後ろ指をさされるのが現状です。「ブス論&美人論」の本を書いている作家の中に、美容整形手術を受けたことを公開した上で、他人の美醜について言及してる人もいますが、稀な例です。

ふしぎなことに、整形疑惑が絶えない芸能人たちは、整形についてカミングアウトしません。例外として、飯島愛さんが現役時代に整形を発表したくらいだと本書では指摘されていました。他に、プチ整形と言われる、ボトックスやシワやシミ取りを公表するくらいです。それくらいに、「美容整形」は広まっているといえど、未だに「公言しない」ことなのでしょう。

可愛い人が「外見オンチ」になった

美の各社社会では、「外見オンチ」から人工的に美人になることは想定されています。あるいは、「美人でない」ということに奮起して、外見を磨く人もいます。しかし、元々が可愛らしい人が、「外見オンチ」になったという例は想定されていません。まさに、かわいらしい容姿だった著者の山中さんが、病気によって顔が変わり、「外見オンチ」になったことは、想定外。

だから、病気のことを隠していると、男性からは恋愛対象外で、低ランクの女性として接せられ、アケスケに男性同士の下ネタにも参加できることもあるそうです。しかし、病気について明らかにすると、相手は困った様子を見せます。「外見オンチ」の理由が、病気によるものだと分かると、どう反応して良いのかわからないのです。

「外見オンチ」の恋愛、セックス、人生観

本書『天然ブスと人工美人どちらを選びますか?』では、人はどんな顔の人の発言かによって、発言内容の受け止め方が変わる、という話から始まります。巷にあふれる「美人論&ブス論」の本を手に取れば、著者の顔写真を検索し、「この人なら語る“資格”がある」と品定めしていると、著者は言います。

本書も、著者の山中登志子さんの病気については伏せ、著者が自らを「外見オンチ」だと自称していて、執拗に人の容姿についてこだわっているようにページは進んでゆきます。そして最終章にて、著者の「顔が変わった」理由についてネタばらしばなされ「ああ、この人ならこの本を書く“資格”がある」と納得させる構成なのでしょう。最後まで読むと、著者の立場が分かるので、本書に書かれている内容が、また違った意味で読めてしまうからオソロシイのです。

本書では病気で顔が変わってしまった著者による、恋愛やセックス、結婚や人生観も盛り込んで、話が展開してゆきます。バブル真っただ中に付き合っていた彼氏には「1千万円あげるから整形手術をしていいよ」と言われたと回想しています。「ヒューマニズムでセックスさせるな」と言われたこともあるそうです。インターネットが普及してからは、いわゆる「出会い系」で出会った人たちとのエピソードも盛り込まれています。

自分の「顔」が好きか、嫌いか

本書の最後で、山中登志子さんは

自分のからだも顔も、好きとはいえない。でも、嫌いでもない。微妙だ。でも、もっと好きなりたいと思っている。まだまだこの「変わった顔」から課題をもらっている。(p.245)

と結んでおられます。山中さんの場合、編集者という職業柄「人と違う」ことで、自分の存在を覚えてもらいやすいとも書いておられます。

この「自分のからだも顔も、好きとはいえない。でも、嫌いでもない。微妙だ。」というのは、多くの方が共感する言葉でもあるのではないかと思いました。「美の各社社会」とはよく言ったもので、誰もが自分の容姿について、なんらかを感じて生きているのではないでしょうか。

そういえば あさよるも昔、自分の容姿にコンプレックスがあって、他人と真正面から目を合わせられなかったことがありました。恥ずかしくて俯いてしまったり、顔を手で隠してしまったり、今もクセでやってしまいます。他人から容姿について特に指摘された記憶はありませんが、ちゃんと「美人じゃない」と空気を読んでいたのです……。コンプレックスについて、真っすぐ見つめてこなかったから、自分を振り返りつつ、コンプレックスから周りの人に勘違いをさせるような言動をしていたなあと思いました。

本書では、自分の容姿にコンプレックスがあっても、人間には「フェチ」があり、「どこかにあなたのマニアがいる」というのが印象的です。

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