社会・政治

『一億総ガキ社会』|諦めないで、お客様

きっかけ

諦められない大人たち

『一億総ガキ社会』は、モンスターペアレントやモンスターペイシェント(患者)、引きこもりや「草食系」なんかの話を、心理学的なアプローチを交えつつ、社会問題を語ります。これらの社会的な「現象」は、元をたどれば同じ心理状態から発していると言います。それは「挫折ができない」ことです。

我が子を特別扱いするよう学校や教諭に求める親は、自分の子どもが「特別ではないこと」を受け入れられません。それを受け入れることは「自分が特別ではないこと」を認めるのと同意だからです。我が子の問題をなにもかも学校のせいにする親も、「自分の子育てに問題があった」ことを受け入れられません。

「草食系」という言葉が使われ始めて久しいですが、恋に消極的だと、恋に破れるリスクを回避できます。

学業や仕事で問題にぶち当たったとき、その責任を他者や社会に求める人もいます。「新型うつ」の傾向として、本人が何かを「挫折した」ものの、それをなかなか認められず、現実と理想のギャップに苦しんでいる場合があるそうです。その挫折は、左遷されたり、仕事が上手くいかなかったり、自分の頑張りを周囲が思うように認めてくれなかったり、問題は様々です。

諦めて大人になってゆく

「大人になる」とは、挫折を知り、諦めることが増えてゆくことです。反対に、子どもは無限の可能性と、全能感を持っています。若者は夢を追いかけて、努力をするものだし、何も始める前から諦めてしまうのもおかしな話です。

だけど、全員の夢が100%叶うわけではなく、多くの人たちは一つ一つと壁にぶつかり、諦め、身の丈を知り、自分のできること、できないことを受け入れてゆく過程に大人になってゆくと言えるのではないでしょうか。

ということは、「諦められない」現代人は、ずっと子どものままということ。子どものように諦めないことを推奨されているのに、現実には諦めざる現状に直面し、そのギャップが社会現象として浮上しているというお話。

「諦めないで」の苦しみ

「諦められない」理由は、「自分らしく」生きることが推奨されている時代だからでもあるし、また消費社会はお客様に対して「諦めないで」と発し続けます。

「諦めないで、英会話を始めましょう」「諦めないで、美容にサプリを飲みましょう」。自己実現のために仕事終わりに買い物や外食にお金を使い、帰宅後も自分磨きに時間を費やし、「自分へのごほうび」や、「自分の楽しみ」が必要です。時間もお金もいくらあっても足りません。サービスを提供する側は、そうやって消費を促しています。

「選択」と「決定」し続けること

自分らしく自由に生きてゆくとは、自分で「選択」し続け、「決定」し続け、その結果の「責任」を負い続けることです。自由に生きる、自分らしく生きることは、自分の責任のもと選択・決定をし続けることが大きな負荷となる人もたくさんいます。

自由に生きられる世界は、素晴らしい世界です。今の日本社会は、ほぼ人類の夢を叶えた世界なのかもしれません。自由に自分の生き方を選ぶことができ、医療が行き届き長寿になって、死はなるべく遠ざけられ、すごい世界に生きています。

先日、ジブリ映画の『かぐや姫の物語』の小説版を読みまして、かぐや姫が月の世界で罪を犯し、地球に落とされる理由を知りました。(以下、軽くネタバレ?します) 月の世界は悲しみのない幸福な世界です。だけど、かぐや姫は地上の人々が活き活きと生きる姿を見て「何か」を思うのです。その「何か」が彼女の犯した罪です。月の世界は悲しみがない……つまり死もなく飢えもない幸福の世界です。それは同時に、生もなくお腹が空かず、喜びのない世界でもあります。その幸福な世界で生きるかぐや姫が、地上の喜びを持って生きる人々…つまり悲しみを持って生きる人々を見て「何か」を思ったのですね。

かぐや姫の物語 (角川文庫)

幸せになるとは、退屈に生きることなんでしょう。あさよるも、自分の大切な人は絶対に、一瞬でも長く平たんで穏やかな気持ちでいることを願っています。波風はなるべくなく、いつまでも平穏でいて欲しいんです。それは「ずっと退屈でいて欲しい」という願いなのかも。

だけど実際には、理想と現実の間にはギャップがあり、「諦める」という手は封じられている以上、他人のせいにするか、他の何かに依存して気を紛らすしかなくなってしまいます。

「運がいい」「運が悪い」

ふと、『一億総ガキ社会』を読んでいると、現在のわたしたちは「運がいい/悪い」ということを、どのように受け止めているんだろうと感じました。

確かに、自由に生きるとは自己責任を負って生きる生き方なんだけども、どんな結果が待っているかは運要素も大きく関わっています。

『一億総ガキ社会』では、司法試験を何度も受験している男性が、想いを寄せていた女性が他の医者と結婚してしまい、その現実を受け入れられず「彼女はもうすぐ離婚して自分のところにやってくる。それまでに司法試験に合格しないと」と考えている話が登場します。これは恋が破れた場合の話です。だけど、恋が実ることもありますよね。自由に自分らしく生きる世界では、実った恋も自己責任(自分の成果)ということになるんでしょうか。

こと恋路に関しては、縁のものだし、タイミングもあるし、パートナーとして一緒にいられる期間が長いのか短いのかもあるし、それらは複合的に要素が入り組んでいて、大雑把に言うと「運」だと思うんですw

良いことも悪いことも、意図せずともそうなることが多々あります。「運」としか言えない、神頼みするしかないこともたくさんあります。それらをどう処理してるんだろう。たぶん「諦める」ことを認めるとき、「運」を受け入れることなのかな、なんて思いました。

「有難い」の反対は「当たり前」という話がありますが、恋が実るかどうかが自己責任の世界では、「恋が実って当たり前」という解釈になるのかな。

ちなみに あさよるも、初めて「カオス」という存在に触れたとき、理解の範疇を超えていて、ものすごく動揺しました。実際にカオスの実験も目にしましたが、心のどこにそれを持っていけばよいのか分からず、長い間そのまま棚上げしていました。やっと最近になって、なんとなく「カオス」ってこういうことなのかと扱えるような心持になってきました。

カオスから見た時間の矢―時間を逆にたどる自然現象はなぜ見られないか (ブルーバックス)

こう解釈できる

『一億総ガキ社会』も、具体的な解決策が出ないまま終わってしまいます。それは著者自身も現代を生きる人であり、子どもっぽく諦められない性質だと吐露されています。しかし、「自分はこういう状態にある」と認識できるだけでも、少し状況は変わります。実際に精神科医の著者のもとに訪れる患者さんは、自分の状況を理解するだけで、少しずつ好転してゆくそうです。

何もわからない状態は不安で、不安がかき立てられると自分を守るため攻撃的にもなってしまいます。何も解決していなくても、「知る」という行為だけで、「わからないという不安」は減るでしょう。

「諦められない」「失敗できない」現状はさながら、赤ちゃんが転びそうになれば大人が助けてやって、一度も転んだことのないまま子どもが育ってゆくような感じ。実際には、見るのは辛いですが、赤ちゃんは何度も転んで転んで、転んで起き上がる練習をしないといけません。ただ転べばいいってもんじゃなく、本書では

一)他人のせいにばなりしない
二)敗因を分析する
三)自分で起き上がる

p.247

と三つの練習が紹介されています。

あさよるにとって、本書で知れた一番の収穫は「あなたらしく」「諦めないで」というメッセージは「儲かる」ということ。そんな言葉で語りかけてくる人がいたら、その真意を探ってみるのは有効かも(苦笑)。

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『ごみ収集という仕事』|衛生・治安・財産・情報を守る仕事

こんにちは。あさよるです。図書館で何気なく目に留まって読み始めた『ごみ収集という仕事』が、とても良い本でした。図書館はこういう出会いがあるから、書店、古書店とは違った魅力がありますね。

本書は、大学教授である藤井誠一郎さんが、約1年近く、実際に新宿区のごみ収集の仕事を経験し、その経験や職員への聞き取りなどをまとめたものです。ごみ収集って、ものすごーく身近で見慣れた風景でしたが、実際にどんな仕事をしているのか知らないことばかりでした。

また、10代の人でも読める内容で、自由研究のお手本にも良い本だと思います。

ごみ収集こそ行政サービスなのかも

『ごみ収集という仕事』は、大学教授である藤井誠一郎さんが、実際に新宿区のごみ収集の仕事を9か月間、働きながらごみ収集の仕事や、そこで働く人へインタビューしたレポートです。

本書を読んで一番に思うことは「ごみの分別は大事すぎる」ということと、ごみ収集の仕事に従事する人たちがマジ神対応すぎること。そして、あまりに臨機応変な対応ばかりを求められるようで、ごみ収集は民間への業務委託していると、そのうち破綻してしまうサービスだと感じました。

ごみの処分は、行政じゃないとできない仕事でしょう。個人で全てのごみを処理することは現実的ではないし、ごみはその町の衛生状態や治安にも関わることだからです。

業務委託じゃダメな理由

本書『ごみ収集という仕事』を読むと、ごみ収集の仕事は民間委託だとサービスの質がいつまで維持できるのかわからない、危ういものだと感じます。ですが昨今、民間委託されている場合も増えており、また忙しい時期だけ期間限定で人が増員されるそうですが、それが原因で現場が混乱し、公共の衛生がかなりギリギリで保たれていることがわかりました。

ごみには個人情報が詰まっている

まず、ごみには個人情報が詰まりまくっています。ごみ袋を手に持って、ごみ収集車に投げ入れる際、瞬時に中身を判断し、安全に収集をしなければなりません。ときにはその場でごみ袋を開け、中身を確認し、ごみ出しのルール違反しているならシールを貼ってその場に置いておきます。一人暮らしが多いマンション。ファミリーがたくさん住む住宅街。年末年始など季節の行事があると、出るごみも変わります。人々の暮らしが如実に現れるのです。

ごみを収集車に積み込んで、収集したごみは後で中身を開け、焼却できないものを抜き取り作業をします。

ごみってかなり繊細な情報を含んでいますから、民間委託ではなく、行政が人を雇って仕事をしてほしいなぁと思いました。

また、違法行為が想像されるようなごみというのもあるそうで(病院がないはずの場所で、医療器具が捨てられる等)、警察との連携についても触れられていました。

ごみを集めるだけが仕事じゃない

ごみ収集の仕事って、ごみ袋を町で集めて、焼却場へ運んで修了ではないんですね。ごみを持ち帰った後も、ごみ袋を開け、焼却できないごみを取り除く作業が続きます。

不燃ごみの場合も、中身を取り出しハンマーで叩いて体積を減らしてから次の工程へ移されるそうです。

だから、どこで集めたごみに、どんな中身が入っているかは、紐づけすることも可能でしょう。すごく情報の取り扱いが繊細な作業であろうと感じます。

とにかく危険

ごみ収集の仕事をするために、破傷風予防の注射を打っているそうです。

ごみ収集の際、スピーディーにごみ袋をつかんで収集車へ投げ入れるハードな業務なのですが、そのごみ袋から爪楊枝や竹串が飛び出していたり、時には注射器の針が出ていることもあるそうです。

また、ごみ収集車は、ごみをプレスして嵩を減らすのですが、そこへタイミングよくごみを投げ入れるのも大変な作業のようで、見ているとヒョイヒョイと軽々と作業されれているように思っていましたが、かなり危険と隣り合わせで、高い集中力と、チームプレーが必要とされる難しい仕事です。

住民のQOL、衛生、治安維持に大きく関わる

ごみの処分は、その一帯の衛生状態や治安にも関わる大事なことです。市民の生活の質を担保する大切な仕事と言えるでしょう。

「時間がなくてごみが集められなかった」なんてことは許されませんから、綿密な計画と、その計画通りに仕事が実行される必要があります。また、ごみ収集をしている間、他の交通の妨げにならないよう、急いで作業しなければならない道路や、破裂して中身が飛び散った場合、道路や、汚れてしまった建物や車など、その清掃も収集員の仕事の一部だそうです。

本来、ごみ出しのマナーが悪いのは、ごみを出した人なのに、しわよせがすべて収集員に寄ってくるのはいかがなものかと感じました。しかし、そんなこといちいち交渉している時間もないようで、その場その場で臨機応変に対応し、効率よくごみを集めることが優先されているようです。マジ神対応すぎて頭が下がります。

住民への配慮がすごい

平常時のごみだけでなくシーズンごとのごみや、イベントで出るごみもあります。

年末には「家をきれいにして正月を迎えて欲しい」と、ごみの量が増えてもそれに粛々と対応するそうです。また、正月明けにはどっと大量のごみが町に出され、それを収集するのもかなり大変。

また、地域のお祭りやイベントがあると、そこへ出るごみをわざわざ別口で取りに行きます。しかし、約束の時間にごみを取りに行っても、きちんとごみ出しが終了していないことが多く、再度出向くことも少なくないそうです。こんなのも、注意すればいいと思ってしまいますが、だからと言って、ごみを放置することもできませんから、相手に振り回される形で、対応するしかない悪循環も記録されていました。

ごみ出しのルールが守られていない場合、シールを貼って注意喚起をしたり、住民に直接ごみ出しの指導をすることもあるそうです。また、ごみ収集中に住民からごみ出しについて質問されることもあるそうで、瞬時に的確にこたえる必要もあります。

ごみが破裂したり、液体が飛び散ったりした場合は、身を挺してそれを阻止し、急いで汚れを清掃するそうです。この心配りがマジですごい。ごみ出しマナーを守らない人が悪いのに、神対応し続けるごみ収集員は大変な仕事です。

作業員のコミュニケーションと気配りで成り立っている

ごみ収集の経路はかなり綿密に計算され、無駄がないようコースが考えられ、人員が配置されているそうです。また、ごみ収集にも、作業員の同士の阿吽の呼吸で、スムーズに仕事ができています。だから、作業員同士のコミュニケーションがとても大事で、収集の計画についても、密に情報交換がなされてこそ成り立っているようです。

なので、業務委託をして、数年で作業員が入れ替わったり、繁忙期だけ人を増やしたところで、それが逆にトラブルの種になり、ごみ収集の妨げになります。

しかし、「ごみを放置する」という選択はないわけで、今のところはかなりギリギリのところで、衛生状態が維持されている印象でした。これは危うい。やっぱり、「ごみを放置する」という選択は絶対ナシなんだから、常に余裕を持った人員の配置をしておいて欲しいなぁと思いました。

研究者は研究室にひきこもってるワケじゃない

本書『ごみ収集という仕事』は、大学の先生が9か月間、実際にごみ収集やってみたという本です。特に文系の研究員の場合、意外にもフィールドワークをたくさんしていて……というか、フィールドワークが仕事な人もいますし、「研究室にこもっている研究員」とは違ったイメージを持たれるでしょう。

この『ごみ収集という仕事』は、10代の方でも読める内容だろうと思います。これから自分の進路や、どんな研究をしたいのか考えるとき、本書は参考になるでしょう。「なんだか面白そうだなぁ」と思う人もいると思います。

また、自由研究をするときのお手本にもなります。勉強は机に向かってすることだけじゃなく、外へ出て自分で何かを経験をすることで知ること・分かることもたくさんあります。自分のいつもやっていることや、好きなことをの中から、実際に経験したことを、レポートとしてまとめてみるのも良いでしょう。

ぜひ読んで欲しい!良書

『ごみ収集という仕事』は、図書館でたまたま目について読み始めただけでしたが、とても良い本でした。「ごみ収集」という身近な存在ですが、どんな業務なのか知らないことばかりでした。

「ごみの分別」がうるさく言われる理由もわかりました。みんながきちんと分別すれば、作業員の仕事も減りますが、みんながルールを守らないと、どんどん仕事が増えてしまいます。

「ごみは放置できない」からこそ、その場その場で臨機応変な対応が求められており、システマチックに遂行できる仕事でないことも知りました。道幅や交通量、住民の家族構成や季節、行事などなどなど、不確定要素しかなく、画一化できません。コンピューターが一番苦手な分野の仕事でしょうから、今後も人力で、人海戦術的にやり続けるしかない業務じゃないかと思います。

かなり危険な仕事で、きつく、ごみを扱う仕事で、かつ衛生状態や治安など、その地域の安全や財産にも関わる重大な仕事です。また繊細な個人情報も扱います。ごみ収集こそ、行政しかできない仕事だろうと思いました。これはすごい仕事だ。

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『編集者という病』|過激すぎると「本」でしか読めない

こんにちは。あさよるです。ブログを書くって、自分で文章を書き、自分で編集し、自分でディレクションして、自分で記事を公開することなんですよね。一人編集部なわけです。何年書いてもブログのクオリティが上昇しないのも「全部ひとりでやってるからしゃーないな」ということにしておきましょうw

この「編集する」という作業が、あさよるにとって、よくわかっていないトコロです。そういえば昔、仕事で「編集の勉強をせよ」と言われたこともありましたが、あまり気ノリせず、結局やらず仕舞い。「編集」と呼ばれる仕事をしている人の様子を見ていても、あまり「良い」とは思えず、モヤモヤとしたまま今に至ってしまいました。

そして、先日読んだ編集者の見城徹さん『読書という荒野』がとても印象的で、他の本も読んでみようと手に取ったのが『編集者という病』でした。『読書という荒野』でも、編集という仕事について書かれていましたが、『編集者という病』では、もっとダイレクトにこれまで編集してきた本の話が満載でした。

編集するということ

角川書店を経て幻冬舎を立ち上げ、数々のベストセラーを出してきた編集者・見城徹さんが、ご自身の仕事を振り返る。仕事……といっても、それは私事とか仕事とかそんな話ではなく、全身全霊、すべての時間をかけて本を作る編集者の姿です。それはもう「仕事」の枠をとうに超えていて、「病」であるというタイトルです。

尾崎豊に小説を書かせ、世に送り出し続けたエピソードは、「公私混同」とかそういう話じゃないですね。表現者とは魂を削ってそれを行う。編集者はそれを「本」という形にするため、表現者と向き合う。

あさよるは「編集」って、イマイチなにをする仕事なのかわかっていなかったのですが、その人の持っている「何か」をどう切り取り、どう見せ、どう形にしてゆくのかを決める大事な仕事なんですね。

出版当時話題になった、郷ひろみさんの『ダディ』では、ずっと友人だった郷ひろみさんが、妻から離婚を告げられ苦しんでいるという話を聞き、それを本にするよう持ちかけます。内容がセンセーショナルに扱われましたが、あくまで男女が出会って結婚し、子育てをし、離婚をするという、よくある話を、当事者が心情を吐露するのだと紹介されていました。そのとき、はらわたまで書き出すような、人間の光も影も詳らかに言葉にし、本にする。そのために編集をするのです。

出版はオワコンだから終わらない

よく「出版はオワコンだ」なんて言いますが、本書を読むと改めて「出版はオワコンなんだなぁ」と思うとともに「オワコンだからこそ、出版は終わらないんだろう」とも思います。

雑誌や書籍に書かれている内容は、本の形態に印刷され、綴じられているからこそ成立しています。で、ときどき、雑誌のコラムなんかがそのままWEBマガジンにWEB記事として掲載されたとき、炎上しちゃったりしています。メディアが変われば読者が変わり、文脈も変わるので、本・雑誌ではアリだけどWEBだとNGってのが少なからずあります。

雑誌や書籍のノリの記事がWEBで炎上しているのを見ると「オワコンだなぁ」と思うと同時に、だけど、だからこそ「WEBじゃ書けないこともあるんだなぁ」とも思うので、やっぱ紙の本・雑誌がなくなることもないのでしょう。誰でも無料で読めるWEB記事の良さもあるけど、読者を限定できないが故に、読者を想定しきれず、違う文脈で読まれてしまって、違う解釈をされることもあるでしょう。多くの人にあてはまる話だけをすると、毒にも薬にもならない話しかできないし、難しいところです。

で、本書『編集者という病』に書かれている中身って、結構ヤバいというかw、他人事として読むと「こんな熱い世界があるのかぁ~!!」と燃えるけれども、自分の身近にこんな魂かけて仕事する人がいるとヤだなと思う人も多いんじゃないでしょうか(苦笑)。特に、作家と公私混同を超えて、共依存関係のように、混ざり合い、本を作ってゆく様子なんて、一般社会には受け入れがたい世界観じゃないでしょうか。だけど、ギリギリで表現をし続ける作家の作品を「読みたい」という欲を止めることも難しい。

一般の良識、社会のモラルと、狂気の世界に生きる表現者の作品を受容することのせめぎ合いって、どちらを正しい/間違いと言い切れないから、なんとも言えませんね。これから私たちの社会は、それらをどうジャッジしてゆくのかを迫られているのかもしれません。

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『日本辺境論』|田舎者でゴメン(・ω<) テヘペロは強い

こんにちは。本は寝かしまくる あさよるです。大体、人からおすすめされると、3年スパンくらいで着手し始めます。一応、読むのは読む。いつになるのかわからないけどね…!という感じ。そして、積みまくったのが内田樹さんの『日本辺境論』です。二回の引っ越しも経た。やっと読みます。

これは、2009年の出版当時話題になっていて読もうと買っておいたものでした。その間、世間は大きく変わったような、だけど大枠ではあまり変わっていないような。2009年から2018年の9年間は、たくさんのことがありすぎて、よくわからない時代でしたね。そんな、ここ近年の出来事を思い出しつつ、『日本辺境論』を読むのでした。

世界の中心……じゃないからできること

内田樹先生の『日本辺境論』は出版当時、話題になっていた頃から積んでいました。2009年11月の本ですから、積んだね~!w

「日本辺境論」とは、日本人が持ち続けている辺境根性とでも言いましょうか、日本人の処世術を解説するものです。ちなみに「辺境」の反対は「中心」。日本にとっての中心は、長らく中華思想でした。

アメリカはその建国の歴史から、ルーツも様々な人々が集まっていますから「我々はこういう者だ」という名乗りが必要です。それを「アメリカというアイデア」だと紹介されていました。それに比べると、日本人は「日本とはこういう者だ」がありません。日本の歴史よりも前から日本列島には人々が住んでいて、大陸とは海で分断されているんですから、名乗りなんて必要なかったのです。

そして日本人は対中国との交渉によって〈自分たち〉であることを自覚するのです。明治の文明化では、相手はヨーロッパでした。日本は、自分たち以外の何かと対峙して初めて、〈自分たち〉を認識します。そもそも「日本」という名前も、「日の本」つまり「太陽の上る方」という意味であり、それは「中国から見て東側」という不思議な名前だと書かれていて、なるほど言われてみれば。

そして、日本はどうにも上手いこと大国と渡り合っているのです。「日の出国の天子より」なんて無礼な手紙を出したり、天皇から位を授けられた征夷大将軍が「国王」と名乗ってみたり、なかなか無礼です(部長が「社長です」と名乗って取引先に挨拶するなんてあり得ない)。で、それを「田舎者なんでわかんなくてゴメンナサイ」とテヘペロしながら、言いたいことを言って、大国と渡り合ってるんですよね。自分たちが辺境に生きていることを自覚し、それを逆手にとって外交をしているのです。これ、すごいじゃん!ってのが、『日本辺境論』を読んでの発見でした。

「この人スゴイ」はスゴイ

んで、内田樹先生も、日本の辺境っぷりは悪いものとはせず、「とことん辺境で行こう」と仰っています。

辺境人の良いところは、素直に「中国すごい」「ヨーロッパすごい」と思ってしまうところです。自分たちが辺境の田舎者だと思っているからこそ、だから「素直に学ぶことができた」というのです。この感覚わかりますよね。自分が「この人スゲー」と思っている人の言うことなら、理解できなかったとしても「たぶん何かすごい意図や意味があるんだろう」と取り入れることができます。反対に、一回でもナメてしまった相手の言うことはもうなんにも響きません。

相手を「すごい」と思える能力って、学びには重要な要素です。これはずっと持ち続けたい力ですね。

エイヤッと飛び込む

次いで「機」を見る能力が紹介されています。機とは、「清水の舞台から飛び降りる」ことです。日本は欧米から鎖国をやめて開国を求められ、明治維新が始まりましたから、「近代」という時代には後ノリをしました。つまり、なぜ始まったのか、なにをやっているのか、ルールもわからないゲームに途中参加させられたのです。その時、持ち前の学びの姿勢が発揮されるのですが、同時に「エイヤッ」と飛び込むタイミング、それが「機」です。ヒトは元々「機」を持っています。じゃなきゃ、動物として生き残れなかったはずです。そして、大国は自分たちの強さ故に、機を忘れてしまっている。日本人は辺境人だからこそ、「エイヤッ」と飛び込む機を持っています。

日本語

さらに、「日本辺境論」では、日本語の持っている特性にまで話題が及びます。日本人は元々文字を持っておらず、中国語を輸入しました。そして、わたしたちは未だに、中国から輸入した漢字も使ったまま、だけど日本語のまま文章を書いて理解するようになりました。折衷案的ですね。

相手の力を使う

たぶん、辺境的であるって「カウンターをとる」とも違うんでしょうね。対抗するのではなく、力をいなすというか、相手の力を使って、自分の持っている以上の力を発揮するというか。名人技です。

新書一冊じゃ全然足りないわ

『日本辺境論』は以上のような内容を扱っているのに、たった新書一冊なんです。だから、当然ながら全然足りてませんw どの章も駆け足だし、特に最後の日本語の特性なんて、こんなページ数で何も言えないだろうと(苦笑)。どの話も、風呂敷を広げたところで時間切れ~続きはこちら……みたいな感じですね。もちろん、それは読書や学習を促す意味では良いのかもしれませんが、読了感としては「え~!ここで終わるの~」とw

内田先生の本はその時々のタイムリーな話題を上手いことトッピングされていますから、今『日本辺境論』を読んで「2009年ってこういう気分だったんだな」と今さら振り返ったような気持ちです。

2009年前後と言えば、Twitterのアカウントを作って遊び始めた頃でした。今はもう消してしまったアカウントなのですが、当時高校生の年齢だった男の子が『日本辺境論』についてツイートしているのを見て、あさよるの読みたい本リストに入ったままでした。「当時高校生の年齢だった男の子」とは、高校へ行かず大検を目指してたとかだったんじゃないかなぁ。彼はその後、元気にしているんだろうか。

話の脱線ついでに、ちょうどこの頃、あさよるはまだ学生で、進路について聞かれたとき「何も考えてないけど、ブログを毎日書いてるから、それをなんとかしたい」と話したのを覚えていますw 約9年前からやってることも考えてることも大して変わっていないw そして、9年越しに、おすすめされた本を読んでいたりする。

その間、内田樹さんもWikipediaによると、単著で20冊以上、共著も合わせるととんでもなくたくさん本を出版なさっています。「『日本辺境論』だけじゃ全然足りないよ」というなら、他の本で補うと良いのでしょうか。

といった感じで、あさよるも自分のこの9年間を思い出し語るとき、「自分はこうだった」と言えず「あの人はああだった」「この人はこうだった」としか言えません。とても辺境的w ただ、だらこそ好奇心は忘れないまま、今も楽しくキョロキョロと何かを探しているんだと思います。

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『持たない暮らし』|自分スタイルで、とっておきに囲まれて

こんにちは。部屋が片づかない あさよるです。一か所を片付けていると別の場所が散らかって、そっちを片付けているとまた違う場所が収集つかなくなって……と片づけが終わらないループから抜け出せません>< 一応、週末を迎える前には一通り部屋を片付けるんですが、まだまだ物が多くて、管理しきれていない感じ。だけど、だからと言ってこれ以上なにを減らしてよいのかもわからない……。根本的に、自分の生き方(と言うと大げさだけど)から考え直す頃合いなのかなぁなんて思いつつ、悩んでおります。

こんなときは、一人でうんうん悩んでいても仕方がないので、気合を入れるために片づけ本を読むに限ります。読むだけでテンションが上がって「もうちょっと粘ってみよう」と思えます(^^)v

今回手に取ったのは金子由紀子さんの『持たない暮らし』。憧れのシンプルライフについて言及されているのでありました。

すっきりと身軽に生きる

本書『持たない暮らし』の著者・金子由紀子さんはシンプルライフについての著書を多数出版されています。あさよるネットでも以前『お金に頼らずかしこく生きる 買わない習慣』を紹介しました。

金子由紀子さんのお話は、不要なものを手放し、新たに購入・もらってくるものを厳選し、コンパクトに暮らす方法です。質素に生きることなのですが、「貧しい」のではなく、良い物は良い値段を出して手に入れます。

余計な出費を押えれば、浮いた分のお金で、質の高い物を選ぶこともできます。厳選した高品質なもの、良い物を持てると、豊かな感じがしますね。

あさよるも、こまこまと小さな出費をしなようにして(100均に行かないようにしているw)、鞄とか靴とか、長く使えそうなものを選んで、手入れしながら使い続けられたらいいなぁなんて思っています(別な高価じゃなくても、良い物を探したい欲求)。

また、将来ゴミになるものを「もらわない」という習慣も大切です。これは片づけの本によく書かれていますが、人間の脳はなにか決断をするのを先延ばしにしようとするクセがあります。変化を好まないのです。だから「捨てる」という決断をするには、意外なほどに意志の力が必要です。片づけが精神的にも疲弊してしまう理由ですね。だからなるべく、捨てるものを買わない・もらなわいことで、決断する回数を減らして、その分のリソースは別の場所で使いましょう。

物をため込まない秘訣として、「もらわない」「買わない」「ストックしない」「捨てる」「代用する」「借りる」「なしで済ます」と7つの鉄則が紹介されています。といっても決して「買ってはいけない」「ストックをしてはいけない」と言ってるわけではありません。自分(たち)に必要なものを見きわめて、欲しい物は買うべきだし、必要なストックならばします。

誰かにとって不要なものでも、自分にとっては掛け替えのない物もあるし、その逆もあります。だから、すべての人にあてはまる物の選別方法はありません。自分で自分基準を持つことが大事ですね。

油断してると物は増える

シンプルライフを自然にできればいいけれども、かなり気を付けていないと物はどんどん増えるばかりです。特にたくさん買い物するわけでもないし、物をもらわないように気を付けているのですが、それでも物は増える!(;’∀’)

念入りに、手元に残すもの、手放すものを厳選し続けないとヤバイですね。

日ごろから物を厳選していると、入手する際にも「これは不要だな」と判断しやすいし、物が厳選されていると物の管理がしやすいので「これは持っているからいらない」と思えます。際限なく物が増え続ける状態って、自分が何を持っているのかわからなくて、欲しい時に欲しい物が見つからないから、また新たに買って……と悪循環にハマっちゃいますよね~しみじみ┐(´д`)┌

シンプルライフって、唱え続けないとヤバイ。

最近読んだ中では『ドイツ式 暮らしがシンプルになる習慣』なんて憧れ度が高かったなぁ。

自分のスタイルが必要だ

物が無限に増えてしまう理由って、自分の生き方がブレブレだからじゃないのかなぁと、あさよる自身は思っています(;’∀’) もし「自分はこう生きる」と自分で明確に分かっていれば、余計なものは増えないし、そして「自分に必要なもの」が分かっていれば、それにスペースを使うのは惜しくありません。苦しいのは「別に要らなくて大切でもない物に居住空間を占拠されている状態」なんじゃないでしょうか。

「私はこうよ!」って宣言できれば、身軽に生きられるのかもなぁなんて憧れます。

洋服なんてその最たるものですよね。トレンドを追うのも楽しいですが、まずはベースに自分のスタイルがあって、そこに「今っぽさ」を足してゆくのが楽しいんじゃないのかと思います。ベーシックなアイテムは「自分の定番」として揃えていれば、クローゼットに詰め込んだ服の山の前で「着るべき服がない」と悩むこともなくなります。ああ、憧れる……!

片づけテンション上げに

あさよるは片づいた部屋を維持できないので、ときどきどうしようもなく荒れ果てた部屋の前で途方に暮れ、そして諦めて片づけに取り掛かることを繰り返しています。毎日片づけていればそんなことにならないのにねぇ(;’∀’)

そして、たまに「この部屋のシステムはダメだ!」と一念発起し、根本的な模様替えや持ち物の見直しを図ります。先にも述べたように、「決断する」のはめっちゃ疲れます。だからテンション上げて発破をかけながらしなきゃ続かないんですよね~。その時に、本書『持たない暮らし』のようなシンプルライフや片づけ本が役立ちます。読むとしばらくテンション上がるんです。

だから、片づけ本のお気に入り本と、新たな片づけ本探しに余念がありませんw

みなさんも、片づけに疲れたら、金子由紀子さんのシンプルライフの考えに触れて元気を出してみてくださいね。

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『世界の教養365』|今日のネタ帳はこれ

『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』イメージ画像

こんにちは。あさよるです。『世界の教養365』は書店で平積みされているのを見ていて気になっていました。結構ボリュームある感じだし、「世界の教養とはなんぞや」と気になっていたのです。ページを開いてみれば、あら、1項目1ページずつ、要約と簡単な説明、さらに豆知識が書かれたもので、大人だけじゃなく10代の人におすすめしたい内容でした。

1日1ページずつ、一年館読み切ると365の教養が身につくという触れ込みです。

ただトリビア集とは違っているのは、7つのジャンルが設けられ、1週間ごとに同じジャンルが回ってくるから、読んでいるうちにだんだんと教養が「深まってゆく」ところです。ただ網羅的に雑学が収録されている本は軽く読むにはいいですが、読みごたえはないので、こっちの方が読む楽しみはあるかも。

毎日〈読書〉と〈学習〉の習慣を

『世界の教養365』は分厚いA5サイズの書籍です。本書には365の教養がコンパクトにまとめられて収録されています。これを1日1ページずつ、365日かけて読んでゆきましょうという趣向です。著者は聖書を毎日少しずつ読む習慣がある方だそうで、そんな風に朝の時間に習慣としてテレビや新聞をチェックするように本書を1ページずつ読み進めてゆきましょう。

……って、あさよるは一気に読み進めちゃったんだけど(;’∀’)(;’∀’)

本書ではジャンルを7つの分野に分け、1週間の7日間に割り振られています。第一週目、第二週目……と読み進めてゆくうちに、7つのジャンルがそれぞれについてだんだんと知識が深まってゆくしかけです。

7つのジャンルは、

  • 月曜日:歴史
  • 火曜日:文学
  • 水曜日:視覚芸術
  • 木曜日:科学
  • 金曜日:音楽
  • 土曜日:哲学
  • 日曜日:宗教

ワクワクするジャンルが割り振られています。

さらに、実際に読み始めて、ページの構成が印象的だったので紹介しておきます。

本書はその日のテーマが1ページに簡潔にまとめられています。その日のテーマ・トピックスと、その要約。さらに詳しい説明がなされ、最後には豆知識が添えられています。

画像を用意してみました。

『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』イメージ画像

あさよるは個人的に、子どもの頃、こんな風に自分が見たり聞いたりしたことをまとめて本を作るのが好きだったため、幼い頃の楽しみを思い出しました。本書は教養をインプットするためのものですが、この構成をテンプレートとして、自分の教養本を作っても面白そうです。

教養は何のために必要か

本書『世界の教養』のAmazonのページを見ていると、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」の項目で、Amazonさんが『究極の男磨き道 ナンパ』という本をおすすめしてきたのが、面白いw

いや、この本は読んでないし、たぶん読まないだろうから内容はわかりませんが、「教養」と「ナンパ」がリンクしてるって、「ああ~」と納得しました。サブタイトルが「コミュ障ひきこもりがストリートに立った日」ですw

教養ってなんのために身につけるのか、なぜ必要なのかはいろんな説明の仕方があるでしょうが、「コミュニケーションを円滑にするため」という理由はわかりやすい例の一つでしょう。で、そのコミュニケーション能力は、「モテ」のためにも使われるでしょう。おかしなことではありません。

まぁ、この話は別にこれ以上広がりませんがw、教養って、みんなが共通して持っている共通知識でもありますね。それはより多くの人とコミュニケーションをとるために、あればあるだけ邪魔になるものではない。逆に言えば、教養がない……というか、知識が偏っている状態って、ピンポイントで同じ知識を持っている人同士は深く付き合えるかもしれないけれども、より多くの人とは関わりづらいのかもしれません。その辺は自分の生き方、志向でもあると思うし、専門知識に完全に特化している人もコミュニティには必要だと思うけれども、広く浅く世界を知ることもまた、面白いことでしょう。

浅くてもいいから、どこまでも広い世界を見てみたい

あさよるは10代~学生時代は「広く浅い知識を身に着けたい」と思っていました。細かなニュアンスは忘れてしまいましたが、「この世界の遠くを見てみたい」というような願望でした。本来なら自分と接点の内容な世界がきっと存在するはずで、そこに生きる人たちはどんなことを考えて、何が見えているのか知りたいと思っていたのです。

まぁ、今となれば「浅いままだとそうそう遠くへは行けないぞ」とツッコみたくなりますが、それは若い頃のチャレンジがあったから学んだことなんだろうと思うことにしますw

また、若い頃は無邪気に本に書いてある知識を丸のまま吸収していました。丸々頭に入ってた頃が羨ましくもありますが、今のほうがより抽象的に捉えられることが多くなって、例えばAというジャンルの本を読んでいても、全然関係ないΣの事柄を理解したりと、既存のジャンルやカテゴリへのこだわりはなくなりました。

だから、今は「広く浅く」とか「狭く深く」とか、そもそもそんなことにこだわらなくなりました。全然違うジャンルの本を読んで、別の事柄に思い至ることもあるから、どんなジャンルの本を読んでいいじゃないかと思うようになったからです。

だから、もしあなたが今「広く浅くモード」なら、本書をおすすめします。付箋をつけながら、これから調べたりハマってみたい分野が見つかるだろうと思います。もしもあなたが今「乱読モード」なら、本書を読むのもいいですが、そのまま手あたり次第、目に留まった本を片っ端から読んでいくのでいいと思います。

読書って習慣なんだな

本書『世界の教養365』をはたして本当に1日1ページずつ読むのか、一気に読んじゃうのか問題は置いておいて……本書は「毎日本をちょっとずつ読む」という読書の楽しみを書籍化した感じなんだろうと思います。「1日1冊、いろんなジャンルの新書を読む」をコンパクトにしたような感じでしょうか。

ただ、本書は結構でっかいので、持ち歩くならkindle版がオススメです。通勤時、ホームで電車待ってる間にサクッと読むとかいいんじゃないでしょうか。

kindle版『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』

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『自分の仕事をつくる』|誰にもできない仕事をする

こんにちは。あさよるです。「仕事」について考えることが増えて、自分の仕事の仕方も変えてかなきゃなぁと思っていたところから、『自分の仕事をつくる』とズバリ今の自分にドストライクなタイトルの本を見つけてしまって手に取りました。

本書では、いわゆる「クリエーター系」「ものづくり系」の仕事をしている人達へのインタビューで構成されています。あさよる自身も元々、制作系の出身だったので、改めて「自分はどんな仕事がしたいんだろう」「自分はどんな仕事に向いてるんだろう」と考えるきっかけになりました。

ただ、取り上げられている職業が結構偏っているので、参考になる人とならない人の差は大きい本でもあるんじゃないかと思います。制作系で、他にはない差別化ができている仕事をしている人……というか、他とは違う仕事をつくった人たちへの取材記録ですね。

いい仕事をする

本書『自分の仕事をする』では、自分の働き方や職場づくりをしている人々へのインタビューで構成されています。「ものづくり」を仕事としている方へのインタビューがメインです。仕事への「こだわり」と言ってしまうと、なんだか安っぽい感じがしてしまいます。「どんな仕事をするか」は個人のこだわりではなくて、社会の中で「自分は何をするか」を考えている仕事の話なんだろうと思います。

デザイナーたちは、カッコいい商品をつくるだけが仕事ではなくて、働く人たちが気持ちの良い環境だったり、「つくる」という根源的な活動を具現化していたりと、切り取られる側面も様々です。

インタビューに答えるすべての人たちは、自分の仕事が特別である理由を言語化できていて、それを真っすぐに紹介されているのが印象的でした。自分の仕事をここまで率直に言えるって、かなり限られた環境や特別な立場の人なんだろうなぁと思って読んでいると、きちんと文庫版あとがきで「これはキレイゴトじゃないか」との手紙が届いた話題にも触れられていました。送り主は美大を卒業してグラフィックデザイナーとして働いた後、今はイラストレーターやライターの仕事をしているという方からです。いわゆる「クリエーター系」「ものづくり系」の仕事をしている人から見ても「特別すぎる」環境に見えたということなのでしょう。

(むしろ自分がクリエーター系だからこそ、「自分とは違う」と思うのかもしれないけど)

本書に登場する人物たちは、他の人の仕事とは違う、差別化に成功した成功例ばかりです。だから、偏っているのは当然で、そこに「成功していない人」を当てはめてもどうしようもありません。だから、ちゃんと成功例として、読むべきじゃないかと思います。そして、他の人にはできない仕事に成功した人は、意外なまでにも愚直な積み重ねでしかないんだなという、なんとも、けんもほろろと言いますか(;’∀’) 自分のやっている方向性は間違ってないと励まされつつ、「これを続けるしかない」とわかります。

これから仕事を「つくる」人へ

本書『自分の仕事をつくる』は、これから仕事を始める学生や、新しく独立したり、働き方を変えようとしている人におすすめです。仕事を「つくる」って感覚を持てる時期って、結構限られていると思うので、本書の内容がズバッと刺さる人はかなり稀なタイミングなんじゃないかと思います。

ただ、あさよるの場合、あさよる自身も美大生時代、グラフィックデザイナーの仕事に憧れていたころがあったので、本書を読むとその学生時代の気持ちを思い出しました。「そうそう、こんなカッコイイ仕事がしたいと思ってたんだった!」と初心を思い出す読書でした。せっかくブログ毎日書いてるんだし、これも「仕事をつくる」にしちゃえばいいのかなぁ。

しかし、誰しも今後「仕事を変える」タイミングはあるだろうし、来るべきその時のために本書は読んでおいてもいいだろうし、できれば頭の片隅に、仕事を自分で作って、選んだ仕事をしている人がいるんだってのは、覚えておいても良いでしょう。あさよるは、励まされる本でした。

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『街場のメディア論』|「贈りもの」を贈ろう

こんにちは。あさよるです。内田樹さんの本はまだ数冊しか読んだことがありませんが、どれも面白かったので今回『街場のメディア論』も読む前から楽しみでした。

この「街場の」というシリーズがあって、『街場のアメリカ論』『街場の中国論』『街場の教育論』に続いた4冊目だそうです。Wikipediaを見ると『街場の大学論』『街場のマンガ論』『街場の読書論』『街場の文体論』『街場の憂国論』『街場の共同体論』『街場の天皇論』とシリーズがあって、どれも読んでみたいです。

今回読んだ『街場のメディア論』では、メディアの不調は、そのメディアにどっぷり浸かっている我々の不調であると宣言されています。確かに、異論はありません。

メディアの不調

本書『街場のメディア論』は内田樹さんの「メディアと知」という大学の講義がもとになっています。大学生でもわかるような話で、かつ飽きさせない話題が続きます。

「自分がやりたいことをやる」というのは実は大きな力が生まれない。それよりも「誰かから求められること」の方が人間は大きな力を発揮できるのです。本書では、内田樹さんご自身が、娘さんが生まれて子育てが始まってから、大きな父性愛が溢れ出たと回想されています。そして、その自分の潜在的な力は、その立場になってみないとどうなるのかわかりません。

「望まれる」というのは、とても力強いことなんですね。

ここからメディアの話が始まります。主にテレビ、新聞、出版が扱われます。そしてこれらの業界は「オワコン」と言われて久しい業界でもあります(内田樹さんは「オワコン」なんて言葉使わないけどね)。

メディアはもともと公共ものです。ですが近年、お金が儲からない話ばかりが語られます。また、メディアは世論、正義の名のもとにクレイマーのお手本のような報道をくり返しています。メディア自身がメディア離れを加速させているように感じます。

世間とおまじない

昨日、ブログで鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』を紹介しました。

『「空気」と「世間」』では、伝統的な「世間」という価値観が古びつつも、今なお「空気」という言葉で顔を覗かせてていると説明されていました。「世間」には理屈がなく、迷信や呪術的がまかり通る世界です。理屈がないからこそ、人々はそれに抗えないのです。そして、著者の鴻上尚史さんは「世間」「空気」に対して否定的な語り口です。『「空気」と「世間」』では、誰も本音ではやりたくないお中元お歳暮も、お祝い金をもらったらその半分の額をお祝い返しする風習も否定されています。

一方で、本書『街場のメディア論』での内田樹さんの話は対照的です。そもそも「街場の」と名前のつくシリーズで、「街場」とはまさに「世間」のことでしょう。そして、内田樹さんは迷信や呪術(おまじない)的なことも肯定します。そして、お祝い返しのような、人から贈り物を受け取ったらお返しをする。それは贈り物をもらった嬉しさの表現でもあります。

くり返しますが、メディアは公共のものです。本書では、本来お金を目的にするものではないと語られています。じゃあ、どうやってメディアの人たちは食べてゆくのかというと、テレビやラジオ番組、新聞や出版物という「贈りもの」を提供するのが仕事で、受け取ったわたしたちは、「贈りもののお礼」をするのです。

商売人と客の関係ではないのです。

おまじないのある世界の方がいいかも

あさよる的には、鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』で語られるような、世間から脱して社会に目を向けることよりも、「街場の」おまじないが効力を持っている世界の方がいいかもしれないと思いました。もちろん、非科学的なことを推奨するのではありません。だけれども、人と人の間に、理屈にならない術的な要素が多少はあってもよい……というか、あった方がいいんじゃないかと思いました。

こんなこと、昔の自分なら絶対思わなかったはずです。誰も欲しくない・送りたくないお中元お歳暮や年賀状なんて大嫌いだったし、世間話の天気の話題すら時間の無駄だと思って忌み嫌っていましたから。だけど、今は、まつりごとや、しきたりも、それなりに役割はあるんだと思うようになりました。

ということで、時候の挨拶の練習をしている あさよるです(;’∀’)

メディアは「贈りもの」であり、受け取った人が、贈もののお礼をするという関係性も健全だと思いました。「商売人とお客様」という関係って、自分がお客だと得があると考える人もいるのかもしれませんが、むしろ全員の居心地を悪くしているだけだと思っています。

それよりも、毎日電車が運行していることとか、牛乳がスーパーに届いていることとか、今日もパソコンがインターネットに繋がっていることは「有難い」ことです。だって「乗せてやんない」「売ってやんない」「繋げてやんない」って言われて困るのは自分ですからね。

自分に必要なものがあるというのは、なかなかあり得ない状況、「有難い」のです。今朝は食べ物がなくて、お店にも食品が並んでなくて、「売ってもらいたいなぁ」とホントに思いましたw

そして、最初に紹介した「自分のためにやる(儲かるからやる)」よりも「望まれてやる」方が大きな力が発揮され、良い仕事になります。そしてそれは良い贈りものになりうる存在です。

ミドルメディアに参加する

あとがきには、

本書では特に既存のマスメディア(新聞、テレビ、出版)に対して、たいへんきびしい言葉を書き連ねました。これも蓋を開けてみたら、まるでお門違いであって、十年後もあいかわらずテレビではどの曲でも同じようなバラエティ番組を放送し、新聞は毒にも薬にもならない社説を掲げ、インスタント自己啓発本がベストセラーリストに並んでいる……というようなことになった場合には、ほんとうにお詫びの申し上げようもありません。p.210

とありました。本書が出版されたのは2010年ですから、それから8年経ったわけで、残念ながら内田樹さんのネガティブな予言通り、相変わらず新聞もテレビも出版も変わっていません。

内田樹さんはマスメディアではなく、ミドルメディアというブログの存在に光を当てています。ブログでは、出版社や放送局のスポンサーを気にせず書きたいことを、書きままの言葉で書いても構いません。トゲのあることを書いても、角を取られることもありません。

あさよるもブログを書いているので、ブログがそういう場になればいいなぁと思っています。今はTwitterやFacebookなどSNSに記事や写真、動画をアップロードする人が多いですが、これらのSNSはアーカイブが弱すぎるので、せっかくの活動が埋もれてしまいます。それよりも、ブログの記事として投稿して、自分のスペースをネット上に作った方が、きっとみんなにとってもいいことだと思っています。

微力ながらも小まめにブログを更新していて、人類にとって何かすごく少ない量でも、寄与できればいいなぁと考えています。これが「贈りもの」なんでしょう。喜んでくれる人がいるのかわからないけどね……(;’∀’)

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『「空気」と「世間」』|世間様が終わり、社会・個人へ

こんにちは。あさよるです。先日読んだ『「生きづらさ」について』にて「空気を読んで自殺する」(自殺志願者たちが「もうすぐ自殺する」と宣言すると、周囲の人が「もうすぐ死ぬんだ」から「まだ死なないんだ」という空気に変わってゆき、空気に後押しされて決行してしまう)という表現がショックすぎて「空気」っていったいなんぞやと思ったのでした。

ちなみに あさよるは空気が読めないタイプです……というか、空気はたぶん誰よりもバッリバリに読めている方だと思うっているんですが、それに従うという気がさらさらないというか……(;’∀’) なもんで、「空気を読む」という重大さがよくわかっていなかったので、本書『「空気」と「世間」』を読みより理解ができたと思います。

「空気」は「世間」の時代からあるもので、今後より「社会」と「個人」への時代へシフトしてゆく中で、存在が変わってゆくのかもしれないと思いました。

「空気」の正体を知る

本書『「空気」と「世間」』では、今やだれもが日常で使うところとなった「空気を読む」という表現の「空気」について扱います。みんな「空気読めよ」という言い回しは使うけれども、誰もその「空気とは何か」を教えてくれません。

たぶん、「空気を読め」という言い回しは、テレビの、特にバラエティー番組で、多くは芸人さんたちが使っている言葉を、視聴者である大衆も使い始めたのでしょう。当然ながら、テレビ番組には全体の進行を仕切るすごい司会者がいて(明石家さんまさんとか、タモリさんとか、ビートたけしさんとか)、司会者が話を進めながら、的確に出演者に発言を求め、それに受け答えして番組は進みます。

もちろんテレビ番組には作家もいるし、編集もされているし、日常の会話とは全く違う非日常であり、テレビタレントさんたちは非日常空間での「空気を読む」能力が求められています。だから、日常の中で「空気を読め」と言っても土台無理な話です。そもそも、さんまさんやタモリさんのような、唯一無二な司会者なんているわけもないですから、だからみんな空気を読んでいても、結局グダグダになってしまう。

で、グダグダの最たるものが、教室内で順番に回ってくるいじめでしょう。別に全員が示し合わせたわけじゃなく、なんとなく空気を読んでいじめのターゲットが移ろってゆきます。そこに司会者はいないので、次は自分かもしれないと、ただただ空気に怯えているだけです。

本書『「空気」と「世間」』では、まずはその「空気とは何か」を知りましょうと呼びかけます。人間は知らないもの・わからないものは幽霊のように恐ろしいものです。だから、まずは知る。そしてできれば、その空気に殺されないよう対策を打てると尚良いでしょう。

「世間様」から「空気」へ

本書『「空気」と「世間」』では、かつて「世間」と呼ばれていたものが戦後だんだんと崩壊し、今やなくなりつつありますが、その「世間」がひょこり顔を出したのが「空気」であると考えます。

日本語には元々「社会」「個人」という言葉はなく、明治時代に外国から輸入した概念です。だから日本人は建前上「社会」という概念を持っていることになっていますが、本音の部分では伝統的な「世間」に属して生きています。表立ってはわれわれは「社会」に生きる「個人」なのですが、意識的には自分は「世間」であり、同じ「世間」で生きている人が仲間です。

だから日本人は、同じ「世間」の人には親切でとても興味を示しますが、「社会」の人には無関心です。よく「電車内で体の不自由な人がいても誰も席を変わらない」という現象が語られますが、別に彼らが悪人ではなく、多くの人は「世間」では良い人なのでしょう。だけど、電車内という「社会」が見えていないのだと言います。

日本で生まれ育った人なら、この感覚、わかるんじゃないかと思います。

しかし「世間」はなくなりつつあります。戦前の富国強兵時代は、産めよ増やせよで兵を増やし、豊かになることが「日本という世間」に参加することでした。しかし敗戦後、兵の数を増やす必要もなくなり、少子化が始まります。だけど、伝統がすぐになくなるわけじゃなく、戦後しばらくは「世間」が会社の終身雇用・年功序列に姿を変えて残りました。同じ会社の仲間が「世間」だったのです。

そして、今やその終身雇用・年功序列もなくなりました。「世間」はなくなる寸前なのです。また、グローバルな時代が始まり、日本以外の価値観や働き方に触れることで、「世間」ではなく「社会」に目を向ける人が増えています。

「世間」に帰りたい人・社会を見る人

「世間」がなくなりそうになると、「世間」があった時代を復活させたいと考える人と、「社会」に目を向ける人が現れ始めます。

ネット右翼と呼ばれる人たちは、保守というよりは「世間原理主義者」と本書では名付けられていました。みなの心には「古き良き日本」という形のないものがあり、そのどこかわからないところへ帰りたいのです。アメリカでも「古き良きアメリカ」への回帰を求める人たちが一定数いて、政治にも影響を及ぼし始めています。

ただ、日本人とアメリカ人の違いは、日本人には神様がいないことです。キリスト教徒たちは一神教の神様と個人が直接つながり、どんなときでも神様と対話して自分の行動を個人が決めます。しかし日本人には対話するような神様がおらず「世間」という神様に従うのです。

なのに「世間」がなくなってしまった。つまり、日本人は神を失ってしまったのです。心もとないのも仕方ありません。アメリカでも教会に行かない若い世代が増えているそうです。アメリカも今後、日本と同じ道をたどるのかもしれません。

「世間」から脱したものの、また別のより強固な「世間」が待っているのです。

孤立は孤独だ

「古き良き日本」という「世間」に帰りたい世間原理主義たちの気持ちもわからなくはありません。自分を保証してくれるものがなく、不安定だからこそ、人々を一つにまとめる(縛り付ける)「世間」があってほしいと願うのです。

本書でも、著者の鴻上尚史さんがイギリス留学時代に言語がわからず孤立して、その期間が長くなると精神的にもまいってしまい、偽善で声をかけてくる白人ですら嬉しかったと語っていました。誰だって孤立をすると孤独になるんです。孤立した人は「世間」というしがらみのあった頃に戻りたいと考える人がいてもおかしくありません。

しかし著者は「世間」ではなく「社会」に目を向けることで、より多くの人とつながれると書いています。世界中探せば一人でも理解者が現れるであろうし、できれば理解者は二人いれば良いとしています。二人いれば、片方が多忙でつかまらなくてももう一人の仲間がいるから心が穏やかでいられます。

「空気」は「変わる〈かも〉しれない」

わたしたちは「世間」という言葉すらあまり使わなくなりました。今どき「世間体が悪い」なんて言う人も減っています。代わりに「空気」が支配し始めました。「世間」と「空気」は同じような意味で使われますが、「世間」は絶対不変なものな感じがします。「世間」の前では理屈も通用せず、理屈がないから抗えないのです。

しかし「空気」は、なんとなく「今はこんな空気だけれども、これから変わるかもしれない」という淡い期待をはらんでいます。ただし、あくまで空気は圧倒的な存在で、個人が太刀打ちできるものではないのは変わりません。だけど「もしかしたら……」という一縷の望みを感じさせる言葉を用いることで、「実はしがらみのない社会へ行きたい」と願っていることもわかります。

ダブルスタンダードでいいじゃないか

本書『「空気」と「世間」』では、現在「世間」と「社会」のどちらかを1か0で選ぼうとしているけれども、どちらでもないダブルスタンダードでもいいんじゃないかとも語られています。

「世間」があった時代には「個人」もなかったんだから、昔の人は平気だったんでしょうが、今の我々は「社会」を知り「個人」という自己を持ってしまっています。一度「社会」と「個人」を知ったうえで、かつてのような「世間」に変えることはできません。

しかし、孤立し、神を失った人にとって「世間」がそれなりの役割を果たすこともわかります。

だから「社会」と「世間」のダブルスタンダードでもいいじゃない。

もし世間で居場所がないならば

本書の最後には、この本が、いじめで居場所を失った中学生へ届くようにと書かれていました。著者はこれまでにも、いじめに遭ったならば逃げなさい、死んではいけないと呼びかけてきたそうです。しかし、家にいても「学校裏サイト」があり、そこには自分の悪口が書かれ、24時間どこに行っても逃げられないと感じる子どもたちがいます。

だけどそれでも逃げろと呼びかけます。

学校・教室という「世間」では居場所がないかもしれないけれども、「社会」に目を向ければ、途端に世界中の人々が目に入るでしょう。「世間(空気)に殺されてはならない」のです。

「したたがない」はしかたがない?

本書にて「しかたがない」という日本語は英訳しにくいという話題が登場します。それに近い「It cannot be helped」という表現がありますが、実際にこの言い回しを使う人は少ないそう。「We have no choice」の「選択の余地がない」がギリギリ近いかと紹介されていますが、「考えられる限りの手を尽くしたけれども他にどうしようもない」とかなり能動的なニュアンスです。

「しかたがない」には受け身で無力感があります。

ベストセラーになったカレル・ヴァン・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本とうシステム』(毎日新聞社)の中の文章が、典型的な欧米人の見方を表していると思います。

「シカタガナイ」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。シカタガナイと言うたびに、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれすべて失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたほうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるをえない」と思うたびに「シカタガナイ」と言う人は、政治的な無力感を社会に広めていることにある。本当は信じていないのに、信じたふりをしてあるルールに従わねばならない、という時、人はまさにこういう立場に立たされる。

p.44-45

「しかたがない」と口にする時、日本語話者はこんなこと考えてはいないんだろうけれども、西洋人が「しかたがない」を理解するためにはこれだけの説明が必要なのです。

あさよるも多分、元気いっぱいで、のほほ~んと本書を読んでいれば、本書に共感し、「世間を脱し社会に目を向けるべきだ!」と思ったかもしれません。

しかし昨日、台風の暴風雨により早々にテレビのアンテナが落ち、長時間の停電で「しかたがないから本でも読むか」と、寝転がって本書を読んでいました(災害時は体力温存しかできない)。外の様子が気になるし、「ああ、あれはこうしておけばよかった」と後から気づいても、「しかたがない」のです。

最大時の暴風がやや治まった頃(それでもかなりの突風が吹き荒れている)、両親がモメています。「外に出て様子を見る」という父と「余計なことをするな」という母が対立しており、二人とも「しかたがない」と言っています。父は「状況を見ておかないと、もうすぐ日が暮れるからしかたがない」と言い、母は「こんなに風が強いんだから、外に出られなくてしかたがない」と言っています。

あさよるも、アンテナや瓦が落ちて、もし近所の家や車を傷つけたら大変だと考えつつ(「世間」を気にしているのです)、だけど災害だから「しかたない」と思っています。

本書では、「世間」や「空気」に圧倒されなすすべもなく「しかたがない」と受け身にしかなれない日本人に対し「社会に目を向けようよ」と呼びかけていますが、「こう災害に出合うと無力感しかないし、しかたないと思うしかない」よなぁと、共感しきれない自分もいました。

「世間に迷惑がかかったら嫌だなぁ」と思いつつ、実際に声を掛け合い、うちのゴミを黙って処理してくれるのも「世間」なのです。こう災害が多くっちゃ「世間」がないとダメなのかもな、なんて弱気になってしまいました。

それでも「社会」に目を向けるんだろうか

ただ、本書でも災害ボランティアは「社会」であると紹介されていました。災害ボランティアに参加すると、お互いに打ち解ける間もないまま仕事が始まります。

日本でこうも災害が多く、世間では対応しきれない規模の災害が続くなら「世間」は「社会」を受け入れざるをえないでしょう。今も着々と、「世間」と「社会」は変わりつづけているのでしょう。

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池上彰『高校生からわかるイスラム世界』|今を知るには歴史が必要

池上彰先生のイスラムの授業

本書『高校生からわかるイスラム世界』は、テレビでおなじみの池上彰さんが、イスラム教やイスラムの歴史、イスラム世界にまつわる現在の国際問題までを解説するものです。「高校生からわかる」とあるように、10代の人向けで、社会科の教科書だけでは扱いきれていない話や「世界史」「現代社会」などと教科別ではなく、「イスラム世界」というテーマで話題が扱われます。教科を超えて、より広い視点で世界を眺めることができるでしょう。

日本にもイスラム教徒はいますが、あまり身近ではない存在の人も多いのではないでしょうか。あさよるも、キリスト教徒の人は知り合いにもいますが、イスラム教徒の人はいないんで、「知識としては知っているけど……」という存在だったりします。

しかし、世界的には、イスラム教徒の数はどんどん増えていて、近い将来、キリスト教徒の数を上回るそうです。また、アジアの国々でも、ヨーロッパでもイスラム教徒はたくさんいますから、日本が例外的な立地なのかもしれません。

で、池上彰さんといえば「わかりやすい解説」ですよね。もちろん本書『高校生からわかるイスラム世界』でも、やさしく話しかけるような文体で、とてもわかりやすい!

イスラム教は怖い?

本書の冒頭では、高校生の前で講義をする際、池上彰さんが生徒たちにイスラム教のイメージを訪ねた話題から始まります。生徒たちは「怖い」「暗い」「他の宗教より激しい」という答えだったそうです。高校生に限らず、大人たちも同じようなイメージを抱いている人は多いんじゃないでしょうか。

イスラム教について知識が乏しければ「自分の知らない存在」ですから、得体が知れなく「怖い」と感じてもおかしくないでしょう。その上に、ニュースではイスラム世界で起こっている紛争やテロの報道が続いています。そりゃあ「怖い」「暗い」「他の宗教より激しい」と思う人もいるでしょう。

しかし、イスラム教は世界三大宗教であり、ほとんどの圧倒的多数の人は「普通の人」なんだろうなぁと想像します。それは、日本人の中にも悪い奴も時々いますが、まぁ概ねほとんどの人は「普通の人」であるのと同じじゃないでしょうか(「普通の人」というのは「聖人君子なわけでもないけど、極悪人でもない」という感じで)。

まずは「得体の知れない存在」から「知っている存在」に変えることは、自力でできます。その入り口に本書『高校生からわかるイスラム世界』にいいんじゃないでしょうか。

10代へ世界の常識を

本書『高校生からわかるイスラム世界』で扱われる話題は、

  • イスラム教とは。コーランとは
  • ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係
  • イスラム教徒の戒律や習慣
  • イスラム「原理主義」とは
  • イスラム教を取り巻く国際問題(中東問題や、ユダヤ世界、エルサレム、湾岸戦争など)
  • イスラム世界のこれから

ざっとこんな感じ。

大人も、ややこしい話はわからないor忘れちゃってる部分があるでしょうから、「高校生からわかる」シリーズですが、本書は大人こそオススメだったりします。というか、「高校生からわかる」ってネーミングいいですね。昔は「サルでもわかる」とか、最近だと「中学生からの」みたいなタイトルの本が多いですが「高校生からわかる」というのは、サルでも中学生にもわからない、難しい話を扱っている感じがしますw

なんで歴史を学ぶのか?

夏休み中帰省していた親戚と「子どもの頃、なんで歴史なんか勉強しないといけないのかと思っていた」という話をしました。「大人になると義務教育で習ったことは知ってないといけないんだとわかった」という話です。

「歴史をなぜ学ぶのか」というのは、「お母さんはなぜ起こっているのか」という話と同じだろうと思います(笑)。お母さんは別に、今日、我が子が生まれて初めて部屋を散らかしっぱなしでゲームをしているから怒っているわけではないでしょう。たぶん、過去にも同じようなできごとが散見されていた結果として、今、怒っているんだろうと想像されます。

「今、なにかできごとが起こる」のは、過去になんらかの理由や原因が複数あって、それらが絡み合い、重なり合い、なにがなんだかわからなくなりながら、「今」がある。その瞬間瞬間はランダムに起こるできごとでしょうが、それらを振り返ると軌跡となっていて、それが「歴史」になっているんじゃないかと思っています。

現在の国際問題について知るには、モーゼやノアの時代の話題が飛び出すというのは、「歴史は必要なんだ」というのをよく表していますね。よく「歴史から学ぶ」という言い回しがありますが、あんまりそれは的確じゃなくって、「今を知るために、過去を知る」という感じじゃないかなぁと思います。

あと、世界の戦争や紛争のニュースは、キリスト教やユダヤ教の問題でもあるのに、イスラム教ばかり「怖い」と思われてしまうのは偏った話だなぁと思いました。

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池上彰さんの本

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『池上彰の世界から見る平成史』|池上さんが解説し続けたニュースたち

『池上彰の世界から見る平成史』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。あさよるは昭和の人なので、「前時代の古い人間だなあ……(遠い目)」なんて思いつつ生きておりましたが、来年、昭和はさらにもう一つ古い時代になってしまいます。この夏は平成最後の夏なんだなあ(遠い目)。思えばあさよるも、平成の荒波に呑まれ続けた半生でしたねえ……。

また、池上彰さんは平成史をテレビでわかりやすく解説し続けてきたとも言えますね。ここ30年の出来事を振り返るとともに、そういえばこのニュース池上さんの説明で聞いたな~なんて思いながら読了いたしました。

長ぁ~い「平成史」

本書『池上彰の世界から見る平成史』というタイトルでもっとも感慨深いのは「平成史」という言葉でしょう。2019年4月30日で平成が終わるということは、そうか、「平成」という時代が歴史になることなんですね。平成の前の時代、昭和は64年もありましたから、昭和と比べると平成は「短い」感じがしますが、今回改めて平成の国内外のニュースや災害の年表を見ると、いやいやとても「平成は短かった」とは言えません。

平成は、戦後高度成長期の絶頂から始まります。平成元年(1989年)12月は日経平均株価が最高値を記録します。そして翌年1990年(平成2年)3月、裁量規制が始まり、その後バブル経済が終わります。世界では第二次大戦後続いた冷戦が終わります。冷戦時代はアメリカとソ連の2チームに世界の国々が分かれ緊張状態が続いていましたが、今となれば冷戦終結によって世界の親分がいなくなったことで、世界中の混沌が始まる時代でもありました。

また、平成は大災害が相次いだ時代でもあります。1990年(平成2年)の雲仙普賢岳噴火、1993年(平成5年)の北海道南西沖地震が起こります。そして1995年(平成7年)の阪神大震災以降、日本国内の地震や火山活動が増え、2000年(平成12年)三宅島噴火、2004年(平成16年)新潟中越地震、2007年(平成19年)能登半島地震、新潟中越沖地震、そして2011年(平成23年)東日本大震災があり、その後も2014年(平成26年)御岳山噴火、2016年(平成28年)熊本地震と、地震・火山活動は続いています。平成は災害の時代でした。

また、世界がテロと対峙する時代でもありました。2001年(平成13年)の9.11テロ以来、世界中でテロが広がっています。日本でも1995年(平成7年)地下鉄サリン事件の無差別テロが起こります。オウム真理教はこの以前にも1994年(平成6年)「松本サリン事件」を起こしています。日本は昭和のころからテロが何度も起こっています。

池上彰さんが解説し続けたニュースたち

本書『池上彰の世界から見る平成史』は、池上彰さんがこれまで解説しされてきた世界のニュースでもあります。池上彰さんが出演されていたNHK「週刊こどもニュース」がスタートしたのは1994年(平成6年)です。池上彰さんが「お父さん」役で、子どもたちに一週間のニュースを教えるという番組でした。あさよるも東欧やイスラム世界について、池上彰さんの「お父さん」のわかりやすい解説を見ていた記憶があります。

平成30年ですから、平成生まれの先頭グループはもうアラサーです。平成の初めのころのニュースやブーム、文化について知らない人もたくさんいます。もうこうやって「平成史」を歴史として書籍で学ぶ世代もいるのです。

『池上彰の世界から見る平成史』挿絵イラスト

「昭和」の本をよく読んだなあ

そういえばあさよるも、古書店なんかで「昭和」を扱う本や雑誌をよく手に取って見ました。多くは平成になってから「昭和という時代」を振り返るもので、戦後から高度経済期へと何冊にもカラーグラビア満載で紹介されている雑誌をよく読んだけど、あれはなんの雑誌だったんだろう(「別冊太陽」かなあ)。家電や万博、新幹線など技術の進歩が紹介されているのが面白かった。

「一区切り」ごとに時代は変わる

昭和はまさに「激動の時代」だったけれども、こうやって「平成史」を一覧してみると平成もなかなかハードな展開だったのだなあ。日本経済・世界経済に翻弄されたり、一気にグローバルな時代が到来し、世界が小さくなった時代でもあります。

どの本に書いてあったのか忘れましたが、10年ごととか、何か区切りのいいところで時代を一まとめにすることで、人は過去を少しずつ俯瞰することができるようになるそうです。そして不思議なもので、その区切りに合わせて世情も変化していくんだそう。西暦なら10年刻み、100年刻みの変化もありますし、日本の元号のように、その国固有の区切りを持っている国もあります。

別にその区切りに合わせて我々は生きているわけではないけれど、のちの時代に振り返ってみると、時代ごとのカラーがあるのかもしれませんね。なるほど、昔の人たちがことあるごとに元号をコロコロと変えていたのも、それなりに理由があったのかもしれません。

これまで時代の波に呑まれるばかりだった時間を、俯瞰できるようになる日が来るのはなんだか不思議。

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『その情報、本当ですか?』|デマ拡散のネットとテレビ、どっち?

こんにちは。あさよるです。毎日ブログを更新する程度には日々ネット漬けで、新聞もあまり読まないし、テレビは全く見なくなって久しいです。しかし災害時や緊急時は、ネットニュースの速報性はとても高いですが「まとまった情報を俯瞰する」ことには向いていないようにも思います。また、SNSを使って情報がシェアされますが、なんとなく有益そうな情報に感じるけれども、出どころ不明の情報だったり、どこかから転載してきたと思しき情報も散見されます。出展元がわからないと、その情報をどこまで信頼していいのか悩みます。また、「以前はこうだった」と過去の経験を語る人も多くいます。もちろん、他人の経験は重要ですが、緊急時にそれぞれの人が直面する問題は全く違っているだろうし、平和で安全な場所でいる人が、過去の思い出話を拡散することが、どれくらい今困っている人の役に立つのかなあと感じます。

ネットの情報は趣味や余暇の楽しみには最適です。が、人の命がかかっているような状況では、やはり新聞社やテレビ局の情報に耳を傾けてしまいます。災害時でも、NHKや政府のTwitterアカウントが拡散されていますね。

デマや誤認などの玉石混交……というか、石ばっかりの情報の中から、有益な「何か」を読み取れるリテラシーの高い人にとってネットはとても使い勝手の良いものでしょうが、圧倒的多数の人にとっては、ネット情報を扱うのは難しすぎるのではないか……と、今回『その情報、本当ですか?』を読んで改めて思いました。

テレビや新聞は「誰かがフィルタリングした情報」であることが大事で、意味のあることなのかもしれません。

テレビニュースのつくり方

『その情報、本当ですか?』の著者・塚田祐之さんは1975年にNHKに入社し、報道番組の企画・取材・制作に携わり、専務理事まで務められた方です。1985年の日航ジャンボ機墜落事故や、1995年の阪神大震災、2004年の新潟中越地震、2011年の東日本大震災と、日本の大災害や大事故もテレビマンとして経験されました。

2011年の東日本大震災では、TwitterをはじめSNSで安否情報や被害情報が拡散され、SNSが注目されました。現代ではアメリカのトランプ大統領も、Twitterを使って直接全世界に向けて生のメッセージを拡散しています。ネット情報は迅速でかつ誰もが発信できることが良い点でもあり、悪い点でもあります。ネットニュースには、フェイクニュースが少なくない量混じっています。「フェイクニュース」とは本書では「事実でない、にせのニュース」全般を指して呼ばれており、発信者の意図は問わず、勘違いや間違いも含みます。

1995年にMicrosoftのWindows95がリリースされた頃から、日本国内の一般家庭にも徐々にインターネットが普及してゆきます。1996年にはYahoo!JAPANが登場し、ヤフーニュースが始まりました。当時は、通信社や新聞社から安い価格で記事を買って配信されていたそうです。そして2003年、ライブドアは新聞社の書いた記事と、ブロガーが書いた記事を同じように並べ、ランキング形式にして表示しました。ブロガーの中にも専門家はいますが、裏付けの薄い記事も閲覧数が多ければランキング入りします。数多くの「ニュースサイト」が登場しました。このころから、テレビや新聞の報道と、ネットの情報のパワーバランスが変わり始めたのかもしれません。

著者の塚田祐之さんは、テレビ報道の現場でどのようにニュースが作られるのかを紹介しながら、ネットニュースとの違いを強調されています。粘り強く取材を重ねたり、実際に現場に赴いたり、時間と手間をかけてニュースが作られているのがわかります。また、冷戦時代、「鉄のカーテン」で仕切られたソ連で大やけどを負った少年を北海道の病院が受け入れた様子を取材したり、北方領土問題をめぐり当時のロシアのエリツィン大統領と中継で結び、元北方領土島民がインタビューをする企画を実現しました。こんな企画はテレビならではで、ネットのニュースサイトでは難しそうな企画です。

視聴率主義とページビュー主義

テレビは放送内容よりも視聴率重視の傾向があるなんて言われます。それは民法だけでなく、NHKも視聴率を気にしているようです。ちなみにNHKで2017年一番視聴率が良かった番組は、朝の連ドラ『わろてんか』だったそうです。

じゃあ、テレビは視聴率主義だから、テレビ番組も視聴率を取れる内容に偏っていて、見る価値ないのか? というと、なんとも言えません。それは、ネットの情報もまた、ページビュー数稼ぎのために書かれた記事が大量にあるからです。ネットの場合、記事に添付された広告の表示回数によって収益が発生したり、または記事に張られたハイパーリンクを辿ってショッピングサイトで買い物されると、売り上げの数パーセントを仲介手数料として受け取れる仕組みなどが存在します。ページビュー数を稼ぐためのネット記事が溢れかえっており、正直、なかなか裏付けのある情報にたどり着けなかったりもします。このページビュー数稼ぎは、テレビの視聴率主義とは比べものにならないくらいでしょう。

テレビの方がより〈マシ〉?

本書『その情報、本当ですか?』を読む限り、ネットの出どころ不明、執筆者不明の記事や情報に比べれば、テレビの情報の方が「マシ」といったところでしょうか。今現在、テレビニュースでもSNSで拡散された情報や写真・映像が報道されることが普通になりました。ネット発の情報ですが、「テレビ局が選んだ情報である」という点で、フィルタリングが一度は成されています。ネット上で拡散される情報から、取捨選択して必要な情報だけを抜き出すには「ネットリテラシー」が必要です。テレビが視聴者の代わりに情報を選んでくれていると考えると、テレビでネット発の情報が取り上げられる意味はあるのかもしれません(あさよる個人的には、報道が素人のスクープをそのまま放送してどうするんだと思ったりもする)。

あさよる家では新聞を取っているので、一応毎日、新聞の一面はザッと読んで、紙面の見出しくらいも目を通します。前日の早朝のニュースなんかだと、すでにネット上でひとしきり話題になった後なので、なんだか遠い昔のことのようで「ああ、このニュース昨日だったのかあ」と驚くこともあります。あさよる的には「速報はネット」「まとまった記事は新聞」って感じなので、テレビを情報源として使うことがほぼなくなりました(;’∀’)>

まあ、「ネットの情報より、テレビの方がまだマシ」というのは、納得します。緊急時、SNSではデマの拡散が毎回取り沙汰されますし、「拡散すべきことと、拡散すべきでないこと」の判断を個人が完璧にし続けるのは難しいから、多くの人にとってテレビ報道は必要なのかもしれません。

“TVer”ってサイトを知った

今回『その情報、本当ですか?』を読んで初めて知ったのは、「TVer」というサイトの存在です。「TVer(ティーバー)」は民放各局のテレビ番組が見れるポータルサイトです。直近一週間分のテレビ放送が見れるそうなので、radikoのテレビ版みたいに考えても良いのでしょうか。さっそく「情熱大陸」を見てみました。

部屋のテレビがもう古くて寿命みたいなので、捨てようか悩んでいましたが、ネットでテレビ番組が見れるならテレビ本体は手放してもよさそうだなあ。あさよるは基本ラジオっ子なので、ラジオがあれば十分だし。

今のテレビを買った経緯も、2011年の東日本大震災の時、単身世帯でテレビを持っておらず、ネットニュースはわけがわからないし、SNSではデマが飛び交い、ラジオだけでは状況が把握できなかったので、「映像の情報は最低限必要かも」と思って、テレビを買いました。しかし、今では緊急時もネットでライブ配信されてるし、マテリアルとしてのテレビはなくてもいいかも。

こんなことを言うと、すごく皮肉を言っているような感じですが、報道が、新聞、ラジオ、テレビ、誌面など、媒体によって区切られていた時代から、現代はみんな同じインターネットという媒体に集約され、テレビ局や新聞社の取材や企画、編集、スクープなど、情報の質や内容によって、他のものと分けられ始めていんじゃないでしょうか。

あさよるも好きなユーチューバーさんの動画を見るのは好きですが、テレビを見るとやっぱりテレビ番組のクオリティはすごいと思うし、ネットニュースよりも新聞記事の方がソースとして良いと感じます。今はメディアが再編成される過渡期なのかなあなんて思いました。

「テレビだから信じる」から「テレビ局が取材して裏取りをした情報だから、ネットニュースより信頼できる」へと、利用者の意識が上がってゆくことが、本書『その情報、本当ですか?』で著者が読者へ求めていることだと思います。

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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』|都会で大冒険!カネなし生活

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。先日読んでブログでも紹介した『0円で生きる』が面白くて、ゴールデンウィークに「家財道具を売ってみよう」とメルカリに出品してみました。『0円で生きる』で紹介されていた「ジモティー」も利用したいのですが、荷物の運搬手段がないので、これから考えよう。

これまで物の譲渡って、役所とか公民館の「あげます・ください」の掲示板を見たり、フリーマーケットに出品するとか面倒くさかったけど、ネットサービスが充実することで、誰もが気軽に安価or無料でやりとりができてとても便利です。「テクノロジーは社会を変えるんだなあ」なんて、大げさなことを考えてみたり。

今回手に取った『ぼくはお金を使わずに生きることにした』も、イギリス人の男性がロンドン郊外で1年間、一切のお金を使わず生活をするチャレンジをした記録です。彼がチャレンジを決行したのは2008年の年末のこと。2008年はリーマンショックがあった年です。さらに3.11以降のわたしたちにとって、彼のチャレンジは当時と違った意味を感じるかもしれません。

現代の冒険譚・お金を使わない

著者のマーク・ボイルさんは現代の冒険家です。かつて「冒険」とは、大海原へ漕ぎ出だしたり、未踏峰を踏破したり、誰も行ったことのない場所へ踏み込むことでした。現在では都市部の郊外で「1年間一切お金を使わない」というチャレンジが、誰もやったことのない大冒険なのです。現にマーク・ボイルさんは、1年間お金を使わない構想を発表してから、世界中のメディアから数多くの取材を受けます。

テクノロジーを否定しなくていい

マーク・ボイルさんのチャレンジの特徴は、まずロンドンの郊外で行われること。お金の一切は使わないけど、友人たちを頼るし、社会のインフラも使います。また、基本的にはテクノロジーの否定はしていません。

1年間お金を使わない計画に際し、マーク・ボイルさんはルールを自分で設けています。まず、石油燃料は〈自分のために〉使わないこと。電気は自分で発電しますが、誰かから「どうぞ」と差し出される分には使用してもいいこと。つまり、わざわざ〈自分のために〉石油・ガソリンや電気は使いませんが、他の人が使っているものを分けてもらうのはOKということ。例を挙げると、「自分のために車を出してもらう」はNGですが、ヒッチハイクで「元々あっち方面へ向かう車の助手席」を分けてもらうのはOK。

この辺が「世捨て人」的な感じではないところ。なにより交友関係はとことん使います。「ロンドンの郊外」ですから、落ちているモノ、捨てられているモノを手に入れやすい環境にもあります。

マーク・ボイルさんはお金と石油燃料を自分のために使うことを避けていますが、それ以外のテクノロジーやコミュニティーは特段否定していません。

菜食主義で健康に

お金を使わない生活をすると、納税しないことになります。だからマーク・ボイルさんは1年間、病気をしないように健康に気をつけるのですが、ビーガンになることで、かつての不調がウソのように改善した様子を綴っておられます。菜食主義の人がよく「肉や乳製品をやめると体調が良くなった」と仰ってるのを目にしますが、実際のところどうなんでしょう。

また、肉食をやめたことで、体臭に変化があったそうです。お風呂も洗濯機もありませんから、衛生状態と〈清潔感〉をどうキープするのか周囲の人も気にしているようです。「ボディソープを使わなくても体はきれいになる」と説明しても、信じてくれない様子。

これについては以前、あさよるネットでも『「お湯だけ洗い」であなたの肌がよみがえる!』で紹介しました。有機物は水溶性で水に溶けて流れます。だから「水浴びだけでも清潔」は、そうなんでしょう。

Wifi完備でネット環境

マーク・ボイルさんはネットで住処の提供を求めたところ、なんとキャンピングカーの提供を申し出る人が表れました。また、そのキャンピングカーを停める場所も、ボランティアを引き受けることで場所を貸してもらえました。そこはWifiもつながっていて、マーク・ボイルさんは自家発電をしてネットに接続し情報発信を行います。プリペイドカード式の携帯電話を所持しているので、電話を受けることもできます。世界中のメディアからの取材も、電話を貸してもらって受けています。

「現在の冒険譚」と紹介したのは、現代のネットワーク環境を活用しているからです。『アルプスの少女ハイジ』の〈オンジ〉のように、コミュニティーに属せず、人々から隔絶された地で生きるのとは正反対です。積極的にコミュニティーを持ち、情報を発信し、人とつながりながら「お金を使わない」から、冒険なのです。

お金はすごく便利だ!

本書『ぼくはお金を使わずに生きることにした』は、著者のマーク・ボイルさんの体当たりレポにより「お金」の価値について問い直されます。本書を読んでつくづく思うのは「お金はとても便利なものだ!」ということです。マーク・ボイルさんご自身も、「お金が少ないのと、お金を全く使わないのは、全然違う」と書いておられます。

本書が面白いのは、別に貨幣経済を否定してるワケでもないところ。ただし「お金の価値しかない社会」はどうなの? という問いかけになっていますし、また「お金を使わない生き方を選ぶ自由がある」という至極当たり前のことを体現した記録でもあります。

マーク・ボイルさんの結論として、「お金のない世界で暮らしたい」と理想をあげながらも、現実的には「地域通貨」への切り替えが落としどころとして提示しておられます。小さな町や村のコミュニティーの中で、スキルや物を提供したりもらったりして、交換する価値としての「地域通貨」です。

お金で買っているのは「時間」

カネなし生活で、足りなくなるのは「時間」だと言います。朝起きて、水を確保しないといけませんし、ネットにつなぐための電気を発電し、どこへ行くにも何十キロと自転車を飛ばさねばなりません。ボールペン一本、安いお金を出せばに入る物ですら、ボールペンが落ちていないか探さねばならないのです。

お金を使うことで、一瞬でほしいモノが手に入るのですから、最強の「時短」アイテムなんですね。

カネなし生活には「お金以外の力」が必要

お金は便利だと紹介したのは、カネさえあれば、他に何もなくても欲しいものが手に入るからです。お金がない生活とは、人とのつながりが重要で、自分を助けてくれる人、自分を気にかけてくれる人の存在が重要です。幸いにもマーク・ボイルさんは、彼のチャレンジに協力してくれる友人や恋人がいて、また世界中のマスコミが取り上げ多くの人が彼に注目していました(もちろん賛否アリ)。またマーク・ボイルさんは健康で若い男性であり、彼の思想や信仰も、お金を使わない計画を後押ししたでしょう。いくつもの要素が絡まり合って、成立したチャレンジだと考えることもできます。

〈お金〉と〈幸福〉は別のもの

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』挿絵イラスト

以下、あさよるの勝手な感想。

「カネなし生活を成立させるためには前提条件が必要だ」と言いましたが、たぶんマーク・ボイルさんと近いことをしている人は今の日本にもたくさんいると思います。別に強い信念があるわけでもなく、「知人の家に転がり込んで」とか「友だちに助けてもらって」生きてる人もいるだろうし、しかも全員が「お金がない=不幸」とは限らず、楽しく愉快にやってる人もいるでしょう。

選択肢として「カネなし生活」を選ぶ人がいてもいいし、またそれを選ぶ人もいて、それで成立する社会の方がいい社会だろうと思います。

貧乏暇なし

カネなし生活では、時間がとても貴重なのものであると認識できます。お金は一瞬にして取引を成立させる「究極の〈時短〉アイテム」なんですね。すなわち「お金がない」とは「時間がない」ことだと考えられ、これは「貧乏暇なし」という日本のことわざとも合致しています。

自己啓発本の類を読んでいても、世界で活躍する優秀なビジネスマンほど、超多忙であるにも関わらず、余暇や家族との時間をたっぷりと過ごしていると紹介されています。それはタイムマネジメントが優秀である上に「お金の使いどころ」を心得てるのかもしれません。

仮想通貨ってどうなの?

本書では折衷案として「地域通貨」の可能性が提示されていますが、今となれば「こんなときのための仮想通貨だろう」と。マーク・ボイルさんがカネなし生活にチャレンジしたのが2008年年末~2009年の1年間で、ビットコインは2008年に発表された論文に基づき、2009年に運用開始されました。

世界は、現行の通貨ではない「新しい価値」を模索していて、マーク・ボイルさんのチャレンジもそれに当たるのではないのかしら。今までの、国が発行する通貨ではない〈何か〉が必要なんじゃないかしら。

ムダなお金、ムダな出費が多すぎる!

本書『ぼくはあお金を使わずに生きることにした』を読むと「お金の便利さ」もよくわかりますが、同時に「お金の量と充実感は比例しない」こともよくわかります。マーク・ボイルさんはカネなしで、忙しく働いていますが、別に不幸せではありません。

電車の中ではほぼ全ての人がスマホ画面をのぞき込んでいます。しかしスマホで仕事や意味のある作業をしている人は少数で、多くの人は〈暇つぶし〉をしているんじゃないかと思います。暇つぶしのためにスマホを買って、使用料を毎月払って、暇つぶしのアプリやゲームにお金を使っているんじゃないでしょうか。ちなみに、スマホって超ハイテクな機械ですからね。最先端のハイテク機械を使ってやってることは〈暇つぶし〉ってなかなかシュールだな。

んで、それって、どんだけお金があったとしても、やってることは〈暇つぶし〉だから、いくらお金と時間をつぎ込んでも充実感が得られないんじゃないだろうかと思います。

単に「お金を節約する」だけじゃなくって、「何にお金を使うか」「何に時間を使うか」を改めて考え直した方がいいのかもしれません。優先順位は人によってそれぞれ違っているでしょう。

時間もお金も限りがあって、エネルギーにも限りがあって、大事なのは「どんな配分でそれを使うか」なのかもな、なんて思います。

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『注文をまちがえる料理店』|認知症介護とテレビマンが出会ったら

『注文をまちがえる料理店』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。『注文をまちがえる料理店』というタイトルを見たときから本書がずっと気になっていました。どうやら、注文をまちがえてしまう……認知症の人の支援施設がレストランをやっているらしい……というあやふやな情報だけで本書を手に取りました。

まず、「注文をまちがえる料理店」を実際にオープンした感想を、スタッフやお客さんが寄せています。認知症の患者さんたちは、料理店のことは忘れてしまっているらしいけれども、「働いてお金を稼いだ」という経験を嬉しがって、一人でお買い物に繰り出す人の話にとても感動しました。また、ピアノの先生だった奥様が認知症を患い、介護をしているご主人と二人でコンサートを開催した話も胸がいっぱいになりました。間違えながらも、最後まで演奏しきった様子に、多くの方も感動されたそうです。

著者であり「注文をまちがえる料理店」の仕掛け人の小国士朗さんはテレビ局で務めておられる方で、協賛やスポンサーを募り、企画を実現してゆく人の大切さも知りました。

認知症だけど働けるレストラン

「注文をまちがえる料理店」は、2017年6月3日、4日の2日間限定で都内にオープンしたレストランです。認知症患者がスタッフとして働き、接客をして料理を出します。だから、メニューを間違えることもあるし、間違った料理が出されることもありますが、それも「ご愛嬌」というコンセプトで、試験的に実施なされました。

本書『注文をまちがえる料理店』は、注文をまちがえる料理店がプレオープンに至った経緯と、オープンに関わったスタッフやお客の感想からなっています。

著者の小国士朗さんはテレビ局のディレクターの方です。テレビ番組の取材で、認知症患者のグループホームを取材した際、昼食をごちそうになった時、献立はハンバーグだと聞いていたのに餃子が出てきたときの〈違和感〉から話が始まります。最初は予定と違うメニューに戸惑ったけれども、「別に餃子でもいいじゃん」と思い至った経験からスタートします。思えば、別に違ったメニューが出てきても誰も何も困らないんです。

小国さんご自身が病気をし、働き方に変化があったことをきっかけに、「注文をまちがえる料理店」の構想を実現に至りました。実際にお店として出店するためには、いくつか問題があります。まず、グループホームの患者さんたちが、無理せず働けること。そして、お金を取って料理を提供する以上、おいしい料理であること。また、間違ったメニューでも食べてもらえるように、アレルギー食品にも気を遣います。食品会社の協力で実現しました。

本書の中盤は、注文をまちがえる料理店に関わった人たちの感想が寄せられています。もう注文をまちがえる料理店で働いたことも忘れちゃっている人も多いみたいですが、「働いて稼いだお金」で、買い物に繰り出す様子が紹介されていたりして、胸がいっぱいになりました。

そういえば「別に間違ってもいいじゃん」

『注文をまちがえる料理店』挿絵イラスト

本書『注文をまちがえる料理店』を読んで大きな気づきは「別にメニュー間違ってもいいじゃん」ってことでしょう。むしろ、我々は普段、なんでこんなにピリピリと神経質になってるんだろう? と疑問にさえ思いました。別にそれは相手が認知症患者じゃなくても、誰でも間違うことはあるし「そういうこともあるよね」ってだけの話なのかもしれません。

しかし、あさよるが以前コンビニのバイトを始めたとき、一番最初に教えられたのは「お腹が空いているときみんなイライラしているから、食べ物を間違えないように」というものでした。普段は温和な人も、お腹が空いてコンビニにお弁当を買いに来たのに、そこで不手際があるとブチギレられる、というもの。うん、わかるw 難しいですね。冷静に考えると「そんなに怒ることじゃない」と思うのに、いざ自分がお腹が減って食事を摂ろうとしたとき、それが阻害されると、めっちゃ腹が立つと思います(苦笑)。

その点、「注文をまちがえる料理店」は最初からコンセプトが提示されているから、そんなトラブルは少ないでしょう。だけど、忘れちゃいけないのは、認知症患者の方も「間違えるのはツライ」ということです。間違えちゃうんだけど、間違うのは誰だってツライ。

大勢を「巻き込める人」が介護の現場に来たら……

介護の現場に、テレビ局が持っている繋がりが入ってきたとき、実現したのが「注文をまちがえる料理店」です。本書のキモは、たくさんの人や企業を「巻き込める力のある人」が現場にやってきたことで、「注文をまちがえる料理店」というアイデアが実際に形になったことです。外国のマスコミでも取り上げられ、大変話題にもなりました。

著者の小国士朗さんはご自身のミッションを「テレビ局の持っている価値をしゃぶりつくして、社会に還元する」としているそうです。テレビだからすごいのではなく、テレビ局はいろんな分野の企業や人と繋がりを持っていて、その繋がりこそ必要なんですね。

企画を立てて人を動かす人が必要

アイデアやヤル気があっても、大勢を巻き込めないと大きなアクションを起こせません。介護の現場には、介護のエキスパートが配置されているのはもちろんですが、企画を立て、協力者・協賛者を募り、人やお金、知識や技術を提供してもらえる人が必要です。それは介護に求められるスキルとは、また違ったスキルを持った人でしょう。

あさよるも昔、ちょこっとイベント企画の仕事をやってたのですが、当時は自分のやっていることがよくわかっていませんでした。今回、『注文をまちがえる料理店』を読んで、自分がすべきだったのは、このようなマッチングだったんだなあと、今頃知りました。

おもしろいアイデアが浮かんだら、それだけじゃ足りない。必要な人と人を結びつける役割の人の重要さを『注文をまちがえる料理店』で知りました。

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『ジョン・C・マクスウェル式 感情で人を動かす』|誰でもカリスマリーダーになれる

『ジョン・C・マクスウェル式 感情で人を動かす』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。あさよるは他人との距離感を測るのが苦手で、必要以上に距離を取ってしまうことがあります。「近づきすぎてしまうのではないか」という恐れが先立って、踏み込めないのです。その結果、良い関係を結べないこともあります。

本書『感情で人を動かす』は、リーダーシップを身につけるための方法が紹介されています。「リーダーシップ」も「カリスマ」も、後天的に身につけることができる要素だそうです。そして、「誰もが自分の人生のリーダーだ」という言葉が気に入りました。

リーダーシップは、全ての人が持っていても良い能力なのです。

リーダーとはどうあるべきか

本書『感情で人を動かす』はアメリカのリーダーシップ論の権威ジョン・C・マクスウェルから著者の豊福公平さんが直接学んだことが紹介されています。「リーダーシップなんて自分に関係ない」と考える人ほど、本書を読んでみてください。それは、誰もが自分が、自分の人生のリーダーだから。リーダーシップは誰もが持っていても良い能力です。

リーダーは「感情」を操る

リーダーとは、社員を道具扱いせず、感情のある人間として扱います。感情によって人を動かします。

著者の豊福公平さんは外資系大手保険会社に入社前、消防士でした。消防士は命がけの仕事ですから、チームリーダーの指示は絶対です。些細なことまで注意され、厳しい指導を受けますが、家族のような信頼関係で結びつけられていました。しかし外資系に入社すると「成果を出せなかったら去らなければならない」やり方に戸惑ったといいます。リーダーシップやマネジメントにはさまざまな形があると学びながらも、「レスキュー隊型のリーダーシップを目指したい」と意思をはっきりと持ちます。

 成果、数字のみに着目するのではなく、人の「感情」を重視したリーダーシップ。それがマクスウェル式リーダーシップなのです(p.37)

まず、マクスウェルのいう原則に従い、

「相手を動かしたいなら、まず自分から動く」(p.39)

ことから始めました。

リーダーに必要な3つのC

『ジョン・C・マクスウェル式 感情で人を動かす』挿絵イラスト

 マクスウェルは、リーダーには「3つのC」が必要だといいます。
・competence(能力)
・connection(人脈)
・character(人格)
この3つの要素によって、リーダーはチームメンバーから信頼される、というのです。

(p.42)

みなさんにも既に持っている要素、まだ持っていない要素があるでしょう。

また、「ほめることは大事」と言われますが、マクスウェルによるとほめるよりも「激励」する、励ましてくれるリーダーに人はついて行くといいます。

「ほめる」とは、相手の良い点を指摘すること。そう、これも大切です。
それに対して「激励」は、いってみれば「相手の将来に希望を持たせる」ということです。(p.48)

「成長してもらいたい」という要素を伝えましょう。

よい質問をする

また、リーダーは積極的に相手の話を聞きます。人の話を聞くとは、人の頭の中を覗くことです。メンバーの気持ちを覗きましょう。メンバーの話を聞く面談を持ち、彼らのアイデンティティを知ります。それそがメンバーにとって最も大事な価値であるからです。

カリスマはつくれる

マクスウェルによると「カリスマ」と呼ばれる「人を引きつける力」は開発可能だといいます。まずは自分の人生を愛すこと。そして他人の人生も愛します。

「人の上に立つ人間は、自分の智慧や資源、機会を分かち合う」
このマクスウィルの教えにより、社内で頻繁に研修をおこなっています。
私が読んだ本、受講したセミナー、出会った人から受けた影響を、週1回の勉強会でメンバーにフィードバックするのです。
「自分を分かち合う」

(p.80)

自分の持っている知識や資源、機会はメンバーのものとし、メンバーに期待しましょう。

またリーダーには品性が必要です。「こんなリーダーは嫌だな」と思われるようなダサイのはやめましょう。衣服や持ち物まで気を配るのです。「人は見た目じゃない」と考える人は、こう考えを変えてみると分かります。「リーダーは相手=メンバーのもの」なのです。だから、メンバーのために、恥ずかしくない品性を身につけましょう。

カリスマの阻害要因

同時にカリスマを阻害するものも紹介されています。

①「プライド」
②「不安」
③「不機嫌さ」
④「完璧主義」
⑤「嘆き」

p.101

「プライド」とは優越感です。自分は他の人よりも上だと優越感に浸っている人に誰もついていきません。「不安」を持つリーダーは周囲をも不安にします。「不機嫌」なリーダーはとっつきにくい人になります。「完璧主義」は自他ともに認められないため、全体のモチベーションを下げます。「嘆き」はマイナス思考で、マイナス思考の人には近づきたくないと思われます。

自分が「カリスマ」でいることも、メンバーの「チームの目標達成のため」であることを忘れてはなりません。

「影響力」を身につける

カリスマのリーダーには影響力が備わっています。影響力とは「自信」と「ビジョン」です。また、マイナス要素を持ち込む人間はチームから遠ざけないといけません。愚痴をこぼすメンバーがいた場合、呼び出しをし個人面談を行うそうです。その際「改善案を持ってくること」が条件です。

そして小さな成功体験を積み上げてゆきます。

ときにリーダーは批判にさらされます。

 マクスウェルは、批判に対して次の10の視点を持つことを提言しています。
①「いい批判」と「中傷」を見分ける
② 深刻に受け止め過ぎない
③ 尊敬する人の批判にはじっくり耳を傾ける
④ 感情的にならない
⑤ 志を確認
⑥「休む時間」を取る
⑦「一人の批判」を「全体の意見」と勘違いしない
⑧ 時が解決してくれることを待つ
⑨ 同じ土俵で戦わない
⑩ 批判や失敗から学ぶ

(p.141-142)

いい批判と中傷を見分け、感情的にならず批判に耳を傾けましょう。マクスウェルはこれを、

「善を成そうとする人々は必ず批判にさらされる。逆に何の批判もないようなら、問題があると思った方がいい」(p.143)

と明言しています。批判を必要以上に怖れなくても良いんですね。

リーダーシップは誰もが身につけられる

本書『感情で人を動かす』では、リーダシップやカリスマ性は、生まれ持った素質ではなく、誰もが後天的に見に着くものだという前提で語られています。はてさて、しかしチームから支持され、感情によってチームを動かしてゆくリーダーに、自分はなれるのか? と考えると、途方もなくも思えますね(;’∀’)

ただし、一つ一つの要素をじっくりと見てゆくと「人の話を聞く」「人を励ます」「人を信じる」「自分の人生を愛す」「人の人生を愛す」など、素朴で実直な人物像であることがわかります。すべてを一度に行うのは難しいだろうけれど、一つずつなら「できるかも」と思えます。

あさよる的には「優越感に浸らない」「批判を恐れない」という二つの点を、自分にまずは取り入れたいと思いました。すぐに調子に乗っちゃうし、なのに人の目を気にしてビビってるからね(;’∀’)(;’∀’)

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