荒俣宏

『図説 百鬼夜行絵巻をよむ』|魑魅魍魎になる付喪神たち

『図説 百鬼夜行絵巻をよむ』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。いつもブログで紹介する本とは別に、ブログで紹介する気のない本も読んでいますw 斜め読みしかしなかったり、パラパラと内容をザックリ確認するだけで終わる読書もあるからです。今回読んだ『百鬼夜行絵巻をよむ』も、絵巻物のカラー写真が豊富で、絵を楽しむためだけのつもりでしたが、読み始めるとこれがとても面白い。「百鬼夜行絵巻」は日本美術史界ではあまり研究されていないようです。また「付喪神」についてほとんどのページが割かれているのですが、「付喪神」という存在も美術史界ではまだ研究する人は少ないっぽいですね。

あさよるも「百鬼夜行絵巻」を何度か見たことがあります。ちょっとイロモノ的な感じで、「妖怪」や「幽霊画」なんかが集められる展示会、ちょこちょこあるのでチェックしております。

例えば、あさよるが足を運んだ特別展はこんな感じ↓(いずれも会期終了)

「百鬼夜行絵巻」と付喪神

「百鬼夜行絵巻」と一まとめにされている絵巻をよく見ると、描かれているものが全然違っている、という指摘から本書『百鬼夜行絵巻をよむ』は始まります。これまで「百鬼夜行絵巻」は美術的価値は語られてきましたが、「なぜ百鬼夜行絵巻は生まれたのか」「百鬼夜行とは何か」を美術史家たちは語ってこなかったといいます。

現存している百鬼夜行絵巻では「百鬼夜行」と言いながら、付喪神たちの行列が描かれているものと、付喪神は登場せず動植物が描かれるもの。河童や入道など妖怪が描かれているものなど、絵巻が描かれた時代によって「百鬼夜行」の様子が違うのです。

平安時代では「百鬼夜行にもし出くわすと死んでしまう!」というとても恐ろしいものでした。しかし、室町時代に描かれた「百鬼夜行絵巻」では、付喪神が描かれ、しかも彼らはどこかユニークで恐ろしさは感じません。室町時代には、あんなに恐れられていた百鬼夜行が目に見える「物」として描かれています。それはもう、闇の中に潜む魑魅魍魎、怪異としてではなく「どうせ古道具じゃん」という一種、冷めた目線なんですね。

さらに江戸時代になると、「妖怪」が描かれ始め、百鬼夜行のバリエーションが増してゆきます。

これらの「百鬼夜行絵巻」の変遷と、これまでに描かれた「百鬼夜行絵巻」、そして付喪神という存在について解説されるのが本書『百鬼夜行絵巻をよむ』です。

『付喪神記』

あさよるが本書で初めて読んだのが『付喪神記』(現代語訳)でした。

『付喪神記』によると、道具が百年たつと魂を得て、人の心をたぶらかします。だから人々は節分のたびに物を捨てるのです。あるとき、捨てられた道具たちが集まって「これまで道具として働いたのに路上に捨てられて恨めしい。化け物になって仇を取ろう」と相談します。魑魅魍魎や孤老や人の姿になった化け物は、恐ろしい有様となり、都の北西の船岡山の後ろに暮らし始めます。そして、京・白川へ出ては人の肉や、牛馬の肉を食らいました。そして化け物たちは「この国はは神国だから、神を崇め祭礼をすれば子孫繁栄するだろう」と山の中に社を建て、神輿をつくり、真夜中に祭礼行列は一条通を行きます。

そのとき関白が通りかかり、化け物たちの祭礼行列を睨みつけ、関白が身に着けたお守りが燃え上がり化け物たちを退治します。その話を聞いた天皇が、真言密教の僧に祈祷を頼み、護法童子が化け物たちのところへ行き「仏門に入るなら命だけは助けやる」と話をつけました。そののち、化け物たちは剃髪して出家し、みなバラバラに散り、それぞれ修業をつんで、みんな成仏をします。

最後は「道路や屋敷には鬼神がいて、この鬼神が古道具に憑いて悪事をさせたのだろう。道具が自発的に化けることはないだろう。命あるものもなものも「阿字(書物の根源)」を持っているが、どうして古道具だけが鬼神の力で化けるのだろうか。それを深く知りたければ、密教の道へ入るように」とくくられます。

『付喪神記』の前半は古道具たちが付喪神となり京で悪さをする話で、後半は仏門に入り修行をし成仏をするまでお話。読み物として面白いのは前半ですね。そして「百鬼夜行絵巻」で描かれている、付喪神記たちの更新は、物語前半の祭礼行列であることもわかります。

「百鬼夜行絵巻」は当初、この『付喪神記』のストーリーが描かれていましたが、いつからか物語が抜け落ち、絵巻だけが伝承されたのではないかと推測されていました。

付喪神は今もいるのかしら

以下、あさよるの雑談です。

「付喪神」について「日本人は物にも神様が宿ると考えられていたんだ」という話をしますが、あさよる的には「そう考えられていた」という〈思想〉や〈考え〉とするのが現代的な解釈で、昔の人にとって「付喪神は〈いた〉」んじゃないのかなぁなんて思います。で、一体どんな状態に「付喪神」を見出したのかなぁと想像したりします。

あと、本書『百鬼夜行絵巻をよむ』でもたくさんのカラー資料が掲載されているのですが、付喪神とそれ以外の化け物と、なにがどうちがうのでしょうか。鳥獣戯画に出てくるような人のように二本足で歩く動物もいるし、そもそも「妖怪」ってのもなんだっけ? (と、また調べてみます……)

付喪神たちは、夜になると集まり行列を作り、朝になると元のモノの姿に戻ります。「物が勝手に動く」というと、『くるみ割り人形』や『オズの魔法使い』『ピノキオ』もそうですね。『トイストーリー』の世界を、一度は想像したことがある人は少なくないでしょう。おもちゃたちが人知れず動き回っている……恐ろしいような、そうであってほしいような空想です。「物が意志を持って動く」というイメージは日本だけのお話でもないようです。だけど、先に上げたおとぎ話と付喪神はなんかちょっと違う気もします。付喪神は、作り話の中のキャラクターというよりは、ネコやカエルのように、その辺りに実態を持って潜んでいるような感じがします。

「百年経つと人を惑わす」……わかりみ!

『図説 百鬼夜行絵巻をよむ』挿絵イラスト

先に紹介した『付喪神記』では「道具がが百年を経る化けて魂を得、人の心をたぶらかす」と書かれていました。これ、わかる! ……と思いません? 当あさよるネットでは、これまで「片づけ本」を数々紹介してきましたが、片づかない理由は「道具に心をたぶらかされてるんじゃね?」と思い至りましたw

人間の意志によって「物」をどうすることもできなくなって、ただただ人の生活が物に占領され、圧迫され、呑み込まれ「物に支配されてしまう」のはこれ、「物に心をたぶらかされている」!?

『付喪神記』では、だから人々は節分に物をあえて捨ててしまうんだと書かれています。うむ、わかる。それは大事なことかもしれない。今でも年末に大掃除する習慣がありますね。

物を粗末にするのはイカンけれども、だからといって物に支配されてしまうのもこれまた違う。付喪神は我が家にもすでに住んでいるのかもしれない。

百鬼夜行・付喪神といえば!

あさよる的に百鬼夜行、付喪神といえば、夢枕獏さんの『陰陽師』が大好きです。『陰陽師』の主人公・安倍晴明は幼いころ、師匠の賀茂忠行と夜道を行くとき百鬼夜行に出会い、師匠に知らせます。この件がきっかけで、賀茂忠行は清明の才能を見抜き、陰陽道のすべてを教え込みます。

この百鬼夜行の様子がたまらないのは、マンガ版の『陰陽師』の第一巻です。岡野玲子さんによる、菅原道真公と魑魅魍魎、付喪神たちが恐ろしくもキュートなんですよね~。

マンガ版『陰陽師』は夢枕獏さんの原作のコミカライズ版なのですが、巻を追うにつれどんどん岡野玲子ワールドに展開してゆき、後半はまったくのオリジナルの世界観になっています。あさよるは岡野玲子さんの『陰陽師』も好きです(^^♪

んで、あさよるネットも『陰陽師のすべて』という、夢枕獏さんの「陰陽師シリーズ」と、そこから派生したメディアミックス作品、また現代の「陰陽師モノ」「安倍晴明モノ」を総括し紹介するムック本を紹介しました(現在では文庫化、kindle化もされています)。

この『陰陽師のすべて』の中で、夢枕獏さん、荒俣宏さん、岡野玲子さんが鼎談なさっています。現在一つのジャンルとして確立されている「陰陽道」「安倍晴明」のルーツとして、80年代にヒットした荒俣宏さんの『帝都物語』の存在について語らっているのです。

そこで、あさよるも『帝都物語』を読みまして、世界観にどっぷり浸かっておりました。『帝都物語』では、「加藤」と名乗る詰め襟軍服姿の陰陽師がトリッキーな役どころで登場します。バトルがたまらんのですよね~。

と、今回『百鬼夜行絵巻をよむ』を読んで、「そういや椎名林檎の『神様、仏様』のMVも百鬼夜行がモチーフだったなぁ」とYouTubeで再生していると……加藤ぉっ!!ww

(↑1分3秒から再生します)

百鬼夜行=陰陽師=帝都物語=詰め襟・軍服 なんだ!と妙にうれしいw ちなみにこの方、どなたなのでしょう。トランペットの村田陽一さんなのかなぁ~。それにしても林檎ちゃんカッコいいやね。

(↑このジャケット、合成じゃなくって写真なんだって、ゴイスー)

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『死ぬほど読書』|読書はしないといけないの?

こんにちは。いつの間にか読書ブログをはじめていた あさよるです。当初はもっと雑多な話題を扱おうと思ってたのですが、すっかり本の話題のみにw ということで、やはり「本」や「読書」を扱う本が気になります。読書ブログが読書本の感想を書くという、ややこしい入れ子構造でございます。

本書『死ぬまで読書』の著者は元伊藤忠商事社長の丹羽宇一郎さんが、朝日新聞の投書に寄せられた読書に関する大学生の声に答えます。

なんのために本を読むの?

本書はこんな問いから始まります。

「読書はしないといけないの?」

これは、2017年3月8日の朝日新聞に掲載された大学生の投書です。大学生の読書時間が減っているという話題を受けて、読書が教養や新しい価値観に触れるなどの有用性を認めながらも、「だからと言って本を読まないのは良くないと言えるのかどうか」と問いかけけています。曰く、投稿者は読書習慣がなかったけれども大学受験で苦労したくらいで、大学生になってからは一般教養として書籍を読んでいるが、「糧になる」とは感じないそうです。それよりも、バイトや大学の勉強の方が大事だし、読書は趣味の範囲だろうと考えています。

本書『死ぬほど読書』は、この大学生の問へのアンサーです。なぜ本を読むのでしょうか。序章である「はじめに」にて、本を読む意味が端的に示されています。

 人は自由という価値観を求めて、長い間、闘ってきました。努力し、工夫し、発明して進歩してきた果てに、いまの自由な社会はあります。
それは人類史上、かつてないほど自由度の高い環境といっていいかもしれません。
しかし、「何でもあり」の世界は一見自由なようですが、自分の軸がなければ、じつはとても不自由です。それは前へ進むための羅針盤や地図がないのと同じだからです。それらがなければ、限られた狭いなかでしか動けません。
では、自分の軸を持つにはどうすればいいか?
それには本当の「知」を鍛えるしかありません。読書はそんな力を、この上もなくもたらしてくれるはずです。
すなわち、読書はあなたをまがいものではない、真に自由な世界へと導いてくれるものなのです。

p.7

本書でも、不要だと思うなら読まなくていいんじゃないと言いながらも、読書の楽しみや面白さを知ってしまうとやめられないと、読書がもたらす効用について広がってゆくのです。

読書好きなら語りたくなる!

この「読書はしないといけないの?」という問いに、みなさんはなんと答えますか? まずなにから話始めましょうか。本書では、まずは情報が溢れかえった現在、情報の取捨選択を自らがしなければなりません。事実として玉石混淆の中から、自分が必要な情報を探し出す能力が求められています。そのために兎に角も必要なのは「知識」であり、それを手っ取り早く身に着けられるのは「読書」です。

先の朝日新聞投稿欄の大学生は、自身の学業や将来の職業に必要な知識だけを身に着けようとしているんです。しかし、実際には毎日届くメールや、ヒットしたキュレーションサイトの記事や、SNSで飛び交う情報に私たちは晒されていて、怒涛の情報を一気に処理し続けねばなりません。「職業に必要な知識だけ」では足りないのです。

また、読書論は死生観にまで及びます。どう生きて、いずれ訪れる死とどう向き合うのか。必ず訪れるその瞬間を考えるとき、先人たちが残した記録に触れることができるのです。

読書好きなら語りたくなる!

本書『死ぬほど読書』では、読書の有用性をとことん説きまくる戦法で、読書の必要を主張します。さて、みなさんならどんな切り口で「読書はしないといけないの?」という質問に答えますか?

「読まなくてもいいよ」というのも答えの一つです。読書が必要だと感じた時があれば、その時に本を読めばいいのです。あるいは、「好奇心を満たすため」の欲望渦巻く読書の世界を紹介したい人もいるでしょう。いいや、もっと内省的で自分よがりな読書があってもいいはずです。逆に、表現のための読書もあるだろうし、見栄やカッコつけの読書だって悪くはありません。

読書好きが集まると、読書談義になることがありますが、あれ、盛り上がるんですよね。メンバーによっては終始お互いに納得しまくりなこともあれば、自分と違う読書論を展開する人に感嘆したり、ヒートアップしちゃったりと、なかなか楽しい。本書もそんな、読書好きの心をくすぐる内容です。

読書家へ読書家のメッセージ

本書『死ぬほど読書』は、既に読書習慣があり、まとまった冊数を常に読んでいる人に向けて、読書家が読書論を展開する内容です。残念ながら、冒頭の「読書はしないといけないの?」と考えている人には届かない類の本であると思います。さらに、内輪で盛り上がるだでなく、読書の良さを知っている人は、やはり読書習慣の必要性を広めるべきなのでしょうか。

本書は単に、読書習慣のある人が、そうでない人へのマウンティングのための道具になってはいけません。冒頭の大学生の意見に耳を傾け考える必要があります。なぜなら、「考える」ための道具としての読書でもあるのですから。

てっきり読み始めは、軽く「イマドキのワカモノ」をディスりつつ「やっぱり昔ながらの読書よね~」なんて話になるのかと思いきや、結構「読書の効果」を考えさせられます。そして、「はたして自分は読書の効果を得ているのだろうか?」と不安にさえなりました。

関連本

『読書力』/齋藤孝

『王様の勉強法』/荒俣宏,中谷彰宏

『ちっちゃな科学』/かこさとし,福岡伸一

『読書をお金に換える技術』/千田琢哉

『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?』

『キミが勉強する理由』/藤原和博

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『バカにならない読書術』|本を読まない!身体を使え!

こんにちは。自分のインプット方法に不安を感じるあさよるです。

今、ブログもあるし、インプットがほとんど読書に偏っています。んで、最近はずっと「自分の知識には偏りがありすぎるのでは…」「圧倒的に“物語”がインストールされていない…」と感じます(-_-;)

本を読む、インプットするってことを考えたいなぁと思い、読書術に関する本を続けて読んでいます。

『本を読む人だけが手にするもの』|本を読む理由は……

『王様の勉強法』を読んだよ

読書と遊びと学習のはなし

養老孟司さんの読書術、初っ端から「本ばっかり読んでちゃダメ!」って話から始まります。

本からの情報って、とっても局所的な情報なんですね。人間は、体全身を使って情報を処理します。

いえ、人間だけではありませんね。あらゆる動物は体全身を使って“感じて”います。

部屋の中で、じっと座って読書をしていても、身体的な学習がなされないんですね。

二宮尊徳の像は、薪を背負って本を読んでいます。

あれこそが「学習」であると触れられています。彼は薪を背負い、転ばないように気をつけながら、道を急ぎつつ、本を読んでいるんです。“ながら読み”の達人ですね。

それだけ体も頭もフルに動かしている経験って、確かに現代の我々は遠ざかっているのかもしれません。

いわゆる“読書術”とは真反対!?

山や田んぼの中を走り回ることこそが「学び」であると紹介されます。

英才教育のつもりで、我が子にたくさんの本を与える親がいます。養老孟司さんは、そんな様子は逆効果だと指摘します。

大量に書物を与えるのではなく、むしろ文字情報が飢餓状態にある方が、貪るように処を読めると言います。確かに、「いつでも読める」「なんでも読める」となると、本を読む必然性がなくなってしまいます。

「足りない!」「もっと読みたい!」「なんでもいいから読みたい!」って状態が、子どもにとって英才教育になるのでしょう。

……と、これって巷でよく言われる“教育”とは違いますよね。むしろ真反対です。

大人の読書だって同じです。

見聞を広げるはずの読書が、視野を狭めていないだろうか?そんな疑問と、不安を感じました。

読書への取り組みに反省……

あさよるは幼いころ、両親から「よく遊びなさい」と言われ続けていました。あさよるは家の中でダラダラと本を読んだり図画工作をしているのが好きだったので、「もっと外で遊べ」と怒られていたんですねw

で、本書『バカにならない読書術』を読んで初めて、「あの頃の親の言葉はホントだったのかもなぁ」と気づきました。

そう、読書って知識は増えるし、頭も使っている気になります。が、所詮「他人が書いたこと」を読んでいるだけです。

で、読んでいるだけで「賢くなった気がする」という恐ろしい効能まであります(苦笑)。

ああ、自分、偏っているなぁ……と実感(;´Д`)(;´Д`)(;´Д`)

“ただの読書”より体験、経験へ

以前、テレビ番組かなんかで、お笑い芸人のロザン・宇治原さんが、「急に思い立って富士登山した」という話をしていました。

宇治原さんは、京都大学を卒業し、テレビでは高学歴芸人やクイズ王として活躍されています。

そんな“カシコ”の宇治原さんが、富士山に登頂した結果、「富士登山は、服装がムズカシイ」と感想を語っておられました。

富士山に登れるのは夏場だけです。しかし、富士山の山頂は寒い。防寒対策はしていたけれども「予想以上に寒かった」というお話。

んで、その話を聞きながら「宇治原ってホンマに賢いんや!」と思った記憶がありますw

宇治原さん、通常の半分くらいの時間で登頂し下山したそうで、身体能力も高いんですね~。

で、きちんと、経験から「服装がムズカシイ」と学んている。

身体能力 + 経験から学ぶ = めっちゃ賢いやないか!

ということですw

今回、養老孟司先生の話を読みながら、このエピソードを思い出しました。

身体を動かして学ぶ、になりたい……。

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『王様の勉強法』を読んだよ

フランシスくんとレトロビルディングのイメージをコピックで描いたイラスト

フランシスくんとレトロビルディングのイメージをコピックで描いたイラスト

「勉強をする」と言うと、人によってはワクワクしたり、ある人にとってはうんざりするような言葉かもしれません。
私は「どんなことでも真面目にやれば勉強だ」と考えています。

現在は、毎日毎日熱心にYouTubeで料理の動画を見ています。
今、特に夢中なチャンネルはこの二つです。

・外部リンク:Cooking with Dog – YouTube
・外部リンク:Peaceful Cuisine – YouTube

朝から晩まで暇さえあれば動画を再生しては「勉強になるなぁ~」と感心して見ています。
どちらのチャンネルも日本人が作っており、料理を扱っていますが、英語で発信されているところも共通しています。

歩いてるだけでも勉強になる?

先日、大阪の淀屋橋から難波まで、御堂筋をてくてくと歩いて移動しました。
御堂筋沿いには、レトロな雰囲気のビルがたくさん立ち並んでいます。
窓枠の形が個性的だったり、柱の意匠が面白かったりと、見て歩いているだけで「勉強になる」んです。

こんなレトロな、あるいは考え方によっては古臭い建物がたくさん残っているのは、面白くもあり、また、ビルの建て替えや、区画の統合や整理が長くなされていないことでもあります。
今後、大阪の街の区画について知りたいなぁと、新たな好奇心が生まれました。

これが「勉強」なら、勉強が大好きだ

こんな、遊んでいるようなことを「勉強になる」と言うのであれば、私は勉強が大好きです。
実際、これまでも、学校のテストやレポートの提出なども、「勉強になるなぁ~」と呑気に取り組んでいたので、あまり負担に感じたことはありませんでした。

だけど、「どんなことでも真面目にやれば勉強だ」というのは、時には面倒くさく感じることもあります。
瞬発的に沸き起こる好奇心や興味に突き動かされているので、時間をかけて計画を練ったり、将来を見据えて事前に行動をすることとか、とても億劫に感じてしまいます。

勉強好きはむしろ性癖?

『王様の勉強法』では、荒俣宏さんと中谷彰宏さんが対談をしながら、「勉強」をキーワードにしつつ、次から次へと話題がポンポンと飛び出します。

勉強を「性癖」だとし、お二人とも自身の性癖に突き動かされて、古今東西の雑多な知識や話題に没頭し続けているようです。
「性癖」なのですから、もう誰にも止められない欲求なのでしょう。

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