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『「教養」とは何か』|世間の中でいかに生きるか

こんにちは。あさよるです。先日読んだ鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』が、読了後もずっとなんとなく気になり続けていました。『「空気」と「世間」』では、わたしたち日本人は「社会」と「世間」の二つの世界を持っていて、社会生活をしている最中に顔を出す世間が「空気」だとされていました。

この鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』では「世間」はやや否定的なニュアンスで語られているように感じました。だけどその直後に読んだ内田樹さんの『街場のメディ論』では、「世間」は肯定されていました。この二冊の、近いテーマを扱いつつ結論の違った本を続けて読んだことで、「世間」が気になるワードになってます。

そこで、先に挙げた『「空気」と「世間」』で引用されていた阿部謹也さんの『「教養」とは何か』を手に取ったのでした。

ちなみのちなみに、昨日は『世界の教養365』という、1日1ぺージ、一つのテーマについて紹介される本を紹介しました。

今回『「教養」とは何か』を読了してみると、『世界の教養365』は、教養というより「雑学集」かもななんて思ったり(;’∀’) もしかしたらヨーロッパ社会に生きている人にとっては「教養」になるのかもしれないけど、多くの日本人にとっては「教養」ではないかも……その理由は、社会のかたちが違うから。「社会のかたちが違うと教養のかたちが変わる」というのは、本書『「教養」とは何か』を読んだ発見でした。

世間の中の教養

先日ブログで紹介したした鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』の中で、本書『「教養」とは何か』が引用されており、気になって読み始めました。主題はそのまま「教養とは」。

「教養のある人」と聞くとどんな人物を思い浮かべますか? 本書では、教養を

「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうしている状態」(p.56)

を「教養」であるとしています。それを「いかに生きるか」と表現されています。多くの書物を読み知識が多い人のみを指すのではなく、ときには「人格者」であることも教養に含まれます。そして無自覚に「いかに生きるか」を体現している人々もたくさんいます。例えば農業従事している人は、「いかに生きるか」と自覚的に考えなくても、自分の仕事が多くの人達の暮らしを支えていることは知っていただろうと紹介されています。

「いかに生きるか」を考えるとき、「世間」を知る必要がある

「世間」とは

そして「自分が社会の中でどのような位置にあり」「いかに生きるか」を考えるとき、「世間」が登場します。世間は感情のある人間たちが集まって繋がっています。だから世間の中で誤解されたならば、それを解かなければならないし、もしもひどい仕打ちを受けたのなら、自らの手で復讐します。つまりかつて「社会」がなく「世間」だけがあるのです。そして現在、「社会」のある世界では、法によって合法的な処置されるようになりました。

日本では、明治になってから西洋の「社会」が建前として導入されました。しかし、そこに生きていた人々は、従来通りの「世間」を本音として持ち続けました。建前の「社会」では、弱いものを守り、正義の行いはいずれ実を結ぶことが教えられます(つまり法によって裁かれる)。だけど、本音ではそうではないことも知っています(世間では個人間の復讐になる)。わたしたちが「大人になる」とは、子ども時代に施された建前の教育から、言葉の裏を読む本音の世間を知ることです。

ヨーロッパの「社会」には根底にキリスト教の思想があるから成り立っているものであり、日本にはその前提がないため、ヨーロッパから持ってきた社会/建前と、昔ながらの日本人の思想を反映した世間/本音の二重構造ができてしまいました。これは日本が近代化してゆく中で、日本が身に着けた処世術だったのかもしれませんね。

世間の中でいかに生きるか=教養

教養とは、「社会の中でいかに生きるか」を考えることなのですが、日本では建前の「社会」と本音「世間」の二重構造になってしまっています。だから「社会の中でいかに生きるか」と語るとき、建前で語ってしまうと、そこに感情のある人間が抜け落ちてしまいます。

わたしたちが「教養」について考えるなら「世間の中でどう生きるか」を考えることで、感情のある人間と人間の関係性の中で「いかに生きるか」を考えれられます。

そのためにも「世間とは何か」を客観的に認識する必要性を指摘するのが本書『「教養」とは何か』なのです。

「世間」は悪いものなのかな?

『「教養」とは何か』を読むきっかけになった鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』では、「世間」については否定的で、日本も「社会」へと移行するよう促す内容でした。その本を読んでいる途中は、確かにあさよるも「世間」の息苦しい関係性も、鬱陶しい「空気」も嫌いですから、「そうだそうだ」と納得もしていました。

だけど、はて。やっぱり考えてしまいます。そんなに「世間」って悪いものなのかなぁと。もちろん、鬱陶しいし嫌!ってのも事実でしょう。だけど、「世間」のない世界で生きることってできるのでしょうか。

たまたま件の『「空気」と「世間」』は2018年9月4日の台風第21号の影響で停電した家の中で、暇つぶしに読み始めた本でした(後々のためのメモ/2018年、平成30年台風第21号は9月4日「非常に強い」勢力で日本に上陸し、近畿地方で大被害が出た。これまで経験したことのないとんでもない暴風)。つまり「大災害の最中に読んでいた」んですよね。

で、大災害にあったとき「世間」が社会の中にしっかりと根付いていることを実感しました。親類縁者隣近所も、普段は顔を合わせば軽く挨拶をするけれども、あまり深くかかわるのも煩わしい。だけど災害時は、お互いに声を掛け合い、誰彼構わず助けが必要なら手を貸し、掃除や後片付けも、自分も他人も関係なく参加します。そして、行政もそこに「世間がある」ことが前提で、支援を開始することにも気づきました。やっぱり日本社会は、建前ではヨーロッパの「社会」を持ってるけれども、その実、大衆の意識だけではなく、行政だって「世間」の一部なのです。

たぶん自分が「いかに生きるか」を考えるとき、建前の、知識やシステムだけを振りかざすのではなく、本音の、感情のある一人の人として、他の人々と「どう関わるのか」を考える方が、自分にとっても良い作用があるように思いました。また「教養」を身に着けるための「勉強」も、「なんのために勉強するのか」といえば「世間のために」なのかもしれません。

『漫画 君たちはどう生きるか』について

先日ブログでも紹介しました大大ベストセラー『漫画 君たちはどう生きるか』についての感想で「主人公は特別な立場の人だから、〈どう生きるか〉なんて特別なことを考えているのではないか」と書きました。

だけど今になって考えると、特別な立場にある人だけじゃなく、それ以外の人だって自覚的にも無自覚的にも「世間のために」生きている人はた(いる)でしょう。そう思うと、あさよるの抱いた感想は的外れだったのかもなぁなんて思いました。

そして今『漫画 君たちはどう生きるか』が売れに売れているというのは、多くの人が世間の中でどう生きるのかを模索しているということなのかもしれません。まぁ、さっきも言ったように、やっぱ災害があると、それを意識せざるをえないですね……。

そこで考えたこと

先に述べたように、本書『「教養」とは何か』では「世間」に対して否定的な態度なのかと思って読み始めたので、結論として教養を身に着けるためには世間を知ることが必要だと書かれており、意外でしたが、「教養」「世間」について、納得できるものでした。

あさよるは面倒くさがりなので、世間の面倒くさい手続きは性に合いません。科学的根拠のないオカルトな儀式や祭事も嫌いだし、まどろっこしいやりとりも嫌いです。

……だけど、だからといって「世間」を否定して生きられないことも、さすがに何十年も生きていると気づいています。しかも、嫌なことばかりなわけじゃなく、あさよるだって世間の中の一人であり、世間に助けられてもいます。そのくせにイヤイヤ言い続けるのも、それは違うだろうとも思います。

また、今はインターネットを通じて、遠くにいる人も「世間」の中の人のような気がします。それが普通になって長いけど、思えば変な感じかも。だって、「世間なんて窮屈で嫌だ」と言いながら、テクノロジーを使ってどんどん世間を自ら広げているからw

『「世間」と「空気」』のレビューでも書きましたが、このまま「ダブルスタンダード」でもいいのかもしれないなんて思い始めてもいます。だって、どっちを失ってしまうのも惜しいと思うから。ただ、無自覚にやるのではなく、「社会」と「世間」の二つの世界で生きていることを客観的に自覚して、よりよくなるように、使えたらいいのにな。

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『下り坂をそろそろと下る』|国をたたみ方、街のたたみ方

こんにちは。あさよるです。少し前に司馬遼太郎先生の『燃えよ剣』と『新選組血風録』を久々に読み返したことで、ジワっと歴史小説熱が再燃しつつあり、次は『坂の上の雲』を読みたいなぁと思っています。これ、最初の方しか読んでなくて、長い間積んでいます(;’∀’)

あさよるは学生時代に司馬遼太郎小説にどっぷりハマってたんですが、当時の大学の先生や、社会人になってからも、親よりも年上の世代の人とお話をする時「わたし、司馬遼太郎にハマってるんです」と話しては可愛がられていました。好きな小説を読んだ上に、年上世代の人にも目をかけてもらえて一石二鳥な趣味でしたw

今回読んだ『下り坂をそろそろと下る』も、司馬遼太郎がど真ん中な世代向けの本です。今70代以上の方ですね。この10年でも社会は大きく変わりつづけています。本書はシニア世代に「今こんなことが起こっているんだ」と知らせる内容でした。あさよる世代なんかには「知ってた……」という話ですが、「そうじゃない世界で生きている人がいるのか……」と気が遠くなる……。

軽く読める内容ですが、いろんな意味で「他の世代が見ている世界を知れる」ことのできる本だろうと思います。

「坂の上」から下るために

本書『下り坂をそろそろと下りる』は、高度成長期をとうに終え、どうやって国の繁栄をたたみ、縮小してゆくのかを考えるとっかかりになる本です。タイトルの「下り坂を」とは、司馬遼太郎『坂の上の雲』になぞらえられていて、かつて、坂の上の雲を目指して坂道を駆け上った世代へ向けて書かれています。本書内でも司馬遼太郎先生の小説からの引用が多用されており、「その世代」に向けられていることがわかります。

正直、若い世代にとって……というかもう氷河期世代もすでにアラフィフで、坂の上の雲なんか見たことない世代にとっては、痛いほど身に染みている話題じゃないでしょうか。

本書の最後に、本書での主張が3つにまとめられています。

  • もはや日本は、工業立国ではない。
  • もはや日本は成長社会ではない。
  • もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない。

もはや日本は工業立国ではないという現実は、これまでの教育では立ち行かない現実です。日本の公教育は、工場労働者を生産するための教育で、「ネジを90度回せ」と指示があれば、指示の通りに実行する能力のある人材を育成する教育でした。そこには独創性や発想力は不要で、「180度回せばどうなるんだろう」なんて疑問はむしろ邪魔です。しかし、工場のラインの仕事なんてもう日本にありませんから、昔ながらの教育ではどうにもなりません。「もはや工業立国ではない」という現実は「教育のあり方を変えなければならない」という現実です。

もはや日本は成長社会ではないので、今以上に街が巨大に発展することはありません。だから各地方土地は各々「勝たなくても負けない」街を作り、これから訪れる時代を待ち受ける必要があります。教育に求められるニーズが変わっていますから、かつてのように優秀な生徒から順に東京や大都市の大学へ送り出してゆくモデルも通用しなくなるでしょう。

日本がアジア唯一の先進国ではなくなっているのは、もうわたしたちは特別ではなくなっているということです。アジア全体で人々が行きかい、日本にもいろんな人がやってくるでしょうし、日本から外国へ出てゆく人も増えるでしょう。またかつて日本の公教育がつくっていた工場労働者は、「中国と東南アジアに、あと一〇億人ほど控えている」そうです。すごい数ですね。わたしたちが受けてきた教育じゃあ、どうにもならならないのがわかります。

繰り返しますが、もう今の若い世代はそんなこと百も承知でしょう。本書がシニア世代に向けた本である理由です。かつて坂の上の雲を追いかけた世代へ。

文化の成熟した国へ

本書『下り坂をそろそろと下りる』では、これから国が小さくなり、各地方で街を畳んでゆくとき、文化的に厚みのある国や地域になろうと呼びかけています。そのために必要なのはモーレツ社員ではなく、たまに仕事を休んで映画や演劇を見に行ったり、子育て中のママが子どもを預けて音楽を聴きに行ったり、ゆとりのある暮らしです。別に遊びのために仕事を休んだり、子どもをよそへ預けても、後ろ指差されない社会です。

繰り返しますが、若い世代はもうとっくにそういう風潮になりつつあるんじゃないかと思います。あさよるの友人たちだって、平日有給取ってライブや演劇を見に行ったり、子どもを預けて友人と食事へ行ったりしています。肝心なのは、本書の読者である年配世代たちへ「若者たちは怠けてるわけじゃない」って伝えることですね。

当然ながら、みんなが余暇にお金を使うから、そこに仕事があるわけです。で、かつてのように指示通りに動作を実行する工場労働者の仕事は激減しており、独創性があり生産性の高い仕事が求められています。だから、より文化的に成熟した仕事に就く人も増えるだろうし、それらにお金を使って楽しむ人も増えるはずです。

昔のように、工場で働いて稼いだお金で、最新式の電化製品を買って暮らしが豊かになっていくフェーズではなくなったということですね。

著者の平田オリザさんは演劇の劇作家・演出家の方なので、本書では演劇・アートを使った町おこしや、子どもたちへの教育の取り組みが多く紹介されれていました。

司馬遼太郎すごい

本書を読んで印象的なのは「司馬遼太郎万能説」でしょうw たぶん、ある世代にお話するとき、司馬遼太郎先生の小説を例に挙げるとウケるんじゃないのかなぁ~、だから本書でも司馬作品の引用が多用されてるんじゃないのかな~と想像しました。

あさよるも昔、司馬遼太郎にハマってせこせこ読んでた時期があったんですが、まぁ、ウケるんですよね。オジサン世代にw あさよるが20代の頃60代に差し掛かる世代……つまり団塊世代のオジサンたちと話をする時「今、司馬遼太郎にハマってるんです」と言うとウケるウケる。みなさんそれぞれ、「俺の司馬遼太郎」のお話をしてくださります。

そんな経験もあって、本書の構成はめっちゃよくわかる! みんな『坂の上の雲』好きですよね。と言いつつ、あさよるは『坂の上の雲』を序盤しか読んでないのを思い出して、今回、全編読もうと思った(`・ω・´)b

もう団塊世代も70代で、偉い立場にいる人や、孫たちの未来を案じている人も多いでしょう。だけど、団塊の子世代は氷河期世代で、その子どもたちは格差が当たり前の世代です。経済的な理由で進学を諦めざるをえない人もいるだろうし、「都会へ行けば仕事がある」時代でもなくなっています。むしろ、地方のほうがまだ、なんとか子育てできている世帯があったりと、かつての常識とは現実が大きく変わっています。悲しいけどこれ、現実なのよね。

お祭りのたたみ方

あさよるは個人的に、今の社会は「お祭りをどうやって終えるか」と終わり方がわからなくて困ってるんだと思っています。そういう意味で、東京オリンピックの頃に高度成長が始まったんだから、また東京オリンピックで締めてもいいんじゃないのかなぁなんて思っていました(ただ、昨今災害があまりにも多いので大丈夫なのかと不安になっている)。

なんでも始めるときはその場のノリと勢いで始められるし、すごく楽しいんだろうけど、最後の後始末までちゃんとできる人って意外と少ないものです。

あさよるの幼少時代(80年代)はこんなに大量のものを消費する社会じゃなかったように記憶しています。いや、損当時も大量消費社会だったんだろうけど、近年それが輪をかけて加速しているような気がします。冷蔵庫はやたら大容量で(我が家には冷蔵庫が二台ある^^;)、クローゼットにはチープブランドの服が詰め込まれ、テレビの周りにはDVDやゲームのディスクが散乱している……。なんか、収集付かない感じになっちゃってるのかも。あさよるは近年、ずっと片づけに勤しんでいるのでそう思います。どうすればいいんだこれ。

今考えているのは、「どうやってコンパクトな生き方にシフトすれば良いのか」と「世界から信用される企画をつくるには」といったところでしょうか。

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『「空気」と「世間」』|世間様が終わり、社会・個人へ

こんにちは。あさよるです。先日読んだ『「生きづらさ」について』にて「空気を読んで自殺する」(自殺志願者たちが「もうすぐ自殺する」と宣言すると、周囲の人が「もうすぐ死ぬんだ」から「まだ死なないんだ」という空気に変わってゆき、空気に後押しされて決行してしまう)という表現がショックすぎて「空気」っていったいなんぞやと思ったのでした。

ちなみに あさよるは空気が読めないタイプです……というか、空気はたぶん誰よりもバッリバリに読めている方だと思うっているんですが、それに従うという気がさらさらないというか……(;’∀’) なもんで、「空気を読む」という重大さがよくわかっていなかったので、本書『「空気」と「世間」』を読みより理解ができたと思います。

「空気」は「世間」の時代からあるもので、今後より「社会」と「個人」への時代へシフトしてゆく中で、存在が変わってゆくのかもしれないと思いました。

「空気」の正体を知る

本書『「空気」と「世間」』では、今やだれもが日常で使うところとなった「空気を読む」という表現の「空気」について扱います。みんな「空気読めよ」という言い回しは使うけれども、誰もその「空気とは何か」を教えてくれません。

たぶん、「空気を読め」という言い回しは、テレビの、特にバラエティー番組で、多くは芸人さんたちが使っている言葉を、視聴者である大衆も使い始めたのでしょう。当然ながら、テレビ番組には全体の進行を仕切るすごい司会者がいて(明石家さんまさんとか、タモリさんとか、ビートたけしさんとか)、司会者が話を進めながら、的確に出演者に発言を求め、それに受け答えして番組は進みます。

もちろんテレビ番組には作家もいるし、編集もされているし、日常の会話とは全く違う非日常であり、テレビタレントさんたちは非日常空間での「空気を読む」能力が求められています。だから、日常の中で「空気を読め」と言っても土台無理な話です。そもそも、さんまさんやタモリさんのような、唯一無二な司会者なんているわけもないですから、だからみんな空気を読んでいても、結局グダグダになってしまう。

で、グダグダの最たるものが、教室内で順番に回ってくるいじめでしょう。別に全員が示し合わせたわけじゃなく、なんとなく空気を読んでいじめのターゲットが移ろってゆきます。そこに司会者はいないので、次は自分かもしれないと、ただただ空気に怯えているだけです。

本書『「空気」と「世間」』では、まずはその「空気とは何か」を知りましょうと呼びかけます。人間は知らないもの・わからないものは幽霊のように恐ろしいものです。だから、まずは知る。そしてできれば、その空気に殺されないよう対策を打てると尚良いでしょう。

「世間様」から「空気」へ

本書『「空気」と「世間」』では、かつて「世間」と呼ばれていたものが戦後だんだんと崩壊し、今やなくなりつつありますが、その「世間」がひょこり顔を出したのが「空気」であると考えます。

日本語には元々「社会」「個人」という言葉はなく、明治時代に外国から輸入した概念です。だから日本人は建前上「社会」という概念を持っていることになっていますが、本音の部分では伝統的な「世間」に属して生きています。表立ってはわれわれは「社会」に生きる「個人」なのですが、意識的には自分は「世間」であり、同じ「世間」で生きている人が仲間です。

だから日本人は、同じ「世間」の人には親切でとても興味を示しますが、「社会」の人には無関心です。よく「電車内で体の不自由な人がいても誰も席を変わらない」という現象が語られますが、別に彼らが悪人ではなく、多くの人は「世間」では良い人なのでしょう。だけど、電車内という「社会」が見えていないのだと言います。

日本で生まれ育った人なら、この感覚、わかるんじゃないかと思います。

しかし「世間」はなくなりつつあります。戦前の富国強兵時代は、産めよ増やせよで兵を増やし、豊かになることが「日本という世間」に参加することでした。しかし敗戦後、兵の数を増やす必要もなくなり、少子化が始まります。だけど、伝統がすぐになくなるわけじゃなく、戦後しばらくは「世間」が会社の終身雇用・年功序列に姿を変えて残りました。同じ会社の仲間が「世間」だったのです。

そして、今やその終身雇用・年功序列もなくなりました。「世間」はなくなる寸前なのです。また、グローバルな時代が始まり、日本以外の価値観や働き方に触れることで、「世間」ではなく「社会」に目を向ける人が増えています。

「世間」に帰りたい人・社会を見る人

「世間」がなくなりそうになると、「世間」があった時代を復活させたいと考える人と、「社会」に目を向ける人が現れ始めます。

ネット右翼と呼ばれる人たちは、保守というよりは「世間原理主義者」と本書では名付けられていました。みなの心には「古き良き日本」という形のないものがあり、そのどこかわからないところへ帰りたいのです。アメリカでも「古き良きアメリカ」への回帰を求める人たちが一定数いて、政治にも影響を及ぼし始めています。

ただ、日本人とアメリカ人の違いは、日本人には神様がいないことです。キリスト教徒たちは一神教の神様と個人が直接つながり、どんなときでも神様と対話して自分の行動を個人が決めます。しかし日本人には対話するような神様がおらず「世間」という神様に従うのです。

なのに「世間」がなくなってしまった。つまり、日本人は神を失ってしまったのです。心もとないのも仕方ありません。アメリカでも教会に行かない若い世代が増えているそうです。アメリカも今後、日本と同じ道をたどるのかもしれません。

「世間」から脱したものの、また別のより強固な「世間」が待っているのです。

孤立は孤独だ

「古き良き日本」という「世間」に帰りたい世間原理主義たちの気持ちもわからなくはありません。自分を保証してくれるものがなく、不安定だからこそ、人々を一つにまとめる(縛り付ける)「世間」があってほしいと願うのです。

本書でも、著者の鴻上尚史さんがイギリス留学時代に言語がわからず孤立して、その期間が長くなると精神的にもまいってしまい、偽善で声をかけてくる白人ですら嬉しかったと語っていました。誰だって孤立をすると孤独になるんです。孤立した人は「世間」というしがらみのあった頃に戻りたいと考える人がいてもおかしくありません。

しかし著者は「世間」ではなく「社会」に目を向けることで、より多くの人とつながれると書いています。世界中探せば一人でも理解者が現れるであろうし、できれば理解者は二人いれば良いとしています。二人いれば、片方が多忙でつかまらなくてももう一人の仲間がいるから心が穏やかでいられます。

「空気」は「変わる〈かも〉しれない」

わたしたちは「世間」という言葉すらあまり使わなくなりました。今どき「世間体が悪い」なんて言う人も減っています。代わりに「空気」が支配し始めました。「世間」と「空気」は同じような意味で使われますが、「世間」は絶対不変なものな感じがします。「世間」の前では理屈も通用せず、理屈がないから抗えないのです。

しかし「空気」は、なんとなく「今はこんな空気だけれども、これから変わるかもしれない」という淡い期待をはらんでいます。ただし、あくまで空気は圧倒的な存在で、個人が太刀打ちできるものではないのは変わりません。だけど「もしかしたら……」という一縷の望みを感じさせる言葉を用いることで、「実はしがらみのない社会へ行きたい」と願っていることもわかります。

ダブルスタンダードでいいじゃないか

本書『「空気」と「世間」』では、現在「世間」と「社会」のどちらかを1か0で選ぼうとしているけれども、どちらでもないダブルスタンダードでもいいんじゃないかとも語られています。

「世間」があった時代には「個人」もなかったんだから、昔の人は平気だったんでしょうが、今の我々は「社会」を知り「個人」という自己を持ってしまっています。一度「社会」と「個人」を知ったうえで、かつてのような「世間」に変えることはできません。

しかし、孤立し、神を失った人にとって「世間」がそれなりの役割を果たすこともわかります。

だから「社会」と「世間」のダブルスタンダードでもいいじゃない。

もし世間で居場所がないならば

本書の最後には、この本が、いじめで居場所を失った中学生へ届くようにと書かれていました。著者はこれまでにも、いじめに遭ったならば逃げなさい、死んではいけないと呼びかけてきたそうです。しかし、家にいても「学校裏サイト」があり、そこには自分の悪口が書かれ、24時間どこに行っても逃げられないと感じる子どもたちがいます。

だけどそれでも逃げろと呼びかけます。

学校・教室という「世間」では居場所がないかもしれないけれども、「社会」に目を向ければ、途端に世界中の人々が目に入るでしょう。「世間(空気)に殺されてはならない」のです。

「したたがない」はしかたがない?

本書にて「しかたがない」という日本語は英訳しにくいという話題が登場します。それに近い「It cannot be helped」という表現がありますが、実際にこの言い回しを使う人は少ないそう。「We have no choice」の「選択の余地がない」がギリギリ近いかと紹介されていますが、「考えられる限りの手を尽くしたけれども他にどうしようもない」とかなり能動的なニュアンスです。

「しかたがない」には受け身で無力感があります。

ベストセラーになったカレル・ヴァン・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本とうシステム』(毎日新聞社)の中の文章が、典型的な欧米人の見方を表していると思います。

「シカタガナイ」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。シカタガナイと言うたびに、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれすべて失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたほうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるをえない」と思うたびに「シカタガナイ」と言う人は、政治的な無力感を社会に広めていることにある。本当は信じていないのに、信じたふりをしてあるルールに従わねばならない、という時、人はまさにこういう立場に立たされる。

p.44-45

「しかたがない」と口にする時、日本語話者はこんなこと考えてはいないんだろうけれども、西洋人が「しかたがない」を理解するためにはこれだけの説明が必要なのです。

あさよるも多分、元気いっぱいで、のほほ~んと本書を読んでいれば、本書に共感し、「世間を脱し社会に目を向けるべきだ!」と思ったかもしれません。

しかし昨日、台風の暴風雨により早々にテレビのアンテナが落ち、長時間の停電で「しかたがないから本でも読むか」と、寝転がって本書を読んでいました(災害時は体力温存しかできない)。外の様子が気になるし、「ああ、あれはこうしておけばよかった」と後から気づいても、「しかたがない」のです。

最大時の暴風がやや治まった頃(それでもかなりの突風が吹き荒れている)、両親がモメています。「外に出て様子を見る」という父と「余計なことをするな」という母が対立しており、二人とも「しかたがない」と言っています。父は「状況を見ておかないと、もうすぐ日が暮れるからしかたがない」と言い、母は「こんなに風が強いんだから、外に出られなくてしかたがない」と言っています。

あさよるも、アンテナや瓦が落ちて、もし近所の家や車を傷つけたら大変だと考えつつ(「世間」を気にしているのです)、だけど災害だから「しかたない」と思っています。

本書では、「世間」や「空気」に圧倒されなすすべもなく「しかたがない」と受け身にしかなれない日本人に対し「社会に目を向けようよ」と呼びかけていますが、「こう災害に出合うと無力感しかないし、しかたないと思うしかない」よなぁと、共感しきれない自分もいました。

「世間に迷惑がかかったら嫌だなぁ」と思いつつ、実際に声を掛け合い、うちのゴミを黙って処理してくれるのも「世間」なのです。こう災害が多くっちゃ「世間」がないとダメなのかもな、なんて弱気になってしまいました。

それでも「社会」に目を向けるんだろうか

ただ、本書でも災害ボランティアは「社会」であると紹介されていました。災害ボランティアに参加すると、お互いに打ち解ける間もないまま仕事が始まります。

日本でこうも災害が多く、世間では対応しきれない規模の災害が続くなら「世間」は「社会」を受け入れざるをえないでしょう。今も着々と、「世間」と「社会」は変わりつづけているのでしょう。

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『「若作りうつ」社会』|いつまでも「愛され」「モテ」でいたい

こんにちは。放送中のドラマ『東京タラレバ娘』を見て、胸が痛い あさよるです。

主演の吉高由里子ちゃんも、榮倉奈々ちゃんも大島優子ちゃんも、むちゃくちゃかわいいのは言うまでもありませんが、劇中の三人は「ゼツミョーに超ウザッwww」とニヤニヤ見てたんですよ。なーんか痛々しいんですよねー。意識高い系っていううか~。

すると第一話の終盤、金髪のイケメソくんから「30過ぎて女の子じゃない」と言われて、ショックを受ける三人。そしてショックを受けるあさよる……

―( ̄∇ ̄;)→グサッ!!!

先日読んだ熊代亨さんの『「若作りうつ」社会』を思い出しました。彼女らは、女の子の世界から抜け出して、大人の女性になれるのでしょうか!?ドキドキ

年の取り方がわからない

『「若作りうつ」社会』の冒頭で、精神科医の著者・熊代亨さんの元へやってきた患者さんのエピソードから始まります。

Cさんは仕事と子育てをソツなくこなす女性で、合間には趣味も楽しみ、社内で尊敬を集める人でした。しかし、ある時から睡眠や食事がうまく取れなくなり、心療内科で「うつ病」と診断されました。

治療により病状は改善しましたが、彼女は納得しません。朝から晩までスケジュールが詰まった、エネルギッシュで充実した“元の生活”に戻られないからです。

「若い頃と同じように頑張りたい」と主張し、自身の加齢を受け入れることに抵抗を感じています。

「老いを受け入れられない」

アンチエイジングがトレンドの21世紀。多くの人が抱えている問題です。

世代が分断された社会

かつての日本社会は、良くも悪くも様々な世代が関わり合って生きていました。

監視し合い、古い風習や価値観に支配された生活であった一方で、生まれる人、老いる人、病気になる人、死ぬ人。人間のさまざまなステージの人々が一つのコミュニティに交じり合っていました。

現代は、地域社会や因習から解放された一方で、孤立した世帯は、他の世代と隔絶されてしまいました。

「年の取り方がわからない」とは、自分たちの先を行く人々を見失ってしまった世界です。

70代に差し掛かる団塊世代も、自らを「老人」とは感じていません。いつまでも若々しく、老いのない世界は夢のような世界ですが、残念ながら存在しない世界です。

現実と願望のギャップにより、じわじわと苦しむのが現在人なのかもしれません。

誰も何も言わなくなった

アンチエイジングは超人気です。テレビをつければ次から次へと健康食品のコマーシャルばかり。

何を口にするのも人の勝手ですが、それにしても、買う人がいるからテレビで宣伝してるんですよねぇ……。

と、「人の勝手」というのも、現在人が陥っている落とし穴になっています。

赤の他人である友人知人が、怪しいげなものにハマっていても「人それぞれだし」「人の自由だし」と積極的には口出ししません。

ムラ社会的な相互監視の世界から抜け出した我々は、気軽になった半面に、間違った方へ進もうとしても誰も引き留めてはくれなくなりました。自由と責任、両方を手に入れたんですね。

本書『「若返りうつ」社会』の「第二章 誰も何も言わなくなった」は静かにゾツとする話でした。

父親不在の社会

「年の取り方がわからない」社会は、「モテ」が力を持つ社会です。

小さな子どもは、一人で生きてゆけませんから、大人から「愛され」ることで生存率を確保できます。ここでいう「愛され」とは、容姿が優れていたり、コミュニケーション能力が高いことです。

簡単に言やぁ、かわいらしい、愛らしい子どもが可愛がられるという、身もふたもない話なんすが……(;´・ω・)

かつてのムラ社会では、多少コミュニケーション能力が低い子も「みんなの子ども」「社会の子ども」という認識がありましたから、なんとかやっていけました。

しかし、現在は個人と社会が遮断されていますから、生まれ持ったかわいらしさ(容姿)か、コミュニケーション能力がないと、かわいい子どもになれません。

いつまでも「愛され」たい

そして、年の取り方を忘れた社会は、大人たちもいつまで経っても子どもの世界にいます。容姿が優れ、コミュニケーション能力の高い「愛され」「モテ」こそが社会を生き抜く力なのです。

……なんか自分で書いてて冷や汗しか出ないんだけど(;’∀’)

で、自分の「愛され」「モテ」要素を受け入れてくれる「母性」を求めている。

一方で、現在は父性不在の社会でもあります。

戦後の経済成長とともに、父親は朝早くにはるばる遠くへ出勤し、夜遅くに帰宅する、家庭にいない人物になりました。子どもから見ると、父親が毎日なにをやっているのか分かりません。

「仕事をしている」「働いている」とは言っても、具体的に何をしているのか分かりません。実際に育て、養育してくれるのが母親ですから、母性が力を持つのも頷けます。

社会の構造が変わったことで、家庭内の形まで変わり続けています。そして、新しい社会像、家族像をなかなか描けず、終わらない子ども時代を過ごしているのが現代なのかもしれません。

……って、エヴァンゲリオンみたいな話やないか!

(「第三章 サブカルチャーと年の取り方」は、オタクと年を取れない我々のお話で、他人事とは思えません)

「老い」と「死」をどう受け入れる

「年の取り方がわからない」世界は、「老い」と「死」のない世界です。

しかし、実際に現実には我々人間は日々刻刻と年を取り、老い、死に近づいてます。観念世界と現実世界の隔たりこそが、苦しみや、居心地の悪さを生んでいるように思いました。

個人的な話ですが、あさよるの祖父母はみな早く他界していて「老人」というものを知りません。

街中で出会う高齢世代の人たちは、みなさんハツラツとしてらして、元気いっぱいで何度目かの青春を謳歌しているように見えます。または、まだまだ現役世代バリに働く人たちばかりです。

これから両親も老いてゆくのでしょうが、「老いた人」を側で見たことがありませんから、「老人」がどのようなものか、あさよるにはロールモデルがありません。それは、自分自身が老いてゆくイメージがないことです。

あさよるもまた、現在人の一員として自らの「老い」や「死」を持っていない一人なのでしょう。

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『ウイルスは生きている』|たんぱく質の結晶は、生命か!?

こんにちは。「化学」が苦手だと豪語して生きて来たあさよるです。

最近になって、必要に迫られ中学高校で習うようなことから勉強し直しています。どんな必要に迫られたのかと言うと、美容・健康に関することです。あさよるの体は化学物質でできている。食べ物も、サプリメントも、薬も、みんな化学物質でできている。

やっぱ、これ勉強しなきゃ話にならないなぁと、重い重い腰を上げたのですが……あれ、ちょっと勉強し始めると意外と面白いかも!?

先日、食品化学の講義を受ける機会がありまして、「ウイルス」についても簡単に触れ、興味深く、関連する書籍を手にしました。ちなみに、その講義の中では先生は、ウイルスは生物ではないとおっしゃっていました。

理由は、勝手に細胞分裂をして増えてゆくものを生命と言い、ウイルスはこれにあてはまらないから、というもの。生命とはなにか?という定義の話ですね。

で、今回読んだ『ウイルスは生きている』は、「ウイルスは生命である」と言います。はてさて、面白くなってきましたね。

ウイルスも人間も、たんぱく質の結晶である

さて、ウイルスが生命か否か?という明確な答えはありません。どうも、本書『ウイルスは生きている』を読んでると、「なんとも言えない」存在のようです。

と言うのも、「これを無生物だ」と言ってしまうと、「じゃあこっちも無生物だなぁ」と言わざるを得ないし、また別のウイルスを指して「これは生物だ」と言えば、「じゃあこっちも生物も言わざるを得ない」と堂々巡り。

要は、「ウイルスと生物の境目は極めてあいまいだ」と言うこと。

また、無生物とも言い切れない。ウイルスが曖昧な存在ということは、無生物と有生物の間に、明確な線引きが見いだせないってこと。

それを踏まえると、自己複製できないウイルスを、無生物だと言い切ってしまうのは乱暴に思えてしまいます。著者・中屋敷均さんはそこを「ウイルスは生きている」と言い切ります。

これまでとは違う、新しい視点でウイルスを考えてみようとの呼びかけです。

化学や生物が苦手なあさよるにとっては…

あさよる、先に述べたように化学や生物がとても苦手な人生を送ってきました……(;’∀’)

ですから、じっくり読まないとわからない(;’∀’)(;’∀’)>

もちろん時間をかけて、じっくり何度も読めば、そういうことかと頭に入ってきます。決して難しい内容ではないのですが、最低限、中学高校で習う化学や生物の知識を思い出しつつ読めるとよいでしょう( ´∀`)bグッ!

でもね、理解できるとめっちゃ面白い!目に見えないけれどもその辺を飛び回っているであろうウイルスに、ビビって生きるのではなく、「もっと知りたい」と思います。勉強の励みにもなりますね(・∀・)

おかしな不思議な「生命」にウイルスを加えると…

あさよるも深くは理解しきっていないので、深くは紹介できません(^_^;)サーセン

「ウイルス」という謎の存在を考えることで、生命そのものの不思議に触れることができます。

ナマケモノは昔々超巨大で、超アクティブな生き物だった。が、巨大でアクティブなヤツらは滅びてしまい、木の上で怠けているヤツだけが生き残った。なんだか変なお話。ゆっくりのんびりしているから生き残った。

同じように、細菌も住めないと考えられていた深海に、超スローペースで細胞分裂をする細菌が発見された。この細菌、あまりにもスローな生命活動に、とても生命のように見えない。ダイナミックに細胞分裂を繰り返すものばかりが生命ではない。

そもそも、生命と一口に言っても、多種多様すぎて、みな同じものだとは思えない。

他の昆虫の幼虫に卵を産み付け、身体を引きちぎって出て来る昆虫は、エイリアンにしか見えない。しかも、彼らはウイルスを巧みに用い、寄生先の肉体を自分の都合の良いように操ってしまう。

生命はウイルスと共に生きている。「共存」としか言えない状態がある。

そもそも、他者と自己が曖昧な生物もいる。植物がそうです。枝を折り、他の木に接木をしたら、それは別の株になる。だけど、元々同じ自己だったのに、切り離したら他者になるの?哺乳類の我々には謎すぎる。

「生命」と呼ばれているものでも、不思議でおかしなものがたくさなる。これだけ幅のある生命の中に、「ウイルス」を加えてみれば、見えてくるものも変わるのかもしれない。

とてもページをめくるのがワクワクする読書でした。子供の頃を思い出しました^^

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