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『わたしが情報について語るなら』を読んだよ

新宿末広亭の内装のイメージをコピックで描いたイラスト

新宿末広亭の内装のイメージをコピックで描いたイラスト

初めて「ココナラ」を利用しました。ココナラとは、ワンコインから知識やスキルなどを手軽に売ったり買ったりできるサービスです。

私は今回、いつもブログを読んでいたメイクアップアーティストの方がココナラにも出店されていると知り、顔分析をしてもらいました。自分の表情や顔の筋肉の使い方のクセを教えてくれるともに、メイクのアドバイスもしてくださいました。
ココナラは以前から登録だけはしていましたが、初めて利用をし、面白いサービスだと感じました。今回はサービスを買う側でしたが、自分が売る側になるなら、どんなサービスを提供するのかと思案し始めています。

インターネットが普及すれば、人類の知識はネット上に集められ、人類の財産として別け隔てなく誰もが恩恵に預かれる世界が来るのかと思っていました。今の現状は、そうはなっていないようです。ネット上の情報に無料で触れられる環境は整っていますが、実際に、自分の欲しい情報を見つけ出すには、未だ書店や図書館へ出向いて文献に当たる方が、信頼のおける情報に早く出会えます。事前にネットで”当たりをつける”ことはしますが、裏を取るのに案外手間取り、本を読んだほうが早い気がします。私はネットネイティブ世代でもありませんし、古い考え方なのかもしれませんが、「なんかインターネットって、思ってたのと違うなぁ」と感じます。

東京は、大都会のビル街の中にポッカリと寄席があったり、最新のトレンドと伝統が平然と並んでいてとても面白い都市です。東京へ上京する際は、東京の寄席にも必ず足を運びます。もちろん落語はCDでも聞けますし、NHKの演芸番組など、テレビで見ることもできます。しかし何故かテレビで見ると面白くない。不思議なもので、テレビで映像を見るくらいなら、CDで音声だけ聞くほうが面白いのです。いえ、名人と呼ばれる人の落語ほど、音声だけで聞くほどに迫力やおかしみが滲み出てきます。
この発見は、私にとって衝撃でした。私はずっと、「テレビを見ているだけで経験値が上がっている」と思っていたのです。なんでも、どんなものでもテレビで見れます。疑似体験をしているんだから、自分の経験値になっているだろうと思っていたのです。しかし、落語の例ですと、テレビで見ると落語の面白さが損なわれていて、音声で聞くほうがずっと面白いのです。もちろん言うまでもなく、一番面白いのは寄席会場で聞く落語です。

松岡正剛『わたしが情報について語るなら』では、このような情報の取り扱い方に注意を呼びかけています。インターネットが普及し、私たちが扱う情報の量は格段に増えました。スマホの普及がそれを後押ししています。しかし、その情報の質はどうでしょうか。あるいは、適切な情報は得られているでしょうか。

東京には昔からの寄席小屋が数カ所あります。初めて上京した際、新宿末広亭へ行って驚きました。寄席とはこういうものなのか!と初めての体験だったのです。ひなびた建物の中、お弁当を食べながら、日がな一日落語を聞く。途中で入ってくる人もいますし、途中で退席する人もいます。お客さんの年齢層もさまざまです。みんなに共通するのは、落語を楽しみに聞きに集まったことです。その場の雰囲気。その空気感。肌で感じる臨場感や高揚感は、テレビ画面に映っていないのかもしれません。

テレビやネットで得た情報と、自分で経験した情報とは、圧倒的な情報量の差があります。経験や体験をすると、五感全部で身体の中に情報が入ってきます。それを、私たちは情報をより分け、言語化し、整理してゆきます。それを本書では「自己編集」と呼んでいます。情報を角度を変えて、視点を変えて、編集してゆくのです。もちろん、ネットから得た情報も、そのまま丸呑みするのではなく、自分の手で編集して、切り口や視点を変えて、扱ってゆく必要があります。

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『知の編集術』を読んだよ

そろそろ新年を迎える用意も始めないといけません。もう、大掃除のコツや豆知識について書かれたブログ記事を目にしました。おせち料理も、昔ながらに手作りをするお宅もあれば、デパートやお店で手配するお宅も増えていますね。
おせち料理のメニューには、いわれがあります。「マメに働く」と黒マメ。子孫繁栄に数の子。栗きんとんは、金色の見た目が財産を表します。縁起がよいとされるものは、言葉遊びや見立てが使われいることも多数です。

中国では縁起ものとして、魚の図案が使わてている絵や工芸品などよく目にします。中国語で「年年有余」と言う、お金がたくさんある、お金持ち、という意味の縁起の良い言葉です。この最後の「余」が、「魚」と同じ読みらしく、「年年有魚」と言い換えられ、魚が縁起の良いものとされています。

さて、「マメに働く」も「年年有魚」も、ダジャレです。「◯◯は△△に通ずる」とか「ダブルミーニング」とか言うとちょっとカッコいいですが、ダジャレです。私は幼いころより、ダジャレ=オヤジギャク=サムイ という方程式で長い間認識していたため、「おめで鯛」とか「試験にカツ」とか“ダジャレ系縁起アイテム”を嫌っていました。

ダジャレ問題に直面しなければならなくなったのは、広告デザインスタジオで仕事をしていた頃でした。仕事中、スタッフ間で交わされる会話は、ダジャレをはじめ、連想ゲームやしりとりなどの言葉遊びでした。ダジャレ方程式が発動し、「サムイ!サムイ!」と嫌がっていたのは少しの間。一度、ダジャレが思いつきはじめると、どんどんダジャレが思いつくようになります。頭の蓋がパカーンと開いて、頭の中の知識や言葉がこぼれ出すような感覚です。

ダジャレに必要なのは、語彙数です。知識です。それらを手に入れるために必要なものは、経験です。体いっぱい使って手に入れた経験は、頭の中で記憶され、たぷたぷと知識となって溜まってゆきます。松岡正剛『知の編集術』では「編集」とはなにかを説き、あらゆるものが編集されている事例を挙げながら、「編集稽古」通し、編集力を高められます。これはダジャレ力を上げる「ダジャレ稽古」でもあります。あるいは、文脈を知ること、ミームを受け取ること、創作をすることです。それは、生きる力なのかもしれません。そして著者によるとそれらは、ごっこ遊び、見立て遊び、宝さがし、言葉遊びなど「遊び」の中に潜んでいます。

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