哲学

即効性から「中庸」へ『綺麗なひとは、やめている。』

じっくり気長に取り組む「中庸」の美容法。

「変化しない」ための心得を知ろう!

東洋医学の専門家の美容法が気になった

美容本には「◯◯するなら△△をやめなさい」という謳い文句がよくあります。痩せたいなら、美肌になりたいなら、モテたいなら、砂糖を食べるなとか、シャンプーをやめろとか、お肉を食べないとか、バリエーションは数多あります。

本書のタイトルも『綺麗なひとは、やめている。』。まさにそのまま!「よくあるやつね」と思いました。

しかし、パラパラと中身を見ていると、随所に中医学(東洋医学)の考えに触れられており、よく見ると著者も中医学の先生でした。

東洋医学を引き合いに出すうさんくさい美容本もよくあって、根拠のない、都合の良い「医学」の扱いに辟易していました。

そこで、本当の中医学の先生が解く、美容。これについて知りたいと思い、読み始めました。

「中庸」の思想を知ると、やるべきことが見えてくる

「中庸(ちゅうよう)」という言葉があります。

ちゅう よう [0] 【中庸】

( 名 ・形動 ) [文] ナリ

考え方・行動などが一つの立場に偏らず中正であること。過不足がなく,極端に走らないこと。また,そのさま。古来,洋の東西を問わず,重要な人間の徳目の一とされた。中道。 「 -を得る」 「 -にして過甚ならず/西国立志編 正直」

中庸とは – 世界宗教用語 Weblio辞書

『綺麗なひとは、やめている。』ではこのように書かれています。

「中庸」とは、一番上でも一番下でも、そして真ん中でもない、ちょうどいい加減のことを差します。偏りがなく、しかし決して過不及の中間をとりさえすればいいという意味でもありません。ちょうど真ん中と誤解されがちなのですが、「中庸」の「庸」とは、平凡と恒常の両方の意味を持っています。

―楊さちこ『綺麗なひとは、やめている。』(幻冬舎、2013)p.12

上でも下でもない、だけど真ん中でもない。「ちょうど良い加減」、「塩梅」とか「頃合い」とかそういうニュアンスの言葉です。

ついつい「中庸」を、「真ん中」とか「平均」のように受け取ってしまいがちですが、意味が全然違います。

さらに、分かりやすい例も挙げられていました。

例えば、1週間掃除をしていない部屋があるとします。一見何も変わっていないように見えますが、いろんなところにホコリが溜まっているはずです。さらに1年間放置すると、家はどんどん傷む一方です。綺麗な部屋を同じように保とうと思ったら、毎日掃除をしなくてはならないのです。
普通の状態を保ち、維持することは簡単で当たり前と思われるかもしれませんが、実は努力が求められるものなのです。

―楊さちこ『綺麗なひとは、やめている。』(幻冬舎、2013)p.13

この掃除の例えを、自分の肉体に当てはめてみると、納得と同時に、グサリと図星されて胸が痛いです。

極端なキャッチコピーに心惹かれてしまうけれど…

「これだけで痩せる!」とか「オールインワン」とか、「1週間で◯kg減!」とか、そういう謳い文句は世に溢れかえっています。

冷静に考えれば「んなワケない」と思えるのに、だけれども内心、「これだけで綺麗になれるといいのに」「これで手っ取り早く痩せちゃおう」と期待している自分もいます。

あさよるの「極端」な経験談(;´д`)トホホ…

恥ずかしながら、あさよるも以前、極端なダイエットをしてすごく後悔をしています。

あさよるが挑戦したのは「炭水化物抜きダイエット」。食事の量は減らしませんが、一切の炭水化物を食べないというものです。

確かに、数ヶ月で10kg以上の減量に成功しました……が、あっと言う間にリバウンド。ダイエット開始以前より体重が増えました。

さらに翌年、再び炭水化物抜きダイエットに挑戦。この時も数ヶ月で10kg減量しました。が、やはり数ヶ月後にはリバンド。元の体重以上になりました。

そしてそして、3回目の挑戦……は、できませんでした。2回の極端なダイエットを繰り返したせいで、すっかり筋肉量が減り、基礎代謝が落ち、「痩せられない体」になってしまったのです。

結局、一番初めのダイエット開始前より10kg近く増量したまま、なかなか体重が減らせなくなってしまいました。未だに、筋力を増やしつつ減量を試みていますが、ダイエット開始前の数値には到達できていません(´;ω;`)

今だからこそ「中庸」がいかに大切なのか、痛いほどわかります。

「変化しないこと」の重要さを知る

美容やダイエットを考えるとき、すぐに「変化すること」を考えてしまいます。

しかし、先ほどの掃除の例にもあったように、むしろ「変わらないこと」の方が重要です。

あさよるも30代になって「10年前の自分に戻りたい」「10代の頃のみずみずしい肌が欲しい」と思うようになりました。憧れの対照が、キレイな女優さんやモデルさんではなく、過去の自分になったのです。

自分もかつて、若さを持っていた。若さは美しい。だけどもう、あの頃の美しさは手に入らない。そう思うのです。

きっと10年後も、20年後も、30年後も、そう思うでしょう。

だからこそ「今を維持する」ということが、10年後の自分を美しくすることです。

人生を120年スパンで考える

「中庸」の美容法は、とても気長です。

極端なことをしない。すなわち、即効性のある美をヨシとしません。

中医学(東洋医学)の世界では、人間の一生を120年スパンで考えるんだそうです。だから、美容についても人生120年の単位で考える。還暦でやっと折り返し地点。気の長い話です。

明日は、今日よりも一日分、老いてゆきます。もし、明日も今日と同じ若さが保てたら、1日分若返ったということです。その積み重ねが「中庸」の美容法なのです。

一つだけ、100日単位で「やめてみる」

長々と書きましたが、『綺麗なひとは、やめている。』の多くのページは、具体的なやめるべき習慣が挙げ連ねられています。

冷たいものを飲むのをやめる。袖のない服をやめる。だらしない姿勢をやめる。などなど、30ものやめるべき項目紹介されています。

しかし、ここで「中庸」です。

これらすべて、今日から突然キッパリとやめてしまうのは「極端」です。

例えば「シャンプーをやめる」という項目があります。ですが、金輪際一切のシャンプーをやめるわけではありません。毎日洗わなくても、3日に1回でいいんじゃない?というやめ方です。

「化粧水をやめる」のも化粧水を使わないのではなく、洗顔後、少し時間を置いて化粧水をつけましょうという提案です。

「夜食をやめましょう」と言い、どうしてもお腹が空いたときの対処法も紹介しつつも、それでも我慢できない!って時は、仕方がありません。潔く夜食を食べる。

そして、挑戦してみるのも「一つだけ」。

極端な変化は避け、少しずつ100日単位でチャレンジしてゆきます。本当に、気長な取り組みですね。

即効性よりも持続性!ン十年後も美しくいたい人へ

やっぱり即効性のある美容法に心惹かれる気持ちは、あさよるにもあります。

しかし、根本的に美しくなりたいならば、長期的な目標に取り組むべきでしょう。

しかも一気にたくさん着手するのではなく、一つずつ、少しずつ。

『綺麗なひとは、やめている。』は、「中庸」の思想を意識しつつ読み進めると納得のゆくものばかりです。

この手の美容本は、なんやかんや言いながら短期的に結果の出る方法も紹介したものが多いですが、本書は一貫して「中庸」。一風変わったアプローチで、オススメです。

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「自分らしさ」ってなんだろう?『てつがくを着てまちを歩こう』

鷲田清一『てつがくを着てまちを歩こう』書影

この地球上に生きとし生ける生命は数あれど、衣装を身にまとって生きているのは人間だけです。「服を着る」というのは、人間の活動の中でも、とりわけ人間らしい、文化的な営みです。

その「服」を、流行りだから、トレンドだからと、ただ「みんなが着ているから着ている」ではいただけません。

本書が出版されたのは2000年。その前の90年代は、DCブランド主義の時代でした。誰でも彼でもシャネルやヴィトンの衣装に身を包み、ブランド物を集めるために人生を賭ける人さえたくさんいました。

ファッションってよく考えると、なんかヘン!

どうして、男性の服は女性も着るのに、なんで女性のスカートやリボンを男性がつけると「ヘン」なのでしょうか。

どうして女性はカラフルで鮮やかな服を好むのに、男性用の持ち物は地味なのでしょうか。

見た目で他人は「◯◯さんらしさ」を決めてきます。周りのイメージと、自分の自覚とがズレていて、苦悩することも多々あります。「らしさ」って、一体何でしょうか。

「自分らしさ」って、何でしょうか。

モードとファッション

フランス語のモード(Mode)は、英語ではファッション(Fashion)で、どちらも「流行」という意味です。流行の中でも、被服の流行ほどめまぐるしいジャンルはないので、被服の流行を指して「ファッション」と使われることが多いですね。「モード」は、パリコレを始め、コレクションで発表された最新のものを言います。

モードは身体を象徴化する

モードは、人間の身体的特徴を切り取ります。身体を切り刻み象徴化してゆきます。

19世紀に起こったモードの波は、今日の大衆の意識や概念すらも変えてゆきました。

本来、人間の身体は男女で違いますが、差は大きくありません。しかし、モードがその男女の性差を切り刻み、女性はより女性らしく、男性はより男性らしく象徴化されたのです。

現在の、女性らしいファッション、男性らしいファッションは、19世紀以降に起こった変化です。その間にも「洋服」が世界中に広まりましたから、この強調された性差のファッションも、世界へ広まったのです。

男性らしさ・女性らしさが象徴化されたファッション

男女の性の差別化は、さらに、「見る側と見られる側」という役割を生み出しました。女性はきらびやかに着飾る一方、男性からは色が抜き取られました。女性はカラフルな色やレースや装飾が好きで、男性はシンプルなものが好きというのは、19世紀以降に登場した価値観です。

たとえば、中世のヨーロッパ貴族の衣装は、男女ともレースや刺繍がふんだんに施され同じように豪華です。日本の中世もまた、武将たちはド派手な鎧に身を包みます。

ファッションは、社会の常識や概念すらもつくり上げるのです。

ファッションの持つ意味

服は不思議なもので、自分の一部のような感覚があります。無理やり服を着せられると悲しい気持ちになり、屈辱的でさえあります。まるで自分の皮膚のように感じられるのです。

服の上からでも、好きな人に触れられれば嬉しく、嫌な人に服を触れられると嫌な気持ちになります。

ファッションの持つ哲学

一方、ファッションは身にまとうことで、世界の仲間に入り、社会に参加ができる制服のような働いをしています。みんなと同じものが欲しい!みんなと同じ服が期待!と思うのです。しかし反対に、自分だけのものが欲しい!人とは違うカッコがしたい!と、真逆の気持ちを抱えているものです。ファッションにより、別の世界へゆける、「変身」の役割を果たしているのです。

「変身」と被服や化粧が大きく関わることは、宗教神事でも見受けられます。特別な面・マスクを着用したり、独特の化粧を施したり、特別な衣装を待とうのです。お寺のお坊さんは質素な身なりに草履を、神社の神主さんは清潔感あるカラーの水干を着ています。宗教とファッションも、大きく関係しあっているのです。

まさにファッションは「哲学」ですね。

社会の中での、自分らしさって?

「ファッションってよくわからない」「流行をチェックしないと」「自分が気に入った服を着ればいいんでしょ」

そんな風にファッションを捉えている方は多いでしょう。ですが、「服を着る」という行為そのものが、どこまでも人間的で文化的な営みでしかない以上、そこに何らかの「文脈」や「考え方」「哲学」が存在します。

その哲学を共有しあうことで、仲間だと受け入れられたり、コミュニケーションが成り立つのです。「おしゃれを楽しむ」ってこういうことなんですね。

自分らしさの証明のために

と、難しく考え込むよりも、ファッションで大切なのは自分が着たいものを着るのではなく、それを見る人への気配りをすることだと著者は言います。

「自分らしさ」は肩肘張って演出するものでありません。他の誰かから「あなたを認める」「あなたの側にいたい」と言ってもらえることこそ、自分が自分である証明になるでしょう。

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みんなと同じでいながら、みんなと違っていられる『ファッションの技法』

「おしゃれに見られたい」

誰もが持っている願望です。
だけど、見られたいって、一体「誰に」見られたいのでしょう?

その場その場の流行を追いかけることはバカバカしく感じる反面、流行がすごく気になって仕方ありません。「ファッションなんて興味がない、人は見た目じゃない!」と言いながら、デートの前には準備に余念がなかったり……。

ファッションが掴みどころがなく難解にさえ感じてしまうのは、クルクルと目まぐるしく変わる、人の心がそうさせているのです。

見られたい、けど、見られたくない。目立ちたい、けど、目立ちたくない。わかってほしい、けど、わかられたくない。

相反する気持ちが同時に存在する人の心が、ファッションに映しだされます。

『ファッションの技法』を読んで、Yes と No を同時に言う、ファッションの根本を知りました。

おしゃれするために、ファッションを知りたい

「おしゃれをしたい」という願望が以前からありました。

実は、「カワイイ」「カッコイイ」と思われたいとも内心願っていましたし、なにより「ダサい」と思われたくありません。

漠然と思っていたけれど、どうしていいのかわかりませんでした。

ファッション誌を買って読んでみたけれど、なにか釈然としません。この春のトレンドはわかりましたが、その、「トレンド」ってなんなの?そもそもの定義や文脈を知りたかったのです。

それに、そもそも、なんで「おしゃれをしたい」と思うのでしょうか。なぜ「ダサいのは嫌」なのでしょう。自分の胸のうちで湧き上がる気持ちを、知りたいと思いました。

ファッションに関する本を読んでわかったこと

ファッションを取り扱った書籍はたくさんあります。しかし、知りたい情報が網羅されている書籍はなかなか見つけられませんでした。

中高生向けの、ファッション入門編で知ったこと

はじめに手に取った『ファッション・ライフのはじめ方』は、中高生の男の子に向けて書かれた書籍でした。

もちろん、あさよるは中学生でも男性でもないので対象ではありませんが、たいへん勉強になりました。

服を着ておしゃれをするのは、人間だけです。ですから、服を着ておしゃれをするのは「人間らしい」行為だと気付きました。

そして人は、立場に見合ったファッションをしないといけません。先生なら先生らしく、医者は医者らしく、子供は子供らしい服を着ます。服装が立場を表す記号になっているということは、人間の社会性でしょう。服により、コミュニケーションを図っているのです。

社会性を持ち、社会を形成するのも「人間らしい」営みです。

やっぱり、ファッションと「人間らしさ」は切っても切り離せないんです。ということは、人間誰しもファッションに身を包んでいるということです。意識する/しないに関わらず。

ファッションは哲学だ

次に、良書に出会いました。

著者・鷲田清一氏の思想が存分ににじみ出ていながら、近代のモードを総ざらいしてゆく一冊。

著者の思想に満ちていることは、むしろ良いことです。ファッション自体が思想なのですから。そして著者もそれを促します。なんてったって、タイトルが『てつがくを着てまちを歩こう』なのだから。

コレクションで発表されるモードがしてきたこと。男性らしく、女性らしく、象徴化されてゆき、またそれらを破壊し、再構築され、延々と続いてゆきます。

女性の働き方に問いかける『ビジネスファッションルール』

『ビジネスファッションルール』は趣が変わります。

女性が社会進出を果たそうとする現代なのに、女性の間にビジネスファッションが行き渡っていないのです。立場に似合わない、不相応な服装をしている女性たちにレクチャーします。

キャリアアップを目指し「稼げるファッション」が紹介されます。

社会は大きく変わり、これまでにはなかった女性像がすでに打ち出されいることが分かります。これまでになかったからこそ、迷い間違えてしまうのです。

ファッションは女性の生き方を指し示します。

国境を超えて、普遍的な美しさ

さらに、アメリカのファッションアドバイザーの書籍に触れることで、国境を超えた普遍性を垣間見ました。

美しくあるということは、細部まで配慮が行き届いたことです。立ち姿、歩き姿一つとっても、美しくなれます。

肉体もまた、ファッションの一部

被服が「第二の肌」であるように、肉体もまた服の一部です。だって人間は、肉体そのものの形まで変えてしまいます。髪を切り、体毛を剃り、年がら年中ダイエットに明け暮れるのです。

肉体そのものを思いのままにカスタマイズしてしまう。それは日常です。

ですから、服は体の一部とも言えますし、体は服の一部でもあります。お化粧もせず、アクセサリーもつけず、裸になったからといって、はたしてそれは「その人らしさ」が表れたと言えるでしょうか。

裸になってしまえば、みんな同じです。むしろ、没個性になってしまいます。

どの著者の主張にも共通していること

これまで読んだ書籍には、三者三様の哲学がありました。考え方や目指すものも違います。

しかし、どこか共通している部分も多々あります。

それは、服は自分を表すということ。

「他人からどう見えるか」が大事なこと。

被服は「第二の肌」と呼ばれ、特別な意味合いがあること。

見せるために隠す、隠すために見せること。

女性らしさと男性らしさの違い。

そして山田登世子『ファッションの技法』に出会った

著者・山田登世子氏の、考えを読もうと思いました。口コミによると、服の機能やその歴史や、ファッションにまつわる話題が記載されていて、著者の思い入れやセンスが溢れている、とありました。どうやら、ファッションを語る上で思想が関係していることは、他の本を読んで知ったことです。

誘惑するのは女。ファッションは雄弁に語る

『ファッションの技法』では、女性を「誘惑するのは女」と定義します。アプローチは男女それぞれできますが、最終最後、Yes or No を出すのは女性です。

ファッションは雄弁に語ります。

しっかりと刺繍がほどこされ、たっぷりとレースがあしらわれた揃いの下着。足の先まで下着と同じ色のマニキュアが塗られていたら……。なんの言葉も、なんの仕草も必要ありません。その存在だけで「誘惑するのは女」なのです。

ファッションは、恋をするために必要です。

「おしゃれに見られたい」…って、誰に見られるの?

また別の欲求もあります

「人から認められたい」「おしゃれに見られたい」という願望です。あさよるが抱えている欲求ですね。

しかし、「見られたい」と言って、一体誰に見られるんでしょう。友人?恋人?知らない人?それとも自分?

答えは、それらすべて。

人の目が気になり、人からどう見えているのか気になることも、「社会」に属している実感です。誰もいなければ、完全に孤立していれば、そんな気遣いらないのですから。

だから、ファッションに身を包み「みんなと同じでいたい」のです。みんなと仲間でいたいのです。そのためにみんなと同じ流行、トレンドが必要です。

みんなと同じでいたい/みんなと違っていたい

だけど同時に、「人と違っていたい」とも思います。みんなの中に埋もれたくない、自分は自分であり、唯一の存在なのですから。

人に見られたい、だけど、人に見られたくない。

特別でいたい、だけど、特別になりたくない。

全く相反する気持ちを、誰しもが抱えています。変な気持ちだけれども、その気持ち、わかりますよね。

ファッションの明日は「わからない」

つまるところ本書を読んでも、ファッションについて結局なにもわかりません。たった一つだけ「ファッションはわからない」ということがわかります。

ファッションは軽薄です。

移ろいやすく、次から次へと止めどなく流れ続けます。

ファッション誌が「この春流行!」と書き、広告代理店がセンセーショナルな広告を打つ。テレビがそれを持て囃し、口コミが瞬く間に広まり「流行」する。

だけど、明日何が流行するかは、誰にもわかりません。「みんな」の「気分」が、流行を動かし続けるのです。

なんとも変な世界が、きちんと心に根ざしている

それが、社会に属しているということなのでしょう。みんなと同じファッションを追いかける。だけど、みんなと違っていたいから、自分流の、自分だけが知っているファッションに手を伸ばす。

そうやって「みんなと同じでいたい」だけど「みんなと違っていたい」と相反する気持ちが流行を作り上げ、瞬く間に廃れさせてゆく。

ファッションには中身がないし、実態がありません。

だけど、誰もが持っている思想があり、自分にはわかる文脈があるのです。

なんともまぁ、変な世界でありながら、ファッションに恋い焦がれる気持ちも、ひしひしと実感してしまう。自分にも、「人と同じでいたい」だけど「人と違っていたい」という感情が、きちんと根付いていることに気づきます。

みんなとは違う、同じファッションを追いかけるために

著者・山田登世子氏が大学でファッション論の講義をし、学生たちへの問いかけから、本書は生まれました。

ですから、著者のひとり語りにはならず、講義でのエピソードや、学生たちの考えも紹介されます。だから、知識が乏しくても、置いてけぼりにもならずに読み進めることが出来ました。

ファッションとは、ファッションについて語る時、語り手の思い入れ抜きには語れないらしいのです。その人のこだわりや思想がアリアリとにじみ出ます。

20年前の流行も、現在の流行も、本質は同じ

ファッション、モードは、いわゆる“若者ファッション”も否定しません。好みはあるでしょうが、それらもファッション・モードの文脈で読み取られるのです。

本書が出版されたのは1997年。もう20年近くも前です。

本書内で紹介される最新の流行は、もちろん20年前のものだから、10代20代の若い方には、ピンと来ない内容もあるでしょう。だけど、本質はそこではないので、ササッと読み飛ばしてしまえばOK。

大事なのは、流行の「見方」「捉え方」です。過去の流行したモノの固有名詞に、現在の流行のモノを当てはめても成立します。

これからも「みんなと同じ」ファッションを追い求めることでしょう。しかし、19世紀から続くモードの波を知っていれば、「みんなと違う」おしゃれになるでしょう。

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『西洋哲学の10冊』を読んだよ

「なんでだろう?」「不思議だなぁ」と思うことは大概、既に昔の人も同じように悩み、考えぬいているものです。
先輩方の経験や考え、結論を教わる手段の一つが、本を読むことではないでしょうか。
この先輩たちは、いくら時代を遡っても先輩の先輩の先輩の……と果てしなく続きます。
『西洋哲学の10冊』では、10人の人生の先輩たちの考え抜いたテーマの、エッセンスが紹介されています。

分からないこと、知らないことに出くわしたとき、「ああ、自分はなんにも知らないんだなぁ」とほんの少しだけ落ち込み、しかしそれ以上に「なんだか面白そうな知らない世界を見つけたぞ!」とワクワクします。
ですが、知らない世界へ飛び込むには、右も左も分からりませんから、道案内が必要です。

道案内役になる書籍、というものにたまに出会います。
私にとっては、赤塚不二夫さんの本だったり、歴史小説だったり、旅日記やマンガだったりと、ジャンルは様々でした。
その時々、タイミングや必要に合わせて、道案内役は変わるでしょう。

最初は未知の世界だったジャンルも、次第に自分の力で見渡せるようになった時、道案内役は役目を終えます。
「ああ、今読むと、なんでこんな本を足がかりにしたんだろう」と不思議に思えることもあります。

本書も、西洋哲学という「未知の世界」へ飛び込む時の良いガイドになるでしょう。
そしていずれ、その分野について深く知識を身につけた時、読み返してみて自分の成長を感じてみるのも良いでしょう。

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『日本辺境論』|田舎者でゴメン(・ω<) テヘペロは強い

こんにちは。本は寝かしまくる あさよるです。大体、人からおすすめされると、3年スパンくらいで着手し始めます。一応、読むのは読む。いつになるのかわからないけどね…!という感じ。そして、積みまくったのが内田樹さんの『日本辺境論』です。二回の引っ越しも経た。やっと読みます。

これは、2009年の出版当時話題になっていて読もうと買っておいたものでした。その間、世間は大きく変わったような、だけど大枠ではあまり変わっていないような。2009年から2018年の9年間は、たくさんのことがありすぎて、よくわからない時代でしたね。そんな、ここ近年の出来事を思い出しつつ、『日本辺境論』を読むのでした。

世界の中心……じゃないからできること

内田樹先生の『日本辺境論』は出版当時、話題になっていた頃から積んでいました。2009年11月の本ですから、積んだね~!w

「日本辺境論」とは、日本人が持ち続けている辺境根性とでも言いましょうか、日本人の処世術を解説するものです。ちなみに「辺境」の反対は「中心」。日本にとっての中心は、長らく中華思想でした。

アメリカはその建国の歴史から、ルーツも様々な人々が集まっていますから「我々はこういう者だ」という名乗りが必要です。それを「アメリカというアイデア」だと紹介されていました。それに比べると、日本人は「日本とはこういう者だ」がありません。日本の歴史よりも前から日本列島には人々が住んでいて、大陸とは海で分断されているんですから、名乗りなんて必要なかったのです。

そして日本人は対中国との交渉によって〈自分たち〉であることを自覚するのです。明治の文明化では、相手はヨーロッパでした。日本は、自分たち以外の何かと対峙して初めて、〈自分たち〉を認識します。そもそも「日本」という名前も、「日の本」つまり「太陽の上る方」という意味であり、それは「中国から見て東側」という不思議な名前だと書かれていて、なるほど言われてみれば。

そして、日本はどうにも上手いこと大国と渡り合っているのです。「日の出国の天子より」なんて無礼な手紙を出したり、天皇から位を授けられた征夷大将軍が「国王」と名乗ってみたり、なかなか無礼です(部長が「社長です」と名乗って取引先に挨拶するなんてあり得ない)。で、それを「田舎者なんでわかんなくてゴメンナサイ」とテヘペロしながら、言いたいことを言って、大国と渡り合ってるんですよね。自分たちが辺境に生きていることを自覚し、それを逆手にとって外交をしているのです。これ、すごいじゃん!ってのが、『日本辺境論』を読んでの発見でした。

「この人スゴイ」はスゴイ

んで、内田樹先生も、日本の辺境っぷりは悪いものとはせず、「とことん辺境で行こう」と仰っています。

辺境人の良いところは、素直に「中国すごい」「ヨーロッパすごい」と思ってしまうところです。自分たちが辺境の田舎者だと思っているからこそ、だから「素直に学ぶことができた」というのです。この感覚わかりますよね。自分が「この人スゲー」と思っている人の言うことなら、理解できなかったとしても「たぶん何かすごい意図や意味があるんだろう」と取り入れることができます。反対に、一回でもナメてしまった相手の言うことはもうなんにも響きません。

相手を「すごい」と思える能力って、学びには重要な要素です。これはずっと持ち続けたい力ですね。

エイヤッと飛び込む

次いで「機」を見る能力が紹介されています。機とは、「清水の舞台から飛び降りる」ことです。日本は欧米から鎖国をやめて開国を求められ、明治維新が始まりましたから、「近代」という時代には後ノリをしました。つまり、なぜ始まったのか、なにをやっているのか、ルールもわからないゲームに途中参加させられたのです。その時、持ち前の学びの姿勢が発揮されるのですが、同時に「エイヤッ」と飛び込むタイミング、それが「機」です。ヒトは元々「機」を持っています。じゃなきゃ、動物として生き残れなかったはずです。そして、大国は自分たちの強さ故に、機を忘れてしまっている。日本人は辺境人だからこそ、「エイヤッ」と飛び込む機を持っています。

日本語

さらに、「日本辺境論」では、日本語の持っている特性にまで話題が及びます。日本人は元々文字を持っておらず、中国語を輸入しました。そして、わたしたちは未だに、中国から輸入した漢字も使ったまま、だけど日本語のまま文章を書いて理解するようになりました。折衷案的ですね。

相手の力を使う

たぶん、辺境的であるって「カウンターをとる」とも違うんでしょうね。対抗するのではなく、力をいなすというか、相手の力を使って、自分の持っている以上の力を発揮するというか。名人技です。

新書一冊じゃ全然足りないわ

『日本辺境論』は以上のような内容を扱っているのに、たった新書一冊なんです。だから、当然ながら全然足りてませんw どの章も駆け足だし、特に最後の日本語の特性なんて、こんなページ数で何も言えないだろうと(苦笑)。どの話も、風呂敷を広げたところで時間切れ~続きはこちら……みたいな感じですね。もちろん、それは読書や学習を促す意味では良いのかもしれませんが、読了感としては「え~!ここで終わるの~」とw

内田先生の本はその時々のタイムリーな話題を上手いことトッピングされていますから、今『日本辺境論』を読んで「2009年ってこういう気分だったんだな」と今さら振り返ったような気持ちです。

2009年前後と言えば、Twitterのアカウントを作って遊び始めた頃でした。今はもう消してしまったアカウントなのですが、当時高校生の年齢だった男の子が『日本辺境論』についてツイートしているのを見て、あさよるの読みたい本リストに入ったままでした。「当時高校生の年齢だった男の子」とは、高校へ行かず大検を目指してたとかだったんじゃないかなぁ。彼はその後、元気にしているんだろうか。

話の脱線ついでに、ちょうどこの頃、あさよるはまだ学生で、進路について聞かれたとき「何も考えてないけど、ブログを毎日書いてるから、それをなんとかしたい」と話したのを覚えていますw 約9年前からやってることも考えてることも大して変わっていないw そして、9年越しに、おすすめされた本を読んでいたりする。

その間、内田樹さんもWikipediaによると、単著で20冊以上、共著も合わせるととんでもなくたくさん本を出版なさっています。「『日本辺境論』だけじゃ全然足りないよ」というなら、他の本で補うと良いのでしょうか。

といった感じで、あさよるも自分のこの9年間を思い出し語るとき、「自分はこうだった」と言えず「あの人はああだった」「この人はこうだった」としか言えません。とても辺境的w ただ、だらこそ好奇心は忘れないまま、今も楽しくキョロキョロと何かを探しているんだと思います。

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