生き方を考える本

才能とは何か? 努力が無意味な遺伝の話

「親ガチャ」なんて言葉もあるけれど、実際のところ、わたしたちはどれくらい、生まれながらの要因で決まっているんでしょうか。

遺伝について研究なさっている安藤寿康さんの『日本人の9割が知らない遺伝の真実』によると、「遺伝」の要素って大きいみたいなんですよね……。

信じたくないものだな。

勘違いされがちな〈遺伝〉の話

本書では、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』のヒットにあやかった便乗本であることが告白されています。

『言ってはいけない』は、遺伝にまつわる誤解を解く内容で、専門知識がなくても読める内容に書かれています。

しかし、ちょっと露悪的すぎでもある。

その点、『日本人の9割が~』の方は、研究者が書いた本ということもあり、言葉を選んで客観的に書こうと努めていらっしゃることが伝わってくる。

IQも年収も遺伝で決まる?

IQも年収も、遺伝によるところが大きいそうです。

面白いことに、若い頃よりも年齢を重ねた方が、遺伝の要因が強く出るそうなんですよね。

しかし、IQというのは賢さの一つの指針ではあるけれど、それだけのものです。

なのに、机の上のテストの結果によって、人々の優秀さを決め、職業を決め、それが年収を決め、その人の評価を決めてしまうのは、なんだか変な世界でもあります。

テストの結果は思わしくなくても、それ以外の能力を持ってる人ってたくさんいるからね。

頭が良いのは遺伝?

本書の冒頭で、「かけっこ王国」のたとえ話がなされます。

かけっこが速い(走るのが速い)人が評価されるこの王国では、18歳の時のかけっこ大会で進路が決まり、職業が決まり、年収が決まる世界。

かけっこは遅かったけど、他の才能を持っている人もいるのですが、社会の中では評価されません。

変な世界ですよね。

この「かけっこ」を「賢さ」に入れ替えると、今の社会も変だなあと気づかされます。

そもそも「賢さ」って?

ここでいう「賢さ」というのは、かなり狭い意味での賢さです。

知能テストで測れる「賢さ」。

つまり「IQ」の高さなんですよね。

それ以外の頭の良さや能力は客観的に測れないので、無視されてしまっているのです。

測れない才能の方が多い

当然ながら、測ることはできないけれども、他にない才能であるという事柄は存在します。

職人には職人の賢さがあるし、料理人には料理人の賢さがあります。

「勘」「センス」とか、そういう類のものですよね。

でも、そのような能力は測れないので、評価されにくいのです。

そればかりか、「測れるテスト」の点数が悪かったせいで劣等感を抱いている人すらいるかもしれません。

変な世界です。

明快な答えがある話じゃない

本書『日本人の9割が~』は現在も研究中の内容を扱っています。

さらに、これからの教育についても扱います。

だから、明快な気持ちのいい答えが用意されたものではありません。

もし、読了後のスッキリ感や感動が欲しいなら、別の書籍を。

反対に、知っているつもりでよく知らない〈遺伝〉のことや、教育、能力について、新しい発見や気づきがあるかも。

なぜだろう? どうしてだろう? と、答えはないけれども考える指針はある。

結論は「自分次第だ」と分かると、元気が出る人もいると思います。

(逆に、白けちゃう人もいるかもしれないケド)

分かりやすい才能ばかりじゃない

子どもの才能を伸ばしてやりたいと考えている方もいらっしゃいますね。

子どものうちに才能の芽が出る子っていますが、それは「見つけやすい才能」だった時の話です。

例えば、楽器の演奏が上手いとか、他の子より運動神経がいいとか、そういうの。

見つけやすい才能を持っている人は、先ほどの「測れる才能」と同じく、分かりやすいので人に評価されやすいんですね。

しかし、大人になってから芽が出てくる時間のかかる才能もあります。

地道に、社会の中で揉まれながら、少しずつ少しずつ磨かれていく才能もあります。

あくまで、子どもの頃に見つかる才能は「見つけやすい才能」のみ。

ほとんどの人は、時間をかけて才能を磨き手に入れていくんですね。

現在の教育は悪くない、でもベストでもない

現代日本の小中高の教育を著者は否定しません。

多くの人が教育を受けられることに加え、多種多様な「部活」も用意されており、自分の才能を模索する人も少なくありません。

教員の質が話題になることもありますが、概ね同じくらいの教員が用意されていることも評価しています。

しかし、今の教育がベストでもありません。

繰り返しますが、現代の教育は「測れる知能」が評価され、それ以外の人は大きな劣等感を抱くシステムでもあります。

本当は才能のあるはずの人が、劣等感を抱いてしまってはよくないですね。

多様性を見出す教育のかたち?

現在の教育がベストでないなら、どんな教育の形が望ましいのでしょうか。

本書では、学校で従来の学習をするよりも、若いうちからインターンシップに出て、本物のプロに出会い、プロの仕事を体験してみることが提案されていました。

どんどん、様々な分野に触れてゆく。

その中で自分に合った仕事を見つけたり、反対に「これは向いていない」と実感することもできます。

また、子どもの内は勉強して大人になった勉強しない社会ではなく、必要なときに勉強できる社会が必要です。

あなたの才能を見つけるために

子どもに勉強をさせても、ほとんどは忘れてしまいます。

リアル・キッザニアのように、どんどん社会の中で実際にプロの仕事に触れて、適性を見出してゆく方がいいんじゃないかってことなのでしょうか。

そして、学習は自分で、必要なもの・興味のあるものを選べばいい。

ポイントは「年齢は関係ない」ってところでしょうか。

必要とあらば、大人になっても、歳をとっても学ぶ。

本書を通しても読むと、どうやら「才能」というのは持って生まれた遺伝的なものが作用しているようです。

しかし、その才能を掘り起こし磨き上げられるかどうかは、環境や行動が作用しています。

自分で「向いてるんじゃないか」と思うことをやるのは大事。

自分の才能を伸ばすしかない!

わたしたちは生まれながらにある程度(というか、かなりの程度)、得意なこと不得意なことを持って生まれてくるようです。

だから、得意なことを伸ばすしか道はなさそうです。

不得手なことで頑張っても、それが得意な人には適わないんだから。

すごく当たり前な結論と言っちゃえばそうなのですが、その結論の根拠を示してくれているので、この『日本人の9割が知らない遺伝の真実』は読む価値アリな一冊ではないでしょうか。

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日本人の9割が知らない遺伝の真実

  • 安藤寿康
  • SBクリエイティブ
  • 2016/12/6

目次情報

  • 第1章 不条理な世界
  • 第2章 知能や性格とは何か?
  • 第3章 心の遺伝を調べる
  • 第4章 遺伝の影響をどう考えるか
  • 第5章 あるべき教育の形
  • 第6章 遺伝を受け入れた社会
  • あとがき
  • 参考・引用文献

消費のために忙しく働くわたしたちへ『贅沢の条件』

贅沢ってなんだろう?

贅沢をするために、「暇」を捨てたわたしたち。

山田登世子さんの本が読みたかった!

以前、山田登世子さんの『ファッションの技法』を読み、とても実りある書籍だったため、同著者の本を読んでみようと思いました。

本当は、ココ・シャネルについて書かれた本を読みたいなーと思いつつ、まずは先に入手できた『贅沢の条件』から読み始めました。

結論から言うと、あさよるは山田登世子さんのファンになってしまったのかもしれません(*´ω`*)

贅沢ってなんだろう?

あさよるは「贅沢がしたい!」と切に思うことが多々あります。たまには贅沢な食事がしたい!贅沢な旅行がしたい!贅沢なパジャマで寝たい!贅沢なインテリアに囲まれたい!

みなさんも同じような願望、あるんじゃないかと思います。

現代の我々にとって、「贅沢」って、物を買ったり旅行したり、いつもよりグレードの高いサービスを受けること。すなわち、贅沢をすることは、消費者として「消費」することです。

我々は消費をするために、せっせと働くのです。

「贅沢」の感覚は時代によって異なるのです。『贅沢の条件』では、フランス文化史を研究する著者が、主にヨーロッパでの「贅沢」をめぐる変遷を紹介されています。

絢爛豪華、きらびやかな男性たち

身分制社会では、男性がきらびやかな衣装で着飾り、ヒールを履き、宝石を身に着けていました。

17世紀のルイ十四世を招くため、財務長官は、絢爛豪華な城で祝宴を催します。そのたった一晩のパーティーのために食器や調度品が大量に用意され、王をもてなすのです。

ケタ外れな豪華さ、贅沢さですが、彼らにとって「贅沢」をすることそのものが仕事です。贅沢さは社会的立場を示しますし、浪費することこそが名誉。労働は不名誉なのです。

羨ましい話ですね(ヽ´ω`)

スーツ姿で闊歩する、ビジネスマンの時代

近代に入ると一転、ヒラヒラの豪華な服を着ていた男性たちは、ビジネススーツに身を包み、せっせと仕事に明け暮れます。

忙しいことがステイタスになり、暇を持て余すのは貧乏人の象徴。ビジネスマンたちはビッシリとつまったスケジュール帳を携え働くのです。

ビジネススーツからは彩色も削ぎ落とされ、機能性に特化しました。「労働は不名誉」とは正反対の思想です。

我々の生きる時代は「消費」が贅沢の象徴ですから、消費するための「報酬」の量がステイタスです。ですから、その報酬を得るための「労働」が贅沢への入り口なのです。

男性の分まで着飾る女性たち

男性が刺繍にまみれた衣装を脱ぎ捨て、ビジネススーツに身を包んだことで、その「装飾性」は女性の衣装に引き継がれます。

男性は自らの富を、引き連れる女性に豪華な衣装を着せることでアピールします。男性の分の装飾まで女性が追ったので、かつてないほどの豪華に豪華を極めた衣装が登場します。刺繍に刺繍を重ね、ビーズや宝石が散りばめられ、レースやギャザーをたっぷりよせ、それを重ね着します。

とても、そんな服装で女性は働けませんよね。

ココ・シャネル

ココ・シャネルという女性が、女性の衣装を一変させます。それは、女性の生き方、働き方の革命でした。

シャネルは豪華な衣服を脱ぎ捨て、色彩さえも剥ぎとった黒いスーツを身にまといます。質素なジャージー生地を縫製し、動きやすく働きやすい女性用スーツの登場です。

フェイクの宝石のアクセサリーを用い、かつての価値観を破壊しました。

あさよるはココ・シャネルという人物について何も知りませんでした。これから、シャネルについて知りたいと思いました。

「暇」は贅沢の敵になった

我々にとって、「暇」であることは忌まわしいことです。

週末に予定がなにもないこと、家に帰ってもすることがないことは、孤独や貧困を連想させます。

せっせとコンサートへでかけたり、ショッピングをしたり、部屋の中で読書をしたり、みっちりとスケジュールで詰まっています。

あさよるも、時間を持て余すとソワソワ落ち着かなく、「運動に」と散歩にでかけたり、料理や掃除を始めたり、「勉強だから」と本を開いたりします。移動中の時間ですら、何かしていないと気が済みません。

「暇」であることは贅沢なことのように思っていましたが、考えてみると、現代人にとって「暇」と「贅沢」は相反することなんですね。

暇=お金がない んですから、消費ができません。消費ができないと贅沢できないのです。

不要な「手間」こそが贅沢?

では、具体的になにを消費した時に「贅沢」なのでしょうか。

一つの答えとして、『贅沢の条件』では「手間」が挙げられていました。しかも、余計な手間。

スーパーへ行けば野菜が手に入るのに、あえて自分で野菜を育てる「手間」。新品で良い物はいくらでも手に入るのに、あえて古いものを探し、手に入れる「手間」。

「暇」「手間」……時間こそが現在の贅沢?

あえて手洗いが必要な生地を選んだり、現代では出汁を取るところから料理を始めることなんかも、贅沢かもしれませんね。

ああ、要するに「趣味」のカテゴリーに振り分けられるこだわりや美意識が「贅沢」なのでしょう。

「暇」「手間」……時間こそが贅沢?

「暇」が贅沢にしろ、「手間」が贅沢にしろ、そこに関与しているのは「時間」です。

有り余る時間をムダに過ごす「暇」に前時代の貴族たちは「贅沢」を見出しました。現代人は、時間をかけて「手間」かけることに「贅沢」を見出します。

もしかしたら、こんな「贅沢について考える」ことこそ、贅沢な時間の使い方かもしれませんね。

『贅沢の条件』では、贅沢な時間についても触れられます。それはそれは甘美な世界。あさよるには手に入らないだろう贅沢。

贅沢な時間のための、贅沢な知識

『贅沢の条件』を読んだからと言って、収入が上がったり、仕事の能率が上がるような内容ではありません。

贅沢の条件を知ったからと言って、贅沢ができるわけでもありません。しかし、「価値観」「美意識」を知ることは……うーん、知ったからと言って、どうなるものでもありませんね。

だけど、「贅沢」はそんな「ムダ」の中に宿るのは事実。生活を豊かにするのも、生きるに不要な、必要以上の知識や哲学だったりします。

万人にオススメ!とは言わないけれど、じっくりと自分の価値観を見つめたい人は、一読しても良いと思います。

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ホリエモン自伝『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』堀江貴文

失敗してもマイナスにはならない。

だからチャレンジし続けていいんだ!

ホリエモンによるエッセイ&「働くこと」のメッセージ

“ホリエモン”の著書は過去に数冊読みました。

『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』は、堀江貴文さんが出所後に出版された最初の書籍です。

“ホリエモン”の著書は過去に数冊読んでたので、『ゼロ』はこれまでと印象が違うなぁと思いました。

そこには、人間・ホリエモンの生い立ちや、コンプレックスなど、“人間味”の部分が吐き出されていました。

堀江さんも、あさよると同じ人間なのだなぁと、当たり前のことを思ったのでした。

堀江貴文さんが「ホリエモン」とテレビに表れるまでのストーリー

堀江さんは、普通の家庭で育った地方の田舎出身者だとご自身で書かれています。

確かにサラリーマン家庭という意味では“普通”なのかもしれませんが、個性的なご両親なんだろうなぁと思いました。

と言うか、本書内ではお母様を「強烈な」と評しておられます。

社会通念や常識を教えるのが家庭の役目なのかもしれませんが、優秀さや才能を育むには、「強烈な」環境も必要なのでしょうね。

コンプレックスを原動力に東大入学

あさよるもいろいろとコンプレックスを背負っている人間なのですが、それに押しつぶされてばかりです。

一方、堀江さんの場合は「田舎を出たい」「家から出たい」の一心で東大を受験し、見事合格。

地方から東大を目指す理由はよくわかります。堀江さんは九州の方です。九州にも名前の通った大学があります。進学したいならば地元の大学へ通えばいいのです。

それを押して「東京へ行く」には特別な理由が必要です。それでなくても上京するにはお金がかかりますから「私学へ行く」という選択肢は消えます。

例えば一橋大学も国立大ですが、両親が「一橋」を知ってるかというと……「東大」のネームバリューにはかなわないんですよね。

あさよるも、大学進学はなかなか上手く行かず骨を折ったので、「東大に行けばよかったのか!」と一瞬思い、その次の瞬間「いやいやいや」と打ちひしがれました(苦笑)。

小中高と、きちんと勉学を修めておくことは、自分の選択肢を広めることなのだなぁと思います。反対に、サボって勉強しないことは、自分の将来の道を自分で塞いでゆくことなのだなぁと気付きました。

10代の頃に戻ってやり直すことはできませんが、これから、自分のやるべき事を修めていこうと思いました。

成功体験?失敗経験?ヒッチハイクで0円の旅

堀江さんはたくさんのコンプレックスを背負い、特に女性の前では上手く話せない男性だったと告白されております。

その克服法?になったのが、友人から誘われたヒッチハイクの旅。高速道路のサービスエリアで、ヒッチハイクをしてお金がなくてもアチコチ旅をして回ったそうです。

だけど、そうそう車に乗せてもらえるものではありません。何台もの車にオファーをかけて、やっと20台に1台くらい乗せてくれる車を見つけたと言います。堀江さんはそこで、「成功体験」を積んだことで自信がついたと書いています。

しかし、あさよるは思うのです。

20台の内、1台がOKということは、残り19台はNGだったということです。ヒッチハイクを通して無数の「失敗経験」をした。それが後の糧になるのではないでしょうか。

失敗すればするほど、「次は」「次は」とどんどん改善を加えてゆくことになります。一発でなにもかも成功してしまっては、経験値は「成功した」ことしか上がらない。だけど、失敗を繰り返すと、失敗体験も増えるので、経験値は上がります。

元気が出る本!

失敗と成功を繰り返しながらも、「失敗してもマイナスにはならない」と言い切る堀江さんの言葉にとても励まされました。

失敗しても決してマイナスになることはない。ただ「ゼロ」に戻るだけ。ゼロに戻っても、またコツコツと「+1」を繰り返してゆけば良いのです。

大きな成功と、大きな失敗を繰り返しても、それでも夢を持って「働く」しかない。

元気が出ました。

ホリエモンが働き続ける理由

最後の章で、がむしゃらに働かなければならない「理由」が明かされています。

この理由、あさよるも同じ理由で暇な時間を作るのが「怖い」のです。人に告白するのも恥ずかしく、誰にも言えませんでしたが、堀江さんがそれを著書で語っていて「素直な言葉なのだあなぁ」と感じました。

何度も何度も読み返すような本ではないのかもしれませんが、「ホリエモン」という存在を知るために、読んでおいても良い本だと思います。

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14歳からの社会学  これからの社会を生きる君に

〈自由〉なことって〈不自由〉なこと?

自分の生き方、社会の生き方を考えてみる!

社会学の入門編として読んでみた!

「社会学」って一体なんだろう?と以前から気になっていました。

そもそも、どんな学問かすら知りません(^_^;)

社会学の入門本を探していたのですが見当たらず、「14歳の」とある『14歳からの社会学』を手に取りました。

『14歳からの社会学』で知ったこと

戦後日本は、焼け野原の中からスタートしました。

みんなで一所懸命働き、豊かになってゆくごとに、家庭に冷蔵庫が登場し、炊飯器がやってきて、テレビが投入され、物質的にも満たされてゆきました。

みんなが「豊かになろう」と同じ目標を持って頑張っていた時代は、個人の「幸せ」の形も共有されていました。

白馬の王子様の到来を待っていた少女も、年ごろになればお嫁にゆきます。多少タイプじゃなくったって、結婚し、子供を産んで家庭を持ち、家を買い、物質的にも徐々に恵まれてゆくことが、「幸せ」だと共有できました。

しかし、時代は変わります。

個人が「自分の幸せ」を探し始めた

一通り家庭内に物が行きわたると、次はその商品のデザインや、こだわり部分が大切になります。自分の個性や、感性が反映される物をみんなが求め始めました。

「自分」という個性に注目すると、「みんな」という社会の価値観とは隔たってゆきます。

自分なりの持ち物、自分に合ったテレビ、自分に似合う洋服が大切になり、「自分にとっての幸せ」を個人が模索するようになりました。

恋愛や、家族のかたちにも、バリエーションが生まれました。かつてのように、「みんなの幸せ」が「自分の幸せ」ではなくなったのです。

個人の〈自由〉を手に入れると〈不自由〉になった

「みんなの幸せ」がなくなってしまったので、今日では「自分の幸せ」を自分で探さなければならなくなりました。

自ら選び検討できる人にとっては、〈自由〉な時代です。しかし、自分で選ぶ力や知識のない人にとっては〈不自由〉な時代とも言えます。

本書のタイトルにもある「14歳」の中学生たちは、その幼さゆえに〈不自由〉な社会であることでしょう。いいえ、例え大人になったとて、社会の構造を理解し、歴史を知り未来を予想できる大人なんて、ほんの少数派です。

現在、みんなは〈自由〉にモノゴトを選択できる時代になりました。しかし、そのせいで〈不自由〉になってしまいました。

〈自由〉って……一体なんだ?

「自分の幸せを」自分で決めないといけない時代だからこそ、社会についてや、自由や権利についても、よく知っておかねばなりません。

現在は、「知らなかった」という言い訳も通用しない雰囲気すらあります。「自己責任」というヤツですね。

「自由には責任がつきものだ」とも言いますが、著者・宮台真司さんは、自己責任の論調にも触れつつ、そもそも〈自由〉とはどういう状態を指すのでしょうか。「第7章 〈自由〉への挑戦」にて丁寧に解説されていました。

今の〈自由〉は将来の〈不自由〉かもしれない

また、今、〈自由〉に感じることであっても、300年後の時代には〈不自由〉なことかもしれません。反対に、今の私たちから見れば〈不自由〉に見えることだって、昔は〈自由〉だと感じていたこともあります。

「幸せ」とか〈自由〉とか、普遍的なことではありません。その時代その次代の「社会」によって、「幸せ」や〈自由〉が変わるのです。社会が「幸せ」や〈自由〉を決めている、と言ってもいいかもしれません。

あれ、おかしいですよね。

みんなが望む「自分の幸せ」

日本人は戦後、豊かになることで、「みんなの幸せ」から「自分の幸せ」へとシフトしてきたはずなのに。「自分の幸せ」もまた、社会が望んでいる幸せであるということです。

ですから、遠くない未来では、また幸せの形が変化していると考えられます。

SF小説が社会学の入口になる?

宮台真司さんは、SF作品に触れることで、社会学を身近に感じようと提唱しています。高度に発達した社会を舞台に、そこで起こる事件や出来事を描き出すSF作品は、未来の社会を考える足がかりになります。

あるいは、安部公房の『砂の女』では、あり地獄のような砂の穴の中に落ちた主人公は、そこから脱出しようと挑戦しますが、次第に無理だと諦め、そこに住んでいる女性と共に生き始めます。状況が変われば、「幸せ」の形が変わってしまうのです。

社会学や哲学、歴史の勉強をするのは面倒くさいことです。しかし今、面倒くさいからやーめた!とラクをしても、近い将来はやっぱり「自分探し」や「幸せ探し」を始めなければならないでしょう。

ちょこっとだけ、著者のエッセンスに触れておいても良いでしょう。

14歳には難しい!?とりあえず通読がオススメ

タイトルに「14歳からの~」とありますが、14歳には、この本は難しいのではないかなぁと思いました。前提となっている知識や用語を、事前知識としてある程度仕入れておく必要があるでしょう。

親御さんや先生、子供たちと関わる仕事をしている大人が手に取ってみても良いでしょう。

もちろん、14歳だってチャレンジし甲斐のある内容です。文章自体は平易で読みやすいので、とりあえず最後まで通読してみては?

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なぜ物理が不可欠か『世の中ががらりと変わって見える物理の本』

カルロ・ロヴェッリ『世の中ががらりと変わって見える物理の本』書影

わたしたちは、地球が丸いと知っている。

丸い地球は、太陽の周りをグルグル回る。太陽も、大きな大きな銀河系の中にある。銀河系も無数に宇宙に存在する。そして、宇宙はビッグバンで始まった。そういう風に、わたしたちは学校で教わった。ビッグバン宇宙論は私たちの「常識」だ。

だけど、もし……。

1000年前の人に、わたしたちの「常識」を話して聞かせたら、ビックリ仰天腰を抜かすに違いない。だって、1000年前はまだガリレオ・ガリレイもアイザック・ニュートンも生まれていないんだから。

同じように、もし……。わたしたちが1000年後の未来の人と話ができたなら、わたしたちは彼らの「常識」にビックリ仰天腰を抜かすに違いない。だってきっと、今、私たちが「常識」「当たり前」と思っていることも、未来では覆され、当たり前が当たり前でなくなっているんだから。

現在・過去・未来と「時間」は一方通行に流れてゆく。そんなの当たり前。「意志」ってなに?だけど、私は私だよね。当たり前。なぜ命は生まれて、死んだらどうなるの?そんなの誰にも分からないよ。当たり前でしょ。

自分の「思い込み」から脱却せよ。

“7つの短い物理の授業”で物理を学ぶべき理由が示された

本書は2015年イタリアで話題になったベストセラーの翻訳版。原題は『Sette brevi lezioni di fisica』で、邦題にすると『7つの短い物理の授業』という、なんとも味も素っ気もないタイトルだが、《ロヴェッリ・ミラクル》と称され、本国では大人気になったそうだ(と、あとがきで紹介されていた)。

はてさて、なぜこれがイタリアで人気になったのだろうか?と、不思議でたまらなかった。内容は、よくある物理学の変遷に軽く触れつつ、相対性理論や量子力学など現代の物理に触れるものだ。しかもページ数も少なく、かなり駆け足で進んでゆくので、初心者向けにも関わらず、ある程度の理解がないと難解いのではないかと訝しんだ。

しかし、最終章を読み、なぜこれがベストセラーになったのか合点がいった。本書は、なぜ我々に物理学の知識が必要なのか、読者に答えを提示している。

それは「常識からの脱却」だ。

信じきると、信じていることすら気づけない

今、わたしたちは囚われている。それは、これまで人類が培ってきた「常識」「思い込み」かもしれないし、「思想」や「信仰」かもしれない。わたしたちは囚われていることにも気づいていない。そう断言できる。それは、現在の物理学が辿った変遷を見れば分かる。

かつて誰が、地球が宙に浮いたものだと想像できただろうか。南極と北極に立った人は、お互いに逆さまを向いて立っている。昼を制すあの太陽がまさか、この宇宙ではありふれた恒星だと、誰が想像できただろう。わたしたちは、かつての思想を破壊し覆すことで、現在の世界観を手に入れてきた。そして、今後もそれが起こり続けるだろう。

今わたしたちが信じきって疑いもしないモノゴトも、いずれ誰かが目をつけ、疑い、思いもよらない答えを導き出すだろう。だから、もし未来の世界にコンタクトできれば、未来の常識を知ってわたしたちは腰を抜かすだろう。それがどんなものなのかサッパリわからないが、我々の生死感や世界観が覆っているだろう。

東洋思想と西洋思想が混ざり合う時

西洋と東洋は相反するものではない。西洋と東洋は対になり、ユーラシア大陸という一つの島の中で、互いに影響し合い発展し続けてきた。今日の物理や医学など「科学」は西洋思想のもと、欧米の大発展とともに大きく飛躍したものだ。そして時代は流れ「先進国」であったヨーロッパも円熟期に差し掛かった。そして今、東洋の国々が発展しようとしている。今後、これまでの物理・科学に東洋思想が合間り、更なる大変革が起こるだろうと、楽しみで仕方ない。

それは、医学や科学技術などわたしたちの生活を豊かにするだろう。だからこそ囚われていてはいけない。しかも、わたしたちはアジア人だ。東洋の思想を持っている上に、西洋の学問を教育されている。すでに、両方を自在に扱える準備はできている。

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