30 社会科学

年代別勉強法をハックせよ! 年を取ると勉強できない…これマジ?

「勉強は若い内にしないとね。年を取るとできないから」

そんな言葉をかけられたことありませんか?

あるいは、そんな言葉を“若い人”にかけていませんか?

どうやらそれは間違いなようなのです。

勉強はいつでもできるし、むしろ年を取ってからの方が本番!

その理由は……

年を取ると勉強できない……と諦めてない?

10代の頃は教科書を丸暗記できたのに、年を取るとできなくなった……。

そんな落ち込み方してませんか?

10代の頃の「やり方」が通用しないのは、あなたの脳が成熟した証拠かも。

悪いことじゃないのです。

『すごい脳の使い方』によるとむしろ、大人になった方が勉強はしやすい脳になってるんだって。

若い頃の脳はまだ未熟! 脳が完成するのは20代後半

はっきり言いましょう。

「年を取ると勉強できない」

これはウソ!

わたしたちの脳は、大人になって、社会人になってから「完成」します。

そして、刺激を与え続ければ何歳になっても脳は成長するんだって!

脳の全盛期は50代! 望みを捨てるな!

脳が完成するのは、20代後半頃だと言います。

それどころではありません。

脳のピークは30代から50代

45歳から55歳は脳の最盛期だというからビックリ!

それまで成長し続けるってことですよ!

脳は刺激し続ければ80代でも成長し続ける!

さらに、55歳以降も、脳を働かせ続ければ成長し続けるってんだから!

希望しかない!

脳の細胞の数は二十歳頃から減ってゆくそうです。

だけど、脳にとって重大なのはネットワーク。

脳のネットワークは年齢を重ね、経験を重ねることが刺激になって成長します。

あきらめるな!

年代別の勉強法! 大人はこう勉強しろ!

本書では脳の得意分野ごとの集団を「脳番地」と呼んで8つ紹介されています。

  • 思考系
  • 理解系
  • 記憶系
  • 感情系
  • 伝達系
  • 運動系
  • 視覚系
  • 聴覚系

それぞれが相互に関係しているのですが、大人の勉強には特に「視覚系」と「聴覚系」を上手に使うのが重要っぽい!

視覚系と聴覚系を味方につけろ

視覚系と聴覚系は情報を選り好みします。

好きな情報は、

  • 命にかかわること
  • 興味があること/好きなこと
  • 過去に見聞きしたこと

ポイントは「過去に見聞きしたこと」です。

資格試験の勉強なんかで、全く知らないことを丸暗記するのは大人の脳は苦手です(子どもは得意)。

だから、一度顔見知りになっておく。

事前に「これ知ってる」「聞いたことある」状態にするのです。

分厚いテキストを丸暗記しようとするのではなく、「なんとなくわかった」くらいの知識をまずはつけましょう!

大人と子どもでは脳の特性が違うことを知って、すごい脳の使い方をしちゃいましょう!

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絶対おすすめ!『一生頭がよくなり続ける すごい脳の使い方』

  • 加藤俊徳
  • サンマーク出版
  • 2022年11月10日

目次情報

  • 序章 大人には大人のすごい勉強法がある
  • 1章 大人脳のすごい取り扱い説明書
  • 2章 大人脳にあったすごい記憶力アップ法
  • 3章 大人脳をやる気にさせるすごい学び方
  • 4章 脳番地の特徴を活かしたすごい勉強法
  • 5章 大人の能力を強化するすごい習慣術

先生はえらい

先生はえらい!

なぜならば、先生はえらいから!

この屁理屈みたいな話が、生き方を変えちゃうのかも!?

キッカケ:内田樹さんの本を読んでみたかった

これまでに何度か、内田樹『先生はえらい』がおススメされたことがありました。

ずっと読みたい本リストには入っていたのですが、結構長い間放置していたような……。

たまに、ラジオで内田樹さんのお話を聞いていたので、どんな人なのかなぁと、著書を(やっと)手にするに至りました。

先生はえらかった!

さて、結論から言います。先生はえらいんです。必ず先生はえらい。なぜかと言うと、「先生だから」。

こんな風に結論を先に言うと、屁理屈のような話ですよね。だけど、本書『先生はえらい』を読むと、その通りだとわかる。内田樹さんの鮮やかな論理の展開にワクワクしました。

もし「いや、先生なんて下らないヤツばっかだ」「先生なんて大したものじゃない」と思うのなら、あなたはまだ、「先生」にであったことがないだけです。

でね、その「先生」は、どこにいるのか?ってことですね。どこにいるのでしょう。それは、「自分次第」としか言いようがありません。

先生との出会いは、恋のようなもの

そう、先生って、自分で見つけるもの、自分から探し出すものなんですね。

夏目漱石の『こころ』を思い出します。大学生の“私”が海水浴をしていると、たまたまある男性が目に留まります。なぜかその男性が気になり、“私”は彼を勝手に「先生」と呼び、先生のもとへ通い続けるのです。

この“先生”、客観的に見るとダメな人なんですよ。無職で、財産を食いつぶしながら家に引きこもっている。奥さんのことも、放置してるっぽいし……。実際にこんな人がいると、「ろくでなし!」と思ってしまうのかも。

だけど、“私”は彼を「先生先生」と呼び慕い、偉大なる先生の教えを少しでも吸収してやろうと躍起です。お家の事情で故郷へ帰っても、頭の中は先生のことでいっぱい。早く先生のもとへ行って、先生に教わりたいことがいっぱいあるのに!

冷静に考えてみると、なんだかよくわからない話です。だけど、漱石の名作であり、あさよるの大好きな小説の一つだったりもします。

先生に出会うって、いうなれば「恋に落ちる」のと同じこと。予測不可能だし、理屈で説明できないのです。

「先生はえらい」理由はややこしい?

なんか、わかるようなわからない話ですよね。

しかも、恋に落ちるように先生に出会うと言われてしまうと…。どうすればいいのかわかりません。先生が欲しくても、打つ手ナシってこと!?

そもそも、この『先生はえらい』はややこしいんですよ。途中、ほとんどは先生とは関係のなさそうな話ばっかりだし。確かにね、しっかりと最後まで読めば、関連していることはわかるんですが、読んでいる最中はチンプンカンプン。それが苦痛で読むのやめちゃう人もいるんじゃないでしょうか。

で、肝心の「先生の作り方」は載ってないんですよね。あくまで、先生とは何かを考え「先生はえらい」と結論に至るだけ。

この本を最後まで読めば「そういうことか」と納得できる人は多いでしょう。だけど、そこから実際に「先生」を見つけられるようになれる人って……「恋」と同じ。そうなるときはなるし、ならないときはならないんです。

先生が人生を、考えを変える

先生がいると勉強がはかどります。一人で自習するよりも先生に教えを乞うほうが、ずっと学習しやすいのは、ご存知のとおりでしょう。

それは何も学生の頃だけの話ではありません。大人になっても、社会人になっても「先生」に教えを請うことができるんです。

先生のいる人の先生の居ない人。今すぐには、大きな違いはないでしょう。だれけれども、10年、20年、30年と、長いスパンで見るとどうでしょう。

大げさに言うまでもなく、先生の有無は、将来的には生き方の違いを生むでしょう。仕事や収入にも影響があるでしょう。

「誤解」と「思い込み」が生む「先生」

『先生はえらい』では、先生の作り方は書かれていませんが、先生に必要な要素は明確に提示されています。

それは「誤解」と「思い込み」。

「先生はえらい」という「誤解」「思い込み」が、先生をえらくするんです。

先生を先生にするのは、他でもない弟子です。先生がいるから弟子がいるんじゃない。弟子がいるから、「先生になる」んです。

『こころ』の「先生」は、ろくでなしです。ろくでなしの彼に、主人公は出会い、彼を「先生」にしました。主人公は「先生はすごい」と誤解したんです。

ですが不思議な事に、主人公は「先生」から多くの学びを得ます。人生を学び、哲学を学び、学問に勤しみます。それはなにも、「先生」が主人公になにか知識を与えたのではありません。

主人公が「先生はえらい」と思い込み、勝手に、先生の一挙手一投足から、勝手に学んだんです。そう、主人公は「先生はえらい」と誤解したからこそ、一人だと辿りつけない思考や気づきを手に入れました。

先生はどこにでもいる

先生はなにも、目上の人であるとは限りません。世間的に「先生」と呼ばれる職業に就いている人とも限りません。学歴や職歴、収入は関係ありません。ということは、目下の人に先生がいるかもしれません。社会では地位の低い人に先生を見出すこともあるでしょう。これだけはわからないのです。

もっというと、先生が人間とも限りませんしね。

先生はどこにいるかもわからない

たぶん、我々が生きるには、「先生」が必要です。先生は、我々に気付きをもたらし、思慮深さを要求します。

その先生は、自分で見つけ出すしかありません。自分が他者と出会い、「先生はえらい」と誤解しないと始まりませんから。

内田樹『先生はえらい』。とても筋の通った理屈で、その通りだと納得できる内容です。読了時には得も言えぬ高揚感すらあるかも。

それだけに、人を喰ったように感じたり、屁理屈に聞こえる人もいるのかも。それこそ、読む人次第なのかなぁと思います。

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安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方

信じる者はだまされない?

人とを疑う安心社会と、人を信じる信頼社会。

そろそろ、信頼社会にしない?

安心社会は疑心暗鬼社会

安心社会とはつまり、街のアチコチに現金の詰まった自動販売機を放置したり、荷物から目を離しても、盗難に合わない社会です。正確に言うと、「大丈夫だろう」と安心してる社会。要するに、日本の社会のことです。

かつての日本では、戸締まりもせずに出かけたなんて言いますし、その頃に比べると「安心」は低下しているのかもしれません。だけど、それでも現代社会は「安心社会」と言っても良いでしょう。

道行く人はみんな無防備ですし、インターネットではみな口々に好きなことをつぶやきます。もし、安心もできない社会なら、不用意に発言することさえはばかれるでしょう。

よそ者を見たら泥棒と思え!

安心社会は「ムラ社会」とも呼ばれていますね。ムラの中ではお互いに助けあい、共に働き、共に生きます。幼い頃から顔見知ったムラの人たちは、さながら家族のようです。安心社会は、まさに顔見知りの「安心」の中にあります。

「顔見知りである」ことが安心の担保なのですから、not顔見知り、すなわち「よそ者」の介入は、安心を揺るがします。

ムラの中で盗難が起こった。誰が犯人かもわからない。となると、最近引っ越してきた「よそ者」が犯人に違いない。なぜなら、見慣れぬ顔で怪しいからです。

「顔見知り」が安心の条件である限り、「よそ者」はいつでも怪しく、恐ろしい人物です。

相互監視が安心を作る

なぜ「顔見知り」同士だと安心なのでしょうか。そこに、美しい愛情や友情、絆がムラ人を繋ぎ止めている……ワケではないことを、我々はよく知っていますよね。

先祖代々同じムラに住み、きっと未来も共に過ごす人間同士です。もし、悪さでもはたらけばどうなるものか。ムラ社会ではお互いが「人の弱みを握る」ことで、相互監視し合い、それが抑止力になっています。

決して「安心社会」では、相手を信頼しているから安心しているわけではありません。むしろその真逆。よそ者を疑い、ムラの仲間すらも疑い、監視することで安心を得ています。

「人を見たら泥棒と思え」を地で行く社会、と言えるでしょう。

安心社会は「旅の恥はかき捨て」社会

先にも述べたように、日本は「安心社会」です。ということは、日本は「人を見たら泥棒と思え」の社会ということです。

そんなまさか!?とちょっと思っちゃいますよね。

じゃあ、こんな言葉もあります。

「旅の恥はかき捨て」

いつもは出来ないことも、旅先なら知り合いもいないから気兼ねなくやれちゃうことです。「一期一会」なんていうウツクシイ言葉もありますが、実際のトコロ言い得て妙なのは「旅の恥はかき捨て」の方でしょう。

お店で横柄に振る舞う人。人混みで好き勝手する人。観光地で落書きやポイ捨てをする人。外国で売春や違法行為をする人。

きっと殆どの人は、普段の生活では規律のある人たちなのでしょう。二度と合うことのない人相手に、乱暴狼藉を働いちゃう話。時折、耳にする話ですよね。

いかに、相互監視が有効なのかを感じます。

信じる者はだまされない!?

しかし、他人のことをホイホイ信じてしまうと、それだけ他人にだまされてしまいます。現に、世の中には悪い人はたくさんいるんです。スキあらば…と皆狙っているんです。

「安心社会」とは、このような「信じるものはだまされる」社会です。ニコニコと朗らかな顔をしても、決して本心を見せない。なにせ、仲間同士ですら、お互いに弱みを握り合い、首輪を掛けあって「安心」を勝ち得る社会なのですから。

一方「信頼社会」は、安心のない社会です。自分の身は自分で守り、家族や財産も、自分の責任で守らないといけません。こんな恐ろしい社会、さぞかし他人をとてもとても信じられな社会じゃないかと思いますよね。

ですが、『安心社会から信頼社会へ』では意外や意外、その真逆の実験結果を提示しています。

というのも、not安心社会は、安心ではなく、人と人の「信頼」で繋がった社会なのです。仕事仲間やチームと共に信じ合う社会。信頼しあうということは、自分も人から信頼されねばなりません。信頼に足る言動を、求められているということです。

そして、誰を信じ、誰を遠ざけるか。それをすべて自分で決めねばなりません。ですから、必然的に「人を見る目」が試されます。自分の目で人を見、自分の責任のもと「信じる人」を選ぶ。それは、「悪い人」を見ぬくことです。

「信じる者はだまされない」のはこのためです。一人ひとりの人柄をきちんと見極めて人間関係を築くのですから、「信頼社会」はだまされにくい社会なのです。

そして、「信頼社会」では、「世の中の多くの人はいい人だ」という前提で成り立っています。

信じない者はだまされやすい

反対に言えば、安心社会はだまされやすい社会ということです。人を信頼できるか?できないか?いちいち考えない社会。「安心社会」では、ムラの中のひとり一人を精査していては、社会が持ちません。一人ひとりを「疑ってる」ということになりますからね。ですから、表立っては疑わないけれども、本音の部分では心を許さない関係になるのです。

これも面白い実験結果ですが、人を疑う人はだまされやすいんだそうです。

このような興味深い実験結果の数々が紹介されているのも、本書『安心社会から信頼社会へ』の面白いところでした。とても意外な結果の連続で、眼から鱗でした。

人を疑うとお金がかかる

人を疑う「安心社会」では、疑うごとに経費がかかります。

今も昔も、人への疑いはなくなることがありません。不正をはたらく公務員。私利私欲のために天下る官僚。汚職にまみれる政治家。なにも公的な職業だけを疑っているわけではありません。誰が横領しているのか?誰がズルして給料泥棒をしているのか。

安心社会は、人を疑う社会です。実際のところ、圧倒的多数の人達は、真面目に社会のために働いているにもかかわらず。

すると、ありもしない不正を防ぐため、何重にもチェックが必要になったり、必要以上の人員や手間が発生し、結果的に経費がかさんでゆくのです。これ、まさに今の社会を象徴していることじゃないかなぁと思います。

ねぇそろそろ、信頼社会にしない?

『安心社会から信頼社会へ』では、日本社会も従来の「安心社会」から、成熟した「信頼社会」へ移行する時ではないかと提言されています。

本書『安心社会から信頼社会へ』が出版されたのは1999年です。それ以降、現在(2016年)までの間に、我々の社会では大きな変化もありました。大きな災害やできごとも数々ありました。

社会の形も、1999年の頃とは大きく変わっているでしょう。少しずつですが「信頼社会」へ移行しようとしているのかもしれません。反面、その反動もあるのか、従来のムラ社会的な人間づきあいも、残っています。

正直、安心社会と信頼社会、どちらが良い社会なのかはわかりません。もっと他の社会の形もあるのかもしれません。しかし、17年も前に出版された本の中で、今の社会の抱えている問題が浮き彫りになっているのは、興味深く思いました。

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才能とは何か? 努力が無意味な遺伝の話

「親ガチャ」なんて言葉もあるけれど、実際のところ、わたしたちはどれくらい、生まれながらの要因で決まっているんでしょうか。

遺伝について研究なさっている安藤寿康さんの『日本人の9割が知らない遺伝の真実』によると、「遺伝」の要素って大きいみたいなんですよね……。

信じたくないものだな。

勘違いされがちな〈遺伝〉の話

本書では、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』のヒットにあやかった便乗本であることが告白されています。

『言ってはいけない』は、遺伝にまつわる誤解を解く内容で、専門知識がなくても読める内容に書かれています。

しかし、ちょっと露悪的すぎでもある。

その点、『日本人の9割が~』の方は、研究者が書いた本ということもあり、言葉を選んで客観的に書こうと努めていらっしゃることが伝わってくる。

IQも年収も遺伝で決まる?

IQも年収も、遺伝によるところが大きいそうです。

面白いことに、若い頃よりも年齢を重ねた方が、遺伝の要因が強く出るそうなんですよね。

しかし、IQというのは賢さの一つの指針ではあるけれど、それだけのものです。

なのに、机の上のテストの結果によって、人々の優秀さを決め、職業を決め、それが年収を決め、その人の評価を決めてしまうのは、なんだか変な世界でもあります。

テストの結果は思わしくなくても、それ以外の能力を持ってる人ってたくさんいるからね。

頭が良いのは遺伝?

本書の冒頭で、「かけっこ王国」のたとえ話がなされます。

かけっこが速い(走るのが速い)人が評価されるこの王国では、18歳の時のかけっこ大会で進路が決まり、職業が決まり、年収が決まる世界。

かけっこは遅かったけど、他の才能を持っている人もいるのですが、社会の中では評価されません。

変な世界ですよね。

この「かけっこ」を「賢さ」に入れ替えると、今の社会も変だなあと気づかされます。

そもそも「賢さ」って?

ここでいう「賢さ」というのは、かなり狭い意味での賢さです。

知能テストで測れる「賢さ」。

つまり「IQ」の高さなんですよね。

それ以外の頭の良さや能力は客観的に測れないので、無視されてしまっているのです。

測れない才能の方が多い

当然ながら、測ることはできないけれども、他にない才能であるという事柄は存在します。

職人には職人の賢さがあるし、料理人には料理人の賢さがあります。

「勘」「センス」とか、そういう類のものですよね。

でも、そのような能力は測れないので、評価されにくいのです。

そればかりか、「測れるテスト」の点数が悪かったせいで劣等感を抱いている人すらいるかもしれません。

変な世界です。

明快な答えがある話じゃない

本書『日本人の9割が~』は現在も研究中の内容を扱っています。

さらに、これからの教育についても扱います。

だから、明快な気持ちのいい答えが用意されたものではありません。

もし、読了後のスッキリ感や感動が欲しいなら、別の書籍を。

反対に、知っているつもりでよく知らない〈遺伝〉のことや、教育、能力について、新しい発見や気づきがあるかも。

なぜだろう? どうしてだろう? と、答えはないけれども考える指針はある。

結論は「自分次第だ」と分かると、元気が出る人もいると思います。

(逆に、白けちゃう人もいるかもしれないケド)

分かりやすい才能ばかりじゃない

子どもの才能を伸ばしてやりたいと考えている方もいらっしゃいますね。

子どものうちに才能の芽が出る子っていますが、それは「見つけやすい才能」だった時の話です。

例えば、楽器の演奏が上手いとか、他の子より運動神経がいいとか、そういうの。

見つけやすい才能を持っている人は、先ほどの「測れる才能」と同じく、分かりやすいので人に評価されやすいんですね。

しかし、大人になってから芽が出てくる時間のかかる才能もあります。

地道に、社会の中で揉まれながら、少しずつ少しずつ磨かれていく才能もあります。

あくまで、子どもの頃に見つかる才能は「見つけやすい才能」のみ。

ほとんどの人は、時間をかけて才能を磨き手に入れていくんですね。

現在の教育は悪くない、でもベストでもない

現代日本の小中高の教育を著者は否定しません。

多くの人が教育を受けられることに加え、多種多様な「部活」も用意されており、自分の才能を模索する人も少なくありません。

教員の質が話題になることもありますが、概ね同じくらいの教員が用意されていることも評価しています。

しかし、今の教育がベストでもありません。

繰り返しますが、現代の教育は「測れる知能」が評価され、それ以外の人は大きな劣等感を抱くシステムでもあります。

本当は才能のあるはずの人が、劣等感を抱いてしまってはよくないですね。

多様性を見出す教育のかたち?

現在の教育がベストでないなら、どんな教育の形が望ましいのでしょうか。

本書では、学校で従来の学習をするよりも、若いうちからインターンシップに出て、本物のプロに出会い、プロの仕事を体験してみることが提案されていました。

どんどん、様々な分野に触れてゆく。

その中で自分に合った仕事を見つけたり、反対に「これは向いていない」と実感することもできます。

また、子どもの内は勉強して大人になった勉強しない社会ではなく、必要なときに勉強できる社会が必要です。

あなたの才能を見つけるために

子どもに勉強をさせても、ほとんどは忘れてしまいます。

リアル・キッザニアのように、どんどん社会の中で実際にプロの仕事に触れて、適性を見出してゆく方がいいんじゃないかってことなのでしょうか。

そして、学習は自分で、必要なもの・興味のあるものを選べばいい。

ポイントは「年齢は関係ない」ってところでしょうか。

必要とあらば、大人になっても、歳をとっても学ぶ。

本書を通しても読むと、どうやら「才能」というのは持って生まれた遺伝的なものが作用しているようです。

しかし、その才能を掘り起こし磨き上げられるかどうかは、環境や行動が作用しています。

自分で「向いてるんじゃないか」と思うことをやるのは大事。

自分の才能を伸ばすしかない!

わたしたちは生まれながらにある程度(というか、かなりの程度)、得意なこと不得意なことを持って生まれてくるようです。

だから、得意なことを伸ばすしか道はなさそうです。

不得手なことで頑張っても、それが得意な人には適わないんだから。

すごく当たり前な結論と言っちゃえばそうなのですが、その結論の根拠を示してくれているので、この『日本人の9割が知らない遺伝の真実』は読む価値アリな一冊ではないでしょうか。

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日本人の9割が知らない遺伝の真実

  • 安藤寿康
  • SBクリエイティブ
  • 2016/12/6

目次情報

  • 第1章 不条理な世界
  • 第2章 知能や性格とは何か?
  • 第3章 心の遺伝を調べる
  • 第4章 遺伝の影響をどう考えるか
  • 第5章 あるべき教育の形
  • 第6章 遺伝を受け入れた社会
  • あとがき
  • 参考・引用文献

消費のために忙しく働くわたしたちへ『贅沢の条件』

贅沢ってなんだろう?

贅沢をするために、「暇」を捨てたわたしたち。

山田登世子さんの本が読みたかった!

以前、山田登世子さんの『ファッションの技法』を読み、とても実りある書籍だったため、同著者の本を読んでみようと思いました。

本当は、ココ・シャネルについて書かれた本を読みたいなーと思いつつ、まずは先に入手できた『贅沢の条件』から読み始めました。

結論から言うと、あさよるは山田登世子さんのファンになってしまったのかもしれません(*´ω`*)

贅沢ってなんだろう?

あさよるは「贅沢がしたい!」と切に思うことが多々あります。たまには贅沢な食事がしたい!贅沢な旅行がしたい!贅沢なパジャマで寝たい!贅沢なインテリアに囲まれたい!

みなさんも同じような願望、あるんじゃないかと思います。

現代の我々にとって、「贅沢」って、物を買ったり旅行したり、いつもよりグレードの高いサービスを受けること。すなわち、贅沢をすることは、消費者として「消費」することです。

我々は消費をするために、せっせと働くのです。

「贅沢」の感覚は時代によって異なるのです。『贅沢の条件』では、フランス文化史を研究する著者が、主にヨーロッパでの「贅沢」をめぐる変遷を紹介されています。

絢爛豪華、きらびやかな男性たち

身分制社会では、男性がきらびやかな衣装で着飾り、ヒールを履き、宝石を身に着けていました。

17世紀のルイ十四世を招くため、財務長官は、絢爛豪華な城で祝宴を催します。そのたった一晩のパーティーのために食器や調度品が大量に用意され、王をもてなすのです。

ケタ外れな豪華さ、贅沢さですが、彼らにとって「贅沢」をすることそのものが仕事です。贅沢さは社会的立場を示しますし、浪費することこそが名誉。労働は不名誉なのです。

羨ましい話ですね(ヽ´ω`)

スーツ姿で闊歩する、ビジネスマンの時代

近代に入ると一転、ヒラヒラの豪華な服を着ていた男性たちは、ビジネススーツに身を包み、せっせと仕事に明け暮れます。

忙しいことがステイタスになり、暇を持て余すのは貧乏人の象徴。ビジネスマンたちはビッシリとつまったスケジュール帳を携え働くのです。

ビジネススーツからは彩色も削ぎ落とされ、機能性に特化しました。「労働は不名誉」とは正反対の思想です。

我々の生きる時代は「消費」が贅沢の象徴ですから、消費するための「報酬」の量がステイタスです。ですから、その報酬を得るための「労働」が贅沢への入り口なのです。

男性の分まで着飾る女性たち

男性が刺繍にまみれた衣装を脱ぎ捨て、ビジネススーツに身を包んだことで、その「装飾性」は女性の衣装に引き継がれます。

男性は自らの富を、引き連れる女性に豪華な衣装を着せることでアピールします。男性の分の装飾まで女性が追ったので、かつてないほどの豪華に豪華を極めた衣装が登場します。刺繍に刺繍を重ね、ビーズや宝石が散りばめられ、レースやギャザーをたっぷりよせ、それを重ね着します。

とても、そんな服装で女性は働けませんよね。

ココ・シャネル

ココ・シャネルという女性が、女性の衣装を一変させます。それは、女性の生き方、働き方の革命でした。

シャネルは豪華な衣服を脱ぎ捨て、色彩さえも剥ぎとった黒いスーツを身にまといます。質素なジャージー生地を縫製し、動きやすく働きやすい女性用スーツの登場です。

フェイクの宝石のアクセサリーを用い、かつての価値観を破壊しました。

あさよるはココ・シャネルという人物について何も知りませんでした。これから、シャネルについて知りたいと思いました。

「暇」は贅沢の敵になった

我々にとって、「暇」であることは忌まわしいことです。

週末に予定がなにもないこと、家に帰ってもすることがないことは、孤独や貧困を連想させます。

せっせとコンサートへでかけたり、ショッピングをしたり、部屋の中で読書をしたり、みっちりとスケジュールで詰まっています。

あさよるも、時間を持て余すとソワソワ落ち着かなく、「運動に」と散歩にでかけたり、料理や掃除を始めたり、「勉強だから」と本を開いたりします。移動中の時間ですら、何かしていないと気が済みません。

「暇」であることは贅沢なことのように思っていましたが、考えてみると、現代人にとって「暇」と「贅沢」は相反することなんですね。

暇=お金がない んですから、消費ができません。消費ができないと贅沢できないのです。

不要な「手間」こそが贅沢?

では、具体的になにを消費した時に「贅沢」なのでしょうか。

一つの答えとして、『贅沢の条件』では「手間」が挙げられていました。しかも、余計な手間。

スーパーへ行けば野菜が手に入るのに、あえて自分で野菜を育てる「手間」。新品で良い物はいくらでも手に入るのに、あえて古いものを探し、手に入れる「手間」。

「暇」「手間」……時間こそが現在の贅沢?

あえて手洗いが必要な生地を選んだり、現代では出汁を取るところから料理を始めることなんかも、贅沢かもしれませんね。

ああ、要するに「趣味」のカテゴリーに振り分けられるこだわりや美意識が「贅沢」なのでしょう。

「暇」「手間」……時間こそが贅沢?

「暇」が贅沢にしろ、「手間」が贅沢にしろ、そこに関与しているのは「時間」です。

有り余る時間をムダに過ごす「暇」に前時代の貴族たちは「贅沢」を見出しました。現代人は、時間をかけて「手間」かけることに「贅沢」を見出します。

もしかしたら、こんな「贅沢について考える」ことこそ、贅沢な時間の使い方かもしれませんね。

『贅沢の条件』では、贅沢な時間についても触れられます。それはそれは甘美な世界。あさよるには手に入らないだろう贅沢。

贅沢な時間のための、贅沢な知識

『贅沢の条件』を読んだからと言って、収入が上がったり、仕事の能率が上がるような内容ではありません。

贅沢の条件を知ったからと言って、贅沢ができるわけでもありません。しかし、「価値観」「美意識」を知ることは……うーん、知ったからと言って、どうなるものでもありませんね。

だけど、「贅沢」はそんな「ムダ」の中に宿るのは事実。生活を豊かにするのも、生きるに不要な、必要以上の知識や哲学だったりします。

万人にオススメ!とは言わないけれど、じっくりと自分の価値観を見つめたい人は、一読しても良いと思います。

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