社会・政治

『お金に頼らずかしこく生きる 買わない習慣』

「買わない」ことで手に入るモノは、

それは、「幸せ」や「豊かさ」の目に見えないモノ

「お金」はなぜ必要なのだろう

『買わない習慣』では、“買わない”ことでお金の出てゆく先を考えなおそうと提唱します。

そもそも、「買わなければならない」「しなければならない」と信じている事柄は、はたして本当に出費しないといけないことでしょうか。「お金を使わないといけない」と思い込んでいるだけではないでしょうか。

何をするにも、必ずお金が必要です。

ですから、お金の行く先・使い先を考えるということは、自分がなにをするのか考えることなんですね。

「お金」を手に入れるために、何を失っているか

もう長いこと「節約」「倹約」が叫ばれ続けています。

金銭的に余裕のある人なんて少なくなっていますから、切羽詰まって「節約」「倹約」に取り組んでいる人もいるでしょう。

しかし、頭では「節約しなきゃ!」と行動すれど、思うようにゆきません。

節約をする→我慢からイライラが募りストレスが溜まる→ストレス発散で買物をする→お金がなくなる

こんなスパイラルにハマってしまう人も少なくないんだとか。はい、あさよるも他人事とは思えません(-_-;) 見失ってはいけないのは「何のためにお金がほしいのか?」です。それは、「自分の幸せのため」なんです。

本当に欲しいもの、必要なものを選び取る

お金を使う理由を、きちんと整理しましょう。

「見栄を張るため」「みんな持ってるから」「恒例だから」「みんなに自慢したいから」 そんな理由でお金を使うこともありますが、どれも“他人のため”にお金を使っていることを忘れてはいけません。

見栄を張るよりも、自分が欲しい、必要だと真に思えるものを買う方が、ずっと自分を幸せにするお金の使い方です。「みんな持ってるから」「流行だから」って物を買うのではなく、自分が良いと思うのもにお金を使うべきです。

『買わない習慣』では、ついやってしまいがちなお金の無駄使いの例と共に、これからどんなお金の使い方をすればよいのか提案されています。

安いから、お得だからって「買わない」

ついついお金を使ってしまうのは、何も他人へのためだけではありません。

「お買い得!」「激安!」なんて謳い文句にまんまと釣られてしまうこともあります(-_-;) あさよるの場合は「今だけ!」「期間限定」に弱いです(;´д`)トホホ…

『買わない習慣』を読んで、「買わない」って大事なんだなぁと。はい、思い知りました。

もちろん、お金を使わずに行きれませんから、必ずお金を使います。だけど、それをとことんまで見なおしてみる。まずははじめに「買わない」という選択を手に入れる。

いつでもできる、誰でもできる。だけど……

『買わない習慣』は、「買わない」という手段を選ぶだけなので、誰でも出来ます。いますぐに開始できます。

しかし、「買わない」という選択は、一見して消極的な選択のように思えます。が、これまでの習慣や思考パターンを変えてゆくのですから、根気よく続ける必要のある案件。

ですから、誰にでもできるけど、誰もが手に入れられる習慣でもないのかなぁとも思います。

あなたの「豊かさ」を手に入れる

『買わない習慣』で紹介されているのは、「自分の豊かさ」「自分の幸せ」を手にれましょうというお話。

そのために必要なのはお金ではなく、まずは自分自身への理解ではないでしょうか。

また、自分が何を欲し、自分の人生に何を必要としているのか。それは、物質的なものなのか。お金を出せば手に入るのか、お金以外の方法で手に入れるのか。

「お金がほしい」「裕福なのが羨ましい」と切望することはあったけれども、自分がどうすれば豊かになれるのか、幸福をいつ感じるのか、「自分」の幸せについて、掘り下げて考えたことありませんでした。

自分を豊かにするのは自分しか居ないということですね。

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『会社のルール 男は「野球」で、女は「ままごと」で仕事のオキテを学んだ』

会社は「男の子のルール」で動いている!

男性のルールを知り、そこで「闘う」作戦を立てろ!

口コミで知っていたけど、タイトルに(-_-;)シラッ

「会社のルール 男は「野球」で、女は「ままごと」で仕事のオキテを学んだ」

↑このタイトル見てどう思われます? あさよるは「なにこれ!?性別で決めるけるわけ!?」なんてイタイ感じに反応しておりました(・∀・;)>

Amazonのオススメやランキングで見かけてはいたんですが、変な思い込みが炸裂してしまいなかなか手に取れませんでした。

で、先日たまたま図書館の棚で見つけ、パラパラと中身を見てビックリ。

「あれ…思ってたのと中身違う!!」 そして、なんだか面白そうなので、あの毛嫌いしていた思い込みも忘れて読みふけったのでしたw

男の子と女の子、遊びのルールが違っていた

まずは『会社のルール』のざっくりした概要。

男女同権が叫ばれ、日本でも女性の社会進出が進んでいます。その一方で、未だエグゼクティブな地位の女性は少ない。中には、男性と同じように昇進できず、伸び悩んでいる女性もいるでしょう。

『会社のルール』ではその理由を、ズバリそのまま「会社のルールを理解していないからだ」と説きます。

会社のルールとは、男性のルールです。少し前まで社会は男性のものでした。ですから、会社組織も男性のルールで動いています。

まず、我々は社会のルールを子供時代の「遊び」の中で学んでゆきます。本書の表現を借りると、男の子は「野球」で、女の子は「ままごと」で仲間内のルールやコミュニケーションを学びました。「いや、自分はサッカーだった」とか「いいえ、私は鬼ごっこが好きだった」とか、個人差はあるでしょうが、「象徴的な遊び」という風に、あさよるは理解しました。

さて野球は、敵と味方のチームに分かれて戦います。しかも、さっきまで憎き敵として戦っていた相手と、次の試合では味方同士として助け合い励まし合ったりします。試合中、作戦でモメることもあります。味方の失敗のせいで点数が取られてしまって、腹が立つこともあります。しかし、それらは「試合」の中での話。一旦試合が終われば、さっきまでのモメゴトや怒りも忘れて、ケロッとしちゃいます。だって、ただゲームしてるだけですから。

男性は「野球」というゲームによって、チームプレイを学びます。そして、試合中のイザコザは、次の試合には持ち越しません。これが男性のルールです。そして会社のルールでもあります。仕事中はチームワークを優先し、個人間の私情はワキに置かれます。仕事中の失敗やイザコザも、持ち越しません。

一方、女の子は「ままごと」でルールを学びます。ままごとでは、まず誰もが別け隔てなく平等であることが優先されます。遊び友だちの間で上下関係はなく、公平です。誰かが抜け駆けしたり、ズルすることを嫌います。良いことも悪いことも、みんなで分け合うことが重んじられるんです。これが女性のルール。公平さや平等を優先し、上下関係を作りたがりません。

男性と女性、それぞれルールが違うんです。

そして、会社は男性のルールで動いています。チームで「勝つこと」に特化した男の子のルールの中に、平等を重んじる女性が飛び込んでゆくと、どうもルールが馴染みません。

本書『会社のルール』は、女性蔑視や、あるいは女性の地位向上を叫ぶ内容ではありません。主張は一つです。会社は男の子のルールで動いていることを知り、男性のルールを利用すべき!

女性が出世に遅れたり、成果を上げにくいのは、ルールが違うからじゃね?という本。

この本を読んだ感想

女性が「闘う」ための作戦

どうやら、女性が社会で闘うためには、それなりの「作戦」が必要なようです。

社会は変わっているとは言え、まだまだ会社は男性のルールが色濃く残っています。「だったらば、そのルール攻略してやんよ!」

そんな勢いのある本で、読んでいてワクワクしました。「そっか、私も戦い方を知れば、まだイケるかもしれない!」とよくわからぬヤル気もモリモリを沸き起こります。

あさよるは、ままごととか、女の子ばっかり集まってする遊びが嫌いで、いつもバックレていました。だけど、だからと言って男の子と混ざって遊ぶこともしませんでした。ということは……女の子のルールもよくわからず、男の子のルールも知らないってこと!?

焦りますΣ(・∀・;)。

世代や育った国、地域で違う?

『会社のルール』の著者パット・ハイムさんはアメリカはロサンゼルスで活躍するコンサルタント。ですから、本書内で語られる「男の子」「女の子」も、ロサンゼルスの遊び事情じゃないかと思います。

日本人の子どもも、野球もままごともしますが、アメリカの子供と同じような感じで遊ぶのかなぁ?とちょびっと謎。少なくとも、あさよるが子供の頃は街に子供が無断で野球ができるスペースなんてなかったですし。

同じ日本国内で、同じ世代の人でも、生まれ育った地域によって「遊び」に差はあるのかなぁ?など、「子供の遊び」の喩え話の部分に、ややひっかからないでもない。

けれども、「男女でルールが違うんだ」という主張は、あさよるも納得できるものでした。

まだまだ会社は“男の子”のもの

女性が理解し、クリアしなきゃいけない課題は「会社は男の子のものなんだ」ということです。

はじめは極端な内容だと思って読み始めましたが、読み進めるごとに、女性の「あるある」が満載でした。

平社員だった頃は目一杯活躍できたのに、部下が出来た途端、上手く行かなくなる。

女性が他の女性社員を叱ったり、対立する意見を発言したとき、そのワダカマリは会議が終わっても、次の日になっても延々険悪に……。

女性上司がナメられるのは、「女性だから」ではなく、女性は上下関係を嫌い、部下にもフラットに対応してしまうせいじゃないか、というのは眼から鱗。

あさよるも、男性が自分にナメた態度をとる時に「女だからナメられた!!」と思ってたけど、違うのかもΣ(・∀・;)

そもそも「会社のルール」に無理解で、コミュニケーション方法が適切でなかったのだと思い至りました。

もっと読み込みたいです。

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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』|都会で大冒険!カネなし生活

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』挿絵イラスト

こんにちは。あさよるです。先日読んでブログでも紹介した『0円で生きる』が面白くて、ゴールデンウィークに「家財道具を売ってみよう」とメルカリに出品してみました。『0円で生きる』で紹介されていた「ジモティー」も利用したいのですが、荷物の運搬手段がないので、これから考えよう。

これまで物の譲渡って、役所とか公民館の「あげます・ください」の掲示板を見たり、フリーマーケットに出品するとか面倒くさかったけど、ネットサービスが充実することで、誰もが気軽に安価or無料でやりとりができてとても便利です。「テクノロジーは社会を変えるんだなあ」なんて、大げさなことを考えてみたり。

今回手に取った『ぼくはお金を使わずに生きることにした』も、イギリス人の男性がロンドン郊外で1年間、一切のお金を使わず生活をするチャレンジをした記録です。彼がチャレンジを決行したのは2008年の年末のこと。2008年はリーマンショックがあった年です。さらに3.11以降のわたしたちにとって、彼のチャレンジは当時と違った意味を感じるかもしれません。

現代の冒険譚・お金を使わない

著者のマーク・ボイルさんは現代の冒険家です。かつて「冒険」とは、大海原へ漕ぎ出だしたり、未踏峰を踏破したり、誰も行ったことのない場所へ踏み込むことでした。現在では都市部の郊外で「1年間一切お金を使わない」というチャレンジが、誰もやったことのない大冒険なのです。現にマーク・ボイルさんは、1年間お金を使わない構想を発表してから、世界中のメディアから数多くの取材を受けます。

テクノロジーを否定しなくていい

マーク・ボイルさんのチャレンジの特徴は、まずロンドンの郊外で行われること。お金の一切は使わないけど、友人たちを頼るし、社会のインフラも使います。また、基本的にはテクノロジーの否定はしていません。

1年間お金を使わない計画に際し、マーク・ボイルさんはルールを自分で設けています。まず、石油燃料は〈自分のために〉使わないこと。電気は自分で発電しますが、誰かから「どうぞ」と差し出される分には使用してもいいこと。つまり、わざわざ〈自分のために〉石油・ガソリンや電気は使いませんが、他の人が使っているものを分けてもらうのはOKということ。例を挙げると、「自分のために車を出してもらう」はNGですが、ヒッチハイクで「元々あっち方面へ向かう車の助手席」を分けてもらうのはOK。

この辺が「世捨て人」的な感じではないところ。なにより交友関係はとことん使います。「ロンドンの郊外」ですから、落ちているモノ、捨てられているモノを手に入れやすい環境にもあります。

マーク・ボイルさんはお金と石油燃料を自分のために使うことを避けていますが、それ以外のテクノロジーやコミュニティーは特段否定していません。

菜食主義で健康に

お金を使わない生活をすると、納税しないことになります。だからマーク・ボイルさんは1年間、病気をしないように健康に気をつけるのですが、ビーガンになることで、かつての不調がウソのように改善した様子を綴っておられます。菜食主義の人がよく「肉や乳製品をやめると体調が良くなった」と仰ってるのを目にしますが、実際のところどうなんでしょう。

また、肉食をやめたことで、体臭に変化があったそうです。お風呂も洗濯機もありませんから、衛生状態と〈清潔感〉をどうキープするのか周囲の人も気にしているようです。「ボディソープを使わなくても体はきれいになる」と説明しても、信じてくれない様子。

これについては以前、あさよるネットでも『「お湯だけ洗い」であなたの肌がよみがえる!』で紹介しました。有機物は水溶性で水に溶けて流れます。だから「水浴びだけでも清潔」は、そうなんでしょう。

Wifi完備でネット環境

マーク・ボイルさんはネットで住処の提供を求めたところ、なんとキャンピングカーの提供を申し出る人が表れました。また、そのキャンピングカーを停める場所も、ボランティアを引き受けることで場所を貸してもらえました。そこはWifiもつながっていて、マーク・ボイルさんは自家発電をしてネットに接続し情報発信を行います。プリペイドカード式の携帯電話を所持しているので、電話を受けることもできます。世界中のメディアからの取材も、電話を貸してもらって受けています。

「現在の冒険譚」と紹介したのは、現代のネットワーク環境を活用しているからです。『アルプスの少女ハイジ』の〈オンジ〉のように、コミュニティーに属せず、人々から隔絶された地で生きるのとは正反対です。積極的にコミュニティーを持ち、情報を発信し、人とつながりながら「お金を使わない」から、冒険なのです。

お金はすごく便利だ!

本書『ぼくはお金を使わずに生きることにした』は、著者のマーク・ボイルさんの体当たりレポにより「お金」の価値について問い直されます。本書を読んでつくづく思うのは「お金はとても便利なものだ!」ということです。マーク・ボイルさんご自身も、「お金が少ないのと、お金を全く使わないのは、全然違う」と書いておられます。

本書が面白いのは、別に貨幣経済を否定してるワケでもないところ。ただし「お金の価値しかない社会」はどうなの? という問いかけになっていますし、また「お金を使わない生き方を選ぶ自由がある」という至極当たり前のことを体現した記録でもあります。

マーク・ボイルさんの結論として、「お金のない世界で暮らしたい」と理想をあげながらも、現実的には「地域通貨」への切り替えが落としどころとして提示しておられます。小さな町や村のコミュニティーの中で、スキルや物を提供したりもらったりして、交換する価値としての「地域通貨」です。

お金で買っているのは「時間」

カネなし生活で、足りなくなるのは「時間」だと言います。朝起きて、水を確保しないといけませんし、ネットにつなぐための電気を発電し、どこへ行くにも何十キロと自転車を飛ばさねばなりません。ボールペン一本、安いお金を出せばに入る物ですら、ボールペンが落ちていないか探さねばならないのです。

お金を使うことで、一瞬でほしいモノが手に入るのですから、最強の「時短」アイテムなんですね。

カネなし生活には「お金以外の力」が必要

お金は便利だと紹介したのは、カネさえあれば、他に何もなくても欲しいものが手に入るからです。お金がない生活とは、人とのつながりが重要で、自分を助けてくれる人、自分を気にかけてくれる人の存在が重要です。幸いにもマーク・ボイルさんは、彼のチャレンジに協力してくれる友人や恋人がいて、また世界中のマスコミが取り上げ多くの人が彼に注目していました(もちろん賛否アリ)。またマーク・ボイルさんは健康で若い男性であり、彼の思想や信仰も、お金を使わない計画を後押ししたでしょう。いくつもの要素が絡まり合って、成立したチャレンジだと考えることもできます。

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『QOLって何だろう』|命の質を自分で決める、そのために

こんにちは。あさよるです。あさよるはここ数年、断捨離・片づけに励んでいるのですが、「QOL」という言葉を知ってから、片づけがひとつ進むたびに「QOLが向上した!」と悦に浸るようになりました。あさよるにとっての「QOL」は、生活のクオリティー、気分よく、機嫌よく毎日を過ごすことでありました。

今回手に取った『QOLって何だろう』では、生活の質の話ではあるのですが、もっとシビアな「命」のお話です。生命倫理を一緒に考える内容です。

明快な答えが用意されているものではないので、読んだらモヤモヤとしてしまう読書になるかもしれません。だけどそのモヤモヤと向き合って生きることが、QOLを考えることにつながるんだと思います。

「幸せ」ってなんだろう

本書『QOLって何だろう』は、「幸せ」とはなんだろうかと考え込んでしまうものです。現代日本では、高度な医療に誰もがかかることができ、「人生100年時代」なんて言われるくらい長寿が叶っています。ヒトにとって、医療にかかれる、長生きができるとは、これ以上のない幸せが到来している時代だと言えるでしょう。

そこでわたしたしは「どう生きるのか」「幸せに生きるとは」と新たな課題に直面しています。本書『QOLって何だろう』は10代の若い方たち向けに、医療現場で直面する「命」や「幸せ」「意思」を問いかけるものです。若い世代ほど「老い」や「病」がまだ遠いものである方も多いでしょうから、なおさら大切な問いかけです。

「QOL」とは

「QOL」とは「Quality of Life」の略です。。

 Quality of Lifeは、その「よさ(質)」を問います。
「生命の質」と言えば、生きることの意味や価値が問われ、人間の生命の尊厳や、苦痛のない「いのちの状態」が問題となります。
「生活の質」と表現すれば、病気を抱えながらも、できるだけ普段通りの生活を送れることや、自立して生きられること(これは人間の幸福感の源です)を目指そうとし、「人生の質」と言えば、その人の「生きがい」、自分らしく生き切ること、自分の人生観に沿った生き方が実現できるかが注目されます。
つきつめれば、QOLは、そのいのちを生きる本人にとっての「幸福」や「満足」を意味しているのです。

p.9-10

「病気をしても、いつも通りに生活したい」「自分らしく生きたい」と願い、幸せに生きられる「質」の向上が求められています。「畳の上で死にたい」とか「最後は自宅で」と願う人は多いですし、延命治療をどこまで受け入れるのか、どこでやめるのかは、本人にも、また家族にとっても重大な決断になります。

同時に、医師や看護師、介護士らにとっても、クライアントのQOLは重大です。患者の願いを優先するのか、医療を施すべきなのか、悩みが生まれています。

医療の進歩が「QOL」をもたらした

かつて伝染病が蔓延し、たくさんの人々が死んでいった時代、個人のQOLよりも、患者の治療や隔離が重大でした。ことによってはパンデミックを引き起こし、国の存亡にまで関わることだからです。また、医療が十分に発達していなかった時代には、治療を受けることがリスクになることもありました。例えば麻酔がなかった時代や、抗生物質が発見される前の時代は、治療を受けない人もたくさんいました。

QOLは医療が十分に発達したことで、直ちに治療、隔離しなければ他の人の命にかかわるような環境から社会が脱したことによります。医療の進歩が、QOLの概念をもたらしたのです。

医療の進歩が「QOL」を難しくした

同時に、医療の進歩がQOLの判断を難しくしました。余命宣告をされ、手術により延命できるとき、それを受け入れるのか。認知症高齢者は、入院によって体力が落ち、寝たきりになることがあります。治療とにって食事が困難になるならば「おいしいものを食べたい」という欲求の、どちらを優先すべきなのか。

どれも答えのない問いです。本書ではたくさんの実例が紹介されています。

アメリカで起こった「リナーレス事件」では、生後7か月の子どもが風船を誤飲する事故を起こし、一命はとりとめますが、脳を損傷し自発呼吸ができず、意識も回復しないと告げれました。人工呼吸器につながれた息子を前に、父親は「息子の魂を自由にしてほしい」と人工呼吸器を外すよう頼みますが、医師は断ります。当時の考えでは、人工呼吸器を外すことは「殺人」に当たると考えられていたためです。8カ月ものあいだ父親は苦悩し、ある日ある決断をします。銃で医療者を脅し、誰も病室に近寄れないようにして、父親自らが人工呼吸器を外したのです。そして我が子を抱き、命が失われるのを確認してから、泣きながら自首をしました。

当時「延命治療がもたらした悲劇」として話題になったそうです。

本書ではこう考察されています。

 おそらく、彼は、息子のいのちが「生かされている」状況を見て、延命による生とQOLとのギャップを感じていたのではないでしょうか。それは、このような状態で生き続ける息子の「生命の質」は低いという、QOLの判断です。
その判断をもう少し抽象的にすれば、確かに生命は尊いけれど(息子の生命は自分にとってかけがえのないものだけれど)、その生命の状態によっては、生きるに値しない生命もあるということになります。

p.114-115

本来ならば、何が幸せで、何が活きるに値するかのQOLは、本人の意思によって決められるべきです。他の人が見て「あの人はQOLが低い」「あれは生きるに値しない」と決めることではありません。親であっても、我が子の命の判断をしても良いのでしょうか。

植物状態で意識もないと考えられていた人が、肉体が一切反応もなく動かないだけで、全くクリアに意識があった事例が話題になりました。その後、植物状態だと考えられていた人を検査しなおすと、同じような人がたくさん見つかったそうです。動かない肉体の中に、意識が閉じ込められた状態だったというわけ。タブレットを使って意思の疎通が取れるようになった人の話では、医師と家族とのやりとりなど、鮮明に覚えており、ずっと意識がハッキリとしていたといいます。

意識のない人や、QOLの判断ができない状態の人のQOLを、誰が決めるのかについて「生命倫理学」では統一見解がないそうです。

本人のQOL、家族のQOL

認知症で徘徊のある高齢者が骨折をしたとき、家族は「寝たきりのままでいい」と判断することも少なくないそうです。病気や怪我の本人のQOLのみならず、その人を介護する家族のQOLも絡んできます。

本書では羽田圭介さんの小説『スクラップ・アンド・ビルド』のエピソードが紹介されます。主人公は祖父が「自然死」を望んでいることから、祖父の身の回りの世話をなにもかも勝手出ます。祖父を「なにもしなくていい」状態に置き、体力を低下させ、判断力を失わせ、自然と死に導入させられると考えたからです。一方で、主人公の母は「皿は流しに持っていきなさい」「自分でなんでもやらなきゃ寝たきりになってしまうから」と、祖父に厳しく当たります。母には母の思いがあります。

祖父は自分のことを「早う死んだらよか」と言っていたのに、ある時お風呂場でバランスを崩し、主人公に助けられ「死ぬとこだった」と安堵します。その言葉を聞いて主人公はめまいを感じます。「早く死にたい」と望んでいた祖父が「死ぬとこだった」と言うからです。どちらが祖父の本音なのでしょうか? ……たぶんどちらも祖父の本音でしょう。

スクラップ・アンド・ビルド (文春文庫)

また、家族も「自宅で自然死してほしい」と願っていても、同時に「少しでも長く生きてほしい」と願ってもいます。自宅で死を迎える準備をしていたのに、いざ親や配偶者が目の前で発作を起こすと救急車を呼んでしまう人も少なくないそうです。そして、「もう一回話がしたい」と、「もう一回」を望むのです。

若い世代には馴染みのない話題をやさしく

本書『QOLって何だろう』は、ちくまプリマ―新書で、10代の人でも読めるように構成されています。副題に「医療ケアの生命倫理」と謳われていますが、若い人ほどまだ「病気」や「老い」に縁遠い人も多いでしょうから、多くの事例や例を挙げて紹介されています。

2016年の相模原障害者施設殺傷事件では、事件が海外でも報道されました。

 私はこの事件について新聞の取材を受けた際に、記者の方といろいろとお話したのですが、そのとき、つくづく感じたのは、この事件に対する、海外の反響と日本のそれとの大きな違いでした。
欧米では、優生思想に対して、世論がとても敏感に反応します。今回の事件でも、米国ホワイトハウスやローマ教皇は、すぐに声明を出しました。
ローマ教皇・フランシスコは、同日、事件で人命が失われたことに「悲嘆」を表明し、「困難なときにおける癒し」を祈り、日本における和解と平和を祈願していました。ホワイトハウスでも、プライス報道官は「相模原で起きた憎むべき攻撃で愛する人を殺害されたご家族に、米国は最も深い哀悼の意を表する」という声明を発表しました。
しかし、日本では、障害者がターゲットにされた事件だということに対して、国民の当事者意識が低いように感じられます。精神的に問題のある一人の男性が起こした凶悪事件という認識にとどまり、彼に「障害者はいなくなればいい」と言わしめてしまった社会のあり方や、いのちの尊厳について、根本から問い直すという問題意識が、希薄なのではないかと思えてなりませんでした。

p.16-17

日本は高齢社会ですから、これからますます「どう生きるか」「どう死ぬか」「幸せとはなにか」に社会は直面するでしょう。にもかかわらず、一般にはまだQOLの考え方は広まりきっていないですし、「命は誰が決めるのか」と議論する土壌すらまだないのかもしれません。

本書は、若い世代へ向けた生命倫理について問いかけるもので、明確な「答え」は存在しません。本人の意思だけでなく、苦悩する家族や医療者にも共感してしまい、答えが見つけられない人も多いでしょう。

幸せは自分で決める

あさよるは昔、路上で気分が悪くなって救急搬送されたことがあります(;’∀’)> その時に始めて「救急車の乗り心地は悪いんだなあ」と知り、カーテンで仕切られた処置室の天井を眺めながら「ここで死ぬのは嫌だなあ」としみじみ思いました。「最期のときは自宅で」と望む人がたくさんいる理由を痛感したのでした(ちなみに、今はもう元気っす)。

誰も病気になりたくないし、怪我や事故に遭いたくはない。叶うならどうか、静かに自宅で家族と一緒に居たいと願うのはおかしなことではありません。だけど、病や事故は突然やってくるもので、願いが叶わない人もいます。

今回、記事中ではかなりギリギリな例を挙げましたが、誰もがいつか最期の瞬間を迎えます。その時自分は「どう生きるのか」「どう死ぬのか」「何が幸せなのか」と考えることは、悪いことではないでしょう。

しかし、自分で選択するとはつまり、責任は自分が持つということでもあります。これまでのように「医師にお任せ」ではなく、自分の意識を持つことが迫られているとも言えます。自分の命の行く末を家族に決めさせるのも、それはそれで酷な話だろうと思います。やっぱり、自分でよく考えて、自分でよく調べて、家族に話しておくべきことじゃないかと思いました。本書はその助けとなる、最初の一冊になるでしょう。

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『もっと簡単に暮らせ』|人生を自分で選ぶコツ

こんにちは。早くAIが服を畳んで引き出しに収納してくれる時代が来てほしい あさよるです。気の利いた音楽なんて再生してくれなくていい、部屋を片付けてくれないか……。と、そんな話題と関係あるようなないような『もっと簡単に暮らせ』を読みました。

この本では、今現在現実問題として服を畳まなければならない我々が、暮らしやすく暮らすための極意が収められたものであります。著者のちゃくまさんはブロガーの方で、そちらも熟読いたしましょう。

毎日の、コツ

本書『もっと簡単に暮らせ』は、著者・ちゃくまさんによる暮らしのコツ、考え方のコツが86つまった書籍です。ちゃくまさんはブロガーの方で、日々ブログで暮らしに役立つ記事を投稿なさっています。で、どうやら本書は続編のようで『簡単に暮らせ』という本が先に出版されています。順番に読めばよかった(;’∀’)

また、ちゃくまさんご自身が40代女性で、夫と大学生の息子さんがいらっしゃるそうで、同じ年代の方や、子育てがそろそろ終わる方がより共感できるんじゃないかと思います。

簡単に暮らせ

簡単に暮らせ

  • 作者:ちゃくま
  • 出版社:大和書房
  • 発売日: 2016-06-22

人の目、気にするのやめない?

本書では生活全般、家事、日用品、家計、買い物、生き方、着るもの、片づけを、シンプルにするためのコツが紹介されています。しかし、よくよく読んでいると、これらって「他人との付き合い方」に尽きるんじゃないのかな?と気づきました。

たとえば、家計の話では「見栄を張るのをやめる」「つきあいをやめる」と言及されているし、「あの人がああ言うから」「義母にこう思われるのではないか」などなど、自分以外の人間を判断基準にしちゃっていたら、そりゃ片付くものも片付かないし、お金もどんどん出てっちゃうわなぁ、と。

ちゃくまさんのブログでも、人間関係について言及なさっているエントリーも充実していて、こっちも読みふけっていました。

そういえば、先日読んだ勝間和代さんの『勝間流ロジカル家事』は、トコトン勝間さんのガシェットオタクぶりが追及されている本で面白かったのですが、勝間さんの本には「他人の目」が一切入っていなかったんです。「こんなことしたらあの人はなんて思うだろう」とか「他人に自慢したい」とか、雑念が一切ないんですよねw 清々しい!勝間さんに憧れる女性がいるのもワカルワーとオモタ。

他人の目、気にするべきシチュエーションもありますよ。でも、どうでもいいコトも多い。この、どうでもいい場面で、他人の目を気にして自分の行動を決めるの、やめる……。

自分で選び取ろうよ

不必要に他人の目を気にして、他人の価値観に合わせた行動をやめると、どうなるでしょうか。……自分で考えて、自分で選んで、自分で決断するってことです。それって……上手に出来る人はいいけれども、苦手な人だっているハズです。集団行動が身についている人は、独自路線に進むのは勇気がいるのでは?

本書『もっと簡単に暮らせ』の生活の知恵って、この「他人の価値基準じゃない」「自分で選ぶ」ための手順なのではないでしょうか。

あさよるは、一つ目の項目「バッグに入れる小物は明るい色にする」ですでに「おおお~」と超納得&関心しきり。持ち物を明るい色にしちゃうと、暗いカバンの中で物が探しやすくなるんです。たしかに! んで、あさよるも小物って「自分のセンスの見せどころ」とばかりに「他人の目を気にして」「他人が羨ましがるような」持ち物を選んでいたかも! あさよるも「自分の基準で選ぶ」をやり直します(;’∀’)>

暮らしやすいように暮らす

何やら抽象的な話になってしまいましたが、本書『もっと簡単に暮らせ』は簡単な内容です。「自分の暮らしやすいように暮らす」、以上。おわり。すんごいシンプル。

なのに、簡単なのに、そうそう簡単にできない。どうしていいかわからなかったり、もう諦めている人も多いはず。あるいは感覚がマヒして、不便や不快を認識しなくなってたりして……。

暮らしやすいように暮らしましょう。たぶんそれが「幸せ」に関連する事柄だろうし、きっと「豊かさ」とはそういうことなのだろうと思います。物質的にはすでに恵まれているんですから、あとは「どう生きるか」なのかもしれません。

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