教育

『一流の育て方―――ビジネスでも勉強でもズバ抜けて活躍できる子を育てる』

いずれ巣立ってゆく子へ、親ができることは少しだけ

せめて将来の仕事へ繋がる学習習慣と、自信と思いやりを

間違えて手にとったw

『一流の育て方』とタイトルだけ見て、一流になるための方法とか、一流の人がやっていることが書かれた本なのかなぁ~と勘違いして手に取りました(笑)。

読んで見ると、子どもを一流に育てるための子育て本でしたw あさよるは子育てしたことがないので、こんな機会でしか子育て本を読むこともないだろうなぁと、最後まで読み進めることにしました。

結果、これまで読んだことがない内容ですので、気付きや発見の多い読書になりました。そっか、親の仕事って、究極を言っちゃうと、教育を受けさせる以外にないのかもなぁ。あとは本人の自由だもんなぁと、改めて。

「我が子」という客観視できない人だから

『一流の育て方』は、ミセス・パンプキンさんによる子育て論です。

パンプキンさんには上の2人の女の子と、その下に2人の男の子を持つ4人のお母さんです。4人は4人とも、同じ親から生まれ同じように育てたのに、それぞれ個性的に巣立ってゆきました。

タイトル『一流の育て方』にある「一流」とは、有名大学へ入学した学生たちのことを本書では「一流」と呼んでいます。一流大学の学生のアンケート結果をもとに、パンプキンさんによる一流を育てる子育て55か条!

(ちなみに、本書でアンケート結果として取りあげられていたのは以下の学生たち。青山学院大学、大阪大学、京都大学、慶応義塾大学、サスカチュワン大学、中央大学、東京医科歯科大学、東京外国語大学、東京工業大学、東京大学、東京理科大学、東北大学、名古屋大学、一橋大学、立命館大学、早稲田大学。誰もが知っている大学がズラリですね)

一流の育て方55か条!(の一部)

一流の育て方55か条は、過保護も育児放棄もダメ!とか、本を読ませようとか、ありきたりと言えばそうですが、なかなか子どもが親の言うことを聞かない事柄を、どうやって導いてゆくか、が中心です。『一流の育て方』の最初のページはこんな列挙から始まります。

・子どもは親のどんな教育方針に感謝している?
・なぜ「頭がよくても成功しない」子どもが多いのか?
・なぜあの人は「自分で物事を決められる」のか?
・「主体性の有無」は、出身大学と無関係
・重要な決定ほど、子どもにさせる
・過保護と育児放棄のバランスが大切
・他人に迷惑をかけない人ではなく、「役立つ人」を目指させる
・ときには自分以外の全員が「間違っている」と教えよ
・子どもを「天職」につけるにいはどうしたらいいのか?
・視野を広げず「自主放任」してもダメ
・親のアドバイスは成人してから効いてくる
・「半径100メートル」で育てない――広い世界観をもたせるには
・自分の意志で挑戦させ、簡単にはやめさせない
・子どもの「強い意志」がないところに、湯水のような教育費は無駄
・相手を理解し、心を通わせる能力を育む
・親の価値観の押し付けが、子どものコミュニケーション能力を低下させる
・怒るのではなく、気づかせよ
・たいていの子どもは放任しても強制しても、勉強しない
・教育とは、「勉強の楽しさ」「何が好きで、何が得意か」に気づかせること
・なぜ子どもに「勉強しなさい」と言ってはいけないのか?
・「何が好きで、何が得意か」に気づかせることが最大の教育
・他人の子は「しつけ」ができていて初めてかわいい
・なぜ「バーベキューパーティ」の振る舞いで将来を予測できるのか?
・子どもは「優しさだけ」を求めていない
・子どもに「お金の話」はすべきか?
・感謝力を磨け――「小さなありがとう」を忘れない
・子どもは親の言うことを聞かないが、行動の真似はする

ムーギー・キム/ミセス・パンプキン『一流の育て方』p.1.2

あさよるは子育ての経験はありませんから、「子育てあるある」は共感することが出来ません。しかしながら、あさよるも超反抗児だったので、この列挙を見て我が事を言われているような気分になります(苦笑)。

さて、55か条もの子育て論すべてを紹介するわけにもいかないので、かいつまんで。本書『一流の育て方』が面白かったのは、ミセス・パンプキンの子育て経験が元になっているのですが、その経験は必ずしも成功談ではないことです。

パンプキンさん夫妻は、お子さんにピアノを強制的に習わせていました。もちろんお子さんの将来を思っての行動ですが、息子さんはピアノは嫌だったようです。そこで、パンプキンさんは「法律でピアノを習わないといけないと決まっている」と嘘をついて息子さんをピアノ教室へ通わせていたそう。

すると、息子さんが小学生になったある日、パンプキンさんにこう報告したそうです。「ピアノって、別に習わなくてもいいのやって!」。母親を責めるのではなく、間違っていたお母さんに“教えて”くれたんですね。

……こんなエピソード、どこのお家にも一つや二つあるんじゃないかと思いますし、笑い話になっているお家もあるでしょう。しかし……小さな不信感が募り募って、大きな埋まらない溝になってしまうこともあるでしょう。

たまたま、パンプキンさんご家族は、溝が深まる原因にはならなかったようで、笑える話になっているようですが、一歩違うとヒヤッとする話です。

「大人ではない人」という存在

子育ての難しさは、相手は子どもとはいえ、一人の人格ある人間ですが、彼らは「大人ではない」という曖昧さなのかもしれません。

大人をマネージメントするように子どもにも接するべきですが、彼らは未熟で、目的を明確に持てなかったり、放っておくとあらぬ決断をすることもあります。多干渉は以ての外ですが、放任主義も考えモノ。世間には様々な誘惑が溢れていますから、小マメな微調整は大人が加えないといけません。

その、一人の人間として扱いつつ、適度に親の監視下に置く、という微妙な立ち位置が難しいのかもしれません。また、子どもも日々成長してゆきますから、親もそれに合わせて対応を毎日変え続けないといけないことも、難しさなのだろうなぁと思いました。

正解がない、なんでも裏と表

子育てって難しいんだなぁと思います。「正解がないから」とありきたりなことを嘯いてみますが、正にそう。

学生たちのアンケートは、「もっと叱って欲しかった」と「叱らないで欲しかった」という真反対な回答が並びます。「放任主義で好きなことをさせてくれた」という答えがある一方で、「もっとサポートして欲しかった」という答えもあります。

親が子に常識や道徳を教える必要があります。一方でそれは、親の思想や偏見を子に刷り込んでゆくことと同義でしょう。

パンプキンさんも、子どもたちに弱い人の側に立つ人になるよう身を持って教えていたようですが、それも視点が変われば評価は変わるでしょう。

大人になれば、何が必要なのか見えるようになります。英会話は出来たほうが良いでしょう。音楽に親む人生は豊かになるでしょう。中学受験のために、遊ぶのを我慢し今だけ集中すれば、未来は楽になるのではないか。長く生きているからこそ、大人は子どもに無理やりにでもさせたいことがあるんです。

……はい、自分が大人になれば分かるってヤツですね。

「親」という立場になったことのない人の感想

と、あさよるは子育てをしたことがないので、親目線の話しは想像でしかわかりません。強いて言えば、自分もかつて子どもだったことと、大人として、子どもにどう接したいかというところですね。

本書『一流の育て方』は子どもに「無償の愛を注ぐ」という話で締められます。そりゃそうなのかもしれませんが、なんだか釈然としない気持ちになったのは、これは「親の心子知らず」というヤツなのでしょうか……。

本書での「一流」は、有名大学へ入学することです。その後の身の振り方が大切だと思う方もいるでしょうが、親の仕事として、大学まで入学させたら、あとは本人の勝手なのかなぁと思いました。

ということは、有名大学へ入学させることが、「一流」を育てる親の仕事ということです。親が病気や怪我で働けなくなったり、ましてや死別したり、「無償の愛」を注げなくなってしまう場合が想定されていないので、心もとなく感じました。

子育てに時間も、お金も使える、レアな人へ

夫婦とも健康で、定職に就いていて、かつ子育てに時間を割ける余裕があり、「一流」の大学へ入学するための勉強を見てやる余裕があったり、習い事に通わせたり、読みたいだけの書籍を購入したり、時間的、金銭的余裕のある夫婦にであること。それが前提に設定されているように思えます。

で、それって、現在の「子育て」のモデルになりえるのって、かなりレアケースじゃないのかなぁ?と不思議に感じました。

「子」という独立した人間を、サポートするために

子育てって、すべての人が当事者です。誰もがかつて子どもだったのだから。だからこそ、色んな人が色んな事を言うのが「子育て」です。

自分の経験談や成功例を語る人、こうして欲しかったと願望を語る人。手に入らなかった夢を子どもに見る人もいるでしょう。

「子育て」に正解と言えるものって、あるわけがありません。誰も未来はわからないのだから、有名大学へ入学したって、一流企業に就職したって、立派な肩書を手に入れたって、万々歳とは言い切れないのは難しい所。

だけど、どう生きるのかは、結局のところ本人次第。親や兄弟でさえ関与できません。そして、「子育て」と称して、親が子にできることって、勉強のサポートをし、興味や知識の幅を増やしてやったり、学費を工面するくらいしかないのかもしれません。

有名大学へ入学したからって、その先どうなるかは、もう子どもの勝手でしょう。社会人になり、成人しているのですから。だから、親のする子育って、有名大学にでも入学させてやれれば、上出来なんでしょうね。

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『いまからでも楽しい数学。―先生と数学嫌いの生徒、35年後の補習授業』

数学クイズって結構ハマる!?

紙と鉛筆を握りしめ、いざページをめくるのだ!

紙をペンを用意!クイズ・なぞなぞのように!

『いまからでも楽しい数学』をお読みになるなら、紙とペンを持って用意!

なぜならば、数学の先生からの問題集だからだ!……と言っても、堅苦しい問題集じゃないですよ。まるでクイズやなぞなぞにチャレンジするように、やってみましょう。

著書は元・数学教諭とライターのお二人。お二人はもともと、中学の数学の先生と生徒の間柄でした。ン十年ぶりに再会した二人は、先生から出題される数学クイズに挑戦することになったのでした。

ちょい雑談がウザい?オモロイ!?

川勝先生も、ライターの植松さんも、お二人とも関西人。

バリバリの関西ノリで会話形式で、問題解説、考え方の説明、そして雑談がなされています。

正直あさよるですね、読み始めはこのノリが「なんか好かん!」「ハズレの本やぁ!」と思いながら渋々読み進めていたんですね(苦笑)。ごめんなさいm(_ _)m

しかし、読み終える頃にはスッカリ、お二人の息のあった掛け合いのような会話が心地よく、数学の解説もスーッと頭に入るようになっていました(笑)。結構、中毒性あるかもしれませんw

数学=難しい と信じている人へ!

さて、数学は難しいです。どこか一つでも躓いちゃうと、その先へ進めませんから、厳密に理解してゆかないと、しんどい教科だったろうと思います。

反面、数学はとっても面白い!

『いまからでも楽しい数学』では、役に立つんだか立たないんだかの、数学の問題も紹介されています。きっとね「役に立たない」ってのが大事なんです。

大体、楽しい事って役に立たない。ポケモンGOも妖怪ウォッチも、どんなにやっても役に立たないし、カラオケで好きな歌を歌ったって、どうにもならない。

だけど、圧倒的に楽しいじゃないか!役に立たないことほど面白いことはない。

『いまからでも楽しい数学』でも、ピタゴラスを「暇人」と紹介しており、非常に面白かった。そう、数学って、やっぱり役に立たない問題もたくさんあるよ。だけど、役にも立たないものに人類は夢中になってきた。

なぜか?

「面白いから」以外にないでしょ!

因縁の「数学」という教科に直面する中学生たちに、そして、かつての中学生たちに、読んで欲しい本でした。

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『東大物理学者が教える「考える力」の鍛え方』|頭のいい人の頭の中

こんにちは。ぼけーっと週末を過ごしちゃう あさよるです。頭のいい人って、休んでるときも頭がいいんだよな~と思うと悲しくなってきちゃった(苦笑)。本書『東大物理学者が「考える力」の鍛え方』の著者はもう、なにがどうなっても“カシコ”だし、カシコの著者が「考える力」に鍛え方があるというのならば、それは知りたいと思いましたw

先に言っときます。これ、真面目なヤツです。楽に手抜きする方法は紹介されています。〈考える力〉を正攻法で身につけたいならぜひ。地味で地道な話なのですが、結局コレが一番近道なのかも。

「考える力」とは

「頭の良さ」とはなんでしょうか。受験では「たった一つの答えを見つける力」が評価対象ですが、それは「頭の良さ」の一部であって全体ではありません。大学生になって、あるいは就活が始まって、院生になって、他の「頭の良さ」を求められるようになり、混乱してしまう場合も多いんだとか。

繰り返しになりますが、大学受験までは「たった一つの答えを見つける力」だけが評価対象になることが多く、優秀な人ほどそれに特化した思考を身につけています。しかし、大学や社会では「一つの答え」が存在しない問題が提示されたり、問題すらなく自分で「問題を見つける力」が必要になります。

著者・上田正仁さんは物理学者で東京大学の教授であり、学生たちに「考える力」を身につけさすための教育を本書で紹介されています。学業成績を効率よく上げる「マニュアル力」も、「考える力」を身につけるための基礎力になります。必要な力であり、これを否定しているわけではありませんが、使える場が限られているのです。「考える力」はアイデアを生むために不可欠な「創造力」です。

上田正仁先生によると、「考える力」とは3つの要素があります。それは「問題を見つける力」「解く力」「諦めない人間力」の三要素。簡単に見てみましょう。

  • 「問題を見つける力」

問題を見つける力は実社会で重要な力。にもかかわらず、受験勉強ではスッポリ抜け落ちている部分でもあります。大学生や社会人になったとき途方に暮れてしまうのもわかります。大学でも、本格的に「問題を見つける力」が必要になるのは博士課程からといいますから、かなりレアな能力でもあるんですね。

まず、日ごろからの疑問を大切にする習慣を身につける。一方通行な講義に慣れてしまっていますが、「対話」を心がけましょう。

「問題を見つける力」を身につける極意は、人との対話、そして、自分との対話の積み重ねを通じて問題意識を煮詰めていくことなのです。

p.47

普段無意識に考えていることを意識下に置き、一つずつ問題を炙り出してゆきます。考えて「わからない」ことこそが重要です。「わからない」は大抵「事実を知らない」「答えがわからない」「何がわからないのかわからない」の三つです。中で「何がわからないかわからない」はパターンも多く曲者で、わからないことを明確にしてゆきましょう。「何がわからないか」がクリアになれば、問題や課題がハッキリします。

で、当然ですが「メモを取る」習慣が大事です。いつもポケットに筆記具を忍ばせて、どこでもメモを取れるように。情報も、ウィキペディアなんかを読んで「分かった気」になってもしかたありません。じっくりと読み込みます。

面白いのは「自分が理解した情報は捨てよ」との指南がなされている点でしょうか。通常は「知っていること」「分かっていること」が大事だと思ってしまいがちですが、ここでは「分からないこと」を探しているわけです。どんどん自分の理解したことを捨てていくと、ポッカリと「わらかないこと」が浮き彫りになるのです。

  • 「解く力」

「解く力」には学業成績を上げるのに必要な「マニュアル力」を使います。課題をパターン化し、解くための手順をしっかりと見定めます。創造的な問題には決まった答えが用意されていませんから、多角的に対策を立てアプローチしてゆきます。

基本的なプロセスは次のようになります。

・複雑な問題を類型化する

・要素に分解する

・各要素を1つ1つ解決する

・解決できなかった要素があった
(または各要素は解決できたが、最初の問題の解決にはつながらなかった)

・その問題解決のために足りない要素は何かを分析し、もう一度トライする

p.118

これの繰り返しです。

また、あえてと遠回りをすることも恐れてはなりません。優秀な人ほど最短距離で最適解を見つけてしまう故に、遠回りしないのかもしれません。

2005年にノーベル物理学賞を受賞したテオドール・W・ヘンシュ博士がよく使うスライドの1つに、ニワトリとひヒヨコが描かれている絵があります。ニワトリは柵の向こう側にあるエサを目ざとく見つけますが、柵にさえぎられてくちばしが届かず食べることができません。一方で、気ままに動き回るヒヨコは遠回りしながら、いつの間にかエサとは反対側の柵の切れ目から外に出てしまい、エサへと近づいているというものです。

p.122

ニワトリのように一直線に突き進もうとする行動を「ゴール・オリエンテッド」、ヒヨコのように好奇心のままに行動することを「キュリオシティ・ドリヴン」と言い、研究においては後者の重要性を説いています。

好奇心の赴くままに行動しよう!

  • 「諦めない力」

簡単に答えが出ない問題にこそ、大切な時間と頭脳を費やすだけの価値があるのです。自分の見つけた課題に時間をかけて取り組みましょう。このとき、やらないことを決めることで、やるべきことに集中する方法もあります。

原動力は先ほど述べた「好奇心」。好奇心に突き動かされているからこそ、続けられるエネルギーです。また、時には振出しに戻る勇気も必要です。

インスタントな〈答え〉を探しちゃう私たち

中学高校大学と受験や試験問題では〈答え〉を早く見つけるの力が試され続けました。その力ももちろん大切な力ではあるんだけども、〈創造する力〉を身につけるにはその先の「考える力」が必要だと知りました。〈創造する力〉とは、答えのない問題を見つける力です。まだ誰も答えを見つけていないことや、自分独自のやり方を見つけるのです。

ですから〈答え〉ではなく〈疑問〉を大切にする。そのために、自分の無意識化にあることも考える。

ついつい私たち、疑問に思ったことはその場でパッと検索しちゃったりして、適当に分かった気になるような答えを見つけて納得してしまいます。本当はなんにも分かっていないのに……(苦笑)。そうじゃなくって、自分の疑問に対し、好奇心を持って丁寧に取組んでゆきましょう。インスタントにそれっぽい回答が得られる現代だからこその悩みですね。

意外?泥臭く「考え続ける」姿

頭のいい人たちはさぞやスマートに思考していると思いきや、本書を読めば読むほど泥臭く、地道で地味な思考の連続であることを知りました。「思いついたことはメモする」とか「情報をよく読み込む」とか、突飛でもなんでもなく、巷で語られることです。「諦めない」なんてともすれば根性論に聞こえてしまうようなことです。

結局のところ、地道なことを黙々とやり続ける能力ことが「マニュアル力」、すなわち学業成績が良い人なのだろうし、さらにその先に研究や実社会で成果を残す人もやはり、真正面から実直に物事に取り組むことなのかもしれません。面倒くさがりな我々は、すぐにズルしたくなりますが、近道なんかなくって、延々と果てない道を歩き続けることだけがゴールへの近道なのかも。

そういう意味で、パッとやればポンッと結果が出るようなものを探している方にとっては、本書『東大物理学者が教える「考える力」の鍛え方』は役に立たないものでしょう。だって、正攻法しか書いてないから。

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『教室内(スクール)カースト』|誰が階級を作っているの?

こんにちは。友だちの少ない あさよるです。中高生のことから人と「ツルむ」「群れる」のが苦手で、プイッと一人で図書室で本を読んでいました。そう、あさよるは人と喋りたくないばっかりに本を読んでるヤツだったのです。ネガティブ~。

先日、東洋経済オンラインで、『「意識高い系」社員につけるクスリはない』という記事を読みました。

この記事の中で、「意識高い系」の定義として「スクールカースト」という言葉が登場します。意識高い系はスクールカーストは被支配階級で、土地を持っていないと定義されています。だからこそ、都会へ出てワンチャン狙いたいということらしい。

そこから派生して、ダイヤモンド・オンラインの記事も読みました。ここでは、スクールカーストと学力、コミュ力、容姿、職業と、10代の頃の教室内での地位と絡めて話されています。

あさよるは「スクールカースト」という言葉を知ったのはここ5年程でしょうか。あさよるが10代の頃は「1軍」「2軍」とか「メジャー」「マイナー」なんて言葉が使われていたように思います。……しかしながら、あさよるはそういうの疎い子どもだったので、自分の教室内のポジションとかよく分かっていなかったんですけどね(;’∀’)

スクールカーストとは

本書『教室内(スクール)カースト』では「スクールカースト」という言葉の出典から始まります。

この言葉が最初に紙面に載ることになったのは、2007年に出版された教育評論家の森口朗(あきら)さんの『いじめの構造』(新潮社・2007年)という本の中です。(中略)
森口さんは、「スクールカースト」の定義を以下のように設定しています。

スクールカーストとは、クラス内のステイタスを表わす言葉として、近年若者たちの間で定着しつつある言葉です。従来と異なるのは、ステイタスの決定要因が、人気やモテるか否かという点であることです。上位から「一軍・二軍・三軍」「A・B・C」などと呼ばれます。(41~42頁)

p.28-29

『いじめの構造』が出版された頃にはすでに「スクールカースト」という言葉が存在し、意味付けもなされていました。では、いつ「スクールカースト」という言葉が登場したのでしょうか。

朝日新聞社発行の雑誌『AERA』にて「スクールカースト」の言葉を生み出したという人物が、自身の体験と共にネット上に「スクールカースト」のワードを登録したと語っています。

 マサオさんは2年ほど前、インターネット上に言葉を登録し、説明文を編集できるサイトに、実体験を基にこう書き殴った。

「主に中学・高校で発生する人気のヒエラルキー(階層性)。俗に『1軍、2軍、3軍』『イケメン、フツメン、キモメン(オタク)』『A、B、C』などと呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流がほとんど行われなくなる現象」

こうして、「スクールカースト」という言葉ができた。

(森慶一「学校カーストが『キモメン』を生む――分断される教室の子どもたち」『AERA』2007年11月19日号)

p.32-33

このマサオさんはシステムエンジニアの当時29歳で、10代の頃「イジられキャラ」でピエロを演じていたが、イジりがエスカレートし、「いじめられキャラ」に変わり、高2で退学をしました。そして「スクールカースト」という言葉を登録した、と証言しています。

スクールカーストが生まれる背景

日本の学校で起こる「いじめ」の特徴は、「教室の中」で起こることだそうです。本書でも、他のクラスに友だちがいて、昼休みなどに教室外で集まっている人たちに対し「生きてる意味あるのかな」なんて感想もあって、スクールカーストが「教室の中」の限定された空間で起こることが顕著です。本書のタイトルも『教室内カースト』と書いて「スクールカースト」と読ませています。

ちなみに、あさよるも友だちを作らず一匹狼でフラフラしてるのが好きですが、周りの人から「生きている意味あるの」なんて思われてたんでしょうか……(;’∀’)

いじめとスクールカーストのカンケイ

いじめで暴行や恐喝等が起こった場合、速やかに警察を介入させるべきだと考える人がいます(あさよるもそう思います)。しかし、いじめは「シカトされる」「クスクス笑われる」といった「実被害はない」けれども「やられる当人は死ぬほどつらい」状況に置かれることも多く、解決が難しいのです。

「いじめ」を作るのは「被害者」と「加害者」、そしてそれを見てはやし立てる「観衆」と見て見ぬふりをする「傍観者」、それらが四層に重なり「いじめ」が成立するというのです。(中略)
そして「いじめ」が起こらないとすれば、「傍観者」層が「仲裁者」層に変わったときなのだといいます。

p.52

いじめは少数の加害者によるものではなく、観衆と傍観者がいて「いじめ」になるというのです。

教室内では、スクールカースト上位者は自分の意見を発言しますが、下位の人は意見を言いません。ですから「いじめ」回避のための「仲裁者」になり得るのは、カースト上位者のみということでしょうか。

スクールカーストは悪なのか?

本書を読んでいると不思議なことがあります。インタビューやアンケートに答えている生徒や学生、教師らは「スクールカーストはなくなった方が良い」とは考えていないようなのです。

スクールカースト下位者は、カーストは「あって当然」と半ば諦めているように感じます。教師は、諦めモードのカースト下位者を投げやりで、やる気のない人のように感じています。スクールカースト上位にいたことを自認する生徒たちは、それなりに「特別」だったことを感じているようです。

また、教室内自治を行うにあたって、教員側から見ればスクールカーストはあった方がやりやすいもののようです。スクールカースト上位者は良くも悪くも目立つ人で、彼らの様子を見て雰囲気を察知しています。カースト下位者は顔も名前もわからないこともあるそうです。

また、クラスを代表したり、作文のコンクールに応募する際など、責任のある役割はスクールカースト上位者に任せます。それはスクールカースト下位者には、責任ある仕事を任せられないと考えているからです。

どうやら、概ねスクールカーストは「あって当然」「しかたがない」と諦めもありつつ、存在が認められているようです。

カースト上位はイージーモードか

本書で興味深いのは、高校生でカースト上位になってしまった人の証言です。クラスでの取り決めで発言したり、先生のネタにツッコんだり、カースト下位者にネタを振ったりしないといけない。カースト上位者の権利も多いけど、その〈権利を使わなければならない〉「義務」が大変だった。彼女は結局高校を中退してしまいました。

また、カースト上位者は下位者に好かれているワケではない。みんな内心ウザくても、それを表に出していないだけだと言います。ということは、カースト上位者って、「みんなの共通の敵」というか「みんなの共通の嫌われ者」だとも言えます。カースト上位者はクラスの結束を作るとみなが証言しているのですが、結束の内情は複雑です。

誰がカーストを作ってるんだ?

本書『教室内カースト(スクールカースト)』はたくさんのデータや出典が挙げられているので、ここから他の史料にあたることもできます。あくまで客観的資料の羅列につとめておられるようで、〈収まりのいい結論〉を求めている人には消化不良かもしれません。

スクールカーストがなくならないのは、学校の教室という限定された環境、構造がそうさせているようです。では、その閉ざされた特殊な空間で、誰がスクールカーストを作っているのでしょうか。教師はスクールカーストを利用しているようですが、教師がカーストを作っているなんてことがあるのでしょうか。

カースト上位者が、多数の下位者たちを抑圧している……とも言い切れない感じ。確かにスクールカースト上位者たちは自分の意志をハッキリ言って、ムードメーカー的存在ですが、それだけです。カースト下位者は、カースト上位者の物言いや染めた髪やピアスを見て「コワイ」「めんどくさそう」と倦厭しているようです。

「いじめ」は、スクールカースト下位の中の「いじられキャラ」が「いじめられキャラ」に変わることがあると紹介されていました。また、いじめ回避には「仲裁者」が必要です。本書を読む限り、仲裁者になり得るのはスクールカースト上位者しかいないように思えます(自分の意見を発現できるのは上位者だけ)。

〈構造が「スクールカースト」と「いじめ」を作っている〉と言ってしまえれば簡単ですが、スクールカースト下位者が、見た目が派手な生徒や、意見を言える生徒を〈遠ざける〉ことで、分離が始まっているようにも読めました。なんともややこしくて難しい話ですので、ぜひご一読ください……m(__)m

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『ネットの高校、はじめました。 新設校「N高」の教育革命』|新しい学校!

こんにちは。やっと、やっとかぁ~。と落胆する あさよるです。何がって、自宅でネットで勉強するのが当たり前の時代って、やっときたのかーと。『ネットの高校はじめました。』を読んで、生まれるのが早すぎたのねと涙涙。あさよるは学校ダルくて嫌で嫌でたまらなく、授業なんか家でテレビ画面でいいじゃーん、と思い続けた小中高間でした。どうせ一方通行な授業なんだから、録画でいいじゃんとw ネットを使ったN高は、家でいても〈双方向〉な高校生活を送れるようで、読んでるだけでwktkが止まらない~!

通信制高校の選択肢が増えていることについては、『通信制高校のすべて』という本で知りました。こちらも併せてご覧ください。

『通信制高校のすべて』|20人に1人は通信制!多様な教育を知ってますか?

新しい学校「N高」ってなに?

2016年開校したN高はドワンゴとKADOKAWAが開設した通信制高校です。本校は沖縄県伊計島にあり、広域で生徒を募集しています。N高の入学式の様子は、ニュースでも報道され見知った方も多いでしょう。ドワンゴが作ったということで、ニコ生よろしく入学式の様子を各地で生徒がコメ飛ばしながら見ている様子や、遠足はドラクエの世界を散策するなど、従来の高校のイメージとはかけ離れた様子が報道されました。

授業もネットを通じて受けられ、進学に特化したコースや、留学を視野に入れた英会話のコースや、プログラミングを学ぶクラスや、バンタンと提携して職業別のスキルを身につけることもできます。

生徒は、不登校や中学校生活にうまく溶け込めなかった人もいますが、成績優良で学校生活が退屈だったためN高に進学する人。ヤンキーっぽい人もいればオタクもいて、多種多様な人が集まっているようです。また、なんらかの障害があって、なかなか中学で成績が上がらなかった人も、N高の学習方法で成績が向上することもあるそう。紙に鉛筆で書くのが苦手だった人は、タイプして入力だと成績が上がった人や、病気で登校するのが難しかった生徒が通信だからこそ活発に高校生活を送っている様子が紹介されていました。

高校は義務教育ではないからして

進学高校を中退し、子育てしながらN高に通う方もいます。本書で紹介されていた女性は、元々ニコニコヘビーユーザーだったそうで、ニコニコが高校を作ると知り入学したんだとか。高等学校というのは義務教育ではないので、年齢関係なく開かれています。N高のようにすべてネットで単位を取れるのは助かります(年に数日出席するのかな?)。

また、N高は〈進学〉〈職業訓練〉の二本柱です。ただ必要な単位を集めて卒業ではなく、自分でN高で何をするか選べるというのも、良い所。小学校中学校の「させられる」「やってくれる」勉強の仕方ではないんですね。卒業に必要な単位を修めるのはもちろんで、通学時間が削減できるんだから、余った時間で何をしようか!? ワクワクしますね。

ああ、高校卒業してなきゃ……

N高は高校なので、当たり前ですが高校を卒業した人は入学できません。本書『ネットの高校はじめました。』を読んでいると、なんども「あ~!あさよるも入学したいー!」とめっちゃ思うのに、とっても残念だ! ちょっと心のどっかで「高校卒業しなきゃよかったな」なんて思っている自分もいてびっくりびっくり。

あさよるも、ずっと学校ダルかったし「いつになったら家で学校の授業受けられるんだ」とプンスカ怒っておった。2016年!やっとネットで学べる高校が登場したのが2016年!やっと!やっと!

ちなみに 今は、大学の授業を自宅で視聴している。時代が変わったのだ。やっと。

まだN高は始まったばかりで、N高がどんな学校だったのかは時間が経たないとわからないでしょう。本書『ネットの高校、はじめました』N高設立へ向けての熱意や理念や、設立して「良かったところ」が紹介されています。あさよるは正直、当初は「アリだと思うけど……自分は入学したいかなぁ~」と訝しんでおったのですが、本書を読むと「アリだな」と思うどころか、「普通の(新しい)学校だな」と納得。()内が大事なところ。

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