内田樹『修行論』|修行すると弱くなる?「負けない」こと「強い」こと

修行をするとどうなるの?

黙ってやってみないとわからない「修行」を再発見する。

『先生はえらい』に引き続き

内田樹さん『先生はえらい』を面白く読めたので、同著者の本を読んでみようと思いました。

ネットでレビューなど見つつ『修行論』を選びました。内田樹さんはマイ合気道道場をお持ちだそうで、ホントに「修行」している方なんですね。

修行はやらないとわからない

ついつい我々は、一つ一つのモノゴトに、論理的な理由を求めてしまいます。「なぜこれが必要なのか」「これをすれば何が手に入るのか」。あさよるも、つい「なぜ?」を考えてしまいます。

もちろん、「修業をする」と言ってもそうです。「なぜ修行するの?」「修行するとどうなるの?」と、頭の中で質問が溢れかえります。

そして、先生・師は、そのギモンを解決してしかるべきだと考えています。幼いころからの、義務教育がそんな方式だったからでしょうか。

しかし、修行の意味をキチンと説明してくれる先生・師匠はいません。なぜなら、師匠もわからないからです。

「黙ってやれ」しかない

「修行するとどうなるの?」という問には、「黙ってやれ」としか言えません。

昔風の「師匠の背中を見て盗む」世界観です。前時代的、非科学的、なんて思いますか?

なぜ師匠は「黙ってやれ」としか言えないかというと、師匠も「やってみないとわからない」からです。

師匠が弟子に伝えたいものが、理論やノウハウではなく、「コツ」や「勘」といった、非言語的で身体的な感覚だったら……。師匠は、それを言語化しようがないんですよね。そして、「やってみないとわからない」。

自分は、その修業でコツを掴んだ。だけど、同じ修行で弟子もコツが掴めるかどうかは、やってみないとわからない。一瞬で会得できるかもしれないし、十年かかるかもしれない。そもそも、“やってもできない”かもしれない。

赤ちゃんは見よう見まねで成長する

ここで思い出すのが、赤ちゃんの成長過程です。

人間の赤ちゃんは生まれたとき、筋肉もないのでぐったりと横たわり、表情もなく、目も開いているのか、音も聞こえているのか…という状態です。そこから一気に、爆発的に成長してゆきます。

どんどん人間らしい仕草、人間らしい表情、そして声を出し、しまいには言語を獲得します。目を見張るスピードです。

で、赤ちゃんは何も、論理的な説明やメリットを理解した上で成長しているわけでありませんよね。見よう見まねで、周りの人間を先生に、人間らしいコミュニケーションを勝手に修行して上達してゆくんです。

「学ぶ」の語源は「真似ぶ」だ、なんてよく言われます。身体的学習は、実際にやってみて、試行錯誤しないと身につけようがないんです。

自転車の乗り方は、乗ってみないとわからない

自転車の乗り方を、自転車に乗れない人へ言葉でいくら説明してもコツや感覚は伝えられないでしょう。

だけど不思議な事に、一度自転車に乗れるようになると、乗れなかった頃がウソのよう!というか、乗れなかった頃には戻れません。そして、なんで乗れなかったのか、言葉で説明するのは難しい…。

師匠が、「できなかった頃」を言葉で説明できないのも、同じでしょう。

身体を鍛えず省エネ化

メリットにこだわる人たちは、目に見える結果を欲しがります。「◯kg減量した」とか「筋肉が◯cm太くなった」とか、「◯秒早くなった」とか、数字で記録できるなら尚嬉しい。

でも、「修行」はちと違う。結果が出ない、というか、むしろマイナスの結果が出るかもしれません。修行は、そのような数字で測れる結果を求めていないからです。

さっきの自転車の例で言いますと、体中の筋肉を目いっぱい遣い、カロリーを大きく消費し、全身全霊を傾け、全身運動をしているのは、自転車に乗るのが下手な人/乗れない人です。

反対に、自転車に乗れる人は、無駄な筋肉を使わず、脱力状態でリラックスして自転車を漕げます。修業の成果はコレ。「トレーニング」や「鍛える」とは真反対の結果です。

修行したから、省エネで楽ちんに過ごせる。

達人は戦わずにして「負けない」

修行を続け達人の域になると、そりゃあむちゃくちゃ強い。誰にも負けません。が、誰にも「勝ちたい」人は達人ではありません。

達人は「負けない」から達人なのです。「勝ちたい」からと言って、勝負に挑めば、いずれ負けるでしょう。負けると達人ではなくなってしまいます。

そう、達人は勝負を挑まない!

強い達人程、光の速さで頭を下げて謝るんだそうです。隣の人にちょっとぶつかっちゃった。電車がガタンと揺れた拍子に、うっかり足を踏んでしまった。そんな時、達人はものすごいスピードで必ず謝罪するんだそう。

「気づかないフリ」「知らん顔」なんて姑息なことをしないのです!(……反省;)

「強さ」とはなんだろう?

「強い」とか「すごい」とか、そういうのって、なんなんでしょうね。

絶対にケンカに負けない人とか、頭が良くて絶対に議論に勝つ人とか、ギラギラしている人は、達人ではない=強くない、すごくない、ということです。

むしろ、ペコペコ謝って回ったり、恥ずかしげもなく戦いから逃げ出しちゃえる人が、強いってこと……?

瞑想って、ゲシュタルト崩壊状態?

修行の形態として「瞑想」も取り上げられています。

あさよるは「瞑想」って何なのか全く知りませんでした。今回『修行論』を読んで思い浮かんだのが、「ゲシュタルト崩壊」でした。

あることにグーッと強く集中すると、ゲシュタルト崩壊が起こります。ペンで同じ文字ばかり書き続けたり、同じ行為を続けている内に、「あれ、これなんだ?」とワケがわからなくなるアレ。

対象に集中し、ゲシュタルト崩壊を起こさせ、再構築をし、新しい感覚や概念を見つけてゆくのかなぁ。

「無心」状態

「無心になる」っていう言葉がありますよね。これは、ゲシュタルト崩壊とはまた違った集中状態なのでしょうか。

ハッと気づいたら数時間経っていた…とか。

そういう集中状態を、修行により自分でコントロールすることができるようになるならば、体験してみたいなぁと思います。

幕末志士達は、修行したからスゴかった?

最後の章で、司馬遼太郎『竜馬がゆく』の竜馬が、剣術の修行をなぜしないのか、というコラム帳の話題があり、面白かったです。

坂本龍馬は言わずと知れた明治維新の立役者と言われており、江戸で名門の“千葉道場”という道場の塾頭をつとめます。塾頭って、今で言う首席みたいな感じ?まぁ、江戸の超名門道場の中でも、さらにめっちゃ優秀なんです。

で、『竜馬がゆく』をはじめ、司馬遼太郎作品では、なぜか「修行」の場面が描かれない。竜馬は剣術を始めると、急に強くなる。江戸へ行き、千葉道場へ行くと、急にそこで頭角をあらわす。

「修行」と「合理性」は相容れないの?

剣術で一流だったことと、維新志士として優秀だったことが、全く別のこととして扱われるのが、司馬作品の特徴なのだそう。「剣術が強かったから優秀だった」のではなく、「優秀だった人たちが、たまたま剣術も強かった」という認識が徹底されており、司馬遼太郎さん自身もインタビューでそう答えているんだそうです。

「修行」よりも「合理性」に重きを置いたのは、司馬遼太郎さんの思想に関係があるようです。そう、「修行」って、ある種の思想なのかもしれません。そしてどうやら、戦後日本では、前時代的な「修行」は遠ざけられていたようです。

「修行」は今後、再発見されるものなのかもしれませんね。

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修行論

  • 内田樹
  • 光文社
  • 2013/7/17

目次情報

まえがき

今、なぜ修行論なのか
報酬も処罰もなし
修行の意味は、事後的にしかわからない
「身体を鍛える」という表現への違和感
ゴールのわからない未知のトラックを走る

Ⅰ 修行論――合気道私見

第1章 修行とはなにか

非専門家としての報告
「生業の場」での成否を、稽古にフィードバックする
稽古で身につけるべきもっとも大切な能力
集団をひとつにする力

第2章 無敵とはなにか

天下無敵とはどういうことか
敵=対戦相手ではない
敵を「存在してはならないもの」ととらえない
因果関係の中に身を置かない
時間意識を書き換える
入力と出力が同時に生成する状態
卒啄之機――入力があったその瞬間に生成する生体
「無敵の主体」の誕生
稽古はなぜ、愉快にするべきなのか
相手の成長を阻害したくなる理由
過剰な負荷に耐え続ける選手たち
短期集中でブレークスルーを経験させる教育戦略
生活は終わらない、そして武道も終わらない
日々の生活そのものが、稽古であるように生きる

Ⅱ 身体と瞑想

(1) 瞑想とはなにか

瞑想とは、どのような状態のことか
なぜ「額縁」が必要なのか
「額縁」に救われ、「額縁」に縛られる
「非瞑想的」な人のふるまい
そのつど最適な「額縁」を洗濯する

(2) 武道からみた瞑想

「生き延びる」ための瞑想――他者との同期
もっとも弱い「狐疑」への居着き
駝鳥戦略も、「想定外の危機」には無効
「私」ではない主体の座に移動する
瞑想状態で心身に起きること――「機」
「機」の達成――額縁をずらす
理想的な立ち会い――キマイラ的身体の成立
『太阿記』冒頭の(現段階の)解釈――複素敵身体の構築

(3) 「運身の理」と瞑想――武道修行のめざすもの

非常時には「自我」がリスクとなる
自我に固執する「反-兵法者」のもたらす災厄
平時から武者修行をする理由――「自我」着脱の訓練
「安定打坐」と瞑想状態
「我なし、敵なし」――自分でないものになる能力
外部への同一化という「命がけの飛躍」
「瞑想に入る」という同化のプロセス
キマイラは一度だけしか現れない――一過性の生命体を生きる

Ⅲ 現代における信仰と修行

レヴィナスと合気道
「感知できないもの」の切迫
私を惹きつけたレヴィナスの弁神論
心身の計測精度を上げる――儀礼、稽古の技法
「チャペルを掃除する」ことの意味
道場が欲しかった理由
成熟するということの実相
信仰も修行も、人間の生身においてのみ開花する

Ⅳ 武道家としての坂本龍馬

(1) 修行――なぜ、司馬遼太郎はそれを描かなかったのか

武道家、剣術遣いとしての坂本龍馬
司馬に感じられる「修行への無関心」
修行のメカニズム
欠落する「足踏み状態」のプロセス――愚童龍馬がいきなり天才に
千葉周作も、登場と同時に天才
対照的な中島敦『名人伝』のプロセス
『燃えよ剣』でも修行時代はカット
取得プロセスを書かず、修行の合理性を重んじた理由
不条理な身体訓練への憎しみ――軍隊での経験
統帥権イデオロギーへの怒り
「理」へのこだわりを生んだ、稽古法への懐疑

(2) 剣の修行が生んだ「生きる達人」

次元の異なる能力を涵養した、幕末の志士たち
剣技と政治的力量を分けて考えた司馬
武道修行が叩き込んだ「危機を生き延びる力」
手持ちの資源でやりくりする力
龍馬の「ブリコルール」性
「万国公法」の戦闘力
卓越した「武士」としての龍馬
死を以って完成した龍馬の哲学
「無刀の刀」の境地へ

あとがき

内田 樹(うちだ・たつる)

1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。神戸女学院大学文学部総合文化学科教授を2011人に退職。同年、神戸市に武道と哲学のための学塾「凱風館」を開設。著書に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『レヴィナスと愛の現象学』『他者と死者』(ともに文春文庫)、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)、『死と死体』(医学書院)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)など多数。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第6回小林秀雄賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第3回新書大賞、2011年に第3回伊丹十三賞を受賞。神戸女学院大学名誉教授。昭和大学理事。日本ユダヤ学会理事。合気道兵庫県連盟理事。合気道七段。

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