『幸せになる勇気』|平凡で「その他大勢」である自分の価値

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こんにちは。みなさまゴールデンウィークいかがお過ごしでしょうか。あさよるネットは平日更新予定です。

以前、『嫌われる勇気』を読んで「なんか感動した」とワーワー言ってたんですが、その後もジワジワッときています。この本、以前に読んだときは「なんのこっちゃ」と何も感じなかったんですが、変われば変わるものです。

自分のこだわっていることや、他人に苛つく時「自分がこだわっているんだ」「自分が苛立っているのだ」と思うようになりました……その瞬間はムズカシイけどね、頭が冷めたときね。

『嫌われる勇気』|やらないための“言い訳”を作ってた…だと?

で、続編の『幸せになる勇気』も読みたいでしょ~ってことで。

『幸せになる勇気』のあらすじ

『嫌われる勇気』にて〈哲人〉との討論の末、アドラー心理学の考えを受け入れた〈青年〉。彼が、3年の時を経て再び哲人の元へやってきた。しかも、彼を論破し、アドラー心理学がペテンだと暴くために!

青年は教員となり、子どもたちの教育を仕事としています。しかし、子どもらを扱うためには、アドラー心理学は使えない。アドラー心理学では人を「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針だからです。放っておくと子どもは悪さをしますし、叱らないとナメられます。いつも厳しく叱る先生の教室はいつも整然としています。そして、良い成績を残した子を褒めてやると喜びます。

アドラー心理学は机上の空論である!それが青年の主張です。

「ほめてはいけない、叱ってもいけない教育」とは

教師である青年は子どもたちへの教育をめぐって話は展開してゆきますが、〈教育〉というものそのものは、我が子への教育、後輩や部下への教育など、どんなシーンにも当てはまります。そこで、人をほめはいけない、叱ってもいけないとは、これいかに。

まず、「ほめる」という行為は、目上の者が目下の者への行為です。平社員が「社長、よく頑張ってますね。偉いですね」とは言いませんw ですから「相手をほめる」というのは、無意識にも相手を格下認定しているのです。そして、その微妙な人間関係は子どもだって感じ取っています。

ほめるのではなく、相手にすべきは「尊敬」です。

ほめてはいけない、叱ってはいけない理由

何かをすると、他人からほめられる、すると嬉しい。これを何度か繰り返していると「ほめられる」ことを目的に行動するようになります。これは自分の価値基準を他人に預けてしまうことになってしまいます。だって「ほめる」か否かは、相手が決めるのだから。

他人から「ほめられる」ことを目的に行動し、望み通り「ほめられる」間は、むしろ良好な状態にさえ見えてしまいます。しかし、ほめてもらえないと、ネガティブな感情に支配されることでしょう。

そして、ほめてもらえなくなった人は、次は別の手段で人の気を引こうとします。それが「反抗」です。反抗すると「叱られる」。叱られ、憎まれることで、相手の心を掴もうとする。だから「叱ってもいけない」。

更に、人からほめられず、叱られもされなくなったとき、人は無気力になり、自分の無力をアピールしはじめます。「自分はバカだから」「勉強できないから」と諦めの境地になるのです。そして、自分がいかに無能であるか証明をするのです。この境地へ至っては、なかなか支援の手が差し伸ばせません。もっと前段階で踏みとどまっておく必要がある。

哲人 ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。

青年 ではどうするのです!?

哲人 他者からの承認を求めるのではなく、自らの意志で、自らを承認するしかないでしょう。

青年 自らを承認する!?

哲人 「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。幸福な生がどちらの先にあるか、答えは明らかでしょう。あなたの価値を決めるのは、他の誰かではないのです。

青年 そんなもの不可能でしょう! われわれは自分に自信が持てないからこそ、他者からの承認欲求を必要としているのですよ!

哲人 おそらくそれは、「普通であることの勇気」が足りていないのでしょう。ありのままでいいのです。「特別」な存在にならずとも、優れていなくとも、あなたの居場所はそこにあります。平凡なる自分を、「その他大勢」としての自分を受け入れましょう。

人を「褒めてはいけない」、そして「叱ってもいけない」。相手の承認欲求を満たすのではなく、代わりにすべきことは、他人を信じ、尊敬し、愛することです。

尊敬できない理由

といっても、他人を無条件に「信頼」できますか?言うことを聞かない、自分勝手な相手を「尊敬」なんてできません。ましてや「愛」だなんて。さらに、承認欲求を退け、「その他大勢」の一人として生きるよう指南する哲人に、青年はマジギレ。

青年 軽口を叩くな、このサディストめ!「お前はどこにでもいる平凡な人間だ」などと言われて侮辱を覚えない現代人がどこにいる!!「それも個性だ」などと慰めを受けて、真に受ける人間がどこにいる!!

キレてますねー。青年は、子どもたちを褒め、叱ることで自立を阻み、いつまでも教師の影響下に置きたいと考えている。それは、自分が特別な存在でありたいと願うばかりに、自分が救世主のように振る舞おうとしている。哲人はそう指摘します。

哲人 あなたはまだ、幸せになれていない。「幸せになる勇気」を持ちえていない。そして、あならが教育者の道を選んだのは、子どもたちを救いたかったからではない。子どもたちを救うことを通じて、自分が救われたかったからです。(中略)
他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。

p.162

青年がどうして人を救いたい、救世主でありたいと願うのか。それは、青年自信が、自分の価値を自分で決定することができず、他人から「認められたい」と願っているからです。自らの承認欲求を満たそうとして、他者と関わっているのです。

承認欲求から解き放たれるには、「自立」をすること。平凡な自分を受け入れ、その他大勢の中の一人であることを認め、自分らしく生きることです。それが「幸せになる勇気」なのです。

悪いあの人、かわいそうなわたし。これからどうする

哲人のもとへやってくる人の悩みは、「悪いあの人」「かわいそうなわたし」、この二つの話をするそうです。いかにあの人は悪いのか。いかにわたしはかわいそうなのかを語ります。しかし、その相手に「これからどうする」と語りかけると、返事が変わるのです。過去の嫌な経験を話すのではなく、「これからどうする」。シンプルだけど力強い言葉なのですね。

子どもたちにも、この言葉は有効なようです。ケンカをした二人に、どっちが悪いと話を聞くこともですが、「これからどうしようか」と問いかけは、思考を変えるといいます。

確かに人間は、最初に与えられた条件に思考が凝り固まってしまうことがあります。カタログの中から商品を選び始めると、カタログ以外にも商品が存在することが頭から消えてしまいます。「どっちがいい?」と聞かれると、二つの中から選ぼうとしてしまいます。

「悪いあの人」「かわいそうなわたし」の考えにハマりこんで苦しんでいる時、「これからどうする」という問が思い浮かばなくなってしまうのかもしれないのでしょう。だから、誰かが問いかけて欲しい言葉だなぁと思います。

愛すること、愛されること

そして『幸せになる勇気』の大詰めは、「人から愛される」ことに話が及びます。人から愛されるには、まずは「人を愛すること」です。

また、アドラー心理学は「運命の人」を想定しません。ある日突然運命の人と出合い恋に落ち、愛し合うようになる…というストーリーを描く人は「運命の人がいない」と自分に言い聞かせます。365日、誰とも出会わずに生きている人は稀です。多くの人は常に誰かと出会い続けています。出会いがないわけではありません。

「誰にも愛されない」理由を「運命の人がいない」とすり替えているだけにすぎないのです。

「幸せになる勇気」。それは人を愛する勇気です。人を愛する人は、人から愛される人です。他者から愛されるということは「幸せ」に繋がります。

「人から認められたい」と承認欲求に生きることは、他人が自分の評価を決める生き方です。他人が認めてくれない苦悩の中で一生を生きるのか、一方、自分の価値を自分で決め、自立して人を愛し、人から愛されて生きるのか。

決めるのは自分です。そして、アドラー心理学は、過去の経験は関係なく「今」の自分にスポットライトが当たります。

さて、今、自分は、「これからどうするのか」。

…次回作にちょっと期待w

青年は相変わらず怒り狂い、前作にも増して哲人をなじっておりましたw

この寸劇、嫌いではないので、ちょこっとだけ次回作に期待しております。今回、「教育」と「愛」について怒っていたので、次回は結婚して嫁に対する愚痴を撒き散らす青年とかねw 待っておりますw

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

  • 作者:岸見 一郎,古賀 史健
  • 出版社:ダイヤモンド社
  • 発売日: 2016-02-26

目次情報

第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし

アドラー心理学は宗教なのか
教育の目標は自立である
尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと
「他者の関心事」に関心を寄せよ
もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら
勇気は伝染し、尊敬も伝染する
「変われない」ほんとうの理由
あなたの「いま」が過去を決める
悪いあの人、かわいそうなわたし
アドラー心理学に「魔法」はない

第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか

教室は民主主義国家である
叱ってはいけない、ほめてもいけない
問題行動の「目的」はどこにあるか
わたしを憎んでくれ! 見捨ててくれ!
「罰」があれば、「罪」はなくなるか
暴力という名のコミュニケーション
怒ることと叱ることは、同義である
自分の人生は、自分で選ぶことができる

第三部 競争原理から協力原理へ

「ほめて伸ばす」を否定せよ
褒章が競争を生む
共同体の病
人生は「不完全」からはじまる
「わたしたちであること」の勇気
その問題行動は「あなた」に向けられている
なぜ人は「救世主」になりたがるのか
教育とは「仕事」ではなく「交友」

第四部 与えよ、さらば与えられん

すべての喜びもまた、対人関係の喜びである
「信用」するか? 「信頼」するか?
なぜ「仕事」が、人生のタスクになるのか
いかなる職業にも貴賤はない
大切なのは「与えたものをどう使うか」
あなたに親友は何人いるか
先に「信じる」こと
人と人とは、永遠に分かり合えない
人生は「なんでもない日々」が試練となる
与えよ、さらば与えられん

第五部 愛する人生を選べ

愛は「落ちる」ものではない
「愛される技術」から「愛する技術」
愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である
人生の「主語」を切り替えよ
自立とは、「わたし」からの脱却である
その愛は「誰」に向けられているのか
どうすれが親の愛を奪えるのか
人は「愛すること」を恐れている
運命の人は、いない
愛とは「決断」である
ライフスタイルを再選択せよ
シンプルであり続けること
あたらしい時代をつくる友人たちへ

岸見 一郎(きしみ・いちろう)

哲学者。1956年京都生まれ。京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989からアドラー心理学を研究。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。世界各国でベストセラーとなり、アドラー心理学の新しい古典となった前作『嫌われる勇気』執筆後はアドラーが生前そうであったように、世界をより善いところにするため、国内外で多くの“青年”に対して精力的に講演・カウンセリング活動を行う。訳書にアドラーの『人生の意味の心理学』『個人心理学講義』、著書に『アドラー心理学入門』など。本書では原案を担当。

古賀 史健(こが・ふみたけ)

株式会社バトンズ代表。ライター。1973年福岡生まれ。書籍のライティング(聞き書きスタイルの執筆)を専門とし、ビジネス書やノンフィクションの分野で数多くのベストセラーを手掛ける。2014年、「ビジネス書ライターという存在に光を当て、その地位を大きく向上させた」として、ビジネス書大賞2014・捜査員特別賞受賞。前作『嫌われる勇気』刊行後、アドラー心理学の理論と実践の間で思い悩み、ふたたび京都の岸見一郎を訪ねる。数十時間にわたる議論を重ねた後、「勇気の二部作」完結編としての本をまとめ上げた。単著に『20歳の自分に受けさせたい文章講義』。

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