『巡礼高野山』を読んだよ

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三鈷と遣唐使船と金剛峯寺のイメージをコピックで描いたイラスト

三鈷と遣唐使船と金剛峯寺のイメージをコピックで描いたイラスト

大陸との貿易は、想像以上に活発だった?

大阪市立東洋陶磁美術館にて平成27年9月5日(土)~11月23日(月)までの間、日韓国交正常化50周年記念 国際交流特別展「新発見の高麗青磁 ―韓国水中考古学成果展」が開催されていました。なかなか興味深く観覧できました。

韓国の沿岸部各地で、昔の沈没船が発見され、韓国政府は海洋考古学の調査に乗り出しています。沈没船の発見は、タコを釣ると、タコが青磁器を抱えて水揚げされたことがきっかけになったりと、人の活動している範囲にもたくさん眠っているようです。中からは船内にギッシリと青磁器など輸出品が詰め込まれています。

興味深かったのは、海中では意外にも、植物性のカゴや紐などが朽ちることなく原型を留めていたことです。陸地の方が腐敗はうんと早いのですね。水中の方が、空気にも触れず、直射日光も遮られているし、植物を分解する微生物も少ないのだろうなぁと気付きました。
どの沈没船も、船内には、きっちりと梱包された青磁器がギッシリと船内に積み込まれていました。かなりの量の商品が極東アジア近郊を行き来していたようです。更に、その船の乗組員たちは多国籍だったと紹介さていました。船内で遊ぶコマや将棋など、各国の道具が発見されています。アジア圏での貿易は、想像以上に盛んだったのでしょう。

海路はいつでも命がけ!

アジアの国々から日本への航路は、朝鮮半島に沿って南下するコース、台湾や中国本土から沖縄諸島をつたうコース、そして上海あたりから東シナ海を突っ切るコースがあったそうです。もちろん、東シナ海を突っ切るコースが最短で日本に到着しますが、途中には寄港先もなく危険を伴うコースです。韓国沿岸部で引き上げられる沈没船たちは、東シナ海コースを進む途中、難破し、南へ流され、朝鮮半島沿岸部で沈没したそうです。
昔の人にとって船旅は命がけでした。

船に乗り海へ出るのは、世界を股にかけるビジネスマンだけではありません。鑑真和上は日本へ渡航を試みるも何度も失敗します。最終的には、沖縄諸島コースで日本へ到着します。また、日本から中国へ留学に出かける時も、上記のようなルートを通る命がけの旅です。時代は下っても、「旅」が命がけのものだったことは変わりません。
江戸時代になっても国内の旅ですら、生きて帰られないかもしれないもので、出発前には家族や親しい人たちと水杯を交わされました。

空海もまた、9世紀はじめに遣唐使として唐へ渡ります。空海は、今の長崎県から、東シナ海を突っ切るコースで入唐(にっとう)をしました。一緒に出発した船の内、半分は沈没してしまったというのですから、本当に命がけです。

唐から放り投げた三鈷が海を越えて……高野山

唐で空海は密教を極め、更に当時最新の科学や医学も学んだようです。空海は帰国の際も、やはり海路で嵐に遭いながらも、無事に日本へ帰り着きました。優秀な人物を遣唐使として唐へ派遣、留学させることは、国にとってもリスキーな賭けだったのしれませんね。

日本へ帰国を前に、日本でも密教の道場に相応しい場所はどこかと、三鈷(さんこ・法具の一種)を投げたところ、唐から海を飛び越え、和歌山県の高野山ににある、一本の松に引っかかりました。帰国後、空海は三鈷を探し、高野山の松に引っかかっているところを見つけます。この松は現存し、「三鈷の松」と呼ばれています。

その後、高野山は密教、真言宗の聖地となり今に続いています。現在でも高野山は大阪・難波の繁華街からドア to ドアでありながらも、世俗とは離れ、信仰の場として親しまれています。
山の上にポッカリと寺院が立ち並ぶ街が現れる様子は、さながら空中都市です。

『巡礼高野山』では、江戸時代初期に書かれた高野山上の地図が掲載されており、立ち並ぶ寺院と、その周りの商店の様子は、ほぼ現在の高野山の様子と変わりません。時代を超えて、衰えることなく存在し続けていることがわかります。
本書では、写真家・永坂嘉光氏が撮影した、高野山の息を呑むくらい美しい写真により、その厳かで、異質な修業の場であることを知らしめます。

また、本書では高野山の歴史家・山陰加春夫氏による歴史的背景の説明や、作家・中上紀氏による高野山がもたらした文化や文学への影響についても解説されており、多角的な切り口から高野山に迫ります。

現在と過去、世俗と霊場、街と大自然、信仰と学問……。

高野山は信仰の場であると同時に、学問の場でもあります。中世、日本に宣教にやってきたフランシスコ・ザビエルも、高野山を日本の六大学の一つだと、イエズス会本部へ報告しています。高野山上の大部分の敷地を占める金剛峯寺をユニバーシティに、高野山内の各子院をカレッジの役割果たしている姿も、現在にも続いています。

真言宗では、空海は今も生きていると考えられています。入定(にゅうじょう)という、即身仏になる修行を行った空海は、今も高野山内で修行を続けているとされているのです。ですから、今でも毎日、空海への食事の上げ下げが続けられています。
関西では弘法大師とも呼ばれる空海を、「お大師(だいし)さん」と呼び慕われています。
現在と過去、世俗と霊場、街と大自然、信仰と学問……あらゆるものものが交差する場です。

Information

巡礼高野山

  • 著者:永坂 嘉光、山陰 加春夫、中上 紀
  • 発行所:新潮社
  • 2008年11月20日

目次情報

  • 【グラフ】高野山金剛峯寺四季巡礼 撮影・文…………永坂 嘉光
  • 高野山の歴史の文学
    高野山の年中行事
    高野山の聖俗空間 山陰 加春夫
  • 【グラフ】宿坊巡礼春夏秋冬 撮影・文…………永坂 嘉光
  • 雪の高野にて 中上 紀
  • 高野山を訪ねる人のために
  • 〈コラム〉
    特別な法会
    「生きた」文化財

著者略歴

永坂 嘉光(ながさか・よしみつ)

1948年、和歌山県高野山生まれ。大阪芸術大学芸術学部卒業。70年頃から故郷高野山をライフワークに撮影をはじめ宗教と文化をテーマに日本各地やインド、ブータン、スリランカなどアジア各国を取材する。現在、大阪芸術大学写真学科教授。
主な写真集に『高野山』(毎日新聞社 80)、『弘法大師の足跡』(同朋舎 84)、『高野山千年』(ぎょうせい 89)、『永遠の宇宙 高野山』(小学館 01)などがある。アメリカ、ウェストン・ギャラリーで個展「Echoes of the Spirit」(02)、「Passage to Eternity」(08)、入江泰吉記念奈良市写真美術館で「聖なる山々」(07)、京都・東寺で「空海の歩いた道」(08)を開催。07年日本写真協会「作家賞」受賞。

―永坂 嘉光、山陰 加春夫、中上 紀『巡礼高野山』(新潮社、2008)カバー

山陰 加春夫(やまかげ・かずお)

1951年、和歌山県生まれ。73年、大阪市立大学文学部史学地理学科卒業。大阪市立大学大学院、高野山大学大学院を経て、現在、高野山大学文学部教授、文学博士(大阪市立大学)。
専門は日本中世史。主著に『中世高野山史の研究』(清文堂出版 97)、『きのくに荘園の世界』上・下(編著、清文堂出版 00・02)、『高野への道』(共著、高野山出版社 01)、『和歌山・高野山と紀ノ川』(共著、吉川弘文館 03)、『中世寺院と「悪党」』(清文堂出版 06)、『日英中世史料論』(共著、日本経済評論社 08)などがある。

―永坂 嘉光、山陰 加春夫、中上 紀『巡礼高野山』(新潮社、2008)カバー

中上 紀(なかがみ・のり)

1971年、東京生まれ。ハワイ大学美術学部美術史家卒業。大学で東洋美術を学んだことが機縁となりアジア各地を旅行、紀行文『イラワジの赤い花』(集英社 99)を書く。99年、『彼女のプレンカ』(集英社)で、すばる文学賞受賞。主著に『夢の船旅 父中上健次と熊野』(河出書房新社 04)、『水の宴』(集英社 05)、『月花の旅人』(毎日新聞社 07)など。

―永坂 嘉光、山陰 加春夫、中上 紀『巡礼高野山』(新潮社、2008)カバー

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