北野武『新しい道徳』を読んだよ

「あとで」が今の集中力を削ぐ

「集中力」は体力や学力と直結しています。風邪を引いて熱を出し体力が低下しているときには、全く集中できず風邪薬の服薬法を読むのも大変です。学力も、自分がある程度「理解できる」「分かる」分野の話は楽しく聞けるが、どこもかしこもチンプンカンプンな話題に集中することは出来ません。
私の場合は今、一念発起し英語学習に取り組んでいるんだけど……「先生が何を言っているのかわからない」「なにがわからないのかわからない」状態へ投入しており、内心とても焦っています。

藤原和博『新しい道徳』では、著者は民間人から東京都内の公立中学校長をされていた経歴があり、教育への指摘や考えも述べられていました。教育を通じて「道徳」を考える。あるいは、「道徳」は教育によって作られている。

本書では集中力についても触れられており、スマホやケータイが我々の集中力を削いでいるとありました。今集中しなくても、今話を聞かなくても、「あとで調べればいいや」「あとで電話で聞けばいいや」と、「今」理解することを放棄してしまう。これでは集中できるはずはありません。

これは、大人たちにとって耳の痛い話です。
本書は「新しい道徳」と名乗り、子供へ向けた教育の話を扱いながら、現在の「大人たち」へ警鐘を鳴らすのです。
私たちは、「子供のこと」と話題を横滑りさせずに、「我がこと」として向き合う必要があるでしょう。

一億総テレビ教徒時代。テレビが得意なこと、不得意なこと

大人たちにとって、もっとも大きな情報源がテレビに依存していることは少なくないでしょう。
テレビだって、楽しい娯楽番組や、緊急速報を知ったりと、それ自体はとても便利で我々には無くてはならないものです。

テレビの場合はどうしても正義と悪、白と黒の二極化された表現になりがちです。人の気持ちは複雑で矛盾や葛藤を抱えているものですし、それは大きな組織でも、国家になっても、白黒割り切れるものではないのは当然なのに、不思議です。そして、もはや今の現役世代は生まれながらの「テレビっ子」です。

問題は、テレビというメディアに「依存している」ことです。悪いのはテレビではありません。本書では、テレビを神格化し、我々はテレビ教徒になり、テレビを御本尊様としてリビングに据え付けている、表現されています。

虫眼とアニ眼

アニメ映画監督の宮﨑駿さんと養老孟司さんの対談集『虫眼とアニ眼』でも、子供たちの見るテレビ(そしてアニメ)の害と、自然や昆虫に触れ合い、自然から学び取る力の大切さが語られています。
印象的な話題は、タイトルにもなっている「虫眼」について。子供たちは一瞬にして、木の影や草の間に隠れている虫を見つける「虫眼」を持っています。しかし大人になると、真夏にあんなにうるさく鳴き喚くセミですら、声は聞こえど姿を見つけられません。大人もかつては子供だったはずなのに。

しかし、私たちはもう昔には帰られません。どんなに「あの頃は良かった」と知っていても、未来へしか進めません。未来をどうするのか思い描けないと、どうしようもありません。

大人になっても「みんな一緒に仲良く」できる子がいい子?

「イマドキの若いモンは…」と、ヒエログリフにも書いてあるという話がありますね。私はヒエログリフが読めないので確認したことはないのですが、昔っから人間は同じことを言っていた、という例として耳にします。

異質なもの、自分とは違うもの、自分が理解できないもの。それらを排除しよう。遠ざけようとする力は、誰にでも働くのではないでしょうか。そして「若い人」は常に「古い人」から見ると異質で、理解ができないのでしょう。本当は、その時代その時代に最もフィットしているのが若い人でしょうから、古い人にとっては「今現在」が理解できていないということになりましょうか。

「みんな同じ」もまた、教育の呪縛だと本書では指摘されます。育った時代や地域、年齢に関係なく、私たちは「みんな一緒」になりたい。小学校で「みんな一緒に仲良く頑張ろう」と繰り返し教育されてきた成果です。

教育の成果!ヤンキー化する日本

「みんな同じ」は、中高生時代あんなに嫌だった制服なのに、大人になっても制服を纏いたくなります。みんな同じブランドの服を来て、みんな同じ流行のお化粧をするのです。

『ヤンキー化する日本』では、ヤンキーとDCブランドの関係について紹介されていました。ヤンキーやLOUIS VUITTONのモノグラムのアイテムを持っています。ヤンキーたちは制服のように、みな似たような服装をしています。「ヤンキー化する日本」は、たゆまぬ教育が生み出した成果なのかもしれません。

これまでの「教育が悪い」のではありません。否が応でも、時代や社会はどんどん変わってゆきます。それに適応するため、教育も変化し続けないといけないのですが、変化が上手くできません。「若い人」は常に未知のもので、恐ろしく、邪魔で、気に入らず、はじき出したい、なかったことにしたい、「みんな同じ」であって欲しい。
私たちが育った地域社会は、今はもうどこにもありません。どんどん街は様変わりし、山や川、田畑も姿を変え続けてゆきます。今、子供たちは未知の世界で生きていることに、気付くため必要な「虫眼」をもう、大人は失っています。

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新しい道徳

  • 著者:藤原和博
  • 発行所:株式会社筑摩書房
  • 2007年12月10日

目次情報

  • はじめに
  • 第一章 新宗教「ケータイ・テレビ・ブランド」教から自由になる
    • 症状1 ケータイ依存症
    • ケータイとにらめっこ/なんとなくつながっていたい
    • 症状2 テレビ盲信症
    • テレビが神様/分かりやすさの落とし穴/「正解主義」が危ない!/番組選びで選択眼を身につける
    • 症状3 ブランド神経症
    • ブランドは制服と同じ/「みんな一緒」の亡霊/たくさん集めることで平和を感じる?/ブランド好きのもう一つの側面
  • 第二章 「学力問題」を通して、日本人の思考停止状態を斬る!
    • 学力や学歴を勘違いする大人たち
    • 「ゆとり教育」は悪いのか?
    • 小学校と中学校の勉強はココが違う!
    • 教育にまつわる幻想
    • なぜいま「情報編集力」なのか
    • 綜合学主が必要な理由
    • [よのなか]科はこんな教科
  • 第三章 「いじめ問題」と通して、大人の思考停止状態を斬る!
    • 騒いでいないと不安?
    • 死に対する感覚が希薄な子たち
    • いじめを短略的に理解しない
    • 学校を開かれた空間に
    • 「生きやす過ぎる」現代社会
    • いじめをゼロにすることはできない
    • いじめのレベルについて
    • 複雑ないじめにどう対処するか
    • 「新しい道徳」を提案する
  • 第四章 新しい道徳観を求めて
    • 1 男と女
    • 2 大人と子供
    • 3 新しいものと古いもの
    • 4 夢と自由
    • 5 病気とくすり
  • あとがきにかえて

著者略歴

藤原 和博(ふじはら・かずひろ)

1955年生まれ。78年東京大学経済学部卒業後、リクルート入社。東京営業統括部長、新規事業担当部長などを歴任。96年に同社フェロー。ビジネスマンでありながら小中学校での教育改革に関わり、03年東京都で民間人初の公立中学校長となり、注目を集める。05年キャリア教育の本質を問う〔よのなか〕科ベネッセ賞、新しい地域活性手段として「和田中地域本部」が博報賞、給食や農業体験を核とした「食育」と「読書活動」で、文部科学大臣賞をダブル受賞。著書に『自分「プレゼン」術』(ちくま新書)、『「ビミョーな未来」をどう生きるか』(ちくまプリマー新書)、『人生の教科書〔人間関係〕』(ちくま文庫)、『校長先生になろう!』(日刊BP社)などがある。詳しくは「よのなかnet」へ。

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