私はこれまで、何度かお習字を習おうと、書道の先生の元へお願いに上がったことがあります。
一回目は、中学3年生の頃。
近所の書道の先生のところへ、しばらくの間通っていました。
硬筆と万年筆のペン習字を習っていたのですが、高校進学と共に時間が合わなくなり通えなくなりました。
二回目は二十代半ばの頃。
引っ越した先の近くの習字教室へ見学に行ったのですが、元気な子どもたちがたくさんいて、とてもフリーダムな雰囲気でした。
静かな時間帯を狙っての出席や、自宅で練習して添削をしてもらうなど、方法を提示して頂いたのですが、タイミングや諸々の条件が合わず結局断念。
三回目は、書道の先生のもとへ習字を教えて欲しいと頼みに行ったものの、新規で生徒を取っていないと断られてしまいました。
「書道」への憧れ
なかなかタイミングが合わず、未だに書道への憧れを引きずっています。
「書道」に触れてみたいと常々思うのです。
日常で役立つのはペン習字かもしれませんが、毛筆を習いたいなぁと思います。
「華道」「茶道」などと同じ「道」のつく習い事を一度してみたいんですね。
もちろん、華道や茶道も一度は触れてみたくはあるけれど……まだ始める勇気と言いますか、踏ん切りが全然ついていません。
いつかは触れられることがあるのかな。
彫って書いた「漢字」、筆で書いた「仮名」
『説き語り日本書史』を読みました。
日本の書は、中国の漢字文化に途中乗車し、途中下車した文化だ、という表現が面白かったです。
日本人は長らく文字を持っておらず、後に中国より漢字が輸入されます。
漢字は「甲骨文字」であり、もともとは動物の骨や亀の甲羅などに文字を彫っていたのです。
中国の書には「彫って書く」という文脈が継承されているようです。
しかし、日本に漢字が輸入された頃には、もう骨や甲羅に掘るのではなく、既に筆が用いられていたせいで、中国の書とは違う、独自の書が発展します。
筆の伸びやかで滑るような曲線が、後の時代に日本独自の仮名を生んだ、というのも、興味深く感じました。
漢字なくして日本語はあり得ない
本書の中でも指摘されていましたが、私たちが日頃使う日本語は、漢字の影響がとても色濃く残っているそうです。
確かに、普段何気なく使う「熟語」は、漢字ありきの言葉です。
私たちは無意識的にですが、漢字文化に則った言語と、日本独自の言語を、複数のレイヤーを重ねるように言葉を重ねて話しているようです。
これを、本書内では「漢和二重複線」と呼ばれていました。
かなり意識して話さないと、意味が複数に取れてしまうような事態もままあります。
言葉が曖昧になってしまうのも、この複数の文脈が入り乱れているせいなのかもしれません。
今後、言葉について調べてみるのも、有益かもしれないなぁと思いました。
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石川 九楊
新潮社
(2011)
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